迷えるエルフの行き着く先と光明
春の陽気が冬から春になった事を告げるように、青々とした若葉が戦ぐ。
爽やかな朝の空気が入り込み、澱んでいた空気が入れ替わる。
「さて、やるか」
覚えたてのクリーンナップのやり方を反芻して、息を吸う。
マナから空気のエレメントの力や水のエレメントの力を貸して貰い、部屋全体を浄化するイメージで宙でくるくる指を回す。
ホイップクリームを潰さないようにそっとメレンゲドールを置くような手つきで、部屋に溜まった汚れを清めていく。
「よし。よぉし」
普段の出力ではきっと部屋が使えなくなるのが目に見えているから、おっかなびっくりになってしまう。
いつもよりも気をつけないと……。
部屋の床が本来の光沢を取り戻し、あと少しで客人を泊めても支障がない部屋になりそうだ。
大分コツが分かってきた気がするぞう!
ちょっと楽しくなってきた僕の足の間を音も気配もなく、猫がするりと入ってきて、思いきり加減を誤りかける。
「うわっ! っと、っとっと!」
急いで式の加減を元に戻し、ゆっくりと極めて冷静に猫に当たらないように式を止めた。
小さな竜巻が完全に消えたことに、ほっとしつつ彼ないし彼女が何をするのかそっと見守る。
「ふんっ」
ふんふんと鼻をひくつかせながら部屋中を歩いていた猫は一度僕を見て鼻を鳴らすと、満足したのかそのまま部屋を出て何処かへ向かってしまった。
「吃驚した〜」
張り詰めた糸が切れ、僕はその場にへたり込む。
危うく猫を傷付ける所だった。
うっかりしていたなぁ。
次からは猫のことも気に留めておかないといけないのか。
「そういや、あの猫名前はあるのかな?」
もう居ない猫の向かった方を見ると、猫よりも大きなクラウス君が心底呆れたように僕を見下ろしていた。
「フランシス。お前、部屋の準備をすると言わなかったか?」
彼の手にあるのは乾いたシーツであり、見るからにこの部屋の為のものらしいことが見受けられる。
「準備ならしているよ。ちょっとばかし、事故になりかけたけどね」
手を差し伸べてくれたクラウス君の手を重ねると、彼はしっかりした体幹で僕を引き上げた。
「お見事。流石はクラウス君だねぇ」
立ち上がり彼に微笑むと、心底嫌そうな顔をされてしまった。
まあ、彼がそんな顔をするのは今に始まった事では無いけど、今日は一際苛々している気がする。
うん、丁度いいや。
これも歩み寄りって事で聞いてみよう。
「何かあったのかい? クラウス君」
僕の問いに彼は急に雰囲気を豹変させた。
あ、これは良からぬ気配だ。
「あ、そうそう」
僕が急いで別の何かにすり替えようとするも、もう遅かった。
彼は僕に圧をかけながら壁に追いやり、長い脚を僕の目の辺りまで上げて逃げないようにしてきたからだ。
わぁ、長ぁい脚だこと。
そんなことを現実から背けるように思いつつ、彼の目を見る。
その目は凄みを効かせる訳でもなく、冷静な色が窺える。
「何かあったのはテメェだろ。生誕祭の日、随分と派手に痴話喧嘩じみたことしたらしいな。ハンスの嫁が見ちまったらしくてよ。心配して俺に訊いてきたのさ。なぁ、あの小娘はテメェの何だ。知人のガキにしちゃ、随分と湿度が高いようにお見受けするがね? 大家さんよぉ」
ここ最近はすっかり聞いていなかった彼の圧のある物言いに、僕は早々に降参するように手を上げた。
彼の元腹心であるハンス君。
今は漁師の彼のお嫁さんは町の中でも耳聡い事で有名だ。
その彼女の耳に入ったか見られたのなら、下手にしらを切るよりは素直になった方が良いだろう。
況してやこの状況では尚の事。
「ええっと、流石にこのまま話せ、何て言わないだろう? クラウス君も」
「俺はこのままでも良いが?」
少し気配が丸くなったもののクラウス君はそれでも脚を下げる事はせず、微動だにしない。
困ったなぁ……。
僕らしかいないとは言っても廊下でする内容では無いのに。
「あっ、お取り込み中だった?」
何と答えようか迷っていると、双葉ちゃんが上がってきて、僕らを見るなりニヤニヤと口角を上げた。
またあの子は、変なことを考えていそうだなぁ。
「フェスタぁ! テメェ、家賃フランシスに渡しただろうな?」
ニヤニヤと口角を上げていた彼女は彼の問いに、透かさず背筋を正して首が千切れそうな程頷いて見せた。
「渡したよぉ? ねっ! フランク?」
「うん。貰ったねぇ」
声が裏返った彼女に同意して頷くと、彼はそれ以上問い詰める気が失せたらしい。
用件を早く言えと言わんばかりに、目で彼女に促す。
「フランクにお客さんだよ。二人来てる。クィンさんが応対してるから、早く来てって」
「二人?」
片方は思い当たるけど、片方は分からないなぁ。
ちらりとクラウス君を見やると、仕方なしに脚を下げてくれた。
「あとはしておいてやる。貸し一だ」
「ありがとう。でも、君の貸しは高いからなぁ」
入れ違いに客人の為の準備を任せ、僕は階下へ向かいに脚を向ける。
「あとで話せよ」
ぼそっと呟かれた彼の言葉を一旦右から左に流して、今度こそお待たせしているお客さんのもとへ向かった。
「お待たせしました。って、やっぱりラウルか」
リビングの扉を開くと、コーヒーのいい香りが広がっていた。
この香りはクィンさんのコーヒーかな。
あとで500イェン徴収されそうだ。
「よお、フランク」
リビングのソファに居住まい正しく座るラウルの灰色の毛が戦ぐ。
外の花の香りがふんわりと部屋に入ってきた爽やかな空気の中、見知らぬ顔の客人に向き直った。
つるんとした肌のその人は、カエル人らしい。
若苗色の肌や太く真っ直ぐな首、上方に出た双眼は、カエル人にしか無いものだ。
若苗色の肌が麻のシャツによく似合って爽やかな印象を与えるその人は、僕と目が合うと立ち上がった。
「僕はフランシス・フォーサイスです。失礼で無ければ、お名前を伺えますか?」
「私、ウヅキキョウカと申します。どうぞウヅキとお呼び下さいまし。町で小さなバーを営んでいますわ。今日お伺いしたのは此方にお住まいのアシュリーさんの事でお話がございまして」
今日はレイちゃんの名前をよく聞くなぁ。
東の、多分双葉ちゃんと同郷と思しき音のウヅキさんは少し言い辛そうにそう口にすると何から話したものやらと迷っているようだった。
「実はな、フランク。俺が向かう前にウヅキさんから家にマジカルフォンをして貰っていてな。上さんから昨日無事に着いた知らせをしたついでに聞いたんだが、彼女のバーで仕事をしたいとオーレリアが言ったらしいんだ」
寝耳に水の話に、座りかけたソファを思わず転けかける。
確かに申請書を委員会に送っても二ヶ月待つ事は普通にあるから、収入を気にするのは分からなくも無いけど、それにしたって取り決めていた事を破るとは思っていなかった。
「あれ? レイちゃんには暫く仕送りするって言って聞かせたって話だったよね? ラウル」
いきなり家も父も、更には友人も失ったレイちゃんを気遣ったラウルなりの取り決めとして、暫くは働かないように言って含ませたと聞いていたのに。
僕の問いにラウルは手入れした毛並みを乱して、眉間に皺を寄せる。
「オーレリアに言って聞かせたつもりだったが、逆効果だったのやも知れん」
「法としては、大丈夫だとしても成人されていない方にはご身内のサインを頂くようにしておりますの。アシュリーさんは16との事ですから、サインを頂きましたわ。ですが、念のためにいつも見て頂いているマナ使いの方にお聞きすると、お一人分しか気配が無いと仰りましたの。念には念を、というだけですから。アシュリーさんをお雇いするのは吝かではこざいませんのよ? ですが、ああもしっかりとした娘さんですから気になりましてね」
法としては16ならバーのような店でも働く事は許されているし、大分規制が甘いから申請書も必要が無い。
ウヅキさんのお店のような所の方が珍しいまである。
寧ろ、彼女の店で良かったとさえ思えた。
潜りの違法店はこの島にもあるのを耳にした事がある。
そういう店だったなら、何かあってから知ったかも知れない。
ゾクリと身の毛がよだつような、冷んやりとしたものが走った気がした。
「ウヅキさん。彼女はあー、その、例の事件に遭った子でしてね」
ラウルが言葉を選ぶように説明を始める。
ミアの事も話すと、彼女はふむと口にしていたコーヒーカップをそっと置いた。
「では今、彼女の後見人はいらっしゃいますの?」
二人して目を見合わせてから、首を横に振る。
亡くなった事も伏せているのだから、後見人の話なんて出来ている訳が無い。
「私が思うに、あのような子こそ閉じ込めるよりも好きにさせて差し上げるべきかと存じますわ。雇用は保留にしますから、どうぞアシュリーさんのご意志を尊重なさって下さいましね?」
ちらりとウヅキさんが扉の方を見遣ってから、彼女は手元に置いていた鞄から書類を置くと立ち上がって微笑んだ。
「あ、オーレリア」
ラウルの言葉に急いで扉を見ると彼女は一目散に何処かへ行ってしまった。
「殿方には少しむつかしい年頃の子かしらね」
「全くですな」
何処か微笑ましそうなウヅキさんにラウルは自分の顔を覆いながら同意した。
何故か心に霧がかかったのように、彼女の言葉に自分の中で言い表せない何かが生まれた気がした。
――何故だろうで立ち止まるままでは何も進まないのよ、フランク。
ふと、クロエさんの言葉が脳裏に過ぎる。
「ウヅキさんは何故そうも子供が外で遊ぶのを見たかのような、そんな暢気な言い方をするのですか」
自分でも低いと思うくらいに低い人に向けてはいけない仄暗い声がした。
彼女は僕を見て、元から丸い目をより大きく見開く。
それも束の間で、直ぐに彼女は僕にも同じ眼差しを向けた。
「フォーサイスさんの仰りたい事も分かりますわ。ですが、敢えて申し上げるのなら、彼女の人生においていつか迎えるそれが早まっただけの事だと私は思いますの。ああ、どうかそんなお顔をなさらないで下さいまし。確かに、失わなくともよいものも失われた事でしょう。それは本来なら、彼女が得るものだったやも知れないものだってあったのやも知れません。それでも、人は大人になるにつれて失うものがあるものですわ。彼女は少しだけ早く大人になる準備をしているように見受けられますの。それはきっと、フォーサイスさんもそうなのかしらね」
彼女の涼やかな声は、僕の生まれたばかりの何かを包み込む。
ウヅキさんの言いたいことが分かるようで分からない。
「さあ、私はそろそろお暇しますわ。どうぞ、お二人もお店にいらして下さいましね。モクテルなどもご用意しておりますから、お酒を嗜まれなくとも寛いで頂けるかと存じますわ」
今度こそ彼女は扉へ向かい、部屋を後にした。
暫く木々の戦ぐ音だけになり、互いに何も口を開かないまま外を見やる。
「フランク。後見人の事だが、オーレリアと改めて腹を割って決めよう。俺とて、長くても一、いや5日しか居れんからな」
先に口を開いたラウルはそれだけ言うと、毛並みを乱したままのそのそと扉へ向かう。
彼としても良かれが仇になった事に何か来るものがあったのだろうか。
いつもより少し尻尾が下がっているように見える。
「部屋はいつもの所だよ」
僕の話を聞いているのかいないのか、彼はひらひらと大きな真っ黒い掌を見せて部屋を後にした。
シンと静まり返った部屋に置かれた書類を見やると、それは同意書だった。
早く大人になってもいい事なんて無いのになぁ。
「フランシス」
呆けたままその同意書を読むでも無く見ていると、クラウス君がいつの間にか向かいに座っていた。
「やあ、クラウス君」
僕の暢気な返事に彼は呆れ混じりにソファに寝転ぶ。
彼の背丈よりも小さいソファでは、少しだけ足の部分が足らずに余った。
「この家の防音はいよいよガタが来たらしいぞ。まあ、丸聞こえのままにしたいならそのままで良いがね。そうなると、フラットの奴らは居なくなりそうだなぁ。自室の音すらいつ聞かれるか分かったものじゃあ無いんだからよ」
呟くように、それでも僕に聞かせようとしてはいるのが分かる声音で彼は手近の朝刊に手を伸ばしながらそう言う。
少なくとも大声を発していなかったこの部屋の会話が聞かれていたとなると、いよいよ本当に買い直す必要があるらしい。
防音のマジックストーンを作るには、協会の厳しい規則を一から十まで守った上でパンのカスに創世神の讃美歌を書くような難しさだと聞く。
その上で更に、協会の許可を得てようやく世に売ることが叶うという手間の所為で、安値のマジックストーンはほぼ間違いなく潜りの偽物だ。
この間見たときは、安くても十万イェンはしたなぁ。
「まあ、そういう事さ」
僕の答えにクラウス君は朝刊から顔だけ出すと睨んできた。
「違う。テメェと小娘の関係はあの人狼も言っちゃいないだろうが。言いくるめられると思うなよ」
確かにそうなのだけども、今日のクラウス君は本当に気が立ってるなぁ。
仕方なく、敢えて声で伝えることを諦めた僕は宙に文字を書く。
小さな雲を作ってそれを彼に伝わるように、すらすらとミアとの事を書いて見せると彼は何故か急に笑い声を上げた。
「あっはっはっ! そいつァ傑作だなぁ、おい」
何処に笑う要素があったのかさっぱり分からない僕は彼が落ち着くまで待つしか無かった。
「何だよ。てっきり、テメェのガキかと思ったのによ。ンな落とし前つけてねぇような奴なら、鮫の餌にするしかねぇかと思ったが……良かったなぁ? 生き延びてよ」
その発言が冗談では無いのだろう事は彼の目が物語っていた。
ああ、本当に良かったぁ……。
女の人に対して、基本は保護対象と見做しているクラウス君の事だ。
本当に僕の不貞だったら、即刻海に叩き落としただろうなぁ。
彼ならマナ使いと一対一でも勝てそうな気がする。
「本当にね」
力なく笑うと、彼はふと真面目に僕を見た。
「フランシス、いいか。レイがお前に対して吐き出した言葉は、お前が後生大事に受け止める必要なんざ無いからな。それは、レイの八つ当たりでしか無い。お前がようやく俺たちに歩み寄ろうってなら、フランシスがすべき事は其処には何もねぇ。……まあ、気張れや」
言いたいことは全て吐き出したのだろう。
彼はそれ以上は何も口を開くこと無く朝刊へ目を向け、僕のことなぞ居ないかのように振る舞い始めた。
さて、如何したものかなぁ。
あの子を追っても良いのだろうけど、仮に追い付けたとて何が出来るというのか。
今の僕にはあの子に渡せる何かが有るようには思えない。
いや、渡すものが必要なのかすら分からない。
「クラウス君〜。ヒントをおくれよ~」
何とも弱々しい声が出たと思いつつ、未だに朝刊を読む彼に話しかけた。
暫く彼を見詰める。
サッシに羽を休めにやってきた小鳥がいるなと思っていたら、急にクラウス君が立ち上がった。
「フラァンシィス」
これまた最近は見る事が無かったクラウス君の満面の笑みを見て、僕は冷や汗を流す。
彼の笑みは怒りが程々に上り始めているサインでもあるからだ。
そうだった。今日の彼は、気が立っているのだった。
「其処に居るくらいなら、とっとと防音のマジックストーン買い直してこい!」
今日一響くクラウス君の声量に、小鳥は転げ落ちるように羽ばたいた。
「毎度あり〜」
ちょっと値引きして貰った防音のマジックストーンが入った包みを手に、店の扉を閉める。
一万イェンも値引きしてくれるとは思わなかったなぁ。
型番が古いらしいが、うちのフラットなら十分に作用するだろう。
流行りの型番は何が何やらちんぷんかんだったし、そう何度も買い直すものでも無いから、流行りに乗ったとて、直ぐにまた別の流行りが生まれるだろうから、意味は無さそうだ。
「いい香りだなぁ」
近くからスパイスの香りがして、昼食を食べ損なった腹がこれでもかと盛大に鳴く。
そう言えば、近くに美味しい店があるって小龍君が言っていたっけ。
身体がもう何かを口にしないと元気になれないと訴えてきて、力が入らないからか足が重い。
マナ使うのにも体力が要るしなぁ。
小道に入って直ぐに小さなブラックボードがあり、チョークでメニューが書かれていた。
「あ、まだランチやってるっぽい。ん〜と、本日のパスタにしようかなぁ」
メニューを見ていると人の気配がして上を見上げると小龍君が居た。
「あれ? フランクさん?」
「やあ、小龍君」
目を丸くした彼に微笑むと、後ろから走り去る音がした。
「あっ! ちょっ、レイさん!」
あ、レイちゃんも居たのか。
ちっとも気付かなかった。
元から大きい小龍君の後ろに隠れて居たのなら流石に分かりようも無い。
「付いて来ないで!」
彼女の言葉に小龍君が追おうとした足を止め、彼はレイちゃんに九字を切ると見送る。
そう言えば、彼女と帰って来ていたっけ。
僕が知らない内に仲良くなったらしい。
「フランクさんが原因なのですか?」
ムスッと怒ったように僕を見下ろす小龍君に何から伝えるか言葉に迷っていると、彼の腹が鳴った。
「先にお昼にしない?」
僕の誘いに彼は少し恥ずかしそうに頷き、了承を得た僕は店内へ入ることにした。
思っていたよりも広い店内はそこそこにお客さんがいて、僕らは店の二階へ案内された。
「本日のパスタを、飲み物は食後にアイスコーヒーで、えっと」
メニューを見ている向かいの小龍君に目をやると、彼は少し迷ってから口を開く。
「本日のピッツァで、飲み物は同じく食後にアイスティーでお願いします」
注文を書き記すと店員さんはさっさと別のお客さんの所へ向かって行った。
やれ井戸の水が如何の、やれ港の猫が増えただの、各々が会話や食事に夢中になっているなか、僕らの間には無言が流れる。
気まずい……。
普段は気の良い青年なのだけども、今日はそのしっかりした体も相まってクラウス君の舎弟って言われても信じてしまいそうだ。
「あの日、暗い夕暮れになったらやめておけって言われていたあの道に向かう人を見かけました。観光の人かと思って後を追ったら、案の定というか、悪漢に攫われそうになってました。それがレイさんだと知ったのはその後です」
淡々ととんでもない事を聞かされ、手にしていたグラスを落としかける。
危ないって言ったのに、もうあの子ったら。
されそうになっていた、と言う辺り小龍君が直ぐに制圧したのだろう。
彼は東のムゥダンという所から留学というか、修行の為にやって来た青年だ。
身体の衰えやハンディキャップをマナやマジックストーンで穴埋めするという療法を考案した大家の三男だそうで、彼自身は医師になる気はないらしい。
彼はそもそもマナを使わないまま身体能力をより高めていく事の方が気になるのだとか。
実際、彼自身はマナ使いでありながら、マナを使わない自身の身体能力のみでサーカスを沸かせている。
「二人とも、本当に無事で良かったよ」
「レイさんは何も俺に言いません。だから、俺も何も聞かないようにしています。……でも、フランクさんが原因なら、貴方を叩きのめしたら彼女は笑うでしょうか」
大真面目に何を言い出すのかと思ったら、とんでもない事を口走っている彼を思い止まらせようと急いで彼女の事を伝えようとして、自分の方が思い止まった。
こんな人前で話す事でも無いし、何なら彼女の口から小龍君も聞きたいだろうと思ったら、口が勝手に閉じていた。
「小龍君が僕を叩きのめしても、少なくとも彼女は笑わないと思うなぁ……多分」
必要以上に語らずかと言ってこの今からでもやりかねい彼を思い止まらせるように言葉を選び、最後に自信無さげに多分だなんて付け足してしまった。
「やっぱり、そうですよね〜」
僕の返答に彼はさっきまでの気迫は何処へやら、急に彼は力なく項垂れて面食らう。
「……やっぱり?」
「レイさんは力に訴える事がお嫌いのようだから、俺が思い切り力に訴えてフランクさんを叩きのめしたと知られたら……きっと、目どころか口も聞いてくれない。……そんなのは嫌だ〜」
見る見る内に蒼ざめていく小龍君が、今にも泣きそうな声で呻き声を上げる。
「あ、ども」
丁度本日のパスタとピッツァが届いて、彼は弱々しく礼を伝えた。
僕の前に小海老と春カンランのパスタとサラダやスープを、小龍君の前にマルゲリータとサラダやスープが置かれた。
出来立ての湯気が立ち上り、腹がけたたましく鳴く。
「ほら、食べようよ。小龍君も少しパスタ食べるかい?」
小皿にパスタを少し取り分け彼の前に置くと、小龍君は無言でピザを1ピースくれた。
それから始まる食事は会話もなく、淡々と過ぎていく。
小海老が喉に詰まりかけて咽せようと、彼は弱々しいままピッツァをゆっくり咀嚼していた。
この美味しさで1500イェンとは……もう少し値上がりしても良い位だ。
また来よう。今度はレーモ君やラウルも連れて来ようかなぁ。
食後のコーヒーを頂く頃には、お客さんもちらほらいる程度になっていた。
そう言えば、小龍君って年下の子にさん付けなんてする子だったっけ?
「レイさん、今日は泣いていてその、元気付けたくて此処に誘ったんです」
泣いて、いたか。
それの涙は如何いう涙だったのだろう。
きっと、ただ悲しいだけでは無いのだろう事は、分からないなりも分かった。
それと、僕が居た所為でその元気付けるどころの話では無くなってしまった事も…….。
「俺、レイさんを一目見たときにこの人を笑わせたいって思いました。だから、ほんの少しだけいつもよりもトレーニングを短くして、彼女に会いに行ったりしてまして。そうしたら、今日はいつもよりも落ち着きが無くて……原因はフランクさんでは無いのですよね? すみません。早とちりしてしまって」
申し訳なさそうにまた項垂れた小龍君に微笑みかける。
……ああ、そうか。何だ、適任は目の前に居たのか。
僕に出来ない事は、彼が出来る事なんだ。
散々言われていたのに、ちっとも分かっていなかったや。
「ううん、僕も無関係って訳でも無いからね。気にしないで。寧ろ、レイちゃんのことを気にかけてくれる人が増えて有り難いよ」
僕はパズルのピースが一つ嵌まったような気分で、小龍君に微笑みかけた。
クラウス君の言うように、僕に出来る事は其処には無いのなら、もう一つ出来そうな事の方をやってみよう。




