第二十話 未完成品
瓦礫の中で亡霊は立っていた。
額から血が流れている。
口元も赤い。
それでも立っている。
レイは思わず笑った。
「マジかよ」
反投げをまともに叩き込んだ。
コンクリートまで砕いた。
それなのに倒れない。
まるで岩だ。
いや。
違う。
レスリングそのものだった。
亡霊はレイを見ている。
静かに。
ただ静かに。
そして口を開いた。
「何故だ」
レイは肩で息をする。
「知らねぇよ」
「何故そんなレスリングが存在する」
レイは鼻血を拭った。
「知らねぇって」
亡霊の目が細くなる。
「レスリングではない」
「だがレスリングだ」
「そんなものは存在しない」
レイは笑った。
「じゃあ今見てんのは何だよ」
亡霊は答えない。
答えられない。
目の前に存在している。
なのに理解できない。
レスリングなのに。
レスリングではない。
その矛盾が亡霊を苛立たせていた。
静寂。
やがて亡霊が言う。
「私は完成品だ」
レイは首を傾げた。
「完成品?」
「レスリングの頂点」
「最強」
「理想」
迷いのない声だった。
それは信仰だった。
レイはしばらく亡霊を見ていた。
そして。
小さく笑った。
「完成品ねぇ」
亡霊は黙る。
レイが続ける。
「だったら聞くけどよ」
静寂。
「なんでお前ここにいたんだ?」
亡霊の眉が僅かに動く。
「なんで地下の奥に閉じ込められてた?」
静寂。
モニタールーム。
神代一光の指が止まる。
レイは続けた。
「完成品なんだろ?」
「最強なんだろ?」
「だったら何でトーナメント出てなかった?」
返事はない。
「何で捨てられてた?」
空気が止まる。
亡霊の拳が軋む。
怒りではない。
迷いだった。
レイは初めてそれを見た。
モニタールーム。
一光が低く呟く。
「黙れ」
イヴァンは何も言わない。
一光が拳を握る。
「黙れ」
地下区画。
レイは気付かない。
ただ思ったことを言った。
「そんなに完成してるなら」
「何で今さら俺と戦わされてんだよ」
亡霊は答えない。
答えられなかった。
その瞬間。
脳裏に蘇る。
培養槽。
歓声。
研究員達。
若い一光。
『成功です』
『人格同期率99.8%』
『完全再現』
『カレリンです』
拍手。
歓喜。
誰もが成功を信じていた。
場面が変わる。
白い部屋。
壁。
血。
何度も頭を打ち付ける自分。
『俺は誰だ』
『俺は誰だ』
『俺は誰だ』
研究員が震える。
『人格崩壊が始まっています』
別モニター。
神経。
筋肉。
骨格。
全て異常値。
『予測寿命』
『残存4.7年』
『継続不能』
そして。
凍結管理区画。
冷たい眠り。
何年も。
何年も。
何年も。
亡霊の呼吸が乱れた。
レイが眉をひそめる。
「おい」
亡霊が顔を上げる。
その目は初めて揺れていた。
「私は」
静かな声。
「完成している」
だが。
どこか弱かった。
レイは肩を竦める。
「知らねぇよ」
そして少しだけ笑った。
「でもお前」
亡霊が見る。
「全然幸せそうじゃねぇぞ」
静寂。
亡霊は答えられない。
幸せ。
考えたこともない。
レスリングだけだった。
勝利だけだった。
完成だけだった。
そのためだけに生きた。
そのためだけに作られた。
そのはずだった。
なのに。
何故。
胸が苦しい。
亡霊が動く。
床が爆ぜた。
タックル。
今までで最速。
今までで最重。
レイも動く。
スプロール。
亡霊の頭を押し潰す。
だが。
亡霊は止まらない。
即座にシングルレッグへ切り替える。
レイの右脚を抱える。
持ち上がる。
レイがウィザー。
肩を深く差し込む。
亡霊が構わず前へ出る。
ドン!!
二人が壁へ激突した。
コンクリートが割れる。
亡霊が押す。
レイが耐える。
首を取る。
切る。
差し返す。
アンダーフック。
オーバーフック。
首相撲。
膝が震える。
握力が切れる。
汗で滑る。
それでも離れない。
純粋なレスリング。
拳はない。
蹴りもない。
ただレスリングだけ。
だが。
レイは違った。
ボクシングを見た。
八極拳を見た。
恐怖を知った。
だから。
タイミングが違う。
重心が違う。
亡霊の知らないレスリングになっている。
亡霊が吠える。
「違う!!」
レイも吠える。
「うるせぇ!!」
また激突する。
亡霊がシングル。
レイが切る。
亡霊がダブルへ繋ぐ。
レイが腰を引く。
亡霊が首を抱える。
レイがクラッチを切る。
終わらない。
どちらも離れない。
亡霊は執念だった。
まるで。
レスリングそのものにしがみ付いているようだった。
「私は完成品だ!!」
レイが歯を食いしばる。
「そうかよ!!」
亡霊が押す。
レイが耐える。
亡霊が崩す。
レイが返す。
そして。
ほんの一瞬。
亡霊の背中が見えた。
レイの目が見開かれる。
背中。
イヴァンとの地獄が蘇る。
何万回も投げられた。
何万回も持ち上げられた。
何万回も首が折れそうになった。
イヴァンの声。
「本当に強いレスラーは」
「相手が諦めるまで離さない」
レイの腕が動く。
亡霊の胴へ。
深く。
深く。
ロック。
亡霊の目が見開かれる。
初めてだった。
焦り。
明確な焦り。
「離せ」
レイが笑う。
「嫌だ」
腰を落とす。
脚が震える。
背筋が悲鳴を上げる。
亡霊が暴れる。
それでも離さない。
レイが吠える。
「うおおおおおおおおおッ!!!」
持ち上がる。
亡霊の身体が。
空へ。
モニタールーム。
イヴァンが立ち上がる。
一光も立ち上がる。
二人とも知っている。
その技を。
その景色を。
亡霊の視界が反転する。
空中。
かつて見た光景。
オリンピック。
世界選手権。
歓声。
金色のマット。
そして。
初めて理解する。
自分は。
カレリンではなかった。
ドォォォォォォォォン!!!!
カレリンズリフト。
地下区画が揺れた。
コンクリートが砕ける。
警報が鳴る。
砂煙。
静寂。
長い静寂。
レイは膝をつく。
肩が上がらない。
呼吸ができない。
だが。
亡霊を見る。
亡霊は倒れていた。
しかし。
ゆっくりと立ち上がる。
レイの顔から笑みが消えた。
「……マジかよ」
亡霊は立っている。
足は震えている。
呼吸も乱れている。
それでも立っている。
だが。
様子がおかしかった。
腕が震える。
脚が痙攣する。
瞳が揺れる。
モニターに警告が走る。
『神経反応異常』
『人格同期率低下』
『筋繊維損傷率限界超過』
『生命維持機能へ移行』
一光の顔色が変わる。
イヴァンは静かに目を閉じた。
亡霊が笑う。
初めてだった。
戦いのためではない。
穏やかな笑み。
「そうか」
静かな声。
「だから私は」
長い沈黙。
「ここにいたのか」
膝が崩れる。
亡霊は倒れた。
もう立てない。
レイは黙って見ている。
亡霊が言う。
「完成していなかった」
長い沈黙。
そして。
最後にレイを見る。
「お前は」
「私になれなかった」
レイは鼻血を拭った。
「なる気ねぇよ」
亡霊は笑った。
本当に穏やかに。
「それでいい」
静寂。
『LCS判定』
『戦闘継続不可能』
『勝者』
『育成個体No.14』
『戦闘思想――レスリング』
亡霊の呼吸が止まる。
モニタールーム。
一光は立ち尽くしていた。
理想が敗れた。
信仰が敗れた。
完成品が敗れた。
だが。
敗れたのはレイにではない。
完成しようとし過ぎた自分自身にだった。
スクリーンの中。
血まみれのレイだけが立っている。
一光の唇が震える。
「あいつが言った通りになるなんて……」
誰にも聞こえない声。
その脳裏に浮かぶのは。
もうこの世にいない双子の弟。
神代康二の顔だった。




