第十章32 『――ぁぁぁぁぁ』
「――じゃあ、さすがに陰魔法で異空間を丸々作り出したってわけじゃないのか」
「それができるなら、お母様は世界を好きに生み出せることになるのよ。いくらお母様でも、それをするにはマナがいくらあっても足りないかしら」
「あ、マナの問題? それがクリアできたら、創造神みたいなこともできるって?」
「できても不思議じゃない……それがお母様のすごさなのよ」
荒れ果てた城内を歩きながら、とんでも母の力を誇らしげに語るベアトリス。
古傷なのかと思って、これまであまり昔話を掘り下げてこなかった分、話したいことは尽きないとばかりに、ベアトリスの親ドナ自慢が続いている。
四百年ぶりの里帰りで、クーゲルシュライバー城を実際に歩いていることも大きいだろう。――たとえそれが、在りし日の姿を容赦なく壊された光景でも。
「でも、ベア子にそんな想われてるなんて、ちょっとジェラシー感じちまうな」
「まったく、スバルとお母様じゃ張り合うジャンルが違うかしら。お母様は絶対に揺るがない家族ランキング不動の一位で、スバルはベティーランキングの不動の一位なのよ」
「え、何それ、すごい嬉しい。パックに勝ったってこと?」
「にーちゃとは同率一位かしら」
「おのれ、あのモフモフ……エミリアたんの一番になるのも、ベア子の一番になるのも、どっちにも立ちはだかってきやがる……!」
「にゃっふっふ」と髭を撫でながらドヤ顔する猫精霊の姿が浮かんで、スバルは越えるべき敵の高さに歯噛みする。気を付けないと、スバルも毛並みにメロメロだから。
と、そんなやり取りをしている間に――、
「――ここなのよ」
ピタッと足を止めたベアトリスに、「ここが?」とスバルたちは首を傾げる。
なにせ、そう言った彼女が向き直ったのは、何の変哲もない通路の壁だ。城の中、崩れた足場を注意して進んできた通路、その一枚の壁である。
しかし、ベアトリスは「ちっちっちかしら」と立てた指を左右に振り、
「この城の持ち主は『魔女』なのよ。その『魔女』の残した記録が、普通の部屋にポンと置いてあるなんてちゃんちゃらおかしいかしら。だから――」
言って、ベアトリスが振っていた指で、そのまま壁にそっと触れる。
何も起きない。ベアトリスが指を壁に当てたまま、反対の手を伸ばして「スバル、スバルっ」と小さく呼びかけてくる。慌てて、その手を握った。
スバルを通じてマナがベアトリスに流れ込み、壁に当てた指の先から光が生じる。それが何もなかった壁に、一枚の光の扉を作り上げ――、
「城の入口で一回見たやつなんだけど」
「ベストなものができてるのに、わざわざ違うのにする理由がないのよ。さあ、とくと見るかしら。――これが、『魔女』エキドナの私的研究室なのよ!」
通り抜けができるようになった壁の向こう、そこに満を持して乗り込んだスバルたちを出迎えたのは、最初に城に入ったとき以上の重さを感じる空気と、長い沈黙を溜め込んだ木々の匂い、そして『魔女』らしすぎる中身の一室だった。
「これは……なかなか、大したものだな」
「くははは、公爵様は言葉選びも淑やかで奥ゆかしい! こんなのは、不気味! 悪趣味! 陰気臭い! そう言い切ってやった方が本人のタメってもんだ! おっと、もう本人は死んじまってるんだったなー?」
「く、『黒狗』っ! なんて言い方するんですかっ! 『司書』さん、ごめんなさいっ」
中を見渡し、くるくると回った『黒狗』の暴言に、『白羊』が慌てて頭を下げる。が、ベアトリスは「構わんかしら」と鷹揚に掌を向け、
「恐れられ、畏怖されることも『魔女』には必要なこと……むしろ、この反応はお母様の期待通りなのよ。謝ることはないかしら」
「なんか、テメエの親への感情って拗れまくってやがんな……」
「え、『長っ舌』くんがそれ言うんだ……」
唇を曲げたラチンスに、フェリスが素朴な疑問を口にする。
実際、わざわざ裕福な家を離れて、チンピラ仲間とつるんでいたラチンスだ。親とは言わずとも、家族関係で難があった疑いは濃厚だろう。
いずれにせよ――、
「『黒狗』の言い方は少々目に余りますが、目新しいことは間違いありませんね」
そう、ラッセルまでも、『黒狗』の表現を肯定する、そんな光景が広がっていた。
研究室は高い天井と、それを支える何本もの黒い柱が立った、大広間と呼んでも差し支えのない大きな空間だ。部屋には作業台めいた台座がいくつも並んでいるが、目を引くのはその上にある大小無数、色とりどりの水晶であり――、
「……まさに、『魔女』の実験室って感じだな」
手近な水晶をまじまじ覗いて、スバルは小さくそう呟いた。
目の前、掌大の水晶の中には、翅を広げたままの蝶が封ぜられている。隣には花弁だけでなく、土の中に伸びた根まで残された草花、その次は体を丸めたトカゲ風の小動物。
どれも、今にも動き出しそうなくらい、色も形も損なわずに保存された標本だ。
「小さなものだけでなく、こちらは魔獣もいるな。見るといい。あれなど、大型の……なんと言ったか」
「これは驚いた。ギルティラウですね。魔獣をこんな形で保存できるとは」
水晶の標本を見て回る面々の中、奥に向かったクルシュとラッセルが感嘆する。二人の前には竜車ほどもある水晶と、そこに閉じ込められた大型魔獣の姿があった。
それ以外にも、魚や鳥、初めて見る魔獣など、標本の種類は多岐にわたる。
「こんなにたくさんの生き物を、どういう目的で……ひゃあっ!」
「オイオイ、このおバカさん! 勝手に触るな! 迂闊粗忽もいいところだ!」
「ご、ごめんなさいっ! でも、あのこれ、見てください」
小さく悲鳴を上げ、『黒狗』に叱られた『白羊』が、どうやらちょんと触ったらしい水晶を指差す。そこに入っていたのは、真っ赤な体毛をした朱鹿だったが、ただ閉じ込められているだけではない。――水晶の中で光が生じ、その朱鹿の体の中身が透けて、内臓や骨、さらには無数の光のラインが走るのが見えたのだ。
「それ、まさか、体の中だけじゃなく、ゲートが見えてるの?」
それを目の当たりにして、ゾッと、戦慄したのを隠さない声でフェリスが呟く。彼はその黄色い瞳を見開いて、自分の傍の水晶に触れ、同じ現象を確かめる。
「どうだ、フェリス。何がわかる?」
「……中の子たちは、生きてはいないです。でも、すごい。死んじゃったら、オドはゆっくりと拡散してくのに、これ、生きてたときのオドの形がそのまま写し取られてる」
「オドを写し取る……つまり、魂の形が記録されているということか?」
「です。……少なくとも、私はそれに近いことだと、そう思います」
よほど驚きが大きかったのか、フェリスはクルシュに話しかけられていることにも気付かない様子で、そこにある『魔女』の研究の一端に震え上がっている。
スバルもまた、その話にベアトリスの方を見て、
「どうやら、『魔女』の研究室って看板に偽りなしって感じだ。ここで何やってたのか、ベア子は聞いてないのか?」
「……お母様は、自分の研究を人に見せたがらなかったのよ。相手に渡す知識も、慎重に選んでいたかしら。たぶん、嫌な思い出があったのよ」
「嫌な思い出……まぁ、賢いとか強いとかだと、色々あるわな」
そう考えると、他人に助言を求められるのを自慢していた若ドナと、ベアトリスの語る親ドナとの間には考え方の隔たりがある。やはり、若ドナが嫌な思いをして、価値観が変わった結果が親ドナと、そんな時間の流れを感じるが――、
「これら、実験用の道具も興味深くはありますが、できればこちらで読み解く資料の類が見つかるのが理想ではありますね。『司書』、どこか心当たりは?」
「奥に、立ち入らないよう言いつけられてた小部屋があるかしら」
「小部屋って、これか」
実験器具ばかり見ていても埒が明かないと促すラッセルに、ベアトリスが研究室の隅を指差した。そこにあった扉に手をかけ、スバルが開け放つ。すると、むわっとした古書の香りが溢れ出し、思わず顔の前を払った。
そして――、
「おいおい、これは……どこから手を付けたもんだか、骨だぞ」
呟いたスバルの背後から、同じように中を覗いた面々も喉を唸らせる。
ベアトリスが小部屋と表現した一室は、確かに大広間並みの広さの研究室と比べれば小さいかもしれないが、それでもロズワール邸の食堂並みの大きさはある。
その大きさの室内に、所狭しと、雑多に本や紙束、巻物が収められていて。
「言ったはずなのよ。――お母様は、片付けがあまりお得意ではなかったかしら」
「それにも限度があると思ってほしかった。後世のことを考えて」
扉のすぐ傍、足下に落ちた二冊の本を拾い上げ、いずれも無題かつ、どうやら関連性も連続性もない本であったことに、絶望的な気分になる。
「『禁書庫』といい、プレアデス監視塔といい……」
とかく他人の書庫にいい思い出のないナツキ・スバルであったが、これもまた、思い出の同じカテゴリーに配置されそうな、実に手のかかる書庫であった。
△▼△▼△▼△
――結局、『魔女』の書庫の整理には数時間もの時間を要した。
八人がかりで取り掛かった作業は、まずは倒れた書棚を起こし、落ちた本を集め、バラバラになった紙束をまとめ、破れた巻物の慎重な回収と、細かな大仕事が続いた。
それだけやって、ようやく整理のスタートラインなのだから、他人の書庫の片付けなんてやるものじゃない。不幸中の幸いは、最低限、スバルたちには必要なものの取りこぼしだけは起きようがなかったことだ。
「――これと、こちら。それから、この資料も箱に。持ち帰って検討しましょう」
そう言って、可能な限りの分類が行われた拾得物をじっと眺め、ラッセルが価値あるもの――『目利きの加護』でそれを選び、持ち出す資料を決めていく。
選ばれる資料には共通した形式もなければ、記されている文字や図解、そうしたものも一切揃っていなかった。
「最後の一冊なんて、延々と花の観察日記みたいな感じだけど……価値あんの?」
「わかりません。ですが、そうだと信じることから始めなければ、この目とは付き合っていけないのですよ。実際、あなたたちを見限らなかった意味はあったでしょう?」
「はん、よく言うぜ。オレが言わなきゃ捨ててってたくせによ」
「ええ、あなたの言葉に耳を貸したのも、あなたに価値があればこそです」
「コイツ、本気でムカつくよなぁ……!」
皮肉を言った側が嫌な思いをして、ラチンスがギリギリと歯を軋らせる。
よくよくラッセルの大事な話に付き合わされているわりに、時間が経てば経つほど、打ち解けるどころか軋轢が増しているように見える二人だ。
しかし――、
「あー、うー! 終わった片付いた! なんて疲れて苦労する日だ! 決めた! 次から、本をたくさん読みそうな奴は、本をたくさん買う前に殺す!」
「必ずしも、多くの書物を所蔵するものの書庫を検める機会があるものではないが」
「言っても無駄ですよ、『翠麗』様。『黒狗』くんのいつもの軽口ですから」
「そうか、そうだな。余計なことを言った。続けるといい」
「やるかするか! オレは疲れたくたびれた!」
作業台の上に体を投げ出し、『黒狗』が大きな子どものようにそう喚く。仕草は子どもでも図体がでかいので可愛くないが、疲労を訴える彼に気持ちは同感だ。
「一晩って時間制限は活きてるし、ここが異空間だからって、時間の流れが外よりゆっくりだったりとか、そういう特典ってないよな?」
「ベティーの知る限り、ないのよ。もしそんな特典があったら、この城ももう少しマシな状態で残って……『憂鬱』のせいで、それも怪しいとこかしら」
放置された経年劣化の影響もあるだろうが、城の荒れ具合の大部分は、ここで大暴れしたという『憂鬱の魔人』の力が大きい。おそらくは、ただの親子ゲンカなんて言い方では計り知れない、『魔女』と『魔人』の激突があったのだろうから。
「成果は持ち帰って確認するとしましょう。『司書』、この部屋以外に資料は?」
「ないはずなのよ。この部屋以外には、『禁書庫』にその手の本を置かなかったのと同じ理由で、置いてはいないはずかしら」
ラッセルに答えながら、ちらとこちらを見るベアトリスにスバルは頷き返す。
ベアトリスに『魂』関連の本を見せたくなかった説が採用されるなら、ベアトリスに立ち入りを禁じた書庫こそが、その禁書の隠し場所に相違ない。
それが間違いないなら、あとは収穫を持ち帰れば――、
「――あのさ、『司書』ちゃん、それだけ?」
「フェリス?」
ふと、首を傾げたフェリスの問いに、スバルは眉を顰めた。
彼の切羽詰まった心情はわかるが、ここまでベアトリスの協力的な姿勢は明らかだ。それを疑われるのは、スバルとしても見過ごせない。
だが、スバルが何か言う前に、腰を折ったフェリスがベアトリスと視線を合わせ、
「ここ、ずーっときてないところだったんでしょ。それに、今の『銀狐』が資料を見比べてる最中も、ちらちら部屋の外を気にしてたみたいだし」
「え。そ、そうだったのか、ベア子?」
「む……な、なんてことはないのよ。スバルもフェリスも、考えすぎかしら」
顔を覗き込んでくるスバルとフェリスに、ベアトリスが慌てた顔で手を振る。可愛い抵抗だが、しかしそれは――、
「――嘘の風が吹いているぞ」
眼帯に覆われていない方の目を細め、嘘を見破るクルシュにあっさり暴かれる。
その指摘に、ベアトリスはしばらく「ぐぬぬなのよ」と耐えようとしていたが、やがて観念したようにため息をつき、
「なんてことないかしら。ただ、思い出したのよ。『憂鬱』に追われて城を出るとき、ゆっくり荷造りする時間なんてなかったかしら。そのとき持ち出せなかったものが、この城の、ベティーの部屋に残ってるかも……なのよ」
「そっか。大事なものなの?」
「なくても困らないかしら。……でも、お母様からのプレゼントだったのよ」
目を伏せ、ベアトリスがいじらしくそう結んだ。
そのベアトリスの様子に胸を突かれつつ、スバルは悔しさも味わう。ベアトリスの心残りを、フェリスに先に気付かれた不甲斐なさに。
ただ、それでうじうじとしている方が馬鹿らしい。
「ラッセルさん、ちょっと四百年前の忘れ物を取りにいってもいいか? 作戦に関係ないのは百も承知なんだけど……」
「承知しているなら、自重していただきたい。我々の使命をお忘れですか?」
「それは、返す言葉もねぇんだが……」
「でも、ここまでこられたのも『司書』ちゃんのおかげでしょ。なのに、『司書』ちゃんにご褒美の一個もないのって、よくないんじゃない?」
正論に押し返されるスバルに、またも助力したのはフェリスだった。その、ベアトリス寄りの意見を口にする彼に、ラッセルはわずかに険しい目を向けて、
「――。まさか、意趣返しのつもりですか、『青蛇』」
「それこそまさか。だけど、忘れないでくれる? 『灰星』くんと『司書』ちゃんは、あなたの部下じゃないの。それなのに、会いたい相手がいても、二人は二ヶ月もあなたに付き合ってくれてる。ちょっとは見せてもいいんじゃない? 誠意」
「お前……」
相変わらずの厳しい舌鋒、その矛先が自分ではなく、他の人に向けられるとこうも頼もしく感じるのかと、スバルは感激と同時に困惑を味わった。
何故、フェリスがこうまでこちらに親身になってくれるのかがわからない。もちろん、どんなに口が悪くても、治癒術を極める彼の心根の正しさは信頼しているが。
「そんな目しないでよ。別に、取り戻せる忘れ物なら取り戻せた方がいいでしょ」
「それは……だな。ごめん。やっぱお前、いい奴だわ」
「――。スバルくんのそーゆーとこ、キライ」
プイと顔を背けられ、スバルは指で頬を掻きながら苦笑する。一方、フェリスからの要請に、ラッセルはしばし難しい顔で顎髭に触れていたが、
「あの、『銀狐』、わたしからもお願いします。次またここにこられるのがいつになるかわかりませんよね。それは、『司書』さんが可哀想です」
「『白羊』、あなたまで」
「わたしや『黒狗』と、『灰星』さんたちは事情が違うはずです。あなたでも、無理強いはできません。それは、もうわかっているはずですよね?」
キュッと頬に力を入れ、『白羊』までもがスバルたちの援護射撃をする。
思いやり深い彼女とはいえ、上司であるラッセルに意見するのは相当な勇気がいったはずだ。その姿勢に、まさか感銘を受けたとは思わないが――、
「――長居はせず、目的のものを回収し、速やかに合流してください」
しばしの瞑目のあと、ラッセルの譲歩を引き出すことには成功したのであった。
△▼△▼△▼△
「私は資料の梱包を優先します。入口に集合を」
「言っとくが、オレも付き合わねえぞ。ガキの思い出巡りの面倒なんか見れるかよ」
と、仕事を優先したラッセルと、付き合いの悪いラチンスを残し、それ以外のメンバーはクーゲルシュライバー城を、ベアトリスの私室に向かって出発した。
思いがけず、スバルたちについてくると言ってくれた面々が多く、ラッセルと二人きりになるラチンスは、誤算という顔でこちらを見送る羽目になったが。
「けど、まさかお前もついてきてくれんのかよ」
「くははは、荷物運びのお手伝いよりこっちのがマシってだけのはーなーしーだ。それにドジでマヌケな『白羊』が、転んでうっかり穴から落ちたら大変だしなぁ?」
「そ、そんな心配しなくて大丈夫ですよっ。そこまでドジじゃ……きゃっ」
「見ろ、笑え叱れ! 言ってる傍からこのザマだ!」
そう声高に笑い、『黒狗』が転びかけた『白羊』の襟首を掴んで立たせている。
あまりにお約束をしっかりこなす『白羊』には苦笑してしまうが、『黒狗』も口ではどうこう言いつつ、彼女に対してはかなり過保護だ。
普段は『白羊』の方が保護者感があるが、今は逆転して見える。
「二人とも、『六枚舌』に入る前から一緒で……『愛し子』だった、だよな?」
「……わたしはそうです。『黒狗』も、たぶん」
「たぶん? そこ、曖昧なのか?」
『白羊』の不確かな答えに、スバルは怪訝に眉を寄せた。てっきり、『白羊』と『黒狗』は同じ境遇で『六枚舌』にいるものだとばかり。
「おっと、嘘か誠か誠か嘘か! 偽善者ヅラしたこの女、実は真実はお前らを騙すのがだーい好きな性悪嘘つき女だったのだー!」
「嘘の風が吹いているぞ。卿の言葉は悪し、『白羊』の言葉は良しだ」
「かーっ! 退屈でつまらなくて興醒めだ!」
茶々を入れた『黒狗』の思惑が、クルシュの加護に斬って捨てられる。ただそれも、『白羊』の発言から気を逸らすためのフォローにも思えた。
実際、クルシュも『白羊』の言葉は真実と、そう保証しているわけで。
「実は、『黒狗』との関係はわたしもよくわからないんです。近しい相手……っていうのは、間違いないはずなんですけど、それが具体的にわからなくて」
「ちなみにオレはさっぱりスッパリわからない! 気付いたときにはそこにいたーって感じがオレで、ちょうどそこに居合わせたーって感じがこいつだ」
「なにそれ、意味わからなすぎじゃない?」
「はい、意味わからなすぎなんです。――それが、わたしの理由なんだと思います」
白い拳を握りしめ、どこか決意の表情で『白羊』はそう口にする。
自分から話を振っておいて、スバルは聞かせてもらってよかったのか、少しばかり気後れした。またも無作法に、相手の心に土足で踏み入ってしまったと。
「いくら、人の心に土足で上がるのが我が家の家訓とはいえ、土足する側にも土足のマナーってもんがあるから、その気じゃないときに発生すると焦る」
「何をもちゃもちゃ言ってるかしら。ほらこっち、迷子になるんじゃないのよ」
考え込む腕をベアトリスに引かれ、一行を先導する彼女についていく。
最初は、自分の忘れ物探しについてこさせることにいくらか恐縮していたベアトリスだったが、勝手知ったる実家を歩いているうちに、少しずつ硬さも取れてきた。
今はその瞳に、もうすぐ取り戻せる忘れ物との再会への期待が輝いていた。
「ところで、エキドナの……お母様のプレゼントってなんだったんだ?」
「む、それは実物を目にしてのお楽しみかしら。そうやって何でもせっかちに知りたがるのは、スバルだけじゃなく、ニンゲン全員の悪癖なのよ」
「そりゃみんな、四百年待ちの実績があるベア子と比べられたらそうなる」
得意げに胸を張り、小さな歩幅で先頭をいくベアトリスにスバルは微苦笑する。彼女の揺れるドリルツインテールを見ながら、弾む足取りに微笑ましさしかない。
他のみんなも同じ気持ちでいるのか、四百年越しのプレゼントを手に取る期待に溢れたベアトリスに、誰も水を差そうとはしなかった。
「だってのに、ちまちま邪魔してくれやがって……」
そうスバルがぼやくのは、城のどこへ向かっても、その破壊の影響を色濃く残した『憂鬱の魔人』へのクレームだ。
『憂鬱』の暴威が天井を落とし、柱を折り、床を割っているのを見つけるたび、通れない道を迂回して、遠回りしながらベアトリスの部屋を目指さなくてはならない。
今もまた、半分崩れた部屋を横切り、押し潰された通路をショートカット――その先で、通路を塞ぐように、一本の太い柱が横倒しになった場所に遭遇した。
「おいおい、これまた迂回か?」
「――。ううん、見るかしら。柱の横を抜けられそうなのよ」
大人が両腕を回しても足りなそうな柱だが、ベアトリスの指差す通り、右の壁との間に一人ずつなら通り抜けられそうな隙間がある。
「って言っても、向こう側が見えないのが不安だな。ここは、俺が先にいくよ。ベア子はいったん順番待ちで」
「ベティーの方がコンパクトで可愛いから、危なげなく通れるかしら」
「俺だって、体の柔らかさは捨てたもんじゃないぜ。毎晩、鳩のポーズしてるし」
ヨガの精神を押し出され、ベアトリスがスバルにファーストペンギンを譲る。
スバルは頭を下げ、柱の隙間に体をねじ込み、そのまま向こう側へすり抜ける。幸い、恐れていた引っかかりや、抜けてすぐの落とし穴トラップは訪れず、通路の先まで続いているようで、行き止まりにもなっていない。
「オッケーだ。ちゃんと進める。髪とドレス、引っかけないように要注意」
床についたジャージの膝を払い、スバルは柱の向こうのベアトリスに声をかける。そのまましゃがんで、隙間を抜けてくるベアトリスがくるのを――、
「――ベア子?」
小さな体のベアトリスだ。スバルより難なく隙間を潜れるはずなのに、いつまで経ってもその姿がこちらにやってこない。じれったく柱の隙間を覗き込んでも、そこにベアトリスの姿は――否、そうではない。
「――っ、おい、嘘だろ?」
自分の目を疑い、スバルは再び頭を下げ、隙間を今度は反対に向かって抜ける。もどかしく、頭を柱に擦りながら向こうの通路に出て、顔を上げた。
そして――、
「――誰も、いない?」
さっきまで皆と歩いていた通路に立ち上がり、スバルは呆然と周りを見回す。そこにいるはずのベアトリスが、クルシュが、フェリスが、『白羊』が『黒狗』が、いない。
一緒にきたはずのメンバーが誰一人いない。影も形もなくなっていた。
「んな、馬鹿な話が……ベアトリス! ベア子! 返事してくれ! ベア子―っ!!」
高らかに声を上げ、スバルは大声でベアトリスの名前を呼んだ。その声が古びた城に空しく響き渡るも、それに求めた返事は返ってこない。
突き上げる焦燥が、一瞬にしてスバルの背中を冷たい汗でぐっしょり濡らした。
「クルシュさん! フェリス!! 『白羊』ちゃん! 『黒狗』! どこだ! ベア子! 誰か! 誰でもいい! 返事してくれ!!」
いてもたってもいられず、スバルは仲間たちの名前を次々と呼んだ。だが、誰の返事もない。ベアトリスだけでなく、クルシュたち四人の返事も。――それは、明らかすぎるほどの異常だ。
「いったい、何が……まさか、エキドナか!?」
ここが『強欲の魔女』の城であり、隠された書庫ならぬ資料室を発見した時点で、何らかの仕掛けがあるのではという嫌な予感はしていたのだ。
ただ、ベアトリスがそれについて言及しなかったことと、これまで『試練』にせよ『試験』にせよ、何かが起きるには切っ掛けがあった。
だから、次第に警戒は薄れてしまい――、
「馬鹿か、俺は。いや、馬鹿だ俺は……エキドナ相手に油断するなんて!」
ぐっと唇を噛んで、痛みで己を戒める。長々と自責に時間を費やす暇はない。すぐにでも、消えたベアトリスたちを探す。あるいは、ラッセルたちと合流しなくては。
そして、このクーゲルシュライバー城の仕掛けの攻略を――、
「――ぁ?」
しなくては、と思った直後だった。
きた通路を逆走するべく、最初の一歩を踏み出したところで、それは起きた。――何の兆しもなく、踏みしめた足場が抵抗なく抜け、体が傾いた。
マズい、と思ったときには遅い。――次の瞬間、体が宙に投げ出されていた。
「――ッ!」
床が抜け、通路の外に吹っ飛んだ。そう気付いた刹那、スバルは腰の裏のギルティウィップを引き抜き、無我夢中でそれを自分がすっぽ抜けた通路に叩き付ける。――運良く、先端が通路に生じたひび割れか何かに挟まった。
「ぐおっ!」と、鞭を持つ右肩に強烈な衝撃があり、スバルの体が引っかかる。
「な、な、な……」
何が起きたのか、まるでわからなかった。
兆しなく、予兆なく、前触れなく、何の切っ掛けもなく、床が抜け落ちた。そのまま、通路の外に投げ出されたスバルは、周囲に目をやり、ゾッとする。
――何もない。そこは、天地創造が行われなかったかのように、何もない空だった。
「――――」
落ちたら絶対に戻ってこられないと、最初にベアトリスはそう言った。その意味が、半ば転落状態にあるスバルにははっきりとわかる。
確かに、無理だ。ここに落ちたら戻れない。戻る手立てがない。見つからない。
だから――、
「何とか、上に戻って……」
床の割れ目に挟まっただけの、頼りない命綱だ。
それが外れないように、回した手首に鞭を巻き、少しずつ、それでも急ぎながら、慎重に自分の体を巻き上げ、巻き上げ、巻き上げ――、
「え」
バツン、とした衝撃は、突然だった。
音にすればバツン。しかし、音は聞こえなかった。それどころではなかった。
「――ぁ」
無情にも、スバルの体を支えていた命綱が、その張り詰めた緊張を失い、必死に足掻く命を嘲笑うように、スバルの身を宙へと放り出していた。
「あ、あああぁぁぁぁ――っ!!」
絶叫しながら、スバルの体はぐるぐるぐるぐると縦に、後ろに回り、天地上下の区別がつかなくなりながら、一気に通路――否、クーゲルシュライバー城から遠ざかる。
遠ざかり遠ざかり遠ざかり、落ちていく。文字通りの、真っ暗な奈落へと。
「み、た……」
猛烈な風に全身を打たれ、凄まじい衝撃に揉まれながら、声がこぼれる。
見た。この目で見た。鞭が外れ、投げ出される瞬間に、見た。――バツンと、通路から外れた鞭の先端が、真新しく、鋭利な切り口を晒しているのを。
誰かが、スバルの鞭を切り、命綱を断ち切った。
断ち切られ、落ちていく、落ちていく、落ちて、落ちて落ちて落ちて落ちて落ちて落ち落ち落ち落ち落ち落ち落落落落落落落落落落落――、
「――――」
こない。
ぐっと歯を噛みしめながら、スバルは来たる地面の衝撃に全身を強張らせていた。
手立てを探ろうとして、すぐに打つ手のなさに気付いた。ベアトリスはいない。鞭を届かせる場所もない。すでに城から何十メートル、何百メートルと離れてしまった。
戻る方法も、助かる術もない。だからあとは、訪れるはずの『死』に備え、とにかく、この窮地を皆に共有するために、必死の覚悟を決めた。
こい。いつでもこい。こい。すぐこい。今こい。こい。早く、すぐに、みんなが危ない。今すぐ、こい。こい。こい。こいって。こいよ。こい!
「――――」
――こない。
「――――」
気付いた。覚悟してから、気付いた。
さっき自分でも理解したはずだ。ここは、天地創造の行われなかった世界。どれだけ落ちていこうとも、激突し、スバルの体を粉々に砕く大地はどこにもない。
このまま落ち続けても、延々延々と落ち続けても、どこにも辿り着かないのだ。
「――――」
頭に浮かんだ恐るべき可能性を、必死に否定しようとした。
だが、否定の最大の味方となる、地面との激突はこない。なおも、風と落下はスバルの体を振り回し、その速度は速くなり続けている。
やがて、視界がブラックアウトした。
体の回転で血の巡りが乱れ、頭と、手足の末端に、血液が行き過ぎる。猛烈な痛みが全身に走り始め、そのまま、スバルの意識は――、
△▼△▼△▼△
「――――」
終わらない。この転落に、終わりはない。
その事実を受け止めるのに、どれだけの時間を費やしたのか、スバルにはわからない。
ただ、落ち続ける体は回転を止めず、それによって起こる血流の乱れで、幾度となく意識を失い、切っ掛けなく意識を取り戻し、悪夢の状況を現実だと思い知らされる。
胃は空腹を訴え、失禁した下半身の感覚はなく、目はとっくに使い物にならない。
それでも、ナツキ・スバルは生きていた。生きて、しまっていた。
「――ぁぁぁぁぁ」
そう、低く唸りながら、スバルは自分の判断の遅さを、愚かさを、呪う。
落ち続け、風に揉まれ続ける体は自由を失い、もはや手足は思った通りに動かない。その手が動かせる間なら、自分で自分の首を絞めることもできたろう。
でも、もうできない。そんな力はどこにもない。同じように、舌を噛む力すら残っていなくて、自分を死に導く手段は、全て失われていた。
「――ぁぁぁぁぁ」
今も、スバルが無意味に落ち続けている今も、ベアトリスたちが危ない。
もう戻ることのできない城の中で、ベアトリスたちは今も、脅威に晒されているかもしれない。――なのに、戻ってやれない。死ぬことすら、できない。
「――ぁぁぁぁぁ」
スバルがどれだけ終わりを望んでも、肺は空気を欲しがり、心臓は血流の狂った体に血を送り、生命としての最低限の活動は行われてしまう。
何もできない、死ねないだけの時間が、延々と、無為に無意味に、引き延ばされる。
「――ぁぁぁぁぁ」
喉が渇いていた。
叫んで、涙を流して、小便を漏らして、体中の水分を流して、カラカラだった。
体は冷え切っていた。
血流は狂い、気が遠くなる時間を風に揉まれ、熱を生む運動を何一つしなかった。
魂が叫んでいた。
ベアトリスを、城にいるみんなを、エミリアを、離れ離れの仲間を、求めていた。
「――ぁぁぁぁぁ」
声を、叫びでも、喚きでもない、唸るような声を、出し続ける。
体の奥底、奥の奥の奥の底、そこから絞り出すようにして、声を、出し続ける。
早く、一秒でも早く、絞り出し切って、死ぬために。
できることは、他に何もなかった。――否、ある。唸る以外にもある。決めることだ。心に硬く誓いを立てて、決めて、それを必ず実行することだ。
手を、離さない。絶対に、離さない。ベアトリスを、離さない。
「――ぁぁぁぁぁ」
何が、あろうと、絶対に、離さない。
「――ぁぁぁぁぁ」
そう硬く、心に誓いを立てて、ナツキ・スバルは、吐き出し続ける。
一滴の一滴、最後の一滴まで、絞り出すように――。
「――ぁぁぁぁぁ」
今回の死に方、結構上位で嫌です。




