プロローグという名の、Qの逢瀬の話
坂を下る途中、バケツの水が外の男にかかった所に出会した。
痴話喧嘩なのか、家の中から年若い女の怒声がする。
「話を……まっ……うぷ!」
耳を傾けてやる気が無いのか、其れ程に怒り狂っているのかは定かでは無いが水を滴らせた男が声をかけようとすると女は追加の水をお見舞いした。
かと思うと、バンッと朝の人気の少ない外に扉が閉まった音が響く。
「はぁ……」
扉を前に嘆息した男は僕に気づいたらしく気まずそうに目を彷徨わせたかと思うと、「ははっ」と首に手を当てて眉尻を下げて笑みを向けてきた。
「おはようございます」
「おはようございます。ははっ……」
帽子を脱ぎ声をかけると、彼は笑みを此方に向けるもののやはり力は無く、心は扉の向こうの誰かに向いているらしかった。
これ以上此処に居ては、気が荒い馬に遭いかねんな。
坂を下り、知り合いの花屋に立ち寄ると、看板娘である花屋の娘さんが此方に近寄ってきた。
「まあ、クィンさん。おはようございます。いつものですか?」
にこやかに話しかけてきた彼女に帽子を脱ぎ、頷く。
「おはようございます。ええ、いつもの花を頼みます」
「分かりました。少々お待ち下さいね」
パタパタと中へ小走りに向かう背を見つめながら、いつもより人が行き交う町の異変を見てはたと、思い出した。
「ああ。スカイランタン」
夏の真っ盛りの日にある、先祖の霊を迎え見送る祭事。
これは……フランクのことを言えなくなってしまったかも知れんな。
やれやれ、直ぐに出てこなくなるとはいよいよ考えねばならんのだろうか……。
「はい。クィンさん」
「ありがとうございます」
花束をそっと手渡してくれた彼女に礼を言い、お代を渡すと帽子を脱ぎ笑みを向けてからまた坂を上る。
「また来週」
背中から彼女の声がして、振り返りにこりとしてからまた進み始めた。
「おはようございます。マリア」
坂の上、フラットとは反対の丘の上にある霊園の海に面した一角の墓に花束をそっと置き、話しかける。
もう十年も前に旅立った妻。
週に一度のペースで花を手向に通う僕を、マリアはどう思っているのだろう……。
笑うだろうか。
それとも、呆れるのだろうか。
今やもうそれは分からないが、僕はただ、プロポーズのあの日マリアが僕に言ったあの言葉を体現するだけだ。
「いつもピシッと決めていてね——」
もう合っているのかすら分からないマリアの声。
だから今日も僕は夏だろうとスーツを着て過ごす。
あの日、褒めてくれた日からそうあろうと決めたから。
「マリア、聞いてくれるかい? 昨日も、エミリーが本土で住もうと言ってきてね。僕は、君のいるこの島から出る気は無いと何度も伝えているのにね」
暫く話しをしていると、夏の日差しの照り返しがきつくなってきた。
……これ以上は体力を削りそうだな。
「また会いにくるよ」
もう少し居たい思いを飲み込み、こんな事でマリアの所へ向かっては叱られてしまう。
フラットに辿り着くと、今朝の再現かと思う程にそのままの怒声がした。
「オノマトペで分かるのは貴方だけよ! バカ師匠!」
「わぁーッ! ごめんて! 冷たッ!」
但しバケツでは無く、無から発生した大量の水がフランクの顔面にかかった点だけが違うが……。
一月前からマナ使いになるべく協会に入ったレイさん。
しかし、彼女は近くにフランクが居たからか、師の派遣はされなかった。
レイさんとしては、アルーンさんを師事したかったらしいが、素気無く振られたらしい。
僕は詳しくは無いが、アルーンとフランクではランクという差があるのだそうだ。
そこを気にしたアルーンさんは、フランクを師事するように伝えたらしい。
アルーンさんも酷なことをする。
「おやおや、濡れ鼠ですね。フランク」
「あ、おかえない。クィンさん」
「クィンさ〜ん、聞いておくれよ〜」
明るい声で迎え入れてくれたレイさんに対し、フランクは涙声で此方に近づこうとしてきたから無視して中へ入る。
さて、今日の昼はパスタでも作ろうか。
「500イェンで先着二名、昼をお作りしますよ」
「やった〜!」
出会った頃と比べて無邪気に喜ぶようになったレイさんに微笑み、どうせ食べるだろうフランクの分も含めて具材の算段をする。
確か、大葉があったな。
ああ、冷製パスタにしよう。




