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NULL-最も公平で理不尽な監獄-  作者: gongon


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42/47

第四十二話 慟哭

 リンの手が。


 ゆっくりと。


 上がった。


 陰と陽。


 雪と。


 剥き出しになった大地。


 二人の戦いが描いた。


 その境目で。


 レイは。


 手を差し出していた。


 リンの指先が。


 近づく。


 あと。


 少し。


 触れる。


 その時だった。


 雪が。


 爆ぜた。


「――!」


 レイが。


 振り向く。


 柔術。


 低く。


 地面を這うような姿勢で。


 雪を蹴っていた。


 レイではない。


 その視線は。


 倒れたリンだけを。


 捉えている。


 最初から。


 狙いは一つ。


 戦いを終え。


 傷つき。


 倒れている者。


 リン。


「やめろ!」


 レイが動いた。


 柔術の進路へ。


 身体を滑り込ませる。


 拳を握る。


 殺す。


 その言葉が。


 初めて。


 レイの中に。


 はっきりと浮かんだ。


 勝つためではない。


 倒すためでもない。


 リンを守るため。


 そのためなら。


 この男を。


 ここで殺す。


 足裏で。


 雪の下にある。


 硬い大地を踏む。


 脚。


 腰。


 背。


 肩。


 腕。


 全身を。


 一つの力へ変える。


 リンから。


 教わったもの。


 レイ自身が。


 掴み取ったもの。


 拳に。


 破壊力が集まる。


 柔術の顔面へ。


 放つ。


 だが。


「レイ」


 声が。


 割って入った。


 拳が。


 止まる。


「……え」


 リンだった。


 雪の上に。


 倒れたまま。


 レイを見ている。


「何してる」


「何って……!」


 レイは。


 柔術へ。


 視線を戻す。


「こいつは、お前を殺そうとしてる!」


「そうだな」


「だったら!」


「黙って見てろ」


 リンの声は。


 静かだった。


「……何を言ってる」


「お前に」


 白い息が。


 ゆっくりと。


 空へ昇る。


「全部見せるって言ったろ」


 レイの拳が。


 震えた。


「もう見た」


「まだだ」


「十分だ!」


「まだ」


 リンは。


 雪へ手をついた。


 腕に。


 力を入れる。


 身体を。


 起こす。


「俺は」


 膝を立てる。


「全部は」


 脚が。


 震える。


「見せてない」


「やめろ」


 レイが。


 リンの肩へ。


 手を伸ばす。


「もう立たなくていい」


 リンは。


 その手を。


 払った。


 強くはない。


 それでも。


 拒絶だった。


「見るんだ」


 リンが言った。


「レイ」


「嫌だ」


「見ろ」


「嫌だ!」


 リンは。


 立ち上がった。


 足元が。


 揺れる。


 呼吸も。


 整っていない。


 胸。


 腕。


 肩。


 レイの打撃を受けた場所が。


 赤く腫れている。


 投げられた背中。


 雪に打ちつけた腰。


 全身が。


 限界を訴えていた。


 それでも。


 リンは立った。


 柔術を見る。


 足を開く。


 重心を沈める。


 背筋を伸ばす。


 腕を上げる。


 八極拳。


 レイが。


 初めて目にした時より。


 ずっと。


 静かな構えだった。


「無理だ」


 レイが言う。


「今のお前じゃ勝てない」


「分かってる」


「なら!」


「だからだ」


 リンは。


 柔術から。


 目を離さない。


「お前は」


 短く。


 息を吐く。


「こいつとも戦う」


「……」


「なら」


 拳を。


 握る。


「見せる」


「何を」


「全部だ」


 柔術が。


 腰を落とす。


 リンは。


 わずかに笑った。


「打撃だけじゃない」


「投げだけでもない」


「立っている時だけが」


「戦いじゃない」


 レイの指が。


 震える。


「リン」


「黙って見てろ」


 リンは。


 もう一度言った。


「お前に全部見せるって言ったろ」


 柔術が。


 動いた。


 雪を。


 深く蹴る。


 低い。


 速い。


 リンの拳が。


 迎える。


 柔術は。


 頭を外へ振る。


 拳が。


 頬を掠める。


 同時に。


 両腕が。


 リンの腰へ回った。


 リンが。


 肘を落とす。


 一発。


 二発。


 柔術の背。


 首。


 打つ。


 柔術は。


 離れない。


 脚を進める。


 リンの腰を抱えたまま。


 身体を押す。


 二人の足が。


 雪を抉る。


 リンが。


 踏ん張る。


 八極拳の。


 大地を踏む力。


 だが。


 力が足りない。


 レイとの戦いで。


 脚は。


 もう死んでいる。


 柔術が。


 足を掛けた。


 リンの身体が。


 傾く。


 雪へ。


 二人が倒れた。


「リン!」


 レイが。


 踏み出す。


「見るんだ!」


 リンの声。


 レイの足が。


 止まる。


 雪の上。


 柔術が上。


 リンが下。


 リンは。


 すぐに腰を切った。


 脚を間へ。


 差し込む。


 柔術の身体を。


 押し返す。


 柔術が。


 リンの脚を払う。


 胸と胸を。


 密着させる。


 リンの動きを。


 体重で殺す。


 レイは。


 見た。


 柔術の頭の位置。


 腰。


 膝。


 手。


 リンが。


 どこへ力を加え。


 どちらへ逃げようとしているか。


 何も。


 知らない。


 それでも。


 見た。


 リンが。


 命を使って。


 見せているから。


 リンの拳が。


 柔術の側頭部を打つ。


 近い。


 全身の力が。


 乗らない。


 それでも。


 打つ。


 一発。


 二発。


 柔術は。


 顔を背ける。


 だが。


 離れない。


 リンの右腕を。


 抱える。


 身体を回す。


 腕を伸ばす。


 肘。


 リンが。


 手を組む。


 耐える。


 腕を抜くため。


 柔術へ身体を寄せる。


 伸ばされる方向へ。


 逆らわない。


 隙間を作る。


 肘を抜く。


 柔術が。


 即座に切り替える。


 リンの背後へ。


 回る。


 リンが。


 雪を掻く。


 立とうとする。


 柔術の腕が。


 腰へ巻きつく。


 引き戻す。


「見ろ」


 リンが。


 息を切らしながら言った。


「捕まったら」


 柔術の脚が。


 リンの脚へ。


 絡みつく。


「こうなる」


 レイは。


 歯を食いしばった。


「もういい」


 リンの顎へ。


 柔術の腕が伸びる。


 首。


 リンが。


 顎を引く。


 両手で。


 腕を掴む。


 首と腕の間に。


 わずかな空間を残す。


「顎を……」


 リンの声が。


 掠れる。


「引け」


「もういい!」


「腕を……」


 柔術が。


 もう片方の手を。


 リンの後頭部へ。


 回す。


「中に……」


 締める。


 リンの言葉が。


 途切れる。


「リン!」


 レイが。


 柔術へ向かう。


 だが。


 リンの目が。


 それを止めた。


 来るな。


 見ろ。


 その目が。


 そう言っていた。


 レイは。


 止まった。


 柔術の腕。


 組まれた手。


 頭の位置。


 リンの顎。


 身体の向き。


 絡みつく脚。


 逃げ道を塞ぐ。


 全てを。


 目へ焼きつける。


 リンの手が。


 柔術の腕を掴む。


 引く。


 外れない。


 身体を。


 柔術の腕が組まれていない側へ。


 回そうとする。


 柔術が。


 腰をずらす。


 先回りする。


 リンの逃げ道を。


 また消す。


 レイには。


 分かり始めていた。


 ただ。


 腕で首を絞めているのではない。


 脚で。


 腰を止める。


 胸で。


 背中を制御する。


 頭で。


 リンの頭を動かさない。


 身体全てを使い。


 首へ。


 逃げ場のない圧力を作る。


 これも。


 全身を。


 一つにしている。


 リンの八極拳とは。


 違う。


 それでも。


 同じものがある。


 身体の一部ではなく。


 全てで。


 一つの目的を果たす。


 レイは。


 見てしまった。


 柔術の。


 真髄の一端を。


 リンが。


 見せた。


「もう分かった!」


 レイが叫ぶ。


「もう十分だ!」


 リンの顔が。


 赤く染まっている。


 目の周りが。


 鬱血している。


 呼吸が。


 できていない。


「やめろ!」


 柔術は。


 締め続ける。


「離せ!」


 レイの拳が。


 握られる。


 今度こそ。


 殺す。


 助ける。


 だが。


 その瞬間。


 リンが。


 柔術の腕を。


 叩いた。


 一度。


 二度。


 三度。


 小さな音。


 降参。


 機械音声が。


 雪原へ響く。


『勝敗を確認』


 柔術が。


 まだ。


 腕を離さない。


『No.9』


『戦闘継続不能』


『敗北』


「離せ!」


 レイが。


 飛び込もうとする。


「待て」


 かすかな声。


 リンだった。


 柔術が。


 ようやく。


 腕を緩めた。


 リンの身体が。


 雪へ落ちる。


 咳き込む。


 空気を求め。


 口を開く。


「リン!」


 レイが。


 駆け寄る。


 柔術を。


 押し退ける。


 雪の上へ。


 膝をつく。


「おい!」


 リンの肩を。


 抱き起こす。


「息しろ」


 リンが。


 何度も。


 浅く息を吸う。


 喉が。


 鳴る。


「大丈夫だ」


 レイが言った。


「負けただけだ」


「まだ生きてる」


「だから」


 レイは。


 リンの腕を。


 自分の肩へ回そうとする。


「一緒に戻るぞ」


 リンの手が。


 レイの服を掴んだ。


「……レイ」


「ああ」


「聞け」


「後でいい」


「今だ」


「喋るな」


「今しか」


 リンは。


 苦しそうに。


 息を吐いた。


「言えない」


 レイの動きが。


 止まる。


 リンは。


 レイを見た。


 その目は。


 穏やかだった。


 先ほど。


 戦いを終えた時と。


 同じ。


 満足した目。


「レスリングは」


 声が。


 掠れる。


「弱くない」


 レイは。


 何も言わなかった。


「最初に」


 リンが。


 小さく笑う。


「会った時」


「俺は」


「レスリングを」


「馬鹿にした」


 夜中の廊下。


 初めて会った日。


 リンの挑発。


 レイの怒り。


 あの時は。


 互いのことなど。


 何も知らなかった。


「悪かった」


 レイの目が。


 揺れる。


「何だよ」


「今さら」


「本当に」


 リンは。


 息を整えようとする。


「強かった」


「お前の」


「レスリングは」


「俺の八極拳を」


「倒した」


「違う」


 レイが言う。


「お前が教えたからだ」


「俺一人じゃ」


「違う」


 リンが。


 首を。


 わずかに振る。


「お前が」


「掴んだ」


「俺が」


「見せたものを」


「お前が」


「自分のものにした」


 リンの指から。


 少しずつ。


 力が抜けていく。


「レスリングは」


「弱くない」


 もう一度。


 言った。


「それに」


 リンは。


 レイの目を見る。


「お前は」


 一息。


「もっと」


「弱くない」


「……何だよ、それ」


 レイの声が。


 震える。


「変な言い方すんな」


「お前は」


「強い」


「身体だけじゃない」


「負けても」


「変わる」


「知らないものを」


「怖がらない」


「相手の中に」


「入っていける」


「それでも」


「自分を」


「なくさない」


 リンは。


 少しだけ。


 笑った。


「初めてだった」


「何が」


「親友」


 レイの呼吸が。


 止まる。


「お前が」


「俺の」


「初めての親友だ」


「……」


「それから」


 リンの瞼が。


 重くなる。


「師匠以外で」


「初めて」


「尊敬できた」


「人間だ」


「やめろ」


 レイが言った。


「そういうの」


「後で言え」


「帰ってから」


「もっとちゃんと言え」


「何回でも」


「俺が聞いてやるから」


 リンは。


 レイを見た。


「レイ」


「何だ」


「全部」


「見たか」


「……ああ」


 レイの頬を。


 涙が流れた。


「見た」


「全部見た」


「だから」


「もういい」


「もう休め」


 リンは。


 満足そうに。


 目を細めた。


「なら」


 一言。


「勝て」


 レイの服を掴んでいた手が。


 落ちた。


「……リン?」


 返事がない。


「おい」


 リンの肩を。


 揺らす。


「リン」


 瞼は。


 完全には閉じていない。


 だが。


 目はもう。


 レイを見ていなかった。


「起きろ」


 レイが。


 頬を叩く。


「おい」


 強くはない。


「まだ」


 もう一度。


「終わってないだろ」


 リンの身体は。


 動かなかった。


 雪原の端で。


 扉が開いた。


 金属音。


 黒い服を着た。


 数人の人間が。


 無言で入ってくる。


 その手には。


 黒い袋。


「……何だ」


 レイが。


 リンを抱いたまま。


 彼らを見る。


 黒服たちは。


 答えない。


 リンへ。


 近づいてくる。


「来るな」


 止まらない。


「触るな」


 一人が。


 リンの腕へ。


 手を伸ばす。


 レイは。


 その手を払った。


「触るな!」


『勝者は待機してください』


 機械音声。


「黙れ!」


『勝者は待機してください』


 黒服が。


 レイを囲む。


 武器は。


 見えない。


 だが。


 壁の各所で。


 赤い光が点灯する。


『警告』


『運搬作業を妨害した場合』


『勝者資格を剥奪します』


「知るか」


 レイは。


 リンを抱き寄せる。


「こいつは俺が運ぶ」


「一緒に戻る」


「袋になんか入れない」


 黒服の一人が。


 レイを見た。


 無表情。


「死亡個体を回収します」


「死亡……?」


 レイの顔から。


 表情が消えた。


「誰が」


 黒服は。


 答えない。


「誰が死んだって言った」


 リンの顔を見る。


 穏やか。


 少し前まで。


 話していた。


 自分を。


 親友と呼んだ。


「こいつは生きてる」


 レイが言う。


「さっきまで喋ってた」


 黒服が。


 リンの身体を。


 持ち上げようとする。


「やめろ」


 レイは。


 その腕を掴む。


 赤い光が。


 さらに増える。


『最終警告』


 リンの言葉が。


 頭の中に響いた。


 なら。


 勝て。


 レイの手から。


 力が抜けた。


 黒服が。


 リンを持ち上げる。


 黒い袋が。


 雪の上へ広げられる。


「待て」


 リンの身体が。


 その中へ。


 入れられる。


「やめろ」


 足。


 身体。


 腕。


 最後に。


 顔。


「待ってくれ」


 リンの顔が。


 袋の内側へ。


 消える。


「もう一回」


 レイが。


 手を伸ばす。


「もう一回だけ」


 袋が。


 閉じられる。


「顔を」


 留め具の音。


「見せてくれ」


 誰も。


 答えない。


 黒い袋が。


 持ち上げられる。


「待て」


 運ばれていく。


「待てよ」


 レイが。


 一歩。


 追う。


『警告』


「リン」


 扉が。


 近づく。


「おい」


 黒い袋。


 その中に。


 リンがいる。


「俺」


 レイの声が。


 崩れる。


「まだ」


 扉の向こうへ。


「お前に」


 袋が消える。


「何も返してない」


 扉が。


 閉まった。


 金属音。


 リンは。


 いなくなった。


「……」


 レイは。


 閉じた扉を。


 見つめていた。


 何もない。


 ただ。


 雪が。


 降っている。


 陰と陽の模様も。


 少しずつ。


 新しい雪に。


 覆われ始めていた。


「返せよ」


 レイが。


 呟く。


「俺の」


 何だった。


 敵。


 友達。


 親友。


 先生。


 そのどれでもあり。


 どれか一つでは。


 足りなかった。


「返せよ」


 涙が。


 雪へ落ちる。


 一滴。


 また。


 一滴。


「初めてだったんだ」


 声が。


 震える。


「俺も」


 膝が。


 雪へ落ちた。


「初めて」


「親友が」


 雪を。


 掴む。


「できたんだよ」


 指の間から。


 白い雪が。


 溢れる。


「返せよ……」


 息を吸う。


 だが。


 胸が痛い。


 声が。


 喉で詰まる。


「う……」


 頭を。


 雪へ落とす。


「うあ……」


 我慢できなかった。


「うあああああああああああああッ!」


 慟哭。


 雪原を。


 引き裂く。


 レイは。


 泣いた。


 子どものように。


 声を上げて。


 雪を殴り。


 掻き。


 何度も。


 リンの名前を呼んだ。


 誰も。


 答えない。


 リンはいない。


 どれほど。


 呼んでも。


 戻ってこない。


「リン……」


 やがて。


 レイは。


 顔を上げた。


 涙で。


 視界が歪んでいる。


 その中に。


 一人。


 立っている。


 柔術。


 何も言わず。


 こちらを見ている。


 レイの中で。


 何かが。


 変わった。


 今までも。


 人が死ぬのを見た。


 自分も。


 人を殺した。


 生き残るため。


 戦うため。


 そうするしかなかった。


 だが。


 今は違う。


 この男を。


 殺したい。


 必要だからではない。


 勝者になるためでもない。


 生き残るためですらない。


 ただ。


 憎い。


 リンを奪った。


 この男が。


 存在していることを。


 許せない。


 初めて。


 レイは。


 殺意を覚えた。


「お前」


 柔術が。


 レイを見る。


「名前は」


 返事はない。


「お前の名前は何だ」


 柔術は。


 少しだけ。


 首を傾けた。


「名前はない」


「……」


「柔術だ」


「それは」


 レイが。


 立ち上がる。


「お前の格闘技だ」


 涙を。


 拭わない。


「お前の名前じゃない」


「同じだ」


 柔術が言う。


「違う」


 レイの声は。


 低かった。


「リンは」


「八極拳じゃない」


「リンだ」


 拳を握る。


「俺も」


「レスリングじゃない」


「レイだ」


 柔術は。


 何も答えない。


「名前がないなら」


 レイは。


 柔術を睨む。


「柔術」


「そう呼ぶ」


 一歩。


 前へ出る。


「覚えておけ」


 今まで。


 誰にも。


 向けたことのない目。


「俺は」


 白い息が。


 揺れる。


「必ず」


 殺意だけが。


 揺れなかった。


「お前を殺す」


          ◇


 管制室。


 一光は。


 モニターを見ていた。


 レイの排除は。


 叶わなかった。


 本来なら。


 失敗。


 そう判断すべきだった。


 だが。


 リンは。


 排除された。


 No.9。


 八極拳。


 レイを変え。


 NULLを。


 完成へ近づけた存在。


 その一人を。


 実験から。


 取り除くことができた。


「……まあ」


 一光は。


 椅子へ。


 深く座った。


「及第点か」


 画面には。


 泣いているレイ。


 柔術を睨むレイ。


 そして。


 殺すと。


 宣言するレイ。


 先ほどまでとは。


 違う目。


 喪失。


 憎悪。


 殺意。


 一光は。


 その目を知っていた。


 どこで見た。


 誰の目だった。


 考える必要はなかった。


 鏡だ。


 弟を失った。


 あの日。


 鏡の中にいた。


 自分の目。


「……また」


 一光の口元が。


 歪む。


「似たな」


 誰に。


 とは。


 言わなかった。


 モニターの隅には。


 まだ。


 一つの文字が。


 表示されている。


 NULL。


 一光は。


 それを見る。


 ふと。


 声を思い出した。


 康二。


 弟の声。


 まだ。


 全てが。


 始まる前。


 一光が。


 この研究の構想を。


 初めて。


 康二へ話した日。


「NULLだ」


 一光は。


 資料を広げながら。


 言った。


「格闘技を」


「ゼロへ戻す」


「体格差」


「才能」


「環境」


「時代」


「最強論を曖昧にする」


「あらゆる条件を無効化する」


「何もない場所で」


「純粋な格闘技だけを」


「戦わせる」


 康二は。


 資料を。


 しばらく眺めていた。


 そして。


 小さく笑った。


『兄さん』


「何だ」


『研究者にとってさ』


 康二は。


 資料に印刷された。


 NULLという文字を。


 指で叩いた。


『NULLなんて』


「……」


『ただの空白でしかないよ』


 一光は。


 眉を寄せた。


「空白?」


『そう』


 康二は。


 椅子へ。


 深く座った。


『何も入ってない』


『何も決まってない』


『答えがない』


「だから」


 一光は。


 資料を指した。


「私が答えを入れる」


「最強の格闘技という」


「唯一の答えを」


 康二は。


 首を横へ振った。


『空白は』


「……」


『答えを入れるために』


『あるんじゃない』


「なら」


「何のためにある」


『分からないから』


 康二は。


 笑った。


『空白なんだよ』


『何が入るか』


『何になるか』


『まだ』


『誰にも分からない』


 一光は。


 鼻で笑った。


「くだらない」


『そうかな』


「私は決める」


「NULLに」


「答えを入れる」


 康二は。


 それ以上。


 何も言わなかった。


 ただ。


 少しだけ。


 寂しそうに。


 一光を見ていた。


 現在。


 一光は。


 モニターを見る。


 NULL。


 レイ。


 泣いている。


 憎んでいる。


 殺そうとしている。


 そして。


 変わり続けている。


 一光が。


 入れようとした答えではない。


 レスリングでも。


 八極拳でも。


 柔術でもない。


 格闘技だけでもない。


 友情。


 喪失。


 尊敬。


 怒り。


 殺意。


 誰も。


 予定していなかったものが。


 空白へ。


 次々と。


 入り込んでいる。


「……ただの空白」


 一光が。


 呟く。


 画面の中で。


 レイは。


 まだ。


 柔術を睨んでいる。


 その目には。


 もう。


 リンはいない。


 だが。


 その身体には。


 リンから受け取ったものが。


 確かに。


 残っている。


「なら」


 一光は。


 わずかに。


 笑った。


「見せてみろ」


 空白に。


 次は。


 何が入る。


 そして。


 レイは。


 何になる。


 その答えを。


 一光は。


 まだ知らなかった

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