Qの思いと重ならない思い
カチッカチッと鳴る部屋で目を覚ます。
カーテンを開けると分厚い雲に覆われており、直ぐにでも降りそうな雰囲気だ。
「今ならまだ大丈夫だろうか」
手早く運動着に着替え、ストレッチをしてから机の写真に向かって話しかける。
「行ってくるよ。マリア」
唯一手元にある写真。
火事に遭わなかったのなら、今も気分によって選べたのだが……。
まあ、もしもを考えては際限が無いな。
嫌な事を吐くように息を吐き、若かりし頃のマリアと僕の写真を撫でてから扉を開く。
すると、同じタイミングで扉が開いた。
其方に目をやると、クラインが苦々しそうに僕を見ているのが目に入る。
「おはよう。クライン」
「っ……おはよう」
にこやかにクラインに声をかけると、彼は間を置いてから仕方なくといった雰囲気で返事をした。
やれやれ。久々に会うなりこれとは……。
タオルや着替えを手にしているのが目につき、彼が仕事から戻ったばかりなのだと気づく。
「おや。今日は遅かったのかい?」
「……ああ。婦人が帰してくれなくてな」
クラインの口元に咲き乱れたロサのような赤い色から、帰したくないという声が聞こえてきそうだ。
彼は煩わしそうに指の腹でそっと落とそうとして、余計にそれは広がってしまった。
会員制のラウンジのウエーターをしているクラインは、度々こうしてご婦人に気に入られては帰りを遅くする事がある。
フランクが16か17の頃のクラインを連れて僕の店を訪れたあの頃にはもう、今のように女人に好かれ易かった。
「そういう星のもとに生まれたのかも知れないね」なんて、フランクは暢気に言っていた事があるが、存外当たっているかも知れんな。
「君にあの店のオーナーと引き合わせてからもう十年は過ぎたのかな?」
「ああ。俺が18になってからだから。もうそのくらいにはなったか」
そうか。もう十年も過ぎたのか……。
それは、若いつもりでいた僕も老いて当たり前だな。
「クィンさんはいつものか?」
「うん。そのつもりだよ。戻ったら、久々にパンケーキでも焼こうか?」
指の腹の赤い色を見てうんざりそうにするクラインを見ていると、あの頃のようについつい甘やかしたくなってしまいそう言うと、彼は目を丸くしてから逡巡した。
いつもなら直ぐに要らないと言うのに珍しい。
さぞや濃厚なご婦人だったと見える。
「おやおや。それなら戻ってからまた聞くとしよう」
クラインよりも先に下り、いつものようにフラットへの一本道を降って町の中心の噴水のある辺りを目指して走るなか、この間の青年が背を丸めて歩いているのが目に入った。
あの青年は……。
今日は単に元気のない彼は、僕を見つけるなりまた力無く笑みを向けた。
僕も走るのを止め、にこりと返すと青年は自宅らしき扉のなかへ入っていき、扉が閉まるのを見届けてからまた走る。
今日も元気が無かったな。
湯浴みを済ませてからクラインの部屋に向かうと一も二もなく食べたいと素直に返事をした。
いつものスーツにマリアのエプロンを着ていると、無言で手伝いを始めたクラインに声をかける。
「お疲れの君は座ってなさい」
「心配しなくとも、今は量れるぞ?」
彼の言葉につい其方を見やると、クラインはふっと誇らしそうに笑みを向けた。
おやおや。随分と昔の話をするじゃないか。
「ふふっ。それならクラインに任せようか」
「ああ」
例の事件で故郷を失ったというクラインは、フラットで暮らすようになるよりも前の事を話さない。
僕も聞こうと思った事は無いから、彼の家族や幼い頃のは知らないし、知ろうとも思わない。
しかし、16か17の頃のクラインの異質さを知っている身としては真面な生き方をしなかった事くらいは容易に想像がつく。
あの頃のクラインは、会話に支障を来さない代わりに、他の事を一つも知らなかった。
……フランクは事件のショックから全てを忘れたのかも知れないと嘯いていたが、長年のカフェのマスターとしての人を見る目を侮られては困る。
それが方便である事くらい分かっていた。
その上でその口車に乗ってやった事にきっと、フランクは気が付いてすらいないだろう。
加えて幸いだったのは、クラインののみ込みの早さだ。
シニアスクールの先生だったマリアにプライマリーからの基本を手解きして貰う度に、僕の知人に作法をレクチャーして貰う度に、直ぐに吸収した。
今や、客の大半が貴族というあのラウンジで働いているのだから立派なものだ。
「はい。クラインの好きなメープルシロップもあるから好きに使いなさい」
出来立てのパンケーキにバニラアイスを添える。
それをクラインの前に置くと、あの頃と同じように雲一つない晴天のような目を丸くしてから、楽しそうにたっぷりとメープルシロップをパンケーキに注いだ。
「あっ! いいな〜!」
匂いにつられたらしい双葉嬢がやってくるなり、クラインの食べているパンケーキをじっと見る。
「クィンさ〜ん」
猫撫で声の双葉嬢が期待するように僕を見上げた。
やれやれ。もう一仕事するか。
「父さん。スカイランタンの前日と当日は過ごせるのよね?」
マジカルフォンの向こうのエミリーの声は、いつものように瑞々しいカンランのようにはきはきとしている。
「今のところはそうだね。ホテルはいつもの所かな?」
僕の問いにエミリーは少し言葉を詰まらせた。
ああ。またあの事を話したいのかな……。
大事な話をしたいと思う程に、エミリーはよく言葉を詰まらせる。
だから、次に言いたい事なんて一つだろう。
「……父さん。やっぱり、本土で私たちと暮らさない?」
ほら、やっぱり。
僕の心は変わらないというのに……。
受話器には聞こえないように息を吐き、ふと目が合ったシェロン夫人に笑みを向けた。
「エミリー。その事についてははっきりと伝えただろう」
「でも——」
「じゃあ、次の休みに」
言葉を遮って有無を言わさぬまま、僕は受話器を置いた。
僕の普段過ごすフラットが高台という事もあり、エミリーはもしもをよく口にする。
もしも、足が歩けなくなったなら……。
もしも、目が見えなくなってしまったなら……。
そんな事を言って、自分のもとに置きたがる。
全く、誰に似たのやら。
「あらあら。クィンさん、もう宜しいの?」
湯を沸かしているシェロン夫人が僕に気づいて声をかけてきた。
「ええ、必要な事は済ませましたから。そうそう。次のスカイランタンの日はホテルに泊まるかと思われます」
ココアを作ろうとしているのか。
マグとスプーン、ココアの缶が作業台に並んでいた。
「スカイランタン……。そう言えば、司書の知人から聞いたのだけれど。スカイランタンの日に恋人同士で共にスカイランタンを見送るとずっと過ごせるっていうのが若い子たちの間で盛り上がっているらしいわ」
「おやおや。これまた昔も聞いたことがあるような事を」
僕が若い頃にも似たような話を聞いた事があったような気がする。
まあ、スカイランタンもだが、祭りの準備の期間は酔い易いものだ。
ふと、今朝の丸まった背の名も知らぬ青年が過ぎる。
あの青年もそうなのだろうか。
「ご先祖をお迎えしてお見送りするものだけれど。スカイランタンが並ぶ光景はロマンチックだものね。若い子たちがそわそわしてしまうのも分かるわ」
ココアに合うクッキーを皿に装い、作業台に置くと夫人は代わりに僕の分のココアも置いてくれた。
「シェロン夫人も十分お若いですよ」
「あら、嬉しい」
お互いに和やかに笑い合っていると、クッキーを手にした夫人の顔が曇った。
口に合わなかったのかと思ったら、夫人は「シャルル」と呟いたのが聞こえる。
……ああ、夫人も恋しいのか。
僕も心の隙間との関わり方を覚えるのに五年かかった。
シェロン夫人も心の隙間との対話が足らないのだろう。
「れっ、レイさん! スカイランタンの日ってお休みですか?」
廊下から小龍君の裏返った声がした。
レイさんの声は聞こえないが、二人は共にいるらしい。
はて、小龍君の心の内にまだレイさんは気づいていなかったような気がするのだが……。
まあ、例え相手が気づいていなくとも、共に居られるのならそれは本人にとって幸せなことだろう。
「眩しいわね〜」
「ええ。本当に」
フラットの青い春に当てられたのか、僕も急にマリアが恋しくなってしまった。
すっかり町もスカイランタン一色になったな。
町の中心から東に向かうにつれて、高貴な人々が増えていく。
島の貴族の為に用意された一区画。
その中の白い建物の扉を開くと、紫煙を燻らすオーナーがいた。
「お久しゅうございます。ミス・ミスティ」
「お久しぶり。クィン」
オーナーに礼をすると、彼女は妖艶に口角を上げた。
煙管をウエイターに任せ、仕事の顔になった彼女はトントンッとテーブルを叩くと人が音も無く消える。
僕が18の頃から全く変わらない美しい見目のマスターは、僕に席を勧めた。
「それで? もう二十年以上も前に独立した私にご用とは?」
「お前のそういう所は変わらないわね」
長居をする積もりが無い僕がさっさと用を問うと、オーナーは詰まらなさそうに息を吐く。
「……クィン、覚えているかしら? お前が担当した顧客の子爵夫妻についてよ」
僕が応対した方々の中でオーナーが仰る子爵夫妻、というのはもしや……。
「お店で大喧嘩された方ですか?」
「そう。あの子爵夫妻よ」
若かりし頃、夫人が新人のウエイターと少し言葉を交わされた。
要因はきっとそれだけでは無いのだろうが、お怒りになられた子爵は宥めに入られた夫人と言い争いになった。
ヒートアップしていくのを止めるべく、その間に入らされたのが若かりし頃の僕だ。
暫く宥めてから、僕が淹れたコーヒーでご夫妻は心を落ち着かれたのを覚えている。
「スカイランタンの日にお前にコーヒーを淹れて欲しいらしいのよ。覚えていると思うのだけれど、スカイランタンの日は店のテラスでディナー演奏会があるでしょう? 毎年、ご夫妻も来店下さるのだけれどね。前子爵がご病気だそうで、悪化する前にもう一度思い出の味を淹れて欲しいのですって。まあ、ご夫妻も無理にとは仰らなかったから、お前が決めなさい」
オーナーの厳しいチェックを受けて、頷かれた店員のみが作れたコーヒー。
それ故に生半可なコーヒーでは無かったものの、今と比べるとやはりまだまだだったと我が事ながら思う。
あのまだまだ未熟なコーヒーを大事にして下さっていたとは……。
実に光栄な事だ。
お受けしたい。
しかし、その日は……。
「まあ、直ぐに決めなくてもよいわ。もし、応じる気があるのなら、前日迄にクラインに言伝をさせなさい」
「承りましてございます」
オーナーに見送られ、フラットへ向かう道すがら、僕のカフェがあった道に呼ばれた気がした。
「まだ募集中なのか」
火事から建て直されて大分過ぎたというのに、僕のカフェがあった僕の元の家は買い手がいないらしい。
「おお! クィン! 久しいな!」
「おや、イーサンとハンス君。お久しぶり」
帽子を脱ぎにこりとすると、彼らも笑みを返した。
ハンス君はクラインと同郷らしいが、直ぐにイーサンが弟子にしてしまったから、実のところ彼についてはよく知らない。
クラインとは今もよく会っているらしいが、まあ彼らのことは今はいいか。
「珍しいな。この辺りに用か?」
「いや、散歩のようなものだよ。そういうイーサンたちは?」
古い友人のイーサンは、僕がこの辺りを居ることに気遣うような目を向けている。
こう見えてこの男は気遣いの人だからな。
無用な心配をさせてしまったらしい。
「お偉いさんとこからの帰りよ。今度のスカイランタンの件でな」
「それはそれは、お疲れさまです」
役所の人間ではなさそうだ。
きっと、貴族の邸宅に向かわされたに違いない。
多少の疲れの色を見せるイーサンに労いの言葉を贈ると、彼はひと好きする笑みを返した。
「また今度メシでも行こうや」
「ええ」
彼らと別れて、またフラットへの道を歩くと、向かいから怒声が聞こえてきた。
「エリクには分からないわよ!」
「アイリーン。僕は——」
今日も見かけることになろうとは……。
怒声を発した声が、バケツの水を放った日のそれと似ている気がする。
という事は、あの方がお相手なのだろうか。
菫のような色の髪が戦ぎ、杖をついて足早に去っていく彼女を追おうとして止めた青年。
「アイリーン。……あっ」
僕に気づいた青年が気まずそうに目を彷徨わせた。
此処まで会うとなると、最早何かあるのだろうな。
「どうも。宜しかったら、この老体と茶をしませんか?」
目を丸くした青年に僕は微笑んだ。
全く。
我が事もままならないというのに、つい手を差し伸べてしまうのは誰に似たのやら。




