第十章33 『右往左往のトリプルアクセルで、全自動洗濯機のすすぎが止まらない』
――ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると。
――視界は回り、世界は回り、意識は回る。
「――ル」
――ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると。
――全ては回り、あらゆるものが回り、何もかもが回る。
「――ル!」
――ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると。
――終わりなく回り、果てしなく回り、とめどなく回る。
「――バル!」
――ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるるるる。
「――スバル!!」
回り続ける意識、回り続ける何もかも、回り続けるとめどなくの中に、回っていない不純物が混ざり込んだ。
それが、決死の呼びかけと、必死の揺さぶりと、涙ぐんだ愛らしい顔であることが、回り続ける世界の、回り続けるあらゆるものの、回り続ける果てしなさの奥でわかる。
回り続ける視界で、回り続ける全てが、回り続ける終わりのない回転運動に、いつの間にか歪を生んでくれていたことも。
「しっかりするかしら! スバル!」
ピシピシと頬を叩かれ、肩を揺すられ、起きていた全部が刷新される。
ずっと、ずっと、渇きながら、飢えながら、回り続けるだけだった。それがようやく中断され、『ルバス・キツナ』は、『ツキバ・ルスナ』? 『スツバ・ルキナ』? 『ルツス・キナバ』? 『バキツ・ルスナ』――バルスは、舞い戻った。
見事! 回り続ける空間から! 舞い戻ったのだ!
「は、『灰星』さんっ! 落ち着いてくださいっ! 舌を噛まないでっ!」
「どうしたこうした! いきなり突然なんで狂った? くははは、何かの冗談か?」
「これが冗談であるものか! 『黒狗』、卿も手を貸せ! 腕を押さえろ!」
なんだか回りが騒がしいが、回りくどいことはなしでいこう。バルスはとても元気で溌溂としているので、回りが狼狽えようと目を回したりしないのである。
うはははは、回りを見れば、このバルスの身の回りをぐるりと囲むように、懸命な顔をした回りの人たちの姿が見える。回る。回らない。回ってないってば!
「ナツキ・スバル、手の力を抜け。このままではベアトリスの手が……」
「ベティーは何ともないのよ! このくらい、痛くも何ともないかしら! これは、スバルがベティーに助けを求めてる証拠なのよ……!」
「これのどれが助けを求めてる顔だ? 嬉しそう! でもゲロびしゃびしゃ! 上も下も大洪水で、ばっちいったらありゃしない!」
「『黒狗』、もう黙ってっ! いきなり、どうしてこんな……っ」
右から左、左から右に、回るようにして言葉のバトンパスが連続する。いいな、すごいな、バルスもまぜてもらいたい。いくぞ、次いくぞ、よしここだ!
「――ぁぁぁぁぁ」
Woo――hoooooo!!
決まったぁ! 回り回って廻り廻った大逆転! バルスの美しい天地逆転、下剋上、文明開化に廃藩置県、墾田永年私財法! 今やバルスはパラダイムシフトを起こし、コペルニクス的パッショネートが打ち首獄門スタンディングオベーションなのだ!
「――ぁぁぁぁぁ」
「く、これでは埒が明かない。フェリス! すぐに治療を――」
回りのみんな、声援ありがとう。全国津々浦々、回りながら感謝の挨拶回りをぜひさせていただきたい。親戚回りに友人回り、知らないあの人回りにも声をかけて。
「――フェリス?」
不意に意識の向こう側に回り込むような声。
回りくどい感情を回り回った心の裏側に回し者した声が、このバルスを差し置いて、バルスの回りの誰かを回覧しようとしている。
これは寂しい。回り負けていられない。さあ、みんなでご唱和しよう。
SAY、バルス! バルス! バルス! バル――、
「――フェリスは、どこだ?」
――残念ながら、どうやら回りもそれどころじゃないらしかった。
△▼△▼△▼△
「――ぁぁぁぁぁ」
回りが、騒然となる気配に、バルスは周回遅れにされていた。
唖然と、呆然、驚きが回りのものたちの意識に回り切る間にも、回らないことを回りに証明するためのバルスの奮闘は続いている。
だが回りも、そんなバルス回りにかかり切りではいられないらしかった。
「『青蛇』が消えた……?」
「オイオイ、いつ何時どのときだ? 『青蛇』の野郎かお嬢さん、一体全体、どーこのいずこーにいっちまった?」
「何が……いや、この場でまず確かめるべきは一つだ」
飛び回るならぬ飛び交う流言、それを回し合ううちの一人が、バルスの体を片腕で押さえたまま、流麗な騎士剣を回さずに抜いて、すぐ回りの相手に突き付ける。
そして、息を呑む回りに対し、回りくどいことをせずに問うた。
「――『白羊』、何かしたのは卿か?」
「え……ち、違いますっ」
「――ならば『黒狗』、卿はどうだ? この事態に心当たりは?」
「くはは、血迷ったかイカれたか? やってない関わってない知ったことか!」
「どちらも良し、嘘ではないな。となると、フェリスが危険だ」
抜いた剣を回りから引いて、女――シュクル! シュクルがその場に立ち上がる。体にかかる重さが減った。途端、少女たち――トリスベアとヨウハクが顔色を変える。
「『翠麗』さん!? どこに……まだ『灰星』さんが」
「ナツキ・スバル同様、フェリスが危険だ。あのものの力は我々にとって欠かせない戦力だろう。もし、何者かに連れ去られたなら――」
「そいつはこいつは、一個二個十個! 考えが抜けちまってるぜ、お嬢さん」
「なに?」
静かな、しかし剣呑なシュクルの問いに、回りからもう一人、でかい体つきのイヌクロが立ち上がった。また一つ、重さが減った。
その重さの原因だったイヌクロは、このバルスを指差して、
「だって見ろよ、このザマ、有様! 明らか見るからに普通じゃない。だが、ぶって蹴られてイカれたんじゃないんなら、魔法か何かって話になる。で、だ。――やたらと他人にベタベタ触る魔法使いで、行方を姿を消した奴が一人! こいつは怪しい!」
「フェリスが、これをしたと卿は疑うというのか? 何のために」
「さーあなぁ? あいつのことはちっともさっぱりわからん! 金に目が眩んだとか?」
「――撤回しろ。さもなくば」
シュクルの剣呑さがさらに一段上昇し、回り回ってイヌクロにも波及する。そのあまりに頭の血の廻りが良すぎる回りの二人に、ヨウハクが「待ってっ」と叫んだ。
「ま、待ってくださいっ! 二人とも、今それどころじゃないでしょう? 『灰星』さんがこんなときに、ケンカなんて……ぐすっ」
「泣くな、『白羊』。卿の涙に嘘はないが、私が剣を引く条件は提示した。あとは――」
「あとは? あとはなんだ? 言うこと聞かなきゃ剣に物を言わせるかぁ? それはこれはなかなか上等! 王様になってたら独裁者! 落選内定で国民も安心だーな!」
「――警告はした」
瞬間、寝そべったバルスの視界で、剣閃と光が回り踊った。
衝撃音が炸裂し、「スバル!」とすぐ回りの小さなトリスベアが覆いかぶさってくる。その体の隙間から、素早く飛びずさるイヌクロと、追いすがるシュクルが見えた。
素早く、ローブに付けた予備の仮面を付け替え、イヌクロが両手に緑の炎を灯し、それで回り込んでくるシュクルを迎撃しようとする。
だが、回りくどい。――ならぬ、遅い。
「クソがぁぁぁ!!」
「初めて、卿の口から道化ていない言葉が聞けたな」
イヌクロの吠え声が回廊を回り、血飛沫を伴った衝撃がその体を壁に激突させる。背中から壁に崩れ落ちたイヌクロ、その頭がぐったりと落ちる。
「きゃああっ! 『黒狗』! 『黒狗』っ!」
「命は奪っていない。手当てをしてやれ」
悲鳴を上げたヨウハクに告げるシュクルは、外した眼帯の下の『龍の眼』を輝かせながら、回りのバルスとトリスベアを見て、
「私はフェリスを探す。卿らは、ラッセル・フェローと合流せよ」
と、回り道せず、回りくどくない言葉を残し、素早く身を回し、床を蹴った。
そのまま、止める暇もなくシュクルが遠ざかっていく。それを、トリスベアは呆然と、何が起きているのかわからない様子で見送るしかなかった。
だがそれも、「『司書』さんっ」と泣きじゃくるヨウハクの声に引き戻される。
「う、あぁっ、『黒狗』が……『黒狗』がぁ……た、助けてあげて、くださいっ」
「――っ、どうしてしまったかしら、お前たち! なんでみんなしていきなり……スバル! 大人しくしているのよ! 舌を噛んだらダメかしら!」
壁にもたれるイヌクロの傍で、ヨウハクは顔を覆って泣き崩れている。その回りの混乱ぶりに顔をしかめ、トリスベアがバルスを残し、そちらへ駆け寄った。
すぐに、回復のための淡い光が廻り、剣撃を浴びたイヌクロの治療が始まる。
「――ぁぁぁぁぁ」
寝そべったまま、それを横目に、バルスの思考が回転する。
回りはみんな慌ただしく、回りはみんなカッカしている。そんな回りのために、バルスにもできることが、しなければいけないことが、手番が回った気がする。
「――ぁぁぁぁぁ」
すごい不思議なことに、意識と心と思考はぐるぐる回っているのに、無意識と体と本能は別にぐるぐる回っていない。だから、すんなり立てた。すんなり歩けた。
何故立ったのか。それが問題だ。思考が回って、考えが回って、回り出す。
「そう、ら」
ハピネス全開アルマゲドンを脱し、呂律の回らない舌を回しながら、理解が回る。
シュクルだ。シュクルの走っていった先、通路の奥、それがよくない。そっちは、そっちはいけない。廻り廻って、そっちはさっき、バルスが回った方だ。
ずっとずっと延々と、バルスが回り回って回り続ける羽目になった方。
だから、そっちに回ってはいけない。
「しゅる、くしゅ、るる、しゅくっ」
回れ右させるために回そうとする舌が、つっかえ、震え、痙攣して、音が回らない。
のどちんこが引きつって、舌の回りの筋肉が全部パンパンに腫れたみたいになる。言葉では伝えたい思いも回らない。壁に手をついて、消えた背を追う。
角を回り、違った、折れて、向こうに遠ざかる背に手を伸ばす。
その背に、大きく、舌の回らないなりに、声をかけようとして――、
「――――」
声が出回らなかった。――違う、そうじゃない。出た。なのに、音にならなかった。
舌が引きつったとか、喉が涸れたとかでなく、ただ、音にならなかった。
「――――」
喉に手をやり、頬に手を当て、口を大きく開けて、回りに響き渡るように叫ぶ。
それだけしても、声が音にならない。声が出ているのに、音に、ならない。――そして、音にならないのは、声だけではなかった。
頬を叩いた音も、歯を噛み合わせる音も、たどたどしい足音も、背中から腹を身幅の広い刃が貫通した音も、しない。
「――――」
衝撃が、あった。
音にすればズン、その後に続くのはブシャア、上がる悲鳴はギャアア。実際、バルスはズンと喰らい、ブシャアと血が出て、ギャアアと絶叫した。
ただ、そのどれも音にならなくて、カラカラと音を立てて回る、古い無声映画の上映みたいに、その場で静かにバルスがのたうち回っているだけ。
「――――」
音はない。でも痛みに嘘はない。
音はない。でも絶叫は文字通り血を吐くものでしかない。
音はない。でも仲間たちに伝えるには今しかない。
「――――」
遠ざかっていく背に、声は届かない。音にならないから。
戻ったところにいる仲間に、声は届かない。音にならないから。
そのまま、音もなく、血溜まりでバシャバシャするバルスの真横、古びた外壁に、背中を貫いたものと同じ身幅の広い刃が突き立った。
刃が乱暴に捻られる。壁に走っていた亀裂が一息に広がり、砕けた石材が粉塵を連れて城外へ崩れ落ちた。無音で。
その向こうには、天地創造する神のいなかった黒い空間がある。身が震えた。でも、それも音にならない。やめても、嫌だも、誰にも聞こえない。
「――――」
誰にも聞こえないまま、その壁の向こうに蹴り込まれた。無音で。
「――――」
くるくる、くるくる、くるくると、回転しながら落ちていく。
それまで起こった一連の全部に音がなく、まるで誰かがミュート機能を切り忘れ、手際の悪い動画配信みたいに、ただ映像だけが流れ続けている。無音で。
「――――」
危ない。逃げろ。敵がいる。
全部、誰にも届かない。届かないまま、バルス――スバルは、落ちていく。
何時間、何日とかけて、酸欠の窒息死か、水分の枯渇した渇死か、消耗による衰弱死か、とにかく、そのどれかをした、空でも何でもないところへ、回り、落ちる。
無音で。
「――――」
でも、今度は、何日もかからなそうだった。――背中と腹の穴から、音もなく、ダクダクと血が流れ出していて、激痛で脳は焼けているのに、意識は遠くなりつつある。
その、掠れゆく意識で、理解する。これと同じことが、一つ前にも起きた。
スバルが何日も落ちる前にも、同じことが、みんなの身に。
「――――」
ああ、と嘆く息すら音にならないまま、無音に散った仲間たちのことを思う。
声が、誰にも届かないことは、あまりにも恐ろしい。
だから、次は――、
「――――」
誰にも届かなかった決意は、音にならないまま、ナツキ・スバルは無音のまま、無色の空に落ちていって、消えた。
無音で。
△▼△▼△▼△
無音で。
「何をもちゃもちゃ言ってるかしら。ほらこっち、迷子になるんじゃないのよ」
「うおああああ――!!」
「ぎゃああああかしらあああ!?」
バツッと、急にテレビの音量をMAXにしたような音の氾濫に呑まれ、衝撃を味わったスバルが絶叫する。
そのスバルの絶叫に驚いて、ベアトリスもまた、一緒に高い悲鳴を上げた。
「どどど、どど、どうしたんですかっ!? お二人とも、いきなり大声で……」
「べべべ、べべ、ベティーはスバルに釣られただけなのよ! いきなりでっかい声で叫んだのはスバルかしら! 悪ふざけが過ぎるのよ!」
「正直、私も動転したが……本当に悪ふざけなのか?」
慌て声で弁明したベアトリスが、そう問われ、「え?」と振り返る。そのベアトリスの視線の先、城の床に片膝をついて、スバルは自分の平衡感覚の帳尻を合わせていた。
頭と、体と、意識と、全部のバランスが乱れて、呼吸が荒い。心臓がバクバクする。ドクドクと、体中を血が流れていく音が聞こえる。――音が、聞こえる。
「戻って、きた……音が」
「スバル、いったいどうしたかしら? 何があったのよ?」
「あ、ああ、ベア子、もっとお前の声を……」
聞かせてほしいと、無音に毟り取られた心の平穏を欲しがる気持ちが強く働くが、それは無音の結果と、そうなる直前の、回り回る回り続ける世界が引き止めた。
そうだ。今は、温もりを求めているターンじゃない。――戦いの、ターンだ。
「――っ」
ギリと奥歯を噛みしめて、スバルは膝に力を込めて立ち上がった。
周囲を見れば、そこは石造りの外壁に挟まれた通路――クーゲルシュライバー城の中、それも、おそらくはベアトリスの忘れ物を取りにいく道中。
つまり、スバルを『死』に至らしめた出来事の、ほんの少し前への『死に戻り』だ。
「毎度、時間がねぇ……っ」
贅沢を言っている自覚はあるが、そもそも欲しがって手に入れた力ではない。なら、とことん豪勢に、自分に都合よくあってくれればと願うくらいバチは当たるまい。
いずれにせよ、新たな正念場に、気力体力と死力を尽くして挑むのみ。
「みんな、気を付けろ! 俺たちだけじゃない。誰かが……」
いる、と言おうとして、後ろにいる仲間たちを振り返り、気付く。――足りない。
心配げなベアトリス、腕を組んだクルシュ、わたわたとした手を出している『白羊』に、指で頭にくるくるパーとやっている『黒狗』――フェリスが、いない。
そうだ。そうだった。さっきも、スバルがイカれてる間、そんな話をしていた。
「フェリスは!? フェリス、どこいった!?」
「どこも何も……って、これはそれは驚いてビックリだ! にゃんにゃんにゃん、『青蛇』くんちゃんどこいった?」
焦るスバルの声に、全員がようやくフェリスの不在に気付く。
フェリスは集団の最後尾を歩いていた。だが、直前まで会話に参加していた、ような、そんなはずだ。誰かいないことはなかった、と思うが。
「何が……いや、この場でまず確かめるべきは一つだ。――『灰星』、先ほど卿が絶叫したのはなんだ? いったい、何があった?」
「え? あ、いや、あれは今は関係なくて」
『死に戻り』から戻った瞬間の、言うなれば『死』と『生』の接続部分の反応に関しては、スバルも近しいエミリアたちにも説明がつかない部分だ。
だが、あれがノイズになるのはマズい。実際、あれは今の現状に関係あるようで関係のない、掘り下げても意味のない穴なのだから。
しかし――、
「――嘘の風が吹いているぞ」
「ぬぐ……! あれは、説明が難しいやつだ! 無関係ではねぇけど、こう、何か悪いことが起こったってアレルギー反応みたいなもんなんだ」
「あれるぎい……」
「本当かしら、クルシュ! スバルはこんなことで嘘は言わないのよ! 今、そんな場合じゃないことは誰よりわかっているかしら!」
両手を広げ、スバルを庇うように前に立つベアトリス。そのベアトリスの後ろに隠れているつもりはないと、斜め前に出て、彼女と並んでクルシュと向き合う。
その二人に、クルシュはその眼帯に覆われていない琥珀色の瞳を細め――、
「――良しだ。二人とも、嘘はついていない」
「わかってくれてよかった。それなら……」
「――『白羊』、何かしたのは卿か?」
安堵したのも束の間、クルシュの矛先は向きを変え、今度は『白羊』に向けられた。その問いに、『白羊』は目を見張り、慌てて手と首を横に振って、
「え……ち、違いますっ」
「――ならば『黒狗』、卿はどうだ? この事態に心当たりは?」
「くはは、血迷ったかイカれたか? やってない関わってない知ったことか!」
「どちらも良し、嘘ではないな。となると、フェリスが危険だ」
『白羊』と『黒狗』の返答を受け、クルシュが声を低くしてそう呟く。
そう、それもそうだ。最後尾を歩いていたフェリスは、スバルたちに気付かれないうちに敵に連れ去られたことになる。普通、そんなことは不可能だ。だが、その不可能を可能にする現象を、スバルは自分の体で体験した。
「あの無音……」
スバルに声を上げさせないばかりか、音という音を発させず、致死性の攻撃も、建造物の破壊もやってのけた、あの不自然な無音の事象――あの瞬間、頭のおかしくなっていたスバルが、いきなり耳まで壊れたのでなければ、あれは現実だ。
ただ、音が出せない、聞こえないというだけで、スバルたちは全滅したのだ。
「『司書』、一度、忘れ物は諦めてもらう。すぐにでも、フェリス……『青蛇』がどこに消えたのか、突き止めなくては――」
「オイオイ、待てよ止まれよ、勝手に決めるな。わからないか? 今、まーさーに、敵の攻撃の真っ最中だ。『青蛇』なんか知るか、撤退だ撤退!」
「な……そ、そんな言い方があるかよ!」
素早く身内への疑念を払拭し、消えたフェリスの捜索に動こうとするクルシュ、それを引き止めた『黒狗』の薄情な言葉に、スバルは食って掛かった。
しかし、『黒狗』は表情の変わらない仮面の顔を「バーカ!」とこちらに向け、
「この状況で『青蛇』一人のために、危険な真似も行いもできるもんか。どうやってか嗅ぎつけられた。ここはこっちに地の利もない! やり合う環境になってないんだ。この『卑劣術師』様としては、こんな悪条件は呑めたもんじゃなーい!」
「――。であれば、卿はそうするがいい。だが、私の意見は違う。『青蛇』は我々にとって欠かせない戦力だ。あのものがいなければ……」
「おっと、そりゃ誤解と勘違いが過ぎるぜ、お嬢さん」
「なに?」
さっと身を翻そうとしたクルシュが、肩を引き止める『黒狗』の手を見る。そのクルシュの眼差しに、彼は「わかってないねえ」と大きく首を傾け、
「目下目先の話、オレたちが連中にくたばれ死ね! ってするにはあんたの力がいる。正確にはあんたの目、より正確にはあんたの加護だが、なくせないのはそっち優先だ」
「……何が言いたい?」
「無論もちろん言わずもがな、撤退ってのはあんた含めてだよ、お嬢さん」
「――――」
仮面を泣き顔のそれに付け替え、『黒狗』がクルシュに強く訴える。
その理屈は、『六枚舌』の一員としては真っ当なものだ。王国を苦しめる『色欲』の権能を見破るには、彼女の『風見の加護』が必要不可欠なのだから。
しかしそれはあくまで、『六枚舌』の理屈だ。
「一つ、考えを正そう、『黒狗』」
言って、クルシュが肩に乗った『黒狗』の手を払い、正面に振り向く。
そして、真っ直ぐに『黒狗』に、スバルたちに背を向けたまま、
「私は卿たちと協力関係にあるが、部下になったわけではない。私には私の裁量で動く権利があり、その裁量はここでフェリスを見捨てることを良しとはしない」
そう力強く言い切り、一歩、前に踏み出す。
フェリスを見捨てない。当然だが、その断言が嬉しかった。スバルもまた、クルシュと同じ気持ちでいたから――、
「――そうかい了解、なら、力ずくしかなーいな!」
次の瞬間、その踏み出したクルシュの足下から、緑の炎が噴き上がった。
ブワッと空気の焼ける臭いと熱波に前髪を炙られ、スバルは思わずのけ反る。だが、スバルは余波だからいい。今の炎の本命は、クルシュだ。
「『黒狗』っ!? な、なんで『翠麗』さんを!」
「ワケも理由も言っただろ! どれだけお前は甘ちゃんなんだ。あの女を手放して、あの陰険野郎がオレたちを許すと思うか? オレは呪印で死ぬのは御免だね!」
「それは……でも、こんなやり方っ」
納得できない、と涙目の『白羊』が訴えようとし、『黒狗』がフード越しに頭を掻く。
その直後だった。
「――ならば、呪印ではなく、私の剣で断たれるのが望みか?」
立ち上った緑の炎が斬られ、その向こうで黄金に輝く一条の光。――それは、炎の中から無傷で現れる、眼帯を外したクルシュの『龍の眼』の輝きだ。
クルシュの『龍の眼』と、卓越した技量が為せる神業――魔法斬りだ。
「ちっ、とことんどこまでも相性が悪い! きっと食事の好みと趣味も合わないな!」
「共に暮らす仲ではない。不利がわかっているなら、引いたらどうだ?」
「言ったから聞こえただろう? 呪印で死にたかないんだな、これが!」
「――そうか。同情はする。加減はしない」
言って、クルシュが踏み込み、仮面を替える『黒狗』が右手に青い炎を灯しながら、左手で傍らの『白羊』をスバルたちの方へ突き飛ばした。
「きゃあっ」と悲鳴を上げる彼女の体を受け止め、スバルが顔を上げたときには、クルシュと『黒狗』との戦端が開かれてしまっている。
「スバル! マズいのよ! 戦い始めたかしら!」
「わかってる! ふざけやがって、『黒狗』の野郎……クルシュさんの言うことの方が百パーセント正しいだろうが……だってのに、クソクソチクショウがぁ」
「……スバル?」
受け止めた『白羊』を支えながら、スバルは戦いの切っ掛けを作った『黒狗』への怒りを燃え滾らせ、口の端から呪詛のように吐き出す。
やることが極端なのだ。『六枚舌』の理屈はわかる。従う道理もわかる。それでも、仲間に対してあんな強硬策に出る理由はない。腹が立つ。痛い目を見ればいい。
「うっ、ぐす……っ、なんで、こんな、おかしいですよぉ……っ」
怒りに震えるスバルの腕に背を預け、手で顔を覆った『白羊』が嗚咽を漏らした。
なんて哀れなのだろうか。訴えを聞いてもらえず、遠ざけられて、泣きじゃくるしかできないなんて可哀想だ。『黒狗』は彼女に恨みでもあるのだろうか。
だから――、
「クソがぁぁぁ!!」
「初めて、卿の口から道化ていない言葉が聞けたな」
発動直前の魔法を斬られ、無防備になった『黒狗』の脇腹に蹴りが入る。そのままくの字に折れた長身が、翻る剣閃を下から浴びせられ、通路を吹っ飛んだ。
そのまま壁に激突、轟沈、さっきも見た流れだ。この世に悪の栄えた試しなし。
「きゃああっ! 『黒狗』! 『黒狗』っ!」
「命は奪っていない。手当てをしてやれ」
スバルの腕の中で膝から崩れ、『白羊』が倒れた『黒狗』に涙ながらに手を伸ばす。それをちらと横目に、眼帯の外れたクルシュがスバルたちの方を見た。
「私はフェリスを探す。卿らは、ラッセル・フェローと合流せよ」
「ま、待ってくれ、クルシュさん! 俺たちも、フェリスを探すよ! あいつは仲間だ! 心配なんだ! だから……」
「――『司書』さんっ、う、あぁっ、『黒狗』が……『黒狗』がぁ……た、助けてあげて、くださいっ」
こちらの意思表明を遮るように、悲痛な『白羊』の声がベアトリスに訴えた。
一瞬、そちらに気を取られる。その隙に、クルシュはタッと走り出し、
「そちらは頼む。卿たちが頼りだ」
言うだけ言って、クルシュが通路の奥へ消えていく。
その背を追いたいが、腕にはなおも縋り付いてくる『白羊』がいる。その上、『黒狗』も放っておくわけにはいかない。
「自業自得でしかねぇが、ベア子! 治療してやってくれ!」
「わかったのよ。……でも、スバル、平気かしら?」
「はあ!? 何が!?」
問いかけてくるベアトリスに、そう怒鳴るように言って、スバルは口に手を当てる。
「ごめん、思ったよりでかい声が出た。死んだ方がいいな、俺」
「――。とにかく、すぐに治療するのよ。『白羊』、お前もぐずるんじゃないかしら」
「うっ、ひぅ、ご、ごめ、ごめんなさ……ぃ」
グスグスと泣きじゃくる『白羊』の背を撫でてやりながら、スバルは理不尽に怒鳴られたのに、怒り返さない健気なベアトリスに感謝と愛を込めて作業を見守る。
本当に、よくできた相棒だ。自慢だ。最高だ。それに比べて自分はダメだ。カスだ。
「馬鹿、凹んでる場合じゃねぇ。考えろ考えろ考えろ。今、敵がいる。ヤバい。フェリスが危ない。クルシュさんも放っておいたらダメ。『黒狗』が余計な手間を増やして、ああ、クソ!」
「ひぅっ」
「だぁ! ごめんごめんごめん! 違う、『白羊』ちゃんのせいじゃなくて――」
ビクッと震え、丸い瞳を涙で一杯にした『白羊』に見られ、バツが悪い。
考えることが多いのに、それが一個も片付かない状況に焦りとイライラを募らせ、スバルはまず目の前のことからと、ベアトリスに『黒狗』の状態を聞こうと――、
その、ベアトリスと『黒狗』の真上に、斬られた通路の天井が落ちる。――無音で。
「インビジブル・プロヴィデンス!!」
瞬間、手より足より頭より早く、魂に働きかけ、第三の魔手が真っ直ぐ伸びた。
それが、『黒狗』と、彼に治癒魔法をかけるベアトリスをいっぺんに拾い、音もなく落ちてくる天井の崩落、そこからギリギリで回避させ、放り出した。
間に合った、はずだ。だが、それを確かめる余裕はない。――スバルと『白羊』の頭上にも、同じように無音の亀裂が生じ、天井が落ち始めたからだ。
「――うえっ!?」
飛びのくように立ち上がり、驚く『白羊』の手を掴んで、一気に走り出す。顔を覆って泣いていたせいで状況のわかっていない彼女を連れ、猛然と、通路の奥へ。
その間も、スバルたちのすぐ真後ろを、崩落し続ける瓦礫の雨が無音で追ってくる。
「うおおおおあああ!!」
振り向く余裕がなく、音が聞こえないため、終わりの兆しがわからない。
無音の破滅に巻き込まれないように、とにかく、走って、走って、走り抜けて――、
「――『灰星』さんっ! 止まってくださいっ!」
いきなりの強い訴えと、強引に腕を引かれる勢いに負け、スバルはつんのめる。危うくひっくり返りかけて手をつくと、慌てて背後に振り返った。
だが、崩落はここまで届かない。――否、だいぶ前に手を引いていたらしい。しばらく向こうは瓦礫に埋もれているが、スバルと『白羊』は無事でいた。
「って、ベア子は!? それに、『黒狗』の奴も……」
「――。瓦礫の向こうで、わからなくなってしまいました。でも、『司書』さんの魔法の光が見えたので、きっと」
「ベア子の……そう、だな。繋がりは、ほんのり感じる」
込み上げた衝動に目をつむり、『白羊』の指摘を確かめる。契約者と精霊との間に通じているパスが、距離は遠くとも、ベアトリスとの繋がりを保証していた。
それはすなわち、彼女が無事であることの証明。ただし、まだ無事という話だ。
「クソ、敵がいるってわかってたのに、なんであんなむざむざと……」
「『灰星』さんも、おかしいと思いますか?」
「そりゃ思うだろ! あんな急に、『黒狗』の奴が嫌味と皮肉のオンパレードはいつものことだけど、クルシュさんだって、らしくない。フェリスに何かあったとしても、仲間に剣を向けるような人じゃ……」
言っていて、自分の中で、明らかに不自然なことが次々と浮かび上がる。
剣を抜いたクルシュも、すぐに実力行使に移った『黒狗』も、いくら何でも手が早すぎた。ましてや、焦ってイラつくばかりのスバルや、わあわあと泣きじゃくって何もできない『白羊』も、全員どうかしている。
事実、今、目の前で涙を拭う『白羊』から、さっきまでの弱々しさは消えていた。
「まさか、あれも敵の攻撃……?」
「だと思います。仲違いさせられました。まんまと、別行動にされて……」
「音が聞こえなくなるのと、あれは……なんだ? 感情を強制された……いや、シリウスのあれとは違った。怒ったり、泣いたり、全部別で……」
自分たちの身に起こったことを振り返り、何をされたのかの仮説を立てる。
一瞬、脳裏を『憤怒』の大罪司教の権能が過ったが、あれはその場の全員の心を一つにするというお題目で、他者の思想を支配する邪悪な力だ。
だが、今のこれは、それと少しだけ違う。それぞれ、反応は異なるもので――、
「――抑えが、利かなくなっていた?」
「それだ! それが一番近い! 音が聞こえなくなったのと、感情をセーブする蓋が外れたって感じで……共通点、あるか?」
「いえ。――『灰星』さん、聞いてください。すごく、マズいかもしれません」
「現時点でだいぶマズいと思ってるけど、なんだ。言ってくれ」
ぎゅっと胸の前で手を握りしめ、『白羊』が真剣な目でスバルを見据える。
そして――、
「――今ここに、『愛し子』が二人以上、きている可能性が高いです」




