第十九話 反投げ
地下区画。
亡霊が一歩前へ出た。
レイも構える。
静寂。
互いの呼吸だけが響く。
そして。
次の瞬間。
床が砕けた。
「――ッ!?」
亡霊が消える。
違う。
速すぎて見えなかった。
タックル。
今まで見たどんなレスラーより速い。
イヴァンより。
自分より。
圧倒的に。
レイの視界が揺れる。
考える暇もない。
亡霊の肩。
首。
背中。
全てが迫る。
死。
その一文字が頭をよぎる。
組まれたら終わる。
それだけは分かる。
身体が叫ぶ。
逃げろ。
下がれ。
避けろ。
だが。
レイは動かなかった。
脳裏に浮かぶ。
ボクシング個体。
見えなかったジャブ。
何度も揺れた視界。
何度も折れそうになった心。
そして。
最後に。
殴られながら前へ出た自分。
イヴァンの声が響く。
――恐怖から逃げるな。
レイは歯を食いしばる。
前へ出た。
亡霊の目が揺れる。
初めてだった。
相手が自分へ向かって来るのは。
レイは待つ。
ギリギリまで。
ギリギリまで。
まだ。
まだ。
まだ。
近い。
近い。
近い。
巨大な肩が胸へ届く寸前。
レイの身体が動いた。
半身。
ほんの僅か。
数センチ。
それだけ。
ズドォン!!
亡霊の肩が脇腹を削る。
肺の空気が吹き飛ぶ。
肋骨が悲鳴を上げる。
激痛。
だが。
芯は外れている。
亡霊の重心が流れる。
全力のタックル。
全力の加速。
全力の体重。
真っ直ぐだったからこそ。
修正できない。
レイの瞳が見開かれる。
今だ。
腰が回る。
肩が回る。
背中が軋む。
僧帽筋。
広背筋。
レスリングで育てた全て。
人生二度目の拳。
フック。
レスラーの拳。
組みに行く軌道。
首を抱える軌道。
そこから振り抜く。
ゴッ!!
鈍い音。
亡霊の側頭部が揺れた。
初めてだった。
亡霊の頭が明確に揺れたのは。
亡霊の視界がぶれる。
理解できない。
何故そこに拳がある。
何故当たる。
だが。
レイは止まらない。
拳を引かない。
右腕はそのまま首へ。
左腕は腰へ。
身体を密着させる。
「捕まえた」
亡霊の目が見開く。
レスリング。
その言葉の意味を。
初めて思い出したような顔だった。
レイが吠える。
「うおおおおおおッ!!」
床を蹴る。
腰が唸る。
背筋が軋む。
亡霊の体重。
亡霊の加速。
自分の筋力。
全てを一つへまとめる。
相手の力を使え。
イヴァンが何万回も叩き込んだ言葉。
その全てがここにあった。
反投げ。
亡霊の巨体が宙を舞う。
レスリングの完成形が。
空中に浮いている。
ドゴォォォォン!!!
地下区画が揺れた。
コンクリートが砕ける。
警報が鳴る。
砂煙が舞う。
モニタールーム。
一光が立ち上がる。
「違う!!」
怒号。
ワイングラスが砕け散る。
「それはレスリングじゃない!!」
イヴァンは笑った。
本当に久しぶりだった。
心から。
「いや」
静かな声。
「レスリングだ」
地下区画。
砂煙が晴れる。
レイは膝をついていた。
肩が痛い。
腰が痛い。
呼吸が苦しい。
だが。
立ち上がる。
勝った。
そう思った。
ゴリッ。
瓦礫が動く。
レイの表情が固まる。
亡霊が立っていた。
額から血を流し。
口元を赤く染めながら。
それでも立っている。
化け物だった。
レイは思わず笑う。
「マジかよ」
亡霊は答えない。
ただ。
レイを見ている。
その目が。
初めて変わっていた。
困惑。
理解不能。
レスリングだ。
間違いなく。
投げも。
組みも。
崩しも。
全てレスリングだった。
なのに。
知らない。
こんなレスリングは知らない。
亡霊の唇が僅かに動く。
「何故だ」
レイは息を吐く。
「知らねぇよ」
亡霊は黙る。
理解できない。
レスリングなのに。
レスリングではない。
その矛盾だけが。
亡霊の胸の奥を静かに軋ませていた。。




