第十七話 完成品
地下最深部。
巨大な隔離区画。
冷気が肺に刺さる。
レイはゆっくり息を吐いた。
白く曇る。
広い。
あまりにも広い。
だが妙だった。
闘技場にしては何もない。
障害物もない。
柱もない。
ただコンクリートが広がっているだけだ。
その中央。
男が立っていた。
微動だにせず。
呼吸すらしていないように見える。
デカい。
異常なほど。
肩幅。
首。
背中。
レスラーとして完成された肉体だった。
イヴァンを初めて見た時と似ている。
いや。
もっと怖い。
理屈じゃなかった。
本能が嫌がっている。
近付きたくない。
組みたくない。
戦いたくない。
そんな感覚を初めて覚えた。
男が顔を上げる。
濁った目。
生気がない。
だがその瞳だけは鋭かった。
「……レスラーか」
低い声だった。
地面を這うような声。
レイは無意識に構えていた。
「そうだよ」
男は数秒黙った。
まるで匂いでも嗅ぐようにレイを見る。
そして小さく首を振った。
「違う」
「は?」
「レスラーじゃない」
レイの眉が動く。
「意味わかんねぇよ」
男は答えない。
代わりに一歩前へ出た。
それだけで空気が変わる。
重い。
まるで巨大な岩が転がり始めたような圧力だった。
レイの背中を嫌な汗が流れる。
強い。
ボクシングとは違う。
リンとも違う。
格闘技としての怖さじゃない。
純粋な暴力。
圧倒的な支配力。
それが目の前に立っていた。
「来い」
男が言う。
レイは考えるより先に動いていた。
低く沈む。
左足を踏み込む。
タックル。
イヴァンに叩き込まれた最速の入り。
床を蹴る。
距離を潰す。
速い。
今までなら入っていた。
だが。
男は動かなかった。
本当に動かなかった。
次の瞬間。
ドン。
肩が当たった。
ただそれだけ。
それだけなのに世界が横へ吹き飛んだ。
「がッ!!」
肺の空気が全部抜ける。
背中から壁へ激突する。
コンクリートが揺れる。
何をされた。
理解できない。
立ち上がる。
息が苦しい。
男はさっきと同じ場所に立っていた。
構えも変わっていない。
「軽いな」
レイの奥歯が鳴る。
「……何がだよ」
「全部だ」
男は近付いてくる。
ゆっくり。
だが逃げられる気がしない。
「覚悟も」
「技も」
「レスリングも」
レイは歯を食いしばる。
頭に血が上る。
踏み込む。
今度は首へ。
フェイントを混ぜる。
足を狙うふりをして上へ。
組む。
崩す。
潰す。
だが全部読まれていた。
男の腕が首に巻き付く。
世界が反転した。
床。
天井。
床。
背中に衝撃。
呼吸が止まる。
そのまま上を取られる。
重い。
信じられないほど重い。
まるでトラックが乗っているみたいだった。
動けない。
首が浮かない。
腰が切れない。
レスリングで負けている。
完全に。
男は静かに言った。
「それでレスリングか」
悔しい。
悔しくてたまらない。
だが反論できない。
何も通じない。
組みでは勝てない。
技術でも勝てない。
経験でも勝てない。
レイは初めて理解した。
これが完成形だ。
一光が見せたかったもの。
レスリングだけを極めた怪物。
カレリンという思想をそのまま人間に押し込めた亡霊。
勝てるわけがない。
しかし、負けっぱなしでいいわけない。
ブリッジで必死に返して立ち上がる。
そこからまた低く構える。
だがその瞬間。
亡霊の腕取り…面白いようにボディーコントロールされる。
立ったまま、正面から左肩関節をネルソンで締め上げられる。
こんな時にレイの頭に浮かんだのはボクシングだった。
ジャブ。
肩。
揺れ。
見えなかった拳。
怖かった距離。
そして。
自分が考え続けたこと。
レスラーの身体で打てる拳。
広背筋が邪魔をしない拳。
僧帽筋が邪魔をしない拳。
真っ直ぐじゃない。
横から。
身体ごと振る。
レイは無理やり身体を捻った。
男の拘束が一瞬だけ緩む。
右足を踏み込む。
腰を回す。
肩を回す。
全身を一本の縄みたいにしならせる。
そして。
人生で初めて。
拳を振った。
ゴッッ!!
鈍い音。
男の顔が横へ流れる。
たった数センチ。
それだけだった。
だが。
初めてだった。
男が止まったのは。
静寂。
レイは息を切らしながら笑う。
鼻血が垂れている。
肋骨も痛い。
全身が痛い。
それでも笑った。
「どうだよ」
男は殴られた頬を触る。
その目が初めて揺れた。
理解できないものを見る目だった。
「……今のは何だ」
レイは肩で息をしながら答える。
「知らねぇ」
そして拳を握る。
「でもレスリングじゃねぇな」
その言葉を聞いた瞬間。
モニターの向こうで一光の顔から笑みが消えた。




