第十八話 亡霊
拳が当たった感触が、まだ拳骨に残っていた。
レイは荒い息を吐く。
右のフック。
生まれて初めて打った拳。
ボクシング個体との戦いの中で考えた。
レスリングの身体で振れる拳。
僧帽筋も広背筋も邪魔にならない。
組み付きの延長線上から打ち込める拳。
それが今、目の前の男の頬を捉えた。
だが。
倒れない。
微動だにしない。
まるで鉄柱を殴ったみたいだった。
地下区画に静寂が落ちる。
レイは拳を下ろした。
男は立っている。
感情のない目。
生気のない顔。
人間なのに人間じゃない。
そこにいるだけで空気が重い。
まるで死んだ誰かが立っているみたいだった。
レイは鼻血を拭う。
「しぶてぇな」
男は答えない。
ただ見ている。
レイを。
値踏みするように。
その視線が妙に腹立たしかった。
「おい」
レイが言う。
「名前ねぇのか」
沈黙。
男は少しだけ首を傾げた。
「必要ない」
「そうかよ」
レイは笑う。
「じゃあ亡霊だな」
男の眉がわずかに動く。
「亡霊?」
「そうだ」
レイは肩を回す。
「死んだみたいな顔してるしな」
男はしばらく黙っていた。
やがて。
「好きにしろ」
とだけ言った。
レイは笑った。
「決まりだ」
亡霊。
その名前は妙にしっくりきた。
レスリングしか知らない男。
レスリングだけを信じた男。
そして。
レスリングに食われた男。
まるでレスリングそのものが歩いているみたいだった。
⸻
モニタールーム。
一光は立ち上がっていた。
巨大スクリーンには二人。
レイ。
そして。
育成個体No.00。
「見ろ」
一光が呟く。
「素晴らしい」
その声は震えていた。
喜びで。
期待で。
執着で。
「カレリンの理想形だ」
イヴァンは無言だった。
一光は気付かない。
いや。
気付いていて無視している。
「レスリングだけを極めた存在」
「純粋」
「完全」
「完成」
スクリーンの中。
亡霊は構えている。
完璧だった。
重心。
姿勢。
圧力。
全てが理想。
全てがレスリング。
一光は目を細めた。
「見せてやれ」
「お前の最高到達点を」
⸻
地下区画。
亡霊が動く。
前触れはなかった。
ただ。
気付いた時には距離が消えていた。
レイの目が開く。
速い。
ボクシングとは違う。
八極拳とも違う。
レスリングだった。
だが。
イヴァンより速い。
低い。
重い。
タックル。
反応する暇もない。
ドンッ!!
レイの身体が吹き飛ぶ。
肺から空気が抜ける。
床を転がる。
痛い。
だが。
立つ。
反射だった。
亡霊は少しだけ目を細めた。
「立つか」
低い声。
それだけ。
だが。
その一言が妙に重かった。
レイは構える。
「当たり前だろ」
亡霊は首を振る。
「違う」
「普通は立てない」
そして。
また踏み込む。
レイも動く。
今度は読めた。
肩。
重心。
呼吸。
ボクシング個体。
リン。
イヴァン。
全部が頭の中を駆け巡る。
だから。
半歩だけズレた。
亡霊のタックルが空を切る。
初めて。
亡霊の目が揺れた。
ほんの僅か。
だが確かに。
「……?」
レイは見逃さなかった。
今。
驚いた。
亡霊が。
⸻
亡霊の中で何かが軋む。
記憶。
マット。
歓声。
オリンピック。
世界選手権。
勝利。
勝利。
勝利。
全てがレスリングだった。
全てがレスリングで解決できた。
だが。
目の前の少年は違う。
レスリングじゃない。
レスリングなのに。
レスリングだけじゃない。
「何をした」
亡霊が初めて聞く。
レイは笑った。
「知らねぇよ」
本当に知らない。
ただ。
勝つために考えただけだ。
生き残るために。
「お前みたいに完璧じゃねぇからな」
亡霊が黙る。
完璧。
その言葉がどこか遠くで響いた。
⸻
モニタールーム。
一光の笑みが消える。
「違う」
小さく呟く。
「違う」
イヴァンは黙っていた。
一光の拳が震える。
「そんな動きはレスリングじゃない」
スクリーンの中。
レイは低く構えている。
だが。
拳も上がっていた。
ボクシングみたいに。
「やめろ」
一光が呟く。
「混ざるな」
「レスリングであれ」
その声は祈りだった。
⸻
地下区画。
亡霊が再び構える。
レイは息を整える。
強い。
勝てない。
正直そう思う。
レスリングでは。
絶対に。
技術も。
経験も。
圧力も。
全部負けている。
なら。
どうする。
レイは拳を握る。
鼻血が落ちる。
亡霊が見ている。
無表情のまま。
レイは笑った。
「なぁ亡霊」
「なんだ」
「お前さ」
レイはゆっくり拳を上げる。
「レスリング以外知らねぇんだろ」
静寂。
亡霊は答えない。
それが答えだった。
レイの口元が歪む。
なら。
勝機はある。
レスリングでは勝てない。
だが。
レスリング以外も含むならどうだ。
その瞬間。
レイの脳裏にイヴァンの言葉が蘇る。
――レスリングを疑うな。
――だが。
――レスリングだけを信じるな。
レイは笑った。
そして。
初めて自分から前へ出た。
レスリングの構えで。
拳を握ったまま。
亡霊の目がわずかに細くなる。
地下区画の空気が変わる。
純粋なレスリング。
完成されたレスリング。
それに対して。
混ざり始めたレスリング。
二人は同じ構えで向かい合う。
だが。
進もうとしている場所は、
もう全く違っていた。




