第十章31 『ただいま、おかえり』
――思い返せば、フリューゲルというのも謎の多い人物だった。
スバルが初めてその名を聞いたのは、それこそ『フリューゲルの大樹』の情報を得たときだろう。その大きな木を植えた以外、これといった功績が残っていない偉人という話であったが、歴史に名を遺すだけ立派なものだと、そのぐらいの認識。
その後、白鯨を倒すために問題の大樹を切り倒させてもらった経緯があるので、申し訳なさと同時に、木を植えてくれてありがとうの恩人とも言えた。
だが、次にフリューゲルの名を聞いて、にわかにキナ臭さが増したのは、プレアデス監視塔の星番――シャウラの口から、それが彼女のお師様だと語られたときだ。
元々、ルグニカ三英傑の一人であり、『賢者』と謳われていたシャウラ、その功績が実はフリューゲルの押し付けたものだったと聞かされた上、シャウラはどういうわけか、スバルのことをそのお師様と言い張り続けた。――結局、その真相はわからずじまいとなってしまっているが、スバルのフリューゲルへの心証は複雑だ。
白鯨討伐戦の最後の一押しをくれた恩人とも言えるし、シャウラを監視塔に延々と押し込めたとんでもない薄情者とも言える。勝手極まりないことを言えば、フリューゲルがそんななら、シャウラのお師様の称号は自分のモノと言い張りたい。
「我ながら女々しいったらねぇ。……けど、クーゲルシュライバー城って聞いた上でフリューゲルって聞くと、それもドイツ語リスペクトに思えてきたぜ……」
クーゲルシュライバーがドイツ語でボールペンなら、フリューゲルは同じくドイツ語で翼という意味であるはずだ。一時期、スバルも猛烈にカッコいい単語を求め、ドイツ語に辿り着いたことがある。思春期あるあると言えるだろう。
「シュタウプザウガー(掃除機)とかツィットローネンザーフト(レモン果汁)とかな。何を隠そう、ナツミ・シュバルツのシュバルツもドイツ語の黒って意味なんだぜ」
「なんだぜって言われても、さっぱりわからないかしら。……つまり、ベティーの実家とスバルの地元は、同じ単語が使われてるってことになるのよ?」
「そうなる。まぁ、『荒れ地のホーシン』も俺と同じ地元の出身って睨んでるから、その手の単語が散らばってるのはそこまで不思議じゃねぇんだけども」
「さすがにベティーも、城の名付けの経緯は知らないかしら。でも、お母様なら、どんな相手と知り合いでも不思議ではないと思うのよ」
抱っこされているベアトリスの言葉に、スバルは彼女を抱え直しながら、「だよなぁ」と難しい顔で、大きく嘆息した。
確か、『聖域』の茶会の席でも、エキドナ――若ドナの方だが、世界中の色んな人間が知識を求め、自分に会いたいと集まってきたみたいなことを言っていた気がする。あのタイミングだと、特にエキドナに聞きたいことがなかったのでスルーしてしまったが、今さら惜しいことをしていた気になってきた。
「まぁ、若ドナの発言をどこまで信用できるか怪しいとこだが、あいつはあいつで知識をひけらかすことにはプライドがありそうだったんだよな。世界の真実でも聞いておけばよかったか?」
「スバルが世界の真実なんて知ってどうするのかしら。そもそも、世界は別に嘘をついていたりしないと思うのよ」
「そりゃまあなぁ」
何となくで言ってみたものの、世界の真実なんて、確かに知っても持て余しそうだ。
現状、欲しいのは仲間たちの無事と連絡を取る方法、それから王国を救う手段に、敵を永劫に遠ざける術と、そんなところか。確かに世界の真実に見せ場はない。
ともあれ――、
「――まさか、フリューゲルの大樹行きがあっさりと可決されるとは」
そう呟いたスバルの視界、遠くにポツンと見えているのは、話題のフリューゲルの大樹――の、大きな大きな切り株だ。
白鯨の討伐に切り倒された幹の部分はその後運び出され、せっかくなので霊験あらたかな材木として王国の資源に利用されたらしい。おそらくは、フリューゲルの大樹で作られた建物となって、各地で活躍していることだろう。
残された切り株は貴重な観光資源となり、それなりに賑わっているらしく、現状、スバルたちも人払いが済むのを待っている立場だ。
「それまでは、ただおっきな木があるってだけで見向きもされてなかったのに、ホント、みーんな調子がいいったらないよネ」
と、そう声をかけてきたのは、こちらと同じく手持ち無沙汰のフェリスだ。
竜車に背を預け、大樹跡を眺めるスバルたちに並んだ彼は、その黄色い瞳を細め、大樹周りの事情についての感想をぼやく。それに関してはスバルも同意見で、すでに夕刻を過ぎ、空の向こうから夜がやってきているのに人の足が途絶えない。
切り株ビジネスは、白鯨討伐の思わぬ副産物と言えるだろう。
「それにしても、まさか、またスバルくんとフリューゲルの大樹のところにくることがあるなんて驚いちゃった」
「俺も、ここにまた出番があるとは思わなかったよ。大昔、『魔女』の目印扱いされてたスポットって聞いてたら、白鯨のときも違う作戦を提案したんだけどな」
「へえ? 違う作戦って、例えば?」
「そりゃ、大樹を切り倒すのに負けない威力を、みんなの知恵と勇気で絞り出す」
「あは、すごーい。スバルくんってばてんさ~い」
ちっとも思っていない感じに言われ、スバルは苦笑しつつ、横目で相手を窺う。
すでに二ヶ月も一緒に行動しているフェリスだが、いまだにその男装姿を見慣れない。時間だけ言えば、女装した姿よりよほど長時間過ごしているのに、だ。
それだけ似合っていた、というのが理由ではないとは思う。――しこりが残り続けている理由は、スバルにもうまく言語化できないのだが。
「フェリス、本当にお前もついてくるのかしら?」
「ん~、ベアトリスちゃんはイヤ?」
「嫌とかどうとかじゃないのよ。お前の力は貴重かしら。そのお前に何かあったら……」
「心配してくれるんだ? 優しいネ。でも、心配ご無用だよ」
スバルに抱きかかえられるベアトリス、その鼻をフェリスが指でちょんとつつく。それにベアトリスが目を丸くすると、フェリスは目尻をほんのり下げ、
「何があるかわからないところにいくときほど、私がいた方がいいんだって。私なら、首が飛んでも一秒以内なら助けてあげる」
「……ベティーは精霊だから、普通の治癒魔法の効きが悪いのよ」
「うん、知ってる。だからこのふた月で、ちゃーんと更新しておいた」
「――マジかしら」
「マジマジ。――私の前では、死にたい人でも死なせてあげないから、ネ」
それがよほどとんでもないことなのか、フェリスの返事を聞いたベアトリスが、渇きを覚えたみたいに小さく喉を鳴らしている。が、スバル的には実に頼もしいことだ。
実際、『愛し子』との戦いを始めてからは、四六時中、刃に見張られているような、そんな緊張感がピリピリ立ち込めているのだから。
「あとさ、ずっと言おうと思ってたんだけど……」
「うん? なんだ、改まって」
「――――」
「フェリス?」
自分から切り出しておいて、口を閉ざしたフェリスにスバルが首を傾げる。それからしばらく、フェリスは唇を開いて、閉じてを繰り返していたが、
「――私とクルシュ様のことで、いちいち気を回さなくていいから」
「う、バレてたか」
「そりゃバレバレでしょ。……気を遣わせてゴメンとは思ってるけど」
「けど?」
「スバルくんだって、エミリア様とのことで、関係ない奴にあれこれ言われたらワーッてなるでしょ? それとおんなじだと思って」
そのたとえ話には、フェリスは関係ない奴とは思わないとスバルは感じたが、そういう話ではないだろうから、ぐっと反論を堪えた。
とはいえ、何か言えるものなら言いたいが――、
「……切り株、動きがあったみたい。準備してくる」
しかし無情にも、言いたいことを言ったところで、切り株側の動きに気付いたフェリスが背を向ける。そのままそそくさと竜車に戻る彼だが、そうした理由はすぐにわかった。切り株の方から、クルシュがこっちにやってきたのだ。
「ったく、あいつは……」
「――? こちらの手筈は整ったが、何かあったのか、『灰星』」
「んや、何でもないよ、クルシュさん……っと、いけね。『翠麗』、『翠麗』」
気を抜くとつい抜けるコードネームに、慌てて口を塞いで反省。すると、クルシュは小さく唇を緩め、「構わない」と継いで、
「人の耳がある場所でなければ、どちらで呼ばれようと返事はしよう。卿の付けてくれた『翠麗』の響きも、なかなか気に入っている」
「まぁ、本人が気に入ってくれてるんなら、出過ぎた真似じゃなくて何よりだよ。さすがに『長っ舌』みたいな、ほぼ悪口っぽいの付けられたら解釈違いだし」
「解釈違い……」
「スバルの謎の拘りなのよ。たまにある病気だから気にしなくていいかしら。それより、また人払いは『白羊』の功績と見たのよ」
「ああ、そうだ。相変わらず、『白羊』の交渉は見事なものだ。言葉巧みに……というほどの老獪さを感じないが、あのものには自然と耳を傾けたくなる」
「儚げ美少女だけに許された人徳、ってやつだな」
思い返すと、スバルの周りだけでも相当数の美形がいるが、エミリアを筆頭に、いわゆる儚げという表現が似合う人材はほぼいないかもしれない。
「なんかみんな、活力に溢れた美形って気がしてきた。もしかして、一番うじうじしてて儚げなのって、俺……?」
「ふむ、卿の不安の理由はわからないが、何かあればいつなりと頼るといい。私の力の及ぶ範囲であれば、惜しまずこの剣を振るおう」
「言ってる傍からパワフル美人……! 俺がヒロインなら危ないところ……痛い痛い」
「まったく、そうやってまた悪ふざけかしら」
クルシュの頼もしさにドキドキしていると、ベアトリスに頬を抓られ、お仕置きされた。そのスバルたちの様子に微笑し、それからクルシュは切り株を振り向く。
そして――、
「――卿とまた、フリューゲルの大樹を訪れるとはな」
「「あ」」
「――? どうした? おかしなことを言っただろうか」
驚きの声を揃えたスバルとベアトリスに、クルシュが不安そうな目を向ける。その反応に「いやいや」とスバルとベアトリスは一緒に首を横に振り、
「じゃなくて、ちょうど今さっき、ね」
「フェリスの奴も、お前と同じ話をしていったところだったのよ」
「あれが、私と同じ話を……そうか。そうだろうな」
眉を上げた反応も一瞬、クルシュはすぐに納得の様子で頷く。
当然だが、スバルとクルシュ、それにフェリスでこの場所にくれば、共通して思い浮かぶのは白鯨討伐戦になる。――あの戦いの主役であったヴィルヘルムもまた、王都から行方をくらまし、その所在の知れない一人だ。
「ヴィルヘルムさんも、うちの奴らと一緒って話だ。心配は心配だけど……」
「いや、ヴィルヘルムであれば、多少の困難は乗り越えよう。案じるというなら、父のことの方がよほど不安だ。心配性な方だけに、相当心労をかけているだろう」
「――――」
「だが、父も私に家督を譲る以前は公爵だった方だ。王国の有事、その心身で踏みとどまっていただく。私たちにできることは、一日も早い事態の決着だ」
「同感なのよ。そのための、今日の計画かしら」
離れ離れの臣下と家族、その芯の強さを信頼するクルシュが、ベアトリスの言葉に深く顎を引いた。スバルも、改めて身の引き締まる思いで頷き返す。
「なに、心配いらねぇよ。なにせ、ここは俺たちにとってのラッキースポットだ。フリューゲルの大樹でやった作戦で、今まで失敗した試しがねぇ」
「それは……ふ、当然だろうな」
肩をすくめたスバルの軽口に、クルシュが肩の力を抜いた顔で微笑んだ。その微笑みに片目をつむり、スバルは今の軽口を、軽口では終わらせまいと誓う。
仲間の身を案じるのはスバルたちも同じ、そのための解決法が王国を救うことなら、一刻も早くそこに王手をかける。
そのために――、
「――いくぜ、ベア子の実家訪問!」
「その言い方だと、なんだかそこはかとないむず痒さを感じるのよ!」
△▼△▼△▼△
「――こちらとしては、得られた情報の真偽が確かめられるのが第一。ロズワールと連絡をつけることは後回しで構わない。ですが……」
「ですが?」
「いざ、その知識を頼りたいときに別の代替手段が出てくるとなると、はたしてロズワールと友好的な関係を結んでいる意義があるかどうか議論の余地が出ますね」
「そこはほら、友情は見返りを求めないっていうから……」
そのスバルの説得力のないフォローに、ラッセルははっきり渋い顔。
さすがに、メリットとデメリットの勘定だけで人間関係が出来上がっているわけではないと思いたいが、『六枚舌』の長官の価値観を常識で計るのも難しい。
「ましてや、相手がロズワールだからな……あっちの方こそ、どういう基準で人のこと見てるかわからねぇから、人からどう見られてても文句言えねぇ気がする」
あれで案外、人間味があるところもロズワールの味だと思ってはいるが、問題はその人間味を、強固な目的意識で堂々と踏み越えてくる部分にある。
などと、ロズワールとラッセルの友情問題を頭の端に置きつつ、
「けど、大丈夫なのか? 敵に見つからないように、できるだけ目立つ行動は控えてたってのに、観光名所から人払いなんかしちまって」
「無論、あまり望ましい状況ではありません。どれだけ手を尽くしても、噂話というのは雨滴のように染み出します。なので、一晩だけの勝負になるかと」
「一晩、か」
夜の空を見上げ、スバルは区切られた時間の頼りなさに拳を握りしめる。
今、ベアトリスは大樹の切り株の傍を巡り、そこに探し求めるポート――『扉渡り』の効果で城と繋がる、空間の穴のようなものを探している。だが彼女によれば、最後に城を離れて数百年、ポート周りの環境も激変しているはずとのことだ。
「鍵を探せるのがベア子しかいないとはいえ、任せきりにするしかねぇのは歯痒いぜ。頼むから焦るなよ。でも、できるだけ慌てずに急いで……」
「オイ! なにボサッとしてやがる! 見つかったってよ!」
「マジで!?」
祈るような気持ちでいたところにラチンスの歓声が上がり、スバルはラッセルと顔を見合わせると、切り株相手に戦っていたベアトリスのところに駆け付ける。
遠くからでも小さな丘のように見えていた切り株は、近付けばなおさら、その規格外の大きさが際立ち、観光地化するのも納得と思える。
「そして、そんな切り株の傍に小さいベア子がいると、おとぎ話の一幕みたいだぜ」
「言ってくれるもんかしら。まぁ、ベティーがスバルの話してくれた童話のティンカーベルみたいに、悪戯な小悪魔なのは本当なのよ」
「小悪魔? 賢くて可愛いシゴデキ大精霊としか思ったことねぇな。で? で? で?」
「まったく、はしゃぎすぎかしら! ほら、お前たちも寄ってくるのよ」
探し物が見つかってホッとしているだろうに、それを窺わせないドヤ顔が可愛いベアトリスに手招きされ、その場に一同が小走りに集まってくる。
「さすがだ」「すごいですっ」「口だけ態度だけじゃなかったか」「……すごいネ」と、口々に褒められ、上機嫌になったベアトリスは、「おほん」と咳払いし、
「正直、ポートが大樹を基点に設定されてる可能性があったから、いけるかどうか五分五分と思っていたかしら。でも、ちゃんと無事にあるのよ。眠ってるだけかしら」
「眠っている、ですか。それならば、起こすことも可能であると?」
「当然なのよ。――ベティーは、お母様の最高傑作かしら」
ニッと笑ったベアトリスが、その小さな手をスバルへと伸ばす。
それを当然のことと受け入れ、スバルは彼女の手を取ると、その軽い体を一気に抱き上げて、ベアトリスの立っていたところに一緒に立った。
そして――、
「スバル、『扉渡り』をするのに、力を借りるのよ」
「馬鹿言え。お前を連れ出してこっち、俺の方がお前に力を借りっ放しだ!」
「――いくかしら」
繋いだ手と、触れ合った体から、スバルのマナがベアトリスに流れ込む。――どうやらかなり手強い寝坊助らしく、蓄えられたマナが一気に消費されるのがわかった。
さすがに、スバルが萎れ、涸れるまでには起きてほしいものだが――、
「……マナの枯渇は、私助けられないから死んじゃわないでね」
「縁起でもない……!」
みるみる減っていくスバルのマナに不安を覚えたのか、ぼそりと呟いたフェリスにそう言い返す。――その直後だった。
不意に、切り株が脈打った。――否、その手前の空間に、反応があった。
「――――」
実際に音がしたわけではない。
だが、その場にいた全員が、おそらくはゲート越しにマナの大波を感じた。
やがて、反応した空間に淡い紫の光が一条走り、ゆっくりと空中をなぞって、その場に光のお絵描きが始まる。
「これは……」
「――なるほど。扉だな」
驚嘆の先の結論を口にしたクルシュ、彼女の言う通り、ベアトリスのかざした手から始まった紫の光は、空中をなぞり、そこに一枚の光の扉――ポートを作り出した。
疑いようがないぐらい、完璧な、隠しダンジョンへの入口だ。
「状態はどうですか」
「安定しているのよ。起きるのに手こずっただけで、一度起こしたあとはしばらくもつはずかしら。ベティーが手を離しても……この通り、なのよ」
手を引いたベアトリスに合わせ、スバルも一歩、後ろに下がる。それでも、目の前に生じたポートに変化はなく、足下から消えてしまうようなこともない。
それを見て、ラッセルは「よろしい」と顎を引くと、
「――『黒狗』」
「はいはいどうもわかってますとも。危なくて危険なことは、死んでも胸が痛まない張り裂けない奴にやらせるのが一番だーもんなぁ!」
「適材適所というだけです。あなたも欠ければ痛い駒には違いありません」
「くはは! 嬉しくて嘆かわしくて涙が出ーるー!」
ひらひらと手を振り、嫌味を言いながら前に出る『黒狗』。彼はその手をポートに伸ばし、躊躇なくそれを開け放とうとする。
その背に、「『黒狗』」と、『白羊』が上擦った声で呼びかけ、
「き、気を付けてくださいね」
「やれやれ、どいつもこいつも……そこのチビッ子の何年何十年何百年かぶりの里帰りなんだろ? あんまりそんなに実家を悪く言ってやるなよ!」
反論は反論でも、ラッセルへ向けたものと違い、『白羊』への言葉には、どことなく相手を気遣った色があったような気がする。この二人の関係もよくわからないが、あれこれ言いつつ、互いを信頼し合っているようには感じるから不思議だ。
ともあれ――、
「――――」
全員の見ている前で、『黒狗』がポートに手を触れ――ぬるりと、彼の姿が空間の向こう側に呑み込まれる。まさに、空中に見えない空間への入口があるのだ。
『黒狗』の体はポートの向こうに突き抜けることなく、空間を隔てて繋がるどこかへと到達した。そして、息を止めて待つスバルたちの前で、しばらくの時間が経過し――ゆっくりと、彼の手だけがこちら側に戻り、ぐっと親指を立ててみせた。
「これは……」
「あー、大丈夫ってサインみたい。俺の地元のジェスチャーなんだけど」
「最近、『灰星』って『黒狗』と仲良くしてくれてますもんね」
「仲良く……仲良くかなぁ。まぁ、噛まない相手ってわかったのは進歩だよね」
狙っていたわけではないが、指でサインを送るあたりに、『黒狗』のコードネーム通りの犬扱いしているような感を今さら覚える。あんな人に懐かない大型犬、危なすぎてベアトリスの傍には絶対に置けないだろうが。
いずれにせよ――、
「問題ないのであれば構いません。――『白羊』、次はあなたが」
「は、はいっ! ええと……いきますっ」
ラッセルに促され、『白羊』は少し躊躇いつつ、まだこちらに出しっ放しの『黒狗』の手をおずおずと握った。途端、ぐいっと手を引き寄せられ、「うひゃあっ」と悲鳴を上げながら、彼女の姿もポートの向こうに消える。
「チッ、なんだってオレが『魔女』と関係した城なんぞに……」
「愚痴るな、『長っ舌』。卿の機転は頼りになる。フェルトはいい従者を見つけた」
「うるっせえ! 従者なんてもんじゃねえよ! ただ成り行きのツレだ、ツレ!」
と、その後は成り行きで王選まで付き合っているらしいラチンスと、恐れを知らない様子のクルシュがポートに乗り込んでいく。それに続く寸前、ちらとフェリスがこちらを向いたのは、先ほどのスバルの消耗を気にしてのことか。
「大丈夫、ピンピンしてる。何なら軽そうだし、お前も抱き上げられるぜ」
「ケッコーです! ……なんかあったらすぐ言ってよね」
それだけ言い残し、フェリスもポートの向こうへ。それを見送ったスバルの腕の中、ベアトリスが身じろぎして、
「言われたかしら」
「言われちまったわ。――で、ラッセルさんもいくの?」
続々とポートを潜った面々を見送り、スバルは最後に残るラッセルを見る。
『六枚舌』の長官であり、代わりの利かないポジションであるラッセルだ。そうそう、現場に直接赴くわけにもいくまいと思って尋ねたのだが、意外にも彼は首を横に振り、
「できれば、私も指示役に徹したいところではありますが、『魔女』の研究を当たるとなると、この目の価値を使わない手はないでしょう」
「あー、『目利きの加護』か」
「ええ。『魔女』の研究ともなると、只人には理解の及ばぬことも覚悟しなくては。ただ、理解のできないものでも、その価値の有無と多寡はこの目が見極めます」
「なるほど……言われると、確かにダンジョンアタックに欠かせないスキルだわ」
ダンジョンに潜るハクスラなどのゲームでは、未鑑定のアイテムを持ち帰り、それが価値あるものかどうか、地上で調べるまでわからないなんてことがザラにあるが、ラッセルの加護は、そのアイテムの価値だけは見極められる。
手当たり次第や、骨折り損のくたびれ儲けをしなくて済むのはとてもありがたい。
「なので、この場の確保は他の人員に任せ、同行します」
言って、ラッセルが指を鳴らし、竜車の方に手を使った複雑な符丁を送った。
『六枚舌』独自の符丁らしく、ちょこちょこ使っている場面を見るので、スバルも適時覚えようとしてみているが、なかなかうまくいかない。
「簡単に覚えられては困りますから、それで正解ですよ。もっとも、『黒狗』のように覚える気がないものも困りますが」
「『黒狗』も、スバルのハンドサインは気に入ったみたいだから、教え方の問題かもしれんのよ。教える奴の問題かもしれんかしら」
「やれやれですね。――では、お先に」
都合の悪い話に耳を塞ぐように、ラッセルが先にポートを潜り、向こうへ渡った。
これで、切り株の前に残ったのはスバルとベアトリスだけ。そのまま、先にいった面々の背中をスパッと追うこともできるが――、
「――四百年は無理だけど、気持ちの整理がつくまで三百年くらい待とうか?」
「……まったく、気を回しすぎなのよ。緊張は、ちょっぴりだけかしら」
抱きかかえられるベアトリスが、わずかに硬くしていた体の力を抜いて、ふんにゃりと笑った。それから、四百年も帰らなかった実家の玄関を見つめ、
「――今なのよ!」
「よしきた!」
無意味に勢いをつけて、ベアトリスを抱いたスバルがぴょんとポートに飛び込む。
瞬間、薄い光の幕を潜り抜ける淡い感覚があり、リーファウス平原の草原の空気が背後に遠ざかって――代わりに、冷たく乾いた風が二人を出迎えた。
「――――」
着地した足裏に、石造りの床の感触がある。
すぐ後ろには、大樹跡と繋がるポートが入口側と同じように開いており、先に入った六人が少し離れたところで、辺りを見回しながら立っていた。
暗く、光源のない場所だ。唯一、先に入った仲間たちの姿が見えるのは、『黒狗』とラチンスの二人が、その指先に火を灯し、簡易の灯りにしているから。
城、なのだろうか。ただ、空気には独特の重みがあるように感じられ、それが『魔女』の家だからか、四百年分の沈黙の重みかはわからない。
「ここが……」
「クーゲルシュライバー城、かしら」
恐々と呟くスバルは、肩を叩くベアトリスをそっと床に下ろした。
自分の足で城の床を踏み、ベアトリスが歩く。靴音が城内に響いて、暗がりに埋もれた壁や柱、左右に続く長い通路が、その反響を遠くへ運んでいく。
まるで、四百年ぶりの住人の帰還を、歓迎するかのように。
「――――」
目をつむり、ベアトリスはその城の空気を、小さな体いっぱいで確かめている。
そのベアトリスの心情に配慮してか、声をかけずにいてくれる面々に感謝しつつ、スバルは無音の城に代わり、ベアトリスの頭にポンと手を置いた。
そして――、
「おかえり、ベア子」
「――。ただいま、なのよ」
その挨拶に応じるように、不意に、城の壁面が淡く光を放ち始めた。
とっさに息を詰める他のものたちを手で制し、スバルは辺りを見回して、その淡い光に見覚え――『聖域』の墓所、その中が同じように光っていたのを思い出す。
やはり、『強欲の魔女』の城を名乗るだけあって、共通点は殊の外多そうだ。
城。――そこは、紛れもなく城だった。
ただし――、
「それにしても……ずいぶん荒れてるな」
光に闇が退けられ、月光よりもはっきりと城の内装が照らし出される。――そうして見えるようになった城の内装は、お世辞にも来賓を招ける状態ではなかった。
なにせ、壁は巨大な掌で押し潰されたように陥没し、分厚い柱は途中から無理やり折り曲げられたものもある。天井は大きく抉れ、砕けた石材がまとめて圧縮され、不可解にも球状に丸めて転がされていた。城の奥に続いている廊下も、片方は半ばで潰れ、扉も、窓も、床さえも、本来あるべき形を保てていない。
「長いこと放っておかれてた荒れ方じゃないな。よっぽど片付けが下手だったんじゃない限り、もしかして、これがベア子がお母様と一緒に城から出てった理由か?」
「それで合ってるかしら。確かに、お母様は片付けがあまり得意じゃなかったけど、これはそういうのとは違うのよ。――『憂鬱の魔人』の仕業かしら」
「憂鬱の、魔人って……それ、確か」
以前、『聖域』の管理者であったリューズ・シーマから聞いたことのある名だ。
『聖域』に存在した結界、それが作り出される切っ掛けであり、ベアトリスと、初めての友人との別れの原因ともなった存在。――歴史に隠された、番外の大罪。
「スバルも、リューズから聞いていたようなのよ。――『憂鬱の魔人』ヘクトールは、ベティーやお母様、あとついでにロズワールにとっての長年の敵だった男かしら。お母様に執着して、延々付きまとっていたのよ」
「付きまとい……『魔女』のストーカーとは、とんでもない奴がいたもんだ。よっぽど、お前のお母様に惚れ込んでたって?」
「歪んだ愛情という意味ではそうかしら。でも、惚れた腫れたってのじゃないのよ。だって、ヘクトールはお母様の父親かしら」
「――――」
そう言われ、スバルは予想外の驚きに息を呑む。とっさに胸に手をやった指が、首から下げた黒球に触れ、何となくそれを握りしめる。
――『憂鬱の魔人』ヘクトール、それが『強欲の魔女』エキドナの父親。
「情報が増えるほど、とんでも野郎って気がしてくるな、そのヘクトール。……あ、でもエキドナって言っても、ベア子の方のエキドナだから大丈夫……? いや、クソ、混乱するな。チクショウ、エキドナめ……!」
「もちゃもちゃする必要ないのよ。心配しなくても、ヘクトール……お母様の父親はもうどこにもいないかしら。父親だけじゃなく、母親もなのよ」
「その言い方だと、母親も曰くありげだな……」
「『魔女』かしら。――『虚飾の魔女』パンドラ、それがお母様の母親なのよ」
なんてことのないように言って、ベアトリスがとてとてと歩き出す。
正直、スバルは今の初めての情報にかなり驚かされている。
「父親が『憂鬱』で、母親が『虚飾』……」
どちらも、七つの大罪が現在の形に変わる以前、旧大罪に含まれていた人類の罪。
その過去の大罪を背負ったものがいたとは聞いていたが、まさかそれがどちらもエキドナの関係者――彼女が『魔女』と『魔人』の子とは、なるほどと言えばなるほどだ。
思えばエキドナは茶会で、『魔女』というものにとりわけ拘りがあったように思う。それが、そうした自分の出自に関係していたかは定かではないが――、
「……やっぱり、もう少しお前と話しておいてもよかったな」
二度と訪れない機会を惜しく思い、スバルはそう呟いた。
そのスバルを余所に、ベアトリスが歩いた先、そこには、床にとびきり大きな穴が空いており、『白羊』が恐る恐る覗き込んでいるところだった。
「『白羊』、うっかり覗いて落ちたら洒落にならんから気を付けるかしら」
その『白羊』の隣に並び、ベアトリスが足下の石片を穴に蹴り落とす。――しかし、石片が落ちて、底に当たる音は聞こえてこない。
その事実に『白羊』だけでなく、他のみんなも目を丸くする中、ベアトリスは腰に手を当てて、一同に振り返り、
「ここはクーゲルシュライバー城……異空間の空に浮かべた『魔女』の家なのよ。落ちたら絶対に戻ってこられないから、全員、心して歩くことかしら」
と、四百年ぶりの実家の歩き方を、そうレクチャーしたのだった。




