第十章35 『白羊』
ゴトンと、音を立ててスバルの頭が床に落ちる。
その、手加減のない頭の落ち方を見て、直感的に思った。――マズい、と。
「――――」
治療院でも任務で赴いた戦地でも、傷だって血だって嫌になるほど見てきた。だから、わかる。本当にマズい傷を負った人間は、自分を守る行動さえままならない。
今のスバルみたいに、頭を庇うこともできずに床に倒れるしかないのだ。
「――――っ」
じわじわと、スバルの右の脇腹に血が滲み、流れるそれが踊り場を浸していく。血を見ると、いつも思う。――まるで、命が流れ出しているみたいだと。
「ねえ、なんだかとても不思議だわ。赤と白って、すごくお似合いの取り合わせだし、いつ見ても惚れ惚れしちゃうって思うのだけど……今はそれより、あなた! あなた、どうしてそんなことしちゃったの? もしかして……嫉妬? それってつまり、愛!?」
同じ光景を見ていての感想なのか疑わしく思えるが、倒れたスバルから流れる血と床の白さに言及した上で、リコリスがその両手を彼女に――『白羊』に向ける。
スバルを後ろから刺し、ひどく冷めた顔をした『白羊』。彼女は血で汚れた指をハンカチで拭いながら、リコリスを静かに見つめ返すと、
「――――!」
「そうですね、愛です。結局、わたしたちの動機って全部それなんですよね」
「肯定!? ということは、やっぱりそうなのね! ナツキがフェリックスに夢中で、あなたはそれに耐えかねて彼を刺した! なんてことなの、悲劇だわ! 嫉妬に狂ったあなたと、愛を直視して泣き叫ぶフェリックス……わたし、どっちを応援すれば!」
『白羊』とリコリスの応答の温度差がすごい。だが、どちらにも肩入れしないフェリックスの内心は、リコリスの発言のおかしさに腹を立てていた。
フェリックスが泣き叫んでいるだなんて、物の見方が歪んでいるにも限度がある。
泣き叫んでなんていない。ただ――、
「――スバルくん! ダメ! 死ぬな! こっちに……こっちにこさせて!」
――ただずっと、治癒術師の端くれとして、死にゆく相手を呼んでいるだけだ。
「悲劇だわ」
体を揺すり、腕に力を込めて、スバルのところへいこうと悪戦苦闘する。でも、壁に留められたフェリックスの体は、そこからびくとも動こうとしない。
その間、リコリスは靴音を立てて踊り場の中央へ進み出る。――ちょうど、フェリックスと『白羊』の真ん中、そこで彼女は両手をその二人に向けて、
「片や、血を吐く思いで『遠回り』も乗り越えて追いかけられた相手。片や、そんな必死な背中を一番近くで縋るしかなかった相手。そんな罪なナツキは、あなたたち二人を残して逝ってしまう……これだわ!」
「――これ、というと?」
「愛は障害が高ければ高いほど燃えるものでしょう? 年齢や性別も愛を焚き付ける薪よね。でも、じゃあ一番の障害は? それは、し・べ・つ!」
「――――」
「死別! それが愛の最大の障害なの! だって死んだらおしまいだもの! 死んだ相手とは二度と触れ合えない。だから、死より二人を遠ざけるものなんてないでしょう? 裏を返せば、死は愛し合う二人の愛を極限まで高める薬なの! 死は媚薬!」
イカれている。恍惚とした笑みと瞳で語るリコリスは、頭がおかしかった。
その頭のおかしな愛情論に、『白羊』がどこまで賛同したかはわからない。ただ彼女は、リコリスの妄言を笑うでも貶めるでもなく――、
「――ママ、いつもありがとう。世界で一番愛してる」
それは何の脈絡もない、突然で、なおかつ意味の通らない発言だった。
少なくともフェリックスには、それも刺される前のスバル同様、リコリスがばら撒く『毒』が原因で起きた、『白羊』の精神の不均衡が理由かと思われたほどだ。
だが――、
「――――」
一瞬で血の気が引いて、顔を蒼白にしたリコリスには全く違って響いていた。
そんなリコリスの様子に、『白羊』の冷たい表情に変化が生じる。笑みだ。彼女は、その顔立ちに似合わない冷笑を浮かべ、
「――わたしは、ママに『六枚舌』に送り込まれた『愛し子』です」
「――ぁ」
「『六枚舌』の全容を把握して、敵を丸裸にするために潜入していたんです。でも、このままだと『愛し子』同士でぶつかり合いになりそうで、だから明かしました。――これは、手土産だと思ってください。意外と手強い人でしたよ。普通にしていたら」
「これ」と、そう言いながら血溜まりに伏すスバルの体を爪先で蹴る。そのぞんざいな態度の『白羊』に、硬直していたリコリスはゆっくり、大きく、息を吐いた。
それは、それまでの悪夢見る女の吐息ではなく、深い深い安堵のもので。
「ああ、ああ、そうなのね。あなたも『愛し子』……ママ本人じゃないのよね? それならよかった。ほら、ママってたまにやるでしょう? わたしたちと本音でわかり合いたいからって、わたし、一日で会う人が全部ママだったときがあったの! あのときのことを思い出して、心臓が凍るかと思ったわ。……ママじゃないのよね?」
「はい、わたしはわたしです。でも気持ちはわかりますよ。わたしも、食事が喉を通らないようなことを何度もされましたから」
「あなたも! わたしたちって同じね……だから打ち明けてくれたの? それって、運命ってこと? わたしのこと、失いたくないの? わたしも!」
和やかに話している二人の『愛し子』の足下で、哀れにも愛から見放された少年の血は流れ続け、少しずつ、しかし確実にその命を削っている。一秒ごとに、そのこぼれ落ちる命を拾える可能性が失われていく。
「なのに、何を悠長にしてるの、あんたたち……私も……っ」
憎い。腹が立つ。苛立たしい。こんな、血の砂時計を用意した『愛し子』たちも、それを何もできずに見ているしかない自分も――もっと言えば、ここにのこのこと突っ込んできて、まんまと裏切り者に刺されたスバルにだって、怒りは大きい。
このふた月、ずっとそうだった。ずっと、スバルに腹が立って仕方がなかった。
――どうしてスバルは、エミリアの傍を離れたのだ。
どうしてまた、一番傍にいるべき相手から離れ、クルシュの窮地に手を差し伸べようとしているのだ。それで主とも仲間とも離れ、今、血溜まりの中だ。本末転倒だ。
ナツキ・スバルの行動は、存在は、フェリックス・アーガイルの罪そのものだ。
弱さゆえに奪われ、その運命の埋め合わせを周囲に求めるしかないのなら、そこをスバルに補わせるそれは、全てがフェリックスの罪だった。――しかもフェリックスの罪は、いつだって自分ではなく、自分以外の誰かが支払うことになる。
「ふざけないでよ……」
かつて、フェリックスの生誕は、アーガイル家の家族を壊した――亜人の血の先祖返りで表れた獣の耳の特徴が、父に母の不貞を疑わせたからだ。
かつて、フェリックスの傲慢は、恩師に報いる機会を見過ごさせた。――この力を肯定した大恩ある恩師は、その判断を疑われ、思い余ったものに命を奪われた。
かつて、フェリックスの怠慢は、心から敬愛した親友を救えなかった。――『青』などと持て囃されながら、その名声に見合わぬ力量で主君の想い人を取りこぼした。
かつて、フェリックスの贖罪は、命より大事な主君に二度も届かなかった。――そして今も我が身の足りなさが、主君への三度目の裏切りを引き起こさんとしていた。
「そんなの、冗談じゃない……冗談じゃないよ……!」
体をひねる。腕は抜けない。肩に力を込める。腕は千切れない。壁を思い切り蹴る。腕は自由にならない。何一つ、望み通りにならない。まるで、フェリックスの人生だ。
「――っ」
矛先の定まらない怒りが、憎らしいくらい薄い自分の胸の内で暴れ回っている。体の万全は保てても、心の万全は保てない。むしろ、心が万全だったときなんてあるのか。いつだって情緒不安定で、脆い心でぎゃあぎゃあ騒いでいる自分。
そんなんだから、これまでみたいに、誰一人――、
「――ぁ」
また、罰を受ける。自分以外の誰かの人生を台無しにして。――その、フェリックスの人生に絡みつく宿命を呪い、歯を食いしばったときだった。
「――――」
血溜まりに伏し、顔を横に向けて倒れたスバルの黒瞳と、目が合った。
だらしなく手足を投げ出し、瞳の焦点はぼやけ、血泡まじりのか細い息を繰り返している顔は、紛れもなく死を目前とした人間のもので、フェリックスも幾度も見たものだ。
ただ一点だけ。死に囚われ、召されていくものたちとの違いが、ただ一点だけある。
召されていくものたちは、その瞳に悲嘆を、恐怖を、悔恨を宿して亡くなる。だが、スバルは違った。力なく、ぼやけた黒瞳に宿っていたのは、希望だ。
――それが、何に向けられた希望なのかわかった瞬間、フェリックスは理解する。
弱く、脆く、無力なナツキ・スバルの打った、恐ろしく愚かな他力本願を。
「ふざけないでよ……っ」
次にこぼれたそれは、矛先の定まらないさっきまでの怒りとは違う。向けるべき相手に真っ直ぐに向けた、ドロドロと、フェリックスの内にある呪いじみた怒りの結晶だ。
この期に及んで、ナツキ・スバルはフェリックス・アーガイルを信じている。――これは、その希望だけを根拠に実演された、あまりに馬鹿な一芝居なのだ。
△▼△▼△▼△
――それは、スバルと『白羊』が地下へ乗り込むより前へ遡る。
「わたしも、選びます。――わたしが、あの人に、顔向けできるように」
その『白羊』の決断を受け、スバルは自分たちが往くべき進路を地下に定めた。
ブレーキベタ踏みの安全策は避ける方針だが、それを無謀と直結させるつもりはない。『コル・レオニス』を頼ってフェリスの位置を探りつつ、道との補正を『白羊』の指示に任せ、焦らず、しかし出せる最高速度で、二人は目的地に迫った。
ただこのまま、何の手段もなく目的地に辿り着けても意味がない。
「そもそも、おかしくないか? 敵は、なんでフェリスを生かしてる?」
意識を権能に集中させながらの道中、スバルは手札の枚数を増やすのにも注力する。
多くの場合、使える手札はクズ札の中に眠っているものだ。そしてわざわざ集めようとしていなくても、クズ札は何気なく過ごした時間に大量に埋まっている。
この城を訪れてからに限った話ではない。このふた月の、暗中模索の日々の中にも。
「カペラの方針に従って、できるだけ殺さないようにしてる……ってのは、他ならぬ俺の命が可哀想だから却下として、考えつくのは二パターン」
一つは、フェリスの回復能力が敵の想像をはるかに超えていて、実は相手はトドメを刺したつもりで、瀕死の彼が地下に放置されているパターン。
そしてもう一つは――、
「――敵に、フェリスを生かしておきたい理由があるパターン」
「聞きたい情報があるとか、人質にする……ということですか?」
「それが一番ありえる話だ。ただ、俺の可哀想な経験値を踏まえると、一個、ものすごく嫌な理由が思いつく。――カペラが、フェリスとも養子縁組したがってる線だ」
『愛し子』たちは一芸特化の才能が集められていると聞かされたとき、まさにフェリスなどうってつけではないかとスバルは感じた。無論、カペラの歪んだ愛を分析しようなんて無謀な試みなので、あくまで現状からの推測でしかないが。
「……それ、あるかもしれません。ううん、一番納得のいくお話かも」
「『白羊』ちゃんもありそうって思うんなら心強い。正直、クソみたいな発想……って思ったら、捕まえた相手を自分のとこの子にするって俺もやっててビビったわ」
「え? ええ? えええっ?」
我が身を省みるスバルに『白羊』が仰天したが、細かい説明はノイズなので省く。
言うまでもなくメィリィのことだが、カペラとは教育観に決定的な違いがあると主張したい。――他にも、メィリィとはこの件で話したいことがあるのだが、今は後回しだ。
「なんにせよ、この可能性が当たってた場合、変な話、フェリスが命を取られる心配はしなくて済むかもしれない。ただその場合でも、フェリスとの合流を俺は推す」
「……理由を、聞かせてもらえますか?」
「二個ある。一個は、走り出す前と同じで、フェリスがいれば生存率がダンチだから。二個目は、敵の能力の問題。一番ヤバい『迷子』を何とかしたい」
小さく息を呑む『白羊』に頷き、スバルは手で壁を辿りながら足を進める。
現状、クーゲルシュライバー城に現れた『愛し子』でわかっているのは、『無音』と『決壊』と『迷子』の三者だが、スバルは最後の一つが最も難敵だと考えていた。無論、『無音』のアサシン性能と、『決壊』の厄介さは言うまでもないのだが。
「今やり合えてるなら、『無音』はクルシュさんに対抗手段がある。それと『決壊』の方は俺が何とかする方法が思いついてる。けど、『迷子』は別だ。これがある限り、俺たちはいつまで経っても味方と合流できない」
今、スバルがフェリスとの合流を試みられるのは、『コル・レオニス』の効果と、彼がその場を動かないという二つの条件がクリアされているからだ。『迷子』の最も恐ろしいところは、相手が動き出した途端、合流の難易度が跳ね上がること。
「だから、『迷子』だけは解除させなきゃならねぇ。そのためにフェリスの……」
「ま、待ってくださいっ、わたし、置いてけぼりにされてますっ。あの感情があたふたする異能を、どうにかできるんですか!?」
「ああ、できる、と思う。百パーとは言えないし、カス野郎のレグルスの力を借りるみたいで腹立つけど、『迷子』より権能の方が上ってところで裏付けは取れてる」
声を失い、『白羊』がまじまじと自分を見ているのを感じ、スバルは瞼を開けた。検討している間に、フェリスのいる場所は目前、ここいらで話をする必要がある。
スバルの思いついたこの作戦には、『白羊』の協力が必要不可欠なのだから。
「――『白羊』ちゃん、一個聞いてもらいたい策がある。やれるかどうか、『白羊』ちゃん次第の作戦だから、意見が聞きたい」
「作戦、ですか? それも、わたし次第って……」
「わかってる通り、この先に敵がいた場合、俺たち二人で真っ向からどうにかできるかはかなり怪しい。だから、ここは悪賢く、騙し討ちを仕掛けたい」
「騙し討ち……」と口にし、足を止めたスバルに並んだ『白羊』がその先を促す。
「聞かせてください。わたしに、何をさせたいんですか?」
「ズバリ、『白羊』ちゃんはカペラが送り込んだ『六枚舌』へのスパイ。で、こそこそ反撃しようとしてた俺を捕まえて、『愛し子』に合流する……ってシナリオとか」
「――っ、それは」
「言ってたろ? 『愛し子』同士の面識はほとんどないって。でも、『白羊』ちゃんは実際に『愛し子』だった過去があるわけで、連中と共通の話題を持ってる。そこに、俺って手土産があったら、真っ向勝負より目はありそうじゃないか?」
よほど予想外だったのだろう。『白羊』が両手で口を塞ぎ、目をまん丸に見開いた。もちろん、口で言うほど容易い手段ではないし、相手も馬鹿正直に信じはしまい。
ただこのふた月の『愛し子』戦線で、敵が思った以上に情報を共有せず、与えられた職能と職権の範囲で、カペラに応えようと奮戦する様を幾度も見てきた。
トップであるカペラの独裁と、躾を目的とした味方同士の連携の不徹底、さらに恐怖で縛り上げた偽りの忠誠心には、付け入る隙があるのではとスバルは踏む。
ただしこれには、当事者の『白羊』にその恐怖と再び向き合う覚悟がいる。
「勝算は……あると、思います。たぶん、『灰星』さんが知らない理由で、思っている以上にうまくやれるかもしれません」
「マジか。知らない理由ってのが気になるけど、それがプラス要素なら大歓迎だ」
「でも、最初のところで躓くかもしれません。『灰星』さんを連れていっても、それで信用してもらえるかは……」
「――なら、信じるしかないシチュエーションが用意できたら、どうだ?」
予想された『白羊』の反論、それにはスバルも同感だ。たとえ『白羊』がスバルを後ろ手に縛って連れていっても、苦し紛れの勝負に出たと勘付かれる可能性が高い。
だから、提案は二段構えで用意していた。ただし、『白羊』の負担が大きい案だ。
何故なら――、
「……『白羊』ちゃん、武器って何か持ってる?」
「武器……? 杖術用の伸び縮みする杖と、一応、短刀が。使いますか?」
「ああ、使ってもらう。……インパクト的に、ナイフの方だよな……」
懐に忍ばせた二種類の武器、警棒のような長さの杖と、サバイバルナイフのような形状の短刀を見せられ、スバルは目的に適うのは後者だろうと考える。
そして、こちらの苦い顔に困惑する『白羊』に、告げた。
「――『愛し子』と出くわしたら、そのナイフで俺を刺すんだ。そこまでやったら、さすがに相当説得力を上乗せできるんじゃないか?」
△▼△▼△▼△
「説得力が足りないなら、説得力を足す。俺をボコボコの半殺しにしていくってパターンも考えたけど、それじゃトッドは騙せねぇ。用心深くて疑り深い奴って意味ね」
「――――」
「敵を甘めに見積もって、半端な真似をしたんじゃ成果は引き寄せられない。やるなら一点本気賭け、全力投球だ」
「ま、待って……」
「俺も、一世一代の、迫真の演技でやられてみせる。ただ、間違いなく負担は『白羊』ちゃんの方が大きいから、やれるかどうかは――」
「――待ってくださいっ」
早口に、ワーッと作戦概要を伝える口が、その叫び声に閉ざされた。
声を大きくした『白羊』は、口に当てていた手を己の胸に当てて、その拍動を掌で確かめながら、涙で潤んだ目をスバルに向けている。――やはり、無茶が過ぎた。
元々、『白羊』が争い事を嫌う、優しい心の持ち主であるとはわかっていた。いくら作戦とはいえ、その彼女にスバルを刺せなんて、あまりに酷な――、
「……それは、あなたの本心じゃないんです、スバルさん」
「……『白羊』ちゃん?」
「そんな、自分の身を危うくしてまで、わたしがうまくやれる可能性を上げようなんて、そんなの、あなたの本心じゃありません。……わたしが、言わせたことなんです」
ぎゅっと、服の胸元を握りしめ、『白羊』が細い肩を縮めて声を震わせる。
だが、スバルには彼女の言葉の意味がわからない。自分が言わせたと言われても、心当たりがなかった。今の策を思いついたのは、紛れもなくスバルだ。
ただ、弱々しく小さくなる彼女を落ち着かせようと、その肩に手を伸ばし、
「君が何を言ってるのかよくわからない。もしかしたら、ショックで混乱して――」
「――っ、触っちゃいけませんっ」
「――ッ」と、触れようとした手を払われ、スバルは思わず息を呑んだ。一瞬、『白羊』も自分の過剰反応に頬を硬くしたが、彼女はすぐに唇を引き結ぶと、
「わたしに、触らないでください。触ったら、きっと、スバルさんはもっと……」
「もっと? もっとなんだ。『白羊』ちゃん、わからねぇよ。今、俺たちにはもたもたしてる時間なんてないんだ。頼むから、はっきり言ってくれ!」
「もっと、わたしの言いなりになりますっ! それがわたしの力なんですっ!」
声を張ったスバルに、それ以上の声を張った『白羊』が自分の両手を見せる。細く、しなやかな指を携えた左右の手、それをスバルにハッキリ見せながら――、
「わたしの力は『人誑し』……この手で触った人に、わたしへの好意を抱かせる力です。わたしに好意を持った人は、わたしのお願いを断れなくなる……」
「『白羊』ちゃんの、お願い……」
「思い当たる節がありませんか? わたしに手を握られて話されると、何となく、わたしの言ってることが正しいように感じて、賛成してしまっていたこと」
そう言われ、スバルは目を伏せて、『白羊』と出会ってからのふた月を思い出す。
確かに何度か、そういう場面はあったかもしれない。判断に困ったときや迷ったとき、『白羊』に触れられ、彼女の口にする案に乗っかった場面が、何度か。
「でもそれは……」
「――わたし、この力、好きじゃない。嫌いなんです。そこにいる人たちを全部踏み躙って、わたしのために利用してるってそう思うから」
「――――」
「だから、普段はできるだけ、スバルさんやベアトリスさんに近付かないでいました。うっかり触ることがないように、気を付けて……」
その健気な努力は事実だろう。彼女はできる範囲で、他者との物理的な接触を避けていた。そして、それでも稀に、スバルの手を握るようなことがあったときは――、
「ラッセルさんの指示、か。『白羊』ちゃんが元『愛し子』ってだけじゃなく、その力もあるからメチャメチャ重宝してたと。言われてみれば納得だ」
道理であのラッセルが、明らかに性格的に向いていない『白羊』を、『六枚舌』との戦いの主戦力の一人に数えているわけだ。言うなれば彼女は、色仕掛けを必要としない、成功率抜群のハニートラップの使い手なのだ。
「それで今の作戦も、俺が『白羊』ちゃんに誑かされた結果だと」
「――。はい」
神妙に、そう頷いた『白羊』は、己の罪を悔い、それを告白した咎人の様相だ。
事実、彼女の心情的にはそうなのだろう。生まれ持った力で他者の好意を引き出し、自分の都合のいい結果を招き寄せる。そんな、悪徳の限りを尽くした自覚に苛まれている。
それがここにきて、スバルが自分を傷付ける作戦を提案したことで、その抱えていた罪悪感が爆発した。感情を抑え切れない、『決壊』の影響も少なからずあるだろうか。
それなら、きっとスバルにも『決壊』の影響があるのだろう。――でなければ、『白羊』相手に絶対に、スバルはこんなことを言わないのだから。
「『白羊』ちゃん」
「ごめんなさい、でも考え直してください。あんな、あんな無謀な作戦ダメです。わたしは無事なのに、自分は死ぬかもしれない作戦なんて……」
「――俺、めちゃめちゃ好きな子いるから、『白羊』ちゃんのためには死なないよ」
「――。――――。――――――え」
そのスバルの告白に、咎人顔でいた『白羊』が呆気に取られ、目を見張った。そして、反論できない彼女には悪いが、時間が惜しい。この隙に続ける。
『白羊』の、その勘違いを正さなくてはならない。
「そりゃ『白羊』ちゃんも相当な美少女だけど、俺の中でその子は一番星……輝きが違って見えるんだよね。だから、俺は君に誑かされてない」
「――――」
「それと、勘違いがもう一個……っていうか、これは俺の説明が悪いんだけど、この作戦をやれるかどうかは『白羊』ちゃん次第って言ったよね。でも、この作戦で俺が当てにしてるのは『白羊』ちゃんじゃないんだ」
「じ、じゃあ、誰を……?」
無用な心労を『白羊』にかけてしまったと、スバルは心から反省する。彼女には悪いことをした。――そもそも、スバルと『白羊』とではリスクの前提条件が違った。
『白羊』はこの作戦を、スバルが死ぬかもしれないリスクがあると考えた。
でも、スバルは違う。この作戦は、スバルが死ぬほど痛い思いをするかもしれないが、死なない作戦なのだ。
だって――、
「――フェリスだよ。俺はあいつを当てにしてる」
「あ……」
「あいつは言ったんだよ。自分の目の前なら、死にたい奴でも死なせないって。だからこの作戦は、あいつの目の前でしか成立しない作戦なんだ」
その代わり、事を起こすのがフェリスの前ならば、彼は意地にかけて口約束を守る。
ベアトリスに何かあったときのため、たったふた月で、精霊さえ救えるように治癒魔法の原理を書き換える。そんな、彼の優しい強さにリスペクトがあるから。
ラインハルトやユリウスを当てにするのと同じ他力本願を、フェリスに望む。――それがこの、『ナツキ・スバル偽装殺人事件』の核なのだ。
「それと、誑かされてないって言ったばっかだけど、仲良くはなってると思う。でもそれは君の力だけが理由じゃなくて、しんどいとき声かけてくれたり、休憩時間に率先してお茶を淹れてくれたり、あと俺がちょろいからだよ」
「スバル、さん……」
「俺は君に、ズルして騙されたなんて思わない。仲間同士、助け合おうぜ。いきなり俺が目の前で刺されるフェリスより、ずっとマシな提案でしょ?」
そう言って、スバルはあえて右手を差し出し、『白羊』を握手に誘った。その差し出された手を見下ろしながら、『白羊』はぐっと息を呑む。
「……わたし、人の優しさ、信じられないんです。今のスバルさんの言葉も、結局、わたしの力が言わせたんじゃないかって、そう思ってしまって。だからあの人とも」
「――――」
「でも……でも、今日は、信じてみます。ちゃんと、わたしでない誰かを、わたしより信じられるって、そう言ってくれるあなたのことを」
おずおずと、伸びてくる手がスバルの手に触れ、それがしっかりと握られる。交わされた握手は、触れた相手の心を操ることを恐れた彼女が、勇気の一歩を踏んだ証。
そして、その踏み出した勇気の使い道に、スバルを刺すのだ。
「なんて結論だって感じだが、やれそうか? 『白羊』ちゃん」
「メルティです」
「え?」
「――メルティ・プリスティス。それが、わたしの名前です」
目を丸くしたスバルに、『白羊』――否、メルティ・プリスティスが唇を緩める。
それは心に臆病を宿しながらも、振り絞った勇気で抗うことを決めた少女の顔だ。そんな微笑みと名乗りでスバルを驚かせ、彼女は握手した手に力を込めると、
「わたし、お友達ができたのも、お友達を刺すのも、これが初めてですっ」
それはそれは、勇ましい友人の宣言だった。
それを受け、『ナツキ・スバル偽装殺人事件』は決行されることになり――、
△▼△▼△▼△
「――が、ぁ、ぐ」
かくして、騙し討ちのために本当に刺されたスバルは、瀕死の状態に陥っていた。
かろうじて、右の脇腹を指定することで失血死のリスクを下げたが、微々たる差だ。全身に力が入らず、身動きも取れない。血溜まりに伏して、自分の血で溺死しそうだ。
だが、死ねない。死んだら、スバルを信じて作戦を決行した『白羊』――否、メルティに対して、死んでも贖えない不義理を働くことになる。
「だから、死ぬな、っての……ッ」
全身全霊で、体から離れかける命を引き止め、浅い呼吸を繰り返しながら、ナイフの刺さった脇腹だけでなく、痛む全身を引きつらせ、もう一つの役目を果たす。
刺されて倒れる手土産の役目と――『決壊』の被害を、抑え込む役目だ。
「こる、れおに、す……」
掠れた呟きと共に、『強欲』の権能――『コル・レオニス』が再び酷使される。
使うのに技名はいらないのだが、今は少しでも頭を働かせたい。気を抜くと、次の瞬間には意識が吹っ飛んで死にそうだ。酷使の苦しみでも、今は変化がありがたい。
その変化の中に、スバルはクーゲルシュライバー城に散り散りの仲間の存在を感じる。その一個一個が、今のスバルを繋ぎ止める原動力だが、『コル・レオニス』を発動した狙いの本命は、仲間の位置特定ではない。――『小さな王』の、復権だ。
そしてそれが為されたとき、スバルの身に『二人分』の感情の『決壊』が訪れる。
「うぎ、ぐ、う、ぁぁ……あんまり、だぁぁ……っ」
凄まじく強烈な感情の大波、大嵐、それによる心の堤防の『決壊』が、死に瀕したスバルに泣き言を言わせ、血溜まりに涙と鼻水をトッピング――汚い三分クッキングだ。強烈で猛烈な感覚に襲われ、それがこれまでの城内のどこにいたよりも強く強く感じられることから、『決壊』の原因がこのカプ厨お化け女だとよくわかる。わかる。
「――選びました。わたしも、わたしの望みを叶えるために」
そう言って、スバルの脇腹を刺したメルティの演技は怪演だった。アカデミー女優候補筆頭間違いなしだ。さすが、『愛し子』を抜ける度胸のある女は一味違う。
そして彼女は期待通り、まんまと、この場を支配するカプ厨お化けに歩み寄り――、
「わたし、メルティです。あなたのお名前、聞かせてもらえますか?」
「名前? わたしの名前はリコリスよ。『薬指』って呼ばれてるの。でも大変! こうやって名乗り合ったってことは、わたしたちの物語が始まってる……え、好きかも。わたし、メルティのこと、好きかもしれないわ!」
「かもなんて、寂しいこと言わないでください。家族じゃないですか」
そう拗ねた口調で言って、メルティの持ち上がった手がカプ厨――リコリスの頬にそっと添えられる。途端、「あ」と頬を紅潮させ、リコリスの瞳が熱に潤んだ。
メルティの力が自己申告通りのものだとしたら、開き直った彼女の行為――スバルの思っている以上にうまくやれると、そう語っていた本領が遺憾なく発揮される。
「リコリス、ここにはママの命令で?」
「いいえ、ダンドンに言われたの。ううん、厳密にはダンドンは待てって言ったわ。でもそれをリボーンが無視して……きっとリボーンはダンドンの気が引きたいのね!」
「リコリス、どうやってここのことを?」
「『執行者』から報告があったらしいわ。なんでわかったのか詳しい事情は知らないけれど、それも謎めいていて素敵よね。彼の瞳は誰を見ているの……わたし?」
「リコリス、あなた以外には誰が一緒なんです?」
「リボーンとトルネルよ。本当はリボーンはトルネルだけ連れていこうとしていたんだけど、二人で逢引きなんて見逃せないでしょう? だから無理やりついてきたの。わたしの『薬指』なら誰とでも相性がいいから……あ、尻軽なんて思わないで! ただ、愛をたくさん配りたいし、配り合ってるところも見たいだけなの……!」
自分からメルティの手を取って、縋るように訴えるリコリス――その口からとめどなく流れ出したのは、この城に乗り込んだ『愛し子』たちの語られざる事情だ。
もちろん、元々のリコリスが迂闊なのもあるだろう。
だが、それ以上に彼女の口を滑らかにさせたのは、最初から味方と思わせた状態で振るわれる『人誑し』の猛威――たぶん、浮気とか絶対にできない。すぐにバレる。自白させられる。
紛れもなく、メルティ・プリスティスが『愛し子』の一人だったことの証左であった。
「――――」
ちらと一瞬、メルティの視線が地べたに倒れたスバルと交錯する。
頷くこともサムズアップも、目配せすることさえほぼ無理だが、彼女の力の確かさは見届けた。スバルも、その『決壊』の負担を引き取っている甲斐がある。
あとは――、
「リコリス、実はわたしともう一人、『愛し子』がいるんです。でも、城の中で迷子になってしまって合流できなくて困っていて」
「え! それって、会いたい相手と会えないってこと? そんな悲劇だわ……そうしてすれ違い続けてる方が、愛は大きく育つってわたしは思うけど……」
「――でも、それじゃママを困らせてしまいます」
「――――」
それがどれだけ劇的な効果があったとしても、そのとき、リコリスの横顔に浮かんだ怯えと恐怖を歓迎する気には、きっと一生なれなかっただろう。
「トルネル! 『遠回り』を解いてあげて! 会えない二人が可哀想だわ!」
声の震えを隠し切れないままに、リコリスが地下に響き渡る声でそう叫んだ。――それを切っ掛けに、一度だけ、カチッという音と共に青い光が地下に広がった。
それはスバルを、メルティとリコリスを、壁のフェリスをなぞり、さらにその外側へ、おそらくは城の全体へと広がっていく。
そして、その光が薄れ、余韻が遠ざかるのに合わせ、直感的に理解する。
「はい! これで『遠回り』は解けたわ。ちゃんと会いたい相手と会えるはず。でも、よければ再会はわたしの前でしてほしいの。すごく燃えるから!」
その直感を裏付けるように、メルティの手に頬擦りするリコリスが断言する。
それで、『ナツキ・スバル偽装殺人事件』の目的は一つクリアされた。『遠回り』が解除されたなら、これで、はぐれた、みんな、も、ぶじ、に――ぃ。
「――死ぬな、馬鹿!! 何考えてんの、ふざけないでよ!!」
――瞬間、死にかけの意識の首根っこを掴まれ、無理やり現実に引き戻された。
「――ぁ」
「馬鹿! 今、死ぬとこだったでしょ! 信じられない、信じられない信じられない! どうしてそんな馬鹿やるの! どうして……っ」
涙声が聞こえる。なんでどうしてと、そう嘆いて、叫んでいる声が。
泣かせたままにしていいわけがない。そのために、命をギリギリに繋ぎ止めて。
「――――」
――応じる代わりに、視界の隅で、天井に無数の切れ目が走り、斬り開かれた白い天蓋の向こうから、地下へと飛び込んでくる影があった。――無音で。




