手を取った少女は前を向く
「おや。もう眠られたのかと思いましたよ」
茶葉をミルクパンに入れ、ミルクを注ぐ手を止めないままクィンさんが優しい声でそう声をかけた。
茶葉の香りやスパイスの香りが混ざり合う。
彼がそれをカップに注ぐと、私を手招きしてスツールを二つ並べた。
「さあ、どうぞ。昨日はあのままお開きになってしまいましたからね」
自分のカップを手にして、先に座った彼はさっと手のひらを傍のスツールに向ける。
「ありがとう存じます」
促されるままそのスツールに腰かけ、今朝の事を切り出そうと口を開くも、それよりも先に手で止められた。
「ご存知でしょうが、娘を育てた身ですからね。年頃の女の子というものの大変さも身を以て知っているつもりですよ。貴女が気にする事は一つもありません。大人になろうとする体の健全な反応ですから」
何処か父が子をあやすような、かんで含めるような彼の言葉に、私は此処で過ごすようになってから直面する自分の幼さをより自覚した。
「カノさんがいらっしゃるのが気になるのなら、港のホテルに泊まりますか? あすこは昔からの友人のホテルでしてね。客室なら、私がよく泊まる部屋を使ったら宜しい」
「そんな! 大丈夫ですから!」
気にならないとは言えないものの、春はウイミイの花の見所。
早くしないと直ぐにホテルは混み合うと友人が嘆いていたのを知っている。
私の都合でその貴重な一室を埋めてしまうのは忍びない。
しかし、彼はゆっくりと立ち上がると有無を言わさぬままマジカルフォンへ向かった。
「ちょっ、クィンさん?」
「シィー……」
唇に指を当て、ウィンクした彼は何処かへかける。
つい口を覆うも、今は防音がしっかりされていることを思い起こして、止めに走るも疾うに間に合わなかったらしい。
受話器を置いた彼は私の目と高さを合わせるようにしゃがみ、口を開く。
「貴女は嫌がるかもしれませんが、敢えてこう申しましょう。子どもは大人に気を遣ってはいけませんよ。さあ、今すぐに準備をなさい。迎えが来ますから」
私が嫌がる言葉よりも、その急な展開に目が回りそうになる。
しかし、彼の急かすように回れ右をさせられた事でそんな暇も無くなった。
人の少ない昼前のラウンジ。
クィンさんが泊まらせて下さったホテルは港から近い、友人がいつも泊まれなかったと嘆いていたところだった。
彼に知られたら問い詰められそうね……。
クィンさんとのコネクションを切望してきそうだわ。
「……あった」
ようやく借りてきたロサの法の、知りたい項目を見つけられた。
分厚く重いその本を流し読みしていると、音も無くウェイターの方がティーポットを手に近づいていた。
「お代わりはなされますか?」
「頂きます」
私の返事に彼は微笑み、丁寧な所作でお茶を淹れてくれる。
「その項目」
温かな湯気が上るティーカップを見つめていると、本を見たのかぽつりと彼がそう呟いた。
けれど直ぐに気を取り直したらしく、それ以上は話そうとはしない。
じっと彼を見つめると気まずそうにそっと目を逸らされた。
「申し訳ございません。覗き見ようした訳ではございませんので、どうかご寛大な処置を下さればと……」
それも長くは保たなかった彼は直ぐに手を胸に当て眉尻を下げる。
落ち着かないのか片方の白い手套をパンツに滑らせているのが目に入る。
ああ、じっと見てしまったから怒っていると思われたのね。
ケット・シーと人間の間に生まれた方なのかしら……?
それとも、私の知らない種族なのかも。
耳と尻尾を生やした、見た目は人間の彼に、眉尻を下げて見上げる。
「気にしておりませんわ。此方こそ気分を害してしまって申し訳なく思います。お許し下さいますか?」
「そんなッ! どうぞお気にさらないで下さい。元はと言えば、此方の落ち度ですので」
焦ったように首を振る彼に、私は微笑み改めて言葉にする。
「貴方もこの項目をお読みになられた事がお有りなのですか?」
「……この間入ったばかりの社員と支配人が読んでいたのを見かけまして、つい声に出してしまっておりました」
少しの間を置いてから、話をしてくれた彼は今にも消え入りそうな声でそう言うと、一礼して戻ろうとする。
「その社員の方は今何方に?」
それを止めるように、気づいたら私はそう問うていた。
プライバシーがあるからと頑なに口を割らなかった彼に頼み込み、ヒントを貰う事には上手くいった。
「ありがとうございました」
見送ってくれた彼の声を背に聞きながら、私は直ぐにヒントをもとに向かう事にした。
多分、会える気がする。
確信がある訳でも無いというのに、私は真っ直ぐにリネン室の方へ進んでいた。
すると丁度、話に聞いていた小麦のような髪色のくせ毛が大量のリネンカートから見え隠れするのが見える。
「もし」
「はいはーい?」
ホテルの従業員としては不適切な返事をした彼女がひょこっと顔を出した。
「少しお時間を頂けませんか?」
何と声をかけたら良いのか分からなかった私は思いつくままにそう話しかけると、彼女は瞬いてから二カッと朗らかに笑った。
「いいッスよ〜!」
その返事にホッとしたのも束の間、急に私の手を握った彼女がリネン室の中に引っ張ると、直ぐに扉を閉めた。
「聞かれたくない系ッスよね? 今なら先輩も入らないし、此処なら大丈夫ッスよ」
「その、貴女が後見人なしで此処に雇われて居ると聞いて、お話を伺いたかったの」
私の言葉に彼女は笑みを消す。
けれども、直ぐにまた人当たりの良い笑みを見せて頷いた。
「冷やかしっぽくは無いからいっかな。そうッスよ。支配人が全責任負うって事で表向きには18として雇って貰ってるッス。でもまあ、そんなの何処でもある話ッスよ? ウチが知ってるだけでも両手が埋まるくらいには未届で働いてる奴知ってるし。知りたいのってこういう事ッスか?」
あっけらかんと床に落ちていたリネンを片手にそう話しかけてきた彼女は余程私より大人びて見えた。
「参考になりましたわ。ありがとう存じます」
「そりゃ良かったッス!」
彼女はやはりあっさりと、朗らかに笑って見せた。
「クィン氏から宿泊費は頂きました」
にこやかにそう仰るカウンターの向こうのホテルマンの言葉に呆気に取られる。
あの日、本当にお迎えにいらした馬車に乗せられてあれよあれよと流されるままに二日も過ごしてしまった。
心なしか前よりも血色の良い肌になった気がする。
「あ、レイさん」
ドアマンの方に開けて頂いた扉の先に、小龍さんが待っていた。
ドアマンの方に礼を伝えてから彼の下へ向かうと、手にしていた鞄をさも当たり前のように手にする。
「あの? 小龍さん、返して下さりませんか?」
「フラットに着いたらお返ししますよ」
今は返す気がさらさら無いと言うかのように、ゆっくりとフラットへの道を歩む。
返せと言っても無駄のようね。
仕方なく彼を追うと、フェリーの汽笛が聞こえた。
「フランクさん、あのフェリーに乗っているらしいですよ」
「え?」
そう言えば、ホテルに泊まる日に彼は用事があると仰って夕方なのに向かわれたような……。
本土に用があったのね。
ふと、あの夫人が脳裏に過ぎる。
……あの方はお元気かしら。
坂から見える海は陽に当たってダイヤのように光っている。
「俺は先生もお連れするように言われてまして。戻ったらそのまま回れ右で今度は俺が本土に向かわないとならないから。レイさんにしてあげられる事なんて今のところこれしか無いです。すみません」
彼はそう口にして、私の鞄を肩にかけ直した。
「私はあれこれして欲しいなんて申してませんし、思ってもおりませんよ?」
「俺がしたいので」
彼は陽に照らされてにこりと笑むと、まだクローズの医院の扉を叩いた。
……私は、この人たちに返せるものがあるのかしら?
「おい、小僧。二日も本土に居たらしいな。お前の事だ。大層なあの肩書を使ってきたのは分かる。だが、借りは作ってなかろうな?」
戻ってきたフォーサイスさんが言葉に迷っていると、アルーンさんが口火を切った。
大層な肩書というのは、侍女の方が仰っていたあれかしら?
彼は、彼女の問いに頷き、鞄から二つの書類を手に取るとそれぞれをテーブルに置いた。
「勿論。貸し借りなしでちょっと申請書を作って貰ったよ。僕だって、本土の彼らに借りは作りたく無いからね」
片方にはラウルさんの、片方にはフォーサイスさんの名前がある後見人届という申請書。
州知事のサインや承認の判もされているそれを見て、これからの流れを大体察した。
私に何方かを選べと、そう仰るのね。
サインは今なら何方も此処に集っているから頂けるし、後見人がいらっしゃるならウヅキさんのお店の条件も満たせる。
この申請書は、如何やって手に入れたのかしら?
此処で過ごすようになってから見るフォーサイスさんは、大らかな方ではあるけれど、ああいう魑魅魍魎が跋扈するような世界には向いていない気がした。
ああ、また一面からしか見ていないのに決めつけてしまったわ。
反省しないと……。
「さて、レイちゃん。もう知ってしまった君は、もう一度僕らの口からミアのことを聞きたいかい?」
いつもらしからぬフォーサイスさんの大人びた、いえ大人ではあるのだけれども。
しっかりとした物言いに、ああ、やはり決めつけてはいけないなと心から思った。
彼の問いにアルーンサンの向こうのラウルさんが怒ったように牙を見せて、つい体が硬直する。
しかし、直ぐに先生に殴られたのか、キャインッと甲高い声がした。
悶えるラウルさんはお耳を垂れさせて、言葉にならない呻き声を上げる。
「先生……」
「駄犬を躾けただけだ」
人狼に対して言ってはならない言葉をそんなはっきりと仰るのはアルーンさんくらいじゃあないかしら。
そのまま彼女は踏ん反って、顎で先を促された。
その催促に急かされ、つい言葉遣いを忘れて返事をする。
「要らない。二度も聞きたくない」
自分の事ながら、随分と蚊の鳴くような声だと思いながら彼を見やると、フォーサイスさんは私が本当に分かっているのか知りたいらしく、丁寧に説明を始められた。
「君はあと二年。つまり、18になる迄大人に後見されないとならない。これはロサの法にも、君の故郷のカムリの法にもある。まあ、真面に守らない人の方が今は多いらしいから、それこそこの申請書も出さないでも良いのだけど。レイちゃんはウヅキさんの店での雇われるには要る申請書だ。ここ迄は大丈夫かな?」
彼の説明に、小さく頷く。
ホテルに宿泊していた際にその辺りの本を借りていたから知っている。
あのホテルにも、親族を失った同い年の方が支配人の采配で雇われているのだと仰っていた。
私が知らないだけで、意外と普通の事だと彼女はリネンを片手にあっけらかんとなさっていたのを覚えている。
フォーサイスさんは指を二つ、私の前に示した。
ああ、問われるのね。
体が硬まるものの、脳裏に過ぎるクラインさんが仰っていたご褒美で気を取り直す。
「君には二つ選べる道があると僕は思っている。一つ、このまま二年やり過ごす。但し、保障委員会からの毎月貰うお金で生活出来るようになるまでラウルの仕送りで生活することが条件だ。ウイミイ島にも一見真面に見えてその実、治安の悪い店はあるから、事件に巻き込まれない為にも守って貰うよ。二つ目、僕かラウルの何方かを後見人にして、自立する為にウヅキさんの店で雇って貰う。何方にせよ、保障委員会からは毎月それなりの額が貰えることは確定しているから、レイちゃんのしたい方を選べば良いと思うよ」
彼の示した二つの選択肢にアルーンさんも頷かれた。
「妥当だな。小僧にしては随分と真面なものを用意したものだ」
彼女が申請書を流し見しながら、ちらりと私を見たのが見えたけれど、気にしない。
真っ直ぐにフォーサイスさんを見てから、テーブルの木目を見つめた。
雛のように餌を与えられるまま、安全に過ごす事がこの人たちを安心させる、きっと好ましい道なのかも知れない。
後見人になって頂き、且つ大人しく二年を過ごす道。
少なくとも、ラウルさんからこの道を望まれそうな気がする。
ふと、何処か冷めた私の声がした気がした。
「あの人と同じになるかも知れないのに?」
あの人、ママのようになるかも知れない……。
それは望まないわ。
「大人の望むままの貴女と、貴女が自分を幼いと自覚するの。何方が嫌?」
そんなの、決まっているわよ。
ゆっくりと顔を上げて、フォーサイスさんを見つめる。
「後見人の方、選びたい……です」
私の返事に、あからさまにラウルさんはホッとしたように息を吐かれた。
急に居住まいを正されたアルーンさんが、じっと私を見るのに少し圧倒される。
「レイ。お前くらいなら後見人無しでも雇ってやる、と言ってもその返事は変わらないか?」
「おい、ハンナ」
話しを遮るようにラウルさんが身を乗り出して、それを彼女が無理やり座らせる形でその先を話させまいと防がれた。
「小僧の案は真面だが、もう少し選ぶ道があっても良かろう。丁度人手が足らんから、お前が手伝うというなら雇ってやる」
やっぱり、この方はお優しいのね。
ふっ、と肩の力が柔らぐ。
そして、ゆっくりと首を振った。
それもまた、同じになると思ったから。
「私はそれを選ぶと、多分……同じになる気がするから。そのお誘いも嬉しいですけど、私は自分で選んで生きたいです」
「分かった。だがな、お前はお前だ。……亡霊になぞ自分をくれてやるなよ、レイ」
私の返事に彼女はそれだけ仰ると居住まいを崩し、また踏ん反ってしまわれた。
亡霊……そうか。
もう、あの人たちの事を気にする必要は本当に無くなってしまったのね。
気にし過ぎて、囚われてしまう前にこの方は重しを下さったのだわ。
「はい」
そう思うと、色々な思いが溢れた。
この島で過ごした生誕祭の日、置き去りにしてしまったデニッシュ。
本当はしてはならないらしいと、双葉さんから聞いたそのマナが消えたそれは今もあの日のようにさくらんぼが美味しそうだ。
お店の方から頂いたお皿と同じ方のものらしいウイミイの花がハンドペイントされた皿に載せられたまま放置していたもの。
屑が皿やテーブルに落ちようとも気にしないまま、一口、また一口と咀嚼する。
「……ふふっ」
完食してやっと前に進めた気がした事が可笑しくて、つい笑ってしまった。
明日にでも、あのカードの裏にお店の道順でも書こうかしら?
「ねぇ、どう思う?」
「にゃあ」
私の足に擦り寄ってきたローマーに問うと、彼は一言そう言った。
26/06/23 シーン追加しました。




