第二十六話 師
休養期間終了まで、残り二日。
人工降雪エリアは今日も白かった。
天井から降り続ける人工の雪が視界を曇らせる。
静寂。
聞こえるのは雪を踏む音だけだった。
その中央で二人の男が向かい合っている。
レイ。
そしてイヴァン。
二十年。
師弟として歩いてきた二人だった。
「組め」
イヴァンが言う。
レイはうんざりした顔をした。
「またかよ」
「組め」
「休養期間だろ」
「組め」
三度目で諦めた。
昔からそうだ。
この男は必要なことしか言わない。
そして必要だと思ったことは絶対に曲げない。
レイは肩を回しながら前へ出る。
「怪我したら知らねぇぞ」
イヴァンは答えなかった。
代わりに構えた。
それだけで十分だった。
静寂。
雪が舞う。
そして。
レイが先に動いた。
低いタックル。
地面を這うような踏み込み。
一気に距離を潰す。
イヴァンの脚へ。
だが。
イヴァンは反応する。
頭を押さえる。
角度を潰す。
切る。
何千回も教えられた防御だった。
昔ならそれで終わっていた。
しかし。
レイは止まらない。
身体を捻る。
角度を変える。
さらに回る。
イヴァンの側面へ。
そして背後へ。
バックを狙う。
イヴァンの眉が僅かに動いた。
レイは即座に離れる。
無理に組まない。
執着しない。
次を狙う。
その判断が速い。
異常なほどに。
距離が開く。
二人は再び向かい合った。
雪が降る。
誰も喋らない。
だがイヴァンは感じていた。
変わった。
確実に。
昔のレイではない。
二度目。
今度はイヴァンから踏み込む。
世界最高峰のレスリング。
巨体から放たれるタックルは雪を吹き飛ばした。
レイが受ける。
肩がぶつかる。
身体が揺れる。
普通なら倒れる。
だが倒れない。
首へ手を添える。
腰をずらす。
重心を逃がす。
イヴァンの目が細くなった。
知らない動きだった。
だが。
レスリングだった。
それが気味悪かった。
レイはボクシングを見た。
拳の恐怖を知った。
距離の意味を知った。
No.00と戦った。
完成されたレスリングを知った。
絶望を知った。
理想を知った。
普通なら変わる。
普通なら混ざる。
だがレイは違う。
ボクシングにならない。
No.00にもならない。
全てが。
レスリングになる。
経験だけを取り込んでいる。
格闘技ではなく。
恐怖を。
失敗を。
痛みを。
そして成功を。
レスリングへ変えている。
イヴァンは初めて寒気を覚えた。
No.00とは真逆だ。
No.00はレスリングしか知らなかった。
レイは違う。
知った上で。
最後にレスリングへ帰ってくる。
三度目。
二人が激突する。
肩。
首。
腕。
腰。
全てがぶつかる。
雪が舞う。
レイが押す。
イヴァンが返す。
レイが崩す。
イヴァンが耐える。
静かな攻防。
だが確実に高度だった。
世界の頂点に近い場所の戦い。
そして。
その瞬間だった。
レイの肩が深く入った。
イヴァンの重心が浮く。
ほんの僅か。
本当に僅か。
だが浮いた。
レイの目が見開かれる。
いける。
そう思った。
次の瞬間。
世界が反転した。
ドォン!!
雪へ叩き付けられる。
肺から空気が抜けた。
視界が白く染まる。
気付けばイヴァンが上を取っていた。
何をされたのか分からない。
レイは雪の上で咳き込む。
「いてぇ……」
イヴァンは静かに立ち上がった。
雪を払う。
何事もなかったように。
レイは仰向けのまま空を見上げた。
白い。
どこまでも白い。
やがて身体を起こす。
「勝てねぇじゃねぇか」
イヴァンは少しだけ笑った。
「まだな」
即答だった。
レイは苦笑する。
「まだかよ」
「まだだ」
静寂。
だが。
その言葉は不思議と嬉しかった。
まだ届かない。
だが近付いている。
そう認められた気がした。
二人は雪の上へ腰を下ろす。
昔ならあり得ない。
訓練中に休憩など。
だが今日は違った。
イヴァンは煙草へ火を付ける。
白い煙が雪空へ消えていく。
「なぁ」
レイが言った。
「何だ」
「あと二日だな」
イヴァンは頷く。
「そうだ」
静寂。
雪が降る。
レイは空を見上げていた。
しばらく黙っていた。
そして。
ぽつりと呟く。
「怖ぇな」
イヴァンは何も言わない。
レイは続けた。
「昔は違ったんだけどな」
静かな声だった。
「ボクシングも」
「No.00も」
「勝つか負けるかだった」
雪が肩へ積もる。
「でも今は」
言葉が止まる。
顔が浮かぶ。
リン。
ライ。
バートル。
空手。
柔術。
食堂で笑った顔。
団子を食うリン。
肉しか食わないライ。
本ばかり読んでいる柔術。
白米が好きな空手。
七杯目を平らげるバートル。
レイは苦笑した。
「面倒くせぇ」
イヴァンは煙を吐く。
そして。
少しだけ笑った。
「それでいい」
レイが振り返る。
「何がだ」
イヴァンはしばらく考えた。
そして言う。
「格闘技なら迷わん」
静寂。
「人間だから迷う」
雪が降る。
レイは答えなかった。
答えられなかった。
その言葉が。
どこか康二に似ていたからだ。
長い沈黙。
やがてレイが立ち上がる。
「帰るわ」
「そうか」
数歩進む。
そして立ち止まる。
振り返る。
「おっさん」
「何だ」
レイは少しだけ笑った。
「ありがとな」
静寂。
イヴァンは何も言わない。
レイも返事を待たない。
そのまま歩き出す。
雪の向こうへ。
一人になった人工降雪エリア。
イヴァンは煙草を見つめていた。
二十年前。
培養槽の中にいた小さな子供。
泣いていた。
怒っていた。
何度も投げられた。
何度も立ち上がった。
そして今。
笑うようになった。
迷うようになった。
人間になった。
イヴァンは空を見上げる。
白い天井の向こう。
見えない空へ。
「まだ分からんな」
小さな呟き。
康二が正しかったのか。
一光が正しかったのか。
まだ誰にも分からない。
だが一つだけ確かなことがあった。
あの少年は。
もう格闘技ではない。
その時。
施設全域へ放送が流れる。
『休養期間終了まで』
静寂。
『残り四十八時間』
施設のあちこちで六人が顔を上げる。
ライはサンドバッグを蹴る足を止めた。
リンは団子を口に運ぶ手を止めた。
柔術は本を閉じた。
空手は正拳突きを止めた。
バートルは八杯目のご飯を見つめた。
そしてレイは空を見上げた。
あと二日。
第三回戦が始まる。
今度の相手は知らない格闘技ではない。
知ってしまった人間達だった。
雪は静かに降り続いていた。




