第二十四話 名前
休養期間開始から三日後。
NULL PROJECT研究棟。
食堂。
午前十一時四十分。
レイは山盛りのカレーを前にしていた。
三杯目だった。
「足りねぇな」
真顔で呟く。
誰も返事をしない。
当たり前だった。
今まで他の個体と食事をする機会などなかったのだ。
そもそも会話自体が存在しなかった。
戦うか。
訓練するか。
治療を受けるか。
そのどれかだった。
だからこの空間は奇妙だった。
誰も戦わない。
誰も怒鳴らない。
誰も殺そうとしない。
レイは居心地が悪かった。
その時。
ガタリ。
向かいの席へ誰かが座る。
顔を上げる。
リンだった。
八極拳。
サンボを倒した男。
相変わらず細い。
相変わらず目付きが悪い。
レイはスプーンを止める。
「なんだよ」
「座る」
「見りゃ分かる」
静寂。
気まずい。
本当に気まずい。
リンは味噌汁を飲む。
レイはカレーを食う。
会話がない。
レイは耐えられなかった。
「なぁ」
「なんだ」
「リンって誰が付けたんだ?」
リンの動きが止まる。
味噌汁を置く。
少し考える。
「老師だ」
「老師?」
「俺を育てた男だ」
レイが頷く。
八極拳の老人。
話だけは聞いていた。
「意味は?」
リンは少しだけ目を細めた。
「知らん」
「知らねぇのかよ」
「聞かなかった」
レイが吹き出す。
リンは真顔だった。
本当に聞いていないらしい。
「必要なかった」
「お前らそういうの好きだよな」
「何がだ」
「名前とか意味とかどうでもいいってやつ」
リンは答えない。
否定もしない。
その態度が答えだった。
その時。
別の足音が聞こえた。
柔術個体だった。
本を片手に持っている。
食堂なのに本。
相変わらずだった。
レイが手を振る。
「おーい」
柔術個体は一瞬迷った後、近くの席へ座った。
「何読んでんだ?」
「解剖学」
「またかよ」
「まただ」
当然のような顔。
レイは笑う。
「お前名前ないの?」
柔術個体は本を閉じる。
「ある」
「なんて?」
少し沈黙。
そして。
「まだ呼んでいない」
レイが固まる。
リンも固まる。
「は?」
「必要なかった」
レイが頭を抱えた。
「またそれかよ!」
柔術個体は本気で不思議そうな顔をする。
「問題か?」
「問題だろ」
「そうか」
興味がないらしい。
本を開こうとする。
その時だった。
「問題ではない」
低い声。
三人が振り返る。
入口。
巨大な男が立っていた。
モンゴル相撲個体。
食堂の入口を塞ぐほど大きい。
手にはトレー。
山盛りのご飯。
さらに山盛りの肉。
レイが笑う。
「来たな化け物」
男は首を傾げた。
「俺か?」
「お前以外いねぇよ」
男は少し考える。
そして。
「そうか」
そのまま座る。
椅子が軋んだ。
レイがトレーを見る。
「何杯目だ」
「七杯」
「七!?」
柔術個体が本を閉じた。
リンが味噌汁を吹きそうになる。
男は本気だった。
レイは笑う。
「お前名前は?」
男は即答した。
「バートル」
「おお」
初めてまともな名前だった。
レイが感心する。
「意味は?」
バートルは胸を張った。
少しだけ誇らしげに。
「英雄」
静寂。
「師匠が付けた」
レイが頷く。
リンも頷く。
柔術個体も頷く。
何となく似合っていた。
バートルという名前が。
その巨体に。
その強さに。
その食欲に。
食堂に少しだけ笑い声が広がる。
初めてだった。
戦場以外で笑ったのは。
少しの沈黙があった後少し遠くに座って白米を頬張っていた空手個体が大きな声を上げる
「俺の名前も聞けよ!」
みんなで顔を見合わせる
リンが吹き出した
「ブッ!わかったよお前の名前は?」
誇らしげに答える
「剛!師匠がつけてくれた名だ!」
いい名前じゃんとみんなでまた笑う
この時間が気づけば苦痛じゃなくなっていたことにみんな驚いていた…
⸻
夜。
訓練場。
誰もいない。
静かな空間。
ただ。
ドン。
ドン。
ドン。
重い音だけが響いていた。
サンドバッグ。
ムエタイ。
ライ。
今日も蹴っている。
昨日も蹴っていた。
一昨日も蹴っていた。
たぶん明日も蹴る。
レイは呆れた顔で近付いた。
「お前さ」
ライは止まらない。
「休養だぞ」
ドン。
「知ってる」
ドン。
「休めよ」
ドン。
「休んでる」
レイが笑った。
こいつは本当にダメだ。
「名前の話してたんだけど」
そこで初めてライが止まる。
「名前?」
「お前ライだろ」
「ああ」
「誰が付けた」
ライは即答した。
「師匠」
「意味は?」
静寂。
ライは少しだけ考えた。
そして。
「雷」
レイが眉を上げる。
「へぇ」
「速いからだ」
「なるほど」
「短いからだ」
「なるほど」
「真っ直ぐだからだ」
レイが笑った。
確かにライらしい。
無駄がない。
説明も短い。
すると。
ライが初めて聞き返した。
「お前は」
レイが首を傾げる。
「何だよ」
「レイ」
静寂。
「意味は」
レイが固まった。
考える。
知らない。
本当に知らない。
「分かんねぇ」
ライが瞬きをした。
「知らないのか」
「聞いてねぇ」
「そうか」
会話が終わる。
その時だった。
訓練場のモニターが突然点灯する。
二人が振り返る。
機械音。
電子音。
そして。
画面に文字が表示された。
⸻
個体情報閲覧
No.14
識別名
レイ
命名者
神代康二
⸻
レイの目が見開かれる。
康二。
久しぶりに見る名前だった。
画面が続く。
⸻
命名理由
⸻
レイが息を呑む。
ライも黙っている。
そして。
最後の文字が表示された。
⸻
零
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静寂。
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何者にもなれる数字
⸻
さらに。
⸻
何者にも縛られない数字
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訓練場が静まり返る。
レイは画面を見つめていた。
長く。
本当に長く。
康二の顔が浮かぶ。
優しかった男。
怒っていた男。
笑っていた男。
自分を人間として育ててくれた男。
レイは小さく笑った。
「らしいな」
ライは何も言わない。
ただ画面を見る。
やがて。
再びサンドバッグへ向き直った。
ドン。
重い音が響く。
レイも立ち上がる。
もうモニターは見なかった。
その意味を。
十分理解したからだ。
零。
何者にもなれる。
何者にも縛られない。
その名前を付けた男は。
最初から知っていたのかもしれない。
目の前の少年が。
格闘技ではなく。
人間になることを。




