スカイランタンを見送るQは何を思う
急勾配のいつもの石畳をゆっくりと下る。
夫妻の要望により、朝から準備に入るようにとオーナーから仰せつかったのだ。
今日はいつもより涼しいな。
「にゃあ」
僕を呼ぶかのような鳴き声に足を止めると、向こうからやってきたローマーと目が合った。
「おはようございます。ローマー。貴方はこれから帰りですか?」
随分と泥まみれになっているローマーは点々と小さな足あとを作りながら、僕の問いを無視して真っ直ぐフラットへ向かっていく。
フランクに見つかるならまだマシだろうが、レイさんたちなら即丸洗いだろうな。
それにしても、何処を通ってきたのやら……。
ローマーの背を見送り、改めてミスティへ向かうべく足を動かす。
ふと、足元に鳥の影が見え上を向くと、虹がかかっていた。
「マリア。おはよう」
今年のスカイランタンは大荒れになるやもと憂う自分と、マリアが会いにきてくれた嬉しさが混ぜこぜになっていく。
ああ、もう。
本当に君は僕を喜ばす天才だよ。
「久しいなぁ。クィン」
嗄れた声のメイソン前子爵がゆっくり夫人の手伝いを受けながら椅子にお座りになられた。
「お久しゅうございます。再び拝謁叶いましたこと、このクィン嬉しゅうございます」
「倅に任せて隠居したただの爺だ。そう畏まってくれるな」
久しぶりに身につけたミスティの制服を着て一礼すると、前子爵は背凭れに凭れかかりながら煩わしそうにそう仰った。
昔より角が丸くなられたような気がしたが、そうでもないようだ。
「まあ、フィルったら……。そう言って、『はい。承りました』と頷くとでもお思いですの? ああ、気を悪くしないでね。クィン」
「いえ、私めの事はどうぞお気になさらず」
あの日も、こうして夫人が前子爵を窘めた事から始まったのだったな。
お互いに同じことを思っていたのだろう。
気が付けば三人で笑い合っていた。
「クィン、悪かったな。スカイランタンの日は貴様にも大事な日であっただろうに」
「いいえ。スカイランタンで無くとも、虹がかかれば会えますから」
僕の返事に前子爵は瞬き、意味を図りかねて夫人と見合わせてから問うように此方を見た。
ゆっくり注いだコーヒーをお二人の前に置き、僕はクラインから聞いた童話の内容をお二人にもお伝えする。
コーヒーを口にされてから前子爵が夫人の方へ向き直られた。
「虹か。なるほど、面白い話があるものだ。なぁ? マーガレット」
「ええ、良い事を聞きましたわ。貴方に会いたくなったら、お庭に小さな虹をかけたら宜しいのですもの」
クスクス笑う夫人に、前子爵は眉尻を下げて手をご自身の手のひらで包む。
あの日と違い、皺が増えた前子爵の手の甲。
その上にそっと夫人が手を重ねられた。
言葉など要らぬと流れるお二人にそっと一礼し、僕は裏手へ回る。
「よくやった。お駄賃はお前の口座に入れておくよ」
「おやおや。お駄賃とはお使いのように仰りますね」
ミス・ミスティは僕の言葉に、妖しく口角を上げてその滑らかな指を僕の喉から顎へ滑らせる。
彼女の愛用の香水が香り、これもあの頃から変わらない声であの頃のようにオーナーは口を開いた。
「クィン? お前なぞまだまだ小僧のお使いのようなものよ。嫌ならあと千年は生きてご覧」
「お手厳しいことだ」
それに僕もあの頃のように、一字一句そのまま返してやると彼女は満面の笑みを浮かべた。
お気に召したらしい。
ミス・ミスティがパチンと指を鳴らすと、僕を包んでいた制服から普段着に一瞬で変わった。
「裏手から気をつけてお帰り」
ミスティの指差す先を見やると、店の裏口の扉が少し開いていた。
やれやれ。用が済むと直ぐに帰したがるところも変わらんな。
口では僕に無駄話をしたがらない詰まらない奴だと言うが。
オーナーも存外その質だと僕は思う。
溜め息混じりに裏口へ一歩向かうと、背中からミス・ミスティが話しかけてきた。
「……たまには私のところにも遊びにおいで。コーヒーくらいはご馳走してあげるわ。勿論、二人分ね」
「……それは」
ついその言葉に振り向くと疾うに其処にはオーナーはいらっしゃらなかった。
――まるで名を体現したかのように。
『その先を知りたくば、分かっているでしょう? クィン』
ふと、あの頃の彼女言葉が蘇る。
全く、僕の知る女人はいつもこうなのだから。
「父さん!」
ゆっくり花束を手にエミリーのもとへ向かう。
毎年、スカイランタンの日は此処と決まっている。
マリアの墓の近くでスカイランタンを見るのだ。
「おや? アハト君とヘリュは?」
いつもならエミリーの夫と彼の子も居るのに、今日はエミリー一人だった。
「ヘリュがばてちゃってね。アハトはその看病でホテルよ。先生曰く安静にすれば大丈夫だって」
「ヘリュは少し自分の体力に過信し過ぎるところがあるね。大したことないのなら良かった」
エミリーの実子では無いが、僕にとっては大事な家族であるヘリュ。
まだ幼いあの子は何故か自分の体力を過信し過ぎていて、直ぐに寝込む悪い所がある。
今回もそれが出てしまったらしい。
「というわけで、久々に家族水入らずってわけよ」
「そうか。では、おやつはホテルで食べるとしようか」
ヘリュがいつも夏は食べたがるレモンポセットが入った包みを見せると、エミリーは目を見開いてから微笑んだ。
「いいの? いつもはずっと居ようとしているじゃあない」
「ああ。マリアはこの日で無くとも会いに来てくれると分かったからね」
いつも話を切り上げる腹いせの積もりか、にやにやとそう言うエミリーににこりと笑いかけると、彼女は目を見開いて首を傾げた。
「それってどういう」
エミリーが問いかけた刹那、下から歓声が沸いた。
すると、直ぐに沢山のスカイランタンが天に昇っていくのが見えた。
そっとマリアの墓に花を添えてから、エミリーの手を重ねて近くのベンチに腰かける。
「少ししたら戻ろうか。エミー」
「うん。パパ」
僕の肩口にエミーが寄りかかり、その声が少し潤んでいた。




