第十章34 『いざってとき』
――実のところ、『愛し子』についてわかっていることは、もどかしいほど少ない。
『色欲』の大罪司教、カペラ・エメラダ・ルグニカ直属の集団であり、当人たちに魔女教に所属した意識はなく、あくまでカペラの配下という認識でいるらしい。今、ルグニカ王国各地で起きている『入れ替え人形』の実行犯とはまた異なる立場で、『愛し子』に数えられるのはカペラ配下でも選ばれた一部の存在だけなんだとか。
そして、その一部の『愛し子』に選ばれる条件というのが――、
「――他の誰にもない、特別な力があること。ママ……あの人は、それを子どもたちの『才能』だと言っていました。特別な自分には、特別な子が相応しいからって……」
「聞けば聞くほどカスの理論で、解釈一致すぎてビビるわ。で、『白羊』ちゃんの、『愛し子』がきてる、それも二人以上って根拠は?」
「起こっていることからの推測、です。わたしたちの心の抑えが利かなかったことと、音が消えたこと……これは、明らかに別々に起きていることですから」
「一人が複数の力を持ってる、マルチ能力者って線はないのか?」
「絶対にない、とまでは言い切れませんけど、『愛し子』が単独行動することの方がないと思います。――逃げないように、お互いを見張らされているので」
その疑問への回答にすら、カペラの醜悪さが塗りたくられていて胸が悪い。
だが、スバルもその可能性は低いだろうとセルフで考えていた。なにせ、複数の異能持ちと聞いて思いつくのが、ラインハルトや『暴食』の大罪司教ぐらいのものだ。どちらも規格外、それも善悪の極致みたいな存在で、ちらほらいる方が考えにくい。
能力は一人一個――加護や権能がそうであるように、いったんそう心しておく。
「そうなると、俺はなんなんだって疑問が自分の首を絞め始めるが、それはいい。『白羊』ちゃんは、きてる『愛し子』に心当たりはないのか?」
「ごめんなさい。実は『愛し子』同士でもほとんど面識はなくて……わたしも、すごく死ににくい体なのって自分で話していた、年上の女性くらいしか知らないんです」
「死ににくい……まぁ、それも異能っちゃ異能か。けど、現状のヒントには……そうだ!
『白羊』ちゃんも『愛し子』だったんなら、おんなじように一芸持ちなんじゃ」
「――っ」
もしかしたら、そこから打開策を――と考えたスバルの前で、『白羊』が息を呑んだ。彼女の丸い瞳が震え、頬が強張るのを見て、スバルは話題選択の失敗を察する。
彼女は、自分の異能の存在をよく思っていない。当然と言えば当然だ。その力が理由でカペラに執着され、今も望まぬ立場を強いられているのだから。
「あ、あの、『灰星』さん、わたしは……」
「いや、ごめん、言いたくないなら言わなくていい。――まだ、打てる手はある」
掠れた声に首を横に振り、スバルは背後、無音で潰れた通路を見やる。その瓦礫の向こうにいるはずのベアトリス、彼女たちとは離れてしまったが――、
「深呼吸……からの集中! ――『コル・レオニス』!」
吸った息を大きく吐いて、意識を胸に集中するスバルが『強欲』の権能――仲間の位置を特定し、その存在を知覚する『コル・レオニス』を発動する。理想は、はるか離れ離れのエミリアたちまで知覚できることだが、スバルの能力では高望み。
だから今は、クーゲルシュライバー城内の仲間の位置だけで勘弁してやる――、
「――ベア子と『黒狗』は、一緒にいる。一人で動いてるのがクルシュさんで、かなり遠くで二人でいるのがラッセルさんたちか。あとは……」
おおよその距離と動き、それと仲間の存在として感じ取れる光の色合いから、城内にいるベアトリスたちの位置関係と無事が確認できる。
そうして一人一人の安否確認と安堵を重ねていって――それを、見つける。
「――フェリス」
スバルたちとも、仲間の全員とも切り離され、一人だけポツンと遠ざけられた地点に、確かにフェリスの存在を感知した。弱々しく、か細い光ではあるが。
「いた、いたぞ! フェリスだ! あいつ、あいつ生きてる!」
「えっ、それはすごくいいことですけど、どうしてそれを『灰星』さんが……?」
「実は俺には仲間の位置を感じ取れるセンサー的な力があるんだ! それで、みんなの居所を確かめようとしたら、フェリスもいた。あいつ無事で……いや、無事かは怪しい。反応はかなり弱ってる。けど、生きてる。生きてるなら……合流できる!」
その見えた光明に、スバルは爪が掌に食い込むほど強く手を握りしめた。
『死に戻り』のリスタート地点、その時点でフェリスはスバルたちの列から無音の内に連れ去られていたのだ。最悪の場合、リスタート地点がすでに手遅れの可能性があった。
それが起こり得る可能性は常にある。そして、スバルはそれに耐えられない。
「けど、そうじゃねぇ。そうじゃねぇんだ……フェリスがいるのは……下の方? クソ、ベア子に城の地図を描いてもらうんだった! とにかく、今すぐ助けに――」
「落ち着いてください、『灰星』さんっ! わたしたちだけじゃ無理ですっ」
安否の危ぶまれるフェリスの反応に、今にも駆け出そうとしていたスバルを、両手を広げた『白羊』が遮った。彼女はつんのめるスバルを真っ直ぐ見据え、
「あなたが嘘をついていないのは信じます。でも、冷静になってください。『黒狗』も『翠麗』もいない状態で、わたしたちが敵と構えてもやられてしまうだけですっ」
「それは……ああ、クソ、正論だ! 頭に血が上って、また見えてなかった……!」
焦りで視野狭窄に陥ったスバルに、『白羊』が言葉の水を浴びせてくれた。それで視界は晴れたが、問題の大きさは変わらない。ただ、対処の順序が変わる。
「『白羊』ちゃん、戦える? 俺は小賢しさと、鞭を少々」
「わ、わたしは杖術と、魔法を少々ですっ」
「この手札で戦いは無謀か……なら、その場を動いてないベア子と『黒狗』の方に合流しよう。足の速いクルシュさんには追いつけそうにねぇ」
「――わかりました。その、『灰星』さんの力で、場所はわかるんですよね?」
「ああ、いこう! 道がわかるわけじゃないけど、こっちだ!」
集中を乱さず、『コル・レオニス』を維持しながら、『白羊』を先導して走り出す。
フェリスの安否は依然不安だが、今はこれが最善だと信じるしかない。速攻でベアトリスたちと合流し、『黒狗』を回復させ、フェリスの救出へ向かう。可能なら、クルシュやラッセルたちも拾い、全員で向かいたいところだ。
無論、大勢で固まれば、あの感情の『決壊』とでもいうべき現象に対抗できなくなる恐れがあるため、それが最善と言えるかは怪しくはあるが――、
「――?」
そう考えながら走っていたスバルは、不意の違和感に眉を寄せた。
見慣れない城の中、壊れた壁や床の抜けた通路を迂回し、スバルは感じているベアトリスたちの光に向かい、できるだけ最短経路を突っ走っているはずだ。もちろん、道中で敵と遭遇すれば最悪だと、警戒しながらの移動ではある。
あるのだが――、
「あの、『灰星』さん……言いにくいことがあるんですけど」
「……言わないでくれ。いや、やっぱり言ってくれ。俺も現実を直視したい」
おずおずと切り出した『白羊』に、スバルは苦い顔でそう注文する。
それを受け、『白羊』は辺りを見回しながら、その身をわずかに硬くして――、
「――ここ、さっきも一度通りました。わたしたち、同じところを巡っています」
「だよね! 明らかそうだと俺も思ってた。あの折れた柱、さっきも見たやつだ」
突き当たりのT字路を左に折れると、通路を壊された柱が潰している。似たような光景はいくつもあるが、間違いなく同じものだ。――何故なら、まっしぐらに向かっているはずの、ベアトリスとの距離が一向に縮まっていないのだ。
「まさか、音を消す『無音』と感情を上振れさせる『決壊』だけじゃなく、相手を『迷子』にするってか? 『愛し子』全員きてんじゃねぇだろうな……!」
勢い任せの発言だが、プリステラに大罪司教が勢揃いしたこともあったので、案外笑い話だと馬鹿にもできない。だが、万一そうだとしたら、あのときと比べて味方の戦力が貧弱すぎる。せめて、ラチンスはラインハルトとトレードさせてほしい。
「俺もガーフィールと取り替えるし、ユリウスとかロズワールも連れてこよう。いっそ、セッシーを助っ人枠で呼んでちゃぶ台返し……」
「い、『愛し子』総出で……はあまりないと思うんですけど、相手がここで決着を付けるつもりならわからないです。その、研究室に続く隠し扉のこともありますから、このお城の仕掛けで迷わされている可能性もゼロではないですけど……」
「もしそうなら、城のセキュリティの話より、思い出話を優先したベア子のフィルダースチョイス過ぎる。それに、二つ引っかかることがある。どっちもクルシュさんだ」
指を二本立てたスバルに、『白羊』が「『翠麗』さんが?」と目を瞬かせる。
迷いの廊下と聞いてスバルが最初に思い出すのは、かつてロズワール邸でベアトリスに仕掛けられた、無限にループする廊下の悪戯だ。あれは一種のまやかしだったわけだが、おそらく、クルシュの『龍の眼』なら一目で看破できたはず。
それに加え、『決壊』がもたらした不和で『黒狗』と衝突し、彼を斬り伏せたあと、クルシュはフェリスを探すと、元の進路を走っていった。――あれもおかしい。
「フェリスを探すんなら、道を戻るべきなんだ。あいつが『無音』でさらわれたのは、一番後ろを歩いてたから……現に、フェリスも地下の、そっちにいると、思う」
微妙に位置関係を把握しづらいが、フェリスの現在地は、城の奥に向かったスバルたちがいる位置より、入口寄りの地下だと、『コル・レオニス』は言っている。
クルシュだって、『決壊』で頭に血が上っていても、そのぐらいわかったはずだ。
「けど、前に走った。クルシュさんに違和感はなかったんだ。もし、今の俺たちにもそれと同じようなことが起きてるとしたら……」
目的地を目指しているつもりが、まるでそれに近付けない。――狂わされているのだ。距離感や方向感覚を。走っているつもりのレールの、隣のレールを走っている。
そのせいで、スバルたち――否、おそらく、仲間の誰も目的地に辿り着かない。
「……おいおい、これ地味にヤバいぞ」
起きた出来事から相手の能力を推測したが、一個一個はさほど脅威とは思えない能力なのに、使われる場面と掛け合いで、ここまで嫌がらせを追求できるものなのか。
さすが、カペラチルドレンだけあって、人の嫌がることをさせれば粒揃いだ。
「あ、『白羊』ちゃんは元だし、別ね、別。『黒狗』の奴は評価保留だけど……」
「――前提を、考え直した方がいいかもしれません」
「え?」
「このまま無闇に合流を目指していても、きっと辿り着けません。どこかで、こちらも打てる手を打たないと……『灰星』さんっ」
口元に手を当てて、考え込んでいた『白羊』がバッと顔を上げる。「はい!」とその勢いにスバルが驚くと、彼女は両手で城全体を示しながら、
「味方の居場所を感じるんですよね? 誰でもいいです。指差してみてください」
「――。わかった。向こうに、ベア子がいる。『黒狗』も」
何か考えがあるのかと、『白羊』の指示に従い、感じる光の方を指差した。その方向を確かめ、『白羊』は「わかりました」と頷くと、
「じゃあ、そっちに向かってみましょう。せーのっ」
「って、いきなり言われたら――ぁ?」
前触れなく『白羊』に急かされ、スバルは慌てて一歩を踏んだ。――今、指差しているベアトリスのいる方角と、反対側に向かって。
その、疑いようのない異常な自分の動きに、思わずゴクリと喉が鳴った。
「まさか、この調子で脳の配線が狂わされてんのか? だとしたら……」
「――いえ、今度は目をつぶってみてください。それで、『司書』さんの存在を感じている方に向かって、歩いてみて」
「――? 目を? けど、それで変わるとは……」
思えない、と考えつつ、目をつぶり、『コル・レオニス』に意識を集中。変わらず、『黒狗』の傍にいるベアトリスに、瞼の裏の暗闇から足を進め――、
「――やっぱり」
と、聞こえた『白羊』の声に目を開けて、スバルは自分の居場所を確かめる。
移動したのはほんの一歩、だがその一歩は、先ほどの誤った方に出た足と違い、ちゃんとベアトリスを感じている方に進み出したものだった。
「な、何が違った? もしかして、目から入ってくるタイプの幻惑……」
「たぶん、『灰星』さんの力の方が、今の『迷子』よりも出力が上になったんです。加護や魔眼、異能の力関係は、すごく厳しいので……」
「異能……そうか、『コル・レオニス』は権能だから」
能力同士の力関係で上回れるなら、権能が相手の力の効果を塗り潰せるのだ。
目をつぶり、『コル・レオニス』に百パーセント集中したなら、『迷子』によって目的地に辿り着けない障害は、突破できる――。
「大金星だ、『白羊』ちゃん! これならいける! よし、今度こそ俺についてこい!」
「あっ、待ってくださいっ! いけそうなんですけど……」
「いや、もうだいぶ時間もロスしてんだ! こっから挽回し――ぼのれのふっ!」
ついに見えた突破口に従い、目をつむってベアトリスの光を果敢に追いかけようとしたスバル、その体が硬い壁と真っ向から激突し、通路に派手にひっくり返る。
額と鼻を勢いよくぶつけた。ひっくり返ったとき、受け身も取り損ねた。
「がああ……しま、当たり前……壁も、柱も消えない……っ」
「ご、ごめんなさい、間に合いませんでしたっ」
「い、いや、君が悪いんじゃない。俺が悪い。俺の頭が。……けど、クソ、どうする」
せっかく『迷子』に惑わされない方法が見つかっても、ここが行き止まりや迂回路ばかりのボールペンキャッスルなのは変わらない。今の悲劇を繰り返さないためには、目をつぶったスバルが、おっかなびっくり壁や床を確かめながら進むしかないが――、
「後ろから、道の状態をわたしが案内して、少しは手伝えるかもしれませんけど……」
「それでも、もたもたすることに変わりはない、か。しかも、散々迷わされたせいで、ベア子たちとの距離が開いてる。そこまでいくのは……」
「――今、現実的とは言えない、ですか?」
スバルの辿る思考の結論に追いつき、そう尋ねる『白羊』に首を縦に振る。
目下、ベアトリスたちとの合流を急ぎたい事情に変わりはないが、見つかった手立てを使っても、合流するまでにかかる時間が読み切れない。
そして、そうしている間にも――、
「――クルシュさんの、動きが変わった。これ、戦ってる……!」
素早く、城内を移動していたクルシュが足を止め、その場所で走る以外の動きを取り始めた。感じられる光の変化と熱量に、スバルは彼女の戦いの気配を感じる。その上、誰と戦っているかまで、察しがついた。
何故なら――、
「そう遠くないのに、戦ってる音が聞こえねぇ」
クルシュの存在を感じる方に顔を向け、スバルは日本庭園がもたらす静寂じみた、静かすぎる空気をそちらから感じる。――間違いなく、クルシュは『無音』と戦っている。
知らず、スバルは自分の腹に手を当て、背後からそこを串刺しにした身幅の広い刃のことを思い出す。あれが、『無音』の得物であろうことは想像に難くない。
「――――」
瞬間、スバルの頭の中で二つの考えが火花を散らした。
クルシュが敵と戦っているなら、その場に駆け付けるべきだという真っ当な考え。
相手が『無音』であるなら、スバルたちの存在が足枷になるという屈辱的な考え。
「――『無音』が相手じゃ、こっちも連携の取りようがねぇ」
阿吽の呼吸で、言葉がなくとも連携を取り合える間柄なら話は別だが、生憎と、スバルとクルシュとの間にそこまでの関係値はなく、そもそも実力が釣り合っていない。
故に、迂闊な合流はそれ自体が利敵行為になる可能性がある。――それが、スバルにこの瞬間のクルシュとの合流を躊躇わせた。
そして、スバルにそう考えさせた理由がもう一つ――、
「――ここからなら、フェリスが近い」
そう、そうなのだ。『コル・レオニス』の反応を頼りに、目をつぶったスバルの案内で辿り着ける現実的な距離に、クルシュとフェリスの二人がいる。
クルシュは敵と交戦中、フェリスは敵に身柄を確保されたか、あるいは負傷して動けない状態で放置されているか。いずれにせよ、どちらも異なるピンチにある。
ただ、検討すべきことがあるとすれば、今、フェリスの傍には『無音』がいない。
『無音』がクルシュにかかり切りになっている今なら――、
「それに、フェリスがいれば味方の安全度が格段に上がる。『黒狗』と合流できれば、戦線復帰もすぐできるはずだ。だから……」
「だから、『青蛇』さんを助けにいくべきって意見なんですね」
スバルの理論武装を受け、『白羊』がその愛らしい顔立ちの唇を引き締め、思案する。
彼女の懸念はわかる。どうこう言っても、スバルと『白羊』は非戦闘員で、無茶をしてフェリスを助けても、非戦闘員が三人になるだけで、戦力アップには程遠い。たとえ『無音』が不在でも、敵は最低でも『決壊』と『迷子』が残っているのだ。結局、それらにどう対抗するか、手立てらしい手立ては見つかっていない。
リスクを避けるなら、時間をかけてでもベアトリスたちとの合流を目指すべきだ。
「――でも、リスクを一個も取らない道じゃ、欲しいものだって一個も取れねぇよ」
「『灰星』さん……」
「正直、かなり難しいことを頼んでる自覚はある。『白羊』ちゃんには『白羊』ちゃんで、『六枚舌』に入ってまでやらなきゃいけない目的があるってことも。きっと、失敗なんてできないことなんだよな? だけど……だけど!」
失敗を恐れ、足踏みをしていては、肝心の瞬間にさえ踏み出すことができなくなる。
それを、スバルは数え切れないほどの失敗の中で学び、そしてそのたびに、魂を引き裂かれるような後悔と無念に打ちのめされてきたのだ。
そんなスバルだからこそ、言える。――いざってときは、必ずくるのだと。
「ここで、俺たちの意地を見せよう。俺たちの大事な仲間に、顔向けできるように」
「――わたしは」
これが最善かはわからない。同じ鉄火場に、人を巻き込む価値のある選択かどうか。
ただ、ここで選ばなかったら、それこそ死ぬほど後悔しただろうことはわかる。
そして、そのスバルの言葉に、『白羊』は決意の表情で頷き返し――、
「わたしも、選びます。――わたしが、あの人に、顔向けできるように」
△▼△▼△▼△
――いつも、いつもいつも、いつもいつもいつも、思う。
どうして、自分はこんなに役立たずなのだろうか。どうして、自分はこんなに不甲斐ないのだろうか。どうして、自分はこんなに出来損ないなのだろうか。
どうしてと、自分を苛む声だけが消えない。――それも、自慰みたいなものだった。
「ホント、自分で自分がイヤになる……」
目が覚めて、自分の置かれた状況が理解できた途端に、恥で死にたくなった。もちろんそんな死に方はできない。どんな方法でも、簡単にこの命は奪えない。
それが、呪いたくなるくらい惨めな、フェリックス・アーガイルの特技だから。
「――ねえ、わたし、いつもいつも思っているのだけど、聞いてくれる?」
ふと、自分を呪っていると、そんな甲高い声が真正面から聞こえる。ちらと見れば、そこに立つのは黒い帽子を被り、黒いドレスを着た髪の長い女だ。
彼女は自分の顔の前に両手を合わせ、夢見るような瞳でフェリックスを見やり、
「右手と左手って、こうやって一生ピッタリ寄り添うために生まれてきた、運命の存在って感じがしないかしら? 右足と左足は違うの。だって、こうやってピタッとくっつくことがないでしょう? だから、足は愛し合ってない……でも、右手と左手は!」
「――――」
「いいえ、ちょっと待って? もっと細かく見たら、手だけじゃなく、指同士もピタッと重なるじゃない。親指も人差し指も中指も! 小指なんて! まだ小指なのに!」
何がそんなに楽しいのか、顔を赤らめた女がきゃあきゃあと身をよじっている。その態度がひどく癪に障って、水を差してやりたくなった。
「……生まれつき、片手がない人もいるよ。怪我で、手や指をなくす人だって」
「――――」
極論だが、そもそも先に終わっている極論をぶつけてきたのは女の方だ。
もしかしたら、相手の逆鱗に触れて痛い目を見るかもしれない。そうなっても、相手の気を引けるなら構わないくらいの、ヤケッパチな気持ちが少しあった。
しかし――、
「……それ、最高だわ」
女は怒るどころか、陶然と熱っぽい息を吐いて、フェリックスを見る瞳を潤ませた。そして、自分の両手を頭上に掲げると、その場でくるくる回り始め、
「だって、愛は障害が高いほど燃えるもの! 身分差とか! 種族違いとか! 年齢、性別、倫理、道徳、法律! 全部全部、愛を燃え上がらせるための起爆剤なの! そして、一番の障害って何なのか……ふふ、うふふっ、わ・か・る?」
「――――」
水を差したことを一瞬で後悔した。
掘り下げても碌なモノにぶつからない鉱脈だ。あるいは、毒しか湧かない泉を掘り当てたと言ったところか。――実際、毒という表現は大きく間違っていない。
「……あんた、ずっと私に何かしてるよネ。これ、なんなの?」
「何か……っていうのは腕のこと? だとしたらそれはわたしじゃなく、リボーンがやったのよ。本当に乱暴者なんだから。そんなリボーンには、おおらかでどっしり構えた年上や、逆に自分より手のかかる年下が似合うと思うの! どう!?」
「腕のことじゃないよ。私の、頭を弄ろうとしてること」
「ああ、そっち? ふふ、勘違いしないでちょうだい。それはあなただけにやってるわけじゃないわ。この城にいる人みんなに……あ! もしかして、自分だけ特別扱いされたかった? でももしそうなら、わたしを好きってこと? わたしも!」
夢見る瞳で愛を叫んだ女に、フェリックスはまともな会話の希望を放棄した。
そうでなくても、敵に手の内を明かす馬鹿はいない。事実として、フェリックスは自分の体に他者からの干渉と、それを自分の体が持続的に回復しているのを感じている。
フェリックスの肉体に巡らされた特別な術式は、その体の状態を常に最適な状態に保ち続ける魔法が持続発動するものだ。これでフェリックスは、自分の気付かない変調であろうと、肉体とオドの変化で異変に対応し、復帰できる。
今も、どうやら女に仕掛けてきている妙な力を、延々と癒し続けている状態だ。
ただし、この力にも欠点がある。――フェリックス自身の、肉体の脆弱さだ。
「――――」
くねくねしている女を無視した周囲、どうやらクーゲルシュライバー城の中には違いないが、見覚えのない空間だった。城や屋敷に付き物の踊り場のような場所に見えるが、高い壁には窓が一つもない。おそらく、地下だ。
その地下に、フェリックスは囚われの身だった。――その、頭の上に掲げられた両腕を、文字通りの串刺しにされ、壁に縫い留められる形で。
「悔しいけど、百点の仕留め方……」
前述の通り、フェリックスの肉体は常に万全の状態に回復し続けるが、さすがに体を刃物に貫かれた状態で、その刃物を何とかしないまま傷を治す方法はない。
そして、腕を串刺しにされて吊るされたフェリックスに、それを引き抜いて自由を得るだけの身体能力は備わっていなかった。
そのせいで、こんな見世物のような状態になり下がり続けるしかなくて――、
「そんな顔しないで、フェリックス。可愛い顔が台無しよ? それに、それにね? これはあなたにとっても悪い話じゃないと思うわ」
「は? なんで?」
「実は今、ここにすごく人がきづらい状態になっているの! みんな『遠回り』するしかなくて、途中でしょげる人も泣いちゃう人もいるはずよ。でもでも、そんな障害を越えてここに辿り着く人がいたとしたら……それって、あなたの運命の相手よ! この『薬指』のリコリスが保証してあげるわ! 燃え上がる愛が、あなたを包むの!」
付き合うつもりのなかった会話に反射的に返事をしたせいで、結局は無価値な妄言をダラダラと聞かされ、得たものは女――リコリスの名前くらいのものだ。
その上、リコリスが希望だと言ったものは、紛れもなくフェリックスの絶望だ。
「……騎士が人質なんて、最悪」
たとえ、騎士としての力量がなく、お飾りの称号であったとしても、守るべき立場の存在が、誰かの救いを待つ状態なんて悪夢でしかない。ましてやそれが、絶対に足を引っ張りたくない人の足を引っ張る結果になるなら、なおさら。
そして、フェリックスにとって、一番耐え難いのは――、
「――くるのがラインハルトとかなら、全然気になんないのにさ」
いっそ、死にそうな声で言いたいくらいだったのに、フェリックスの喉や舌は万全の状態で、そうはならない。そういう魔法にしたのは自分だから。
それを知ってか知らずか、相手は小さく「は」と息を抜くように笑い、
「見た感じよりずっとピンピンしてそうでホッとしたぜ、フェリス」
あえてかわざとか、あるいは気分でも昂揚しているのか、やたらと高く靴音を立てながら、ギラギラした目をした少年がまさに踊るように踊り場に現れていた。
広い空間の、一番奥の壁に縫い留められたフェリックスを、少年――ナツキ・スバルは地下の入口から見据え、吊られたこちらの足下に立つリコリスを睨む。
そして、鋭い目つきのまま、ビシッと彼女を指差して、
「ヒャッハー! やっと会えたな、『愛し子』! てめぇらの面を拝める日を、今か今かと待ち焦がれてたぜ!」
「――――」
目をカッと見開いて、威勢のいい声をひっくり返して啖呵を切るスバルに、フェリックスは眉を顰める。いつもの空元気にしても、少々行き過ぎている。
「……これ、そういうやつか」
今、スバルの身に起こっていることと、フェリックスの体が延々と治し続けているものとが同じ要因によるものなら、リコリスが何をしているのか察しがついた。
彼女はばら撒いているのだ。――空気中に、人を狂わせる『毒』を。
その、文字通りの毒婦ぶりを発揮するリコリスは、そのスバルの啖呵に恐れおののいたように自分の体を抱いて、
「やっぱり! わたしの思った通り! ナツキはフェリックスを愛していたのね! じゃなきゃトルネルの『遠回り』を越えてここまでこられないはずだもの! 思った通り期待した通り願った通り夢見た通り通り通り通り通り尊い――!!」
その場でパタパタと足踏みしながら、限界を超えた歓喜にリコリスが身悶えする。
それを初見のスバルは、ドン引きした様子を隠さずに鞭を構える。リコリス相手に、一戦交える覚悟のようだが――、
「……ベアトリスちゃんは?」
「ベア子とは別行動中だ! ベア子に限った話じゃねぇけどな! でも、安心しろ、お前は一人じゃねぇ! 俺もな! 頼もしい仲間がいる! まず鞭だ!」
「鞭! 何に使うつもりなの!? それも愛なの!? わたし、横で見ていていいかしら? それとも、わたしも一緒に? それって愛? 愛ならわたしもいいけど!」
「あと勇気! 土壇場じゃこいつが頼りになるんだ! あと、とっておきも――」
ある、と言いたかったのだろう。
スバルとリコリスとが一緒になって騒ぎ立てる悪夢めいた光景に、フェリックスはこれが現実なのか疑わしい気持ちにすらなっていた。
だからだ。――次の瞬間、起きた出来事に理解が追いつかなかったのは。
「――とっておきって、わたしのことですか? だとしたら、ごめんなさい」
ふっと、大声で喚いているスバルの背後に人影が現れ、その体に抱き着いた。――違う。抱き着いたように見えただけで、実態は違う。体ごとぶつかったのだ。
何故か。そうすると、外れないからだ。深く刺さるからだ。――両手で、腰溜めに構えた鋭いナイフが、スバルの脇腹の急所を上手に抉れるからだ。
「しろ、ひつじ、ちゃん……?」
自分の脇腹に突き立ったナイフと、それを握りしめた相手を見て、スバルがその名前を、呼び名を呼んだ。スバルもフェリックスも、彼女の名前を知らないから。
「ぶ」と、溢れ返る血を口からこぼし、スバルがその場に膝をつく。その、膝をつくスバルを、彼女――『白羊』は、見たことのない冷たい目で見下ろしながら、言った。
「――選びました。わたしも、わたしの望みを叶えるために」と。




