プロローグという名の、Aが見限るという言葉の意味を真に覚えた日
作中に不道徳な発言をする登場人物がいます。
ご注意ください。
「ミア。飲み過ぎよ」
テューニさんが嗜めると、ママは餌を取られまいと低く唸る犬のようにお酒の入ったボトルを荒々しくグラスに注いだ。
もう両手の指を超えてしまったその酷い有様を見てしまい、学院からの通知書に皺を作ってしまった。
友人たちよりも一足先に手に入れた修了証明書が入っているそれを、これ以上ぐちゃぐちゃにしない為に、そっとソファに避難させる。
急いでママの所に向かうと酩酊して胡乱な目のなかに、まるで筆の暗い色を水に溶かしたみたいな仄暗い眼差しを向けられた。
「アンタなんか産まなきゃよかった……!」
「ミア!」
悲鳴のようなママの声と咎めるテューニさんの声が部屋に響く。
産まなきゃよかった……。
町の代官だったパパを泡沫事件で亡くして、ママがカムリの領主から一ヶ月は暮らせる程度の金貨を渡されてからよく言われるようになった言葉。
ママに金貨を受け渡す際に、領主の遣わした人が何か囁いてからだったと思う。
後から知った事だけれど、領主から預けられたお金をパパが着服していたらしい。
二度と領内に立ち入らない事を条件に、手渡されたのだそう。
それが原因なのか、はたまた他の知らない原因なのか、何方にせよママは狂った。
まだ平静さを保っていた頃のママがテューニさんに話しているのを聞いてしまったから知れた事実。
だけれど、そうで無かったのなら一生知らないままでいられた事実でもある。
ただ、この事を領主は内々にして下さったらしい。
貴族の子女も在籍する学院の友人たちが今も気遣う文をよく送ってくれている事から、そう思っている。
まあ、領内の隠したい事なのだから当たり前と言われてしまったらそうなのだけれども……。
少なくとも、そのお陰で修了証明書を手に入れられた。
これがあると無いでは、カーティフではありつける業種が変わってしまうから、今日届いて安心した。
「あんな奴に体を許さなきゃよかった……。……ああ! 許して! フランク! フランク!」
急にグラスが割れた音がしたかと思うと、ママがテーブルに顔を伏して知らない男の人の名前を譫言のように呼び泣きじゃくる。
酩酊したママの言葉に、テューニさんが信じられないものを見るかのように口を覆った。
彼女の白い毛並みの長い指の隙間から、ぽつりと「貴女」と言う声が聞こえた。
「テューニさん。フランクって、何方?」
私の問いかけに彼女は言葉に迷うように口を閉ざす。
「……フランクは当時交際してた人よ。そして、アンタはフランクと交際中だったあたしに近づいたあの野郎と」
「——ミア! ……っ、お水よ」
テューニさんが話を遮って無理やり水を口元に運び、彼女が聞いたことの無い言語を呟いたかと思うと、ママはゆっくり目を閉じて寝息を立てて眠ってしまった。
あの目は狂気じみていたと本能が告げる。
正気で無いと言う。
だというのに、ママの話は何処か現実味を帯びているような、真実を告げられたかのような、そんな気がした。
それを裏付けるかのようにテューニさんの眉間の皺が深まったのが何よりの証拠だと。
ならば、私はあの父とこの狂った人の……。
ブワッと顔が火傷したかのように、若しくは霜焼けになったかのような、そんな相反する眩暈がする感覚に襲われた。
「っ、うっ!」
汚い。汚い。汚い。汚い。汚い。汚い。汚い。汚い。汚い。
汚い! 汚い! 汚い! 汚い! 汚い! 汚い! 汚い!
汚らわしい!
喉が焼けるような痛みと迫り上がる何かに思わず口を塞いだ。
あれ? 力が入らない……。
朦朧とする私を支えてテューニさんがしきりに声をかけてくれるのが見えるけれど、声は聞こえず次第に視界が真っ黒になって暗転した。
「……はっ!」
嫌な夢を見た……。
脂汗がびっしょり背中にも伝うのが分かる。
酷く乾いた喉と、今も鳴り止まない心音に呼吸が荒くなり肩で息を吸っては吐きそれでも落ち着かない所為で涙が目尻に溜まってきた。
目が痛い……。
「あらあら、大変だわ。随分とお顔が真っ青よ? カーラ、お水を」
ぼやける視界で品が良い声がしたかと思うと、上質なハンカチーフで涙を吸ってくれたご婦人がドレスの汚れを気にすることなく屈んで私の額に流れる汗もそっと当てて吸ってくれた。
「ありがとう。さあ、お嬢さんどうぞ」
程なくして、付き人がお水の入ったカップをご婦人に渡して、それをそっと私の手に渡す。
有り難くそれをゆっくり口に含むと、レモンとミントの香りがした爽やかで冷たい水が乾いた喉を潤した。
「ありがとう存じます……」
「どうぞお気になさらないで。私は私の為すべきことをしたまでですもの。どうぞこのハンカチーフは貴女に差し上げますわ。何か困り事があったら、この山羊の家をお訪ねになってね」
ウィンクをしたご婦人は自分のハンカチーフをぎゅっと私に握らせると、美しいカーテシーをして何処かへ向かわれた。
山羊の家って、ロサの公爵家の象徴だったような……。
なんて高貴なお方に面倒を見て貰ってしまったのだろう。
ハッとして、疾うに居ないご婦人の向かった先を見るももう誰一人として居なかった。
乗客が次々に出口へ向かう中、先ほどのご婦人が居やしないか目で追うも見当たらない。
それもそうよね……。
高貴なお方は、きっと安全第一だもの。
庶民とは、別の出口かも知れない。
一目お礼を伝えたかったものの、諦めてタラップを降りる。
潮風に髪が戦ぎ、一瞬視界が奪われて髪を耳にかけると先ほどは居なかった筈の長身でひょろっとした男の人が居た。
真っ直ぐに私を見て近づくその人がテューニさんやラウルさんが仰っていた人なのだろうと察する。
向こうが一目見たら分かるから。
そう、ラウルさんが言い張っていた所為で、容姿を知らされなかったから困っていたけれど……。
本当にラウルさんの言っていたように一目見て分かったらしい事に、思わず目を見開いた。
「やあ、おはよう。長旅お疲れさま。ようこそ、ウイミイ島へ」
爽やかで透明感のある声の、優しく微笑むあの人の元恋人はそう言って温かく私を迎えた。




