第十章30 『ボールペン』
ウィッグと化粧だけでなく、ドレスを着替え、作戦の名残を消したスバルが狩猟小屋の広間に戻ると、ちょうど続々と他のものも集い始めたところだった。
狩猟小屋は、いわゆるロッジのようなもので、その名前から受ける印象よりずっと広く、複数人の寝泊まりにも対応できそうな環境だ。とはいえ、モロー邸の作戦に参加した主要な顔ぶれが一堂に会するとさすがに窮屈ではある。
だから、そこに珍しい顔があって、スバルは「お」と眉を上げた。
「『黒狗』もいるなんて珍しい。いつもこういう話し合いには参加しないじゃんか」
「くははは、オレだって積極的でも前のめりでもないさ。たーだ、今後の方針会議には出ろって口うるさく耳にうるさく言われてる。宮仕えの辛さってやつだ」
言いながらケタケタと笑ったのは、広間の端で壁に背を預け、床に足を投げ出した格好でいる『黒狗』だ。ドレスを着替えたスバルと同じく、彼もまた給仕服を脱いで、いつもの仮面にローブを纏った姿でいる。
別段、隠す必要を感じない色男だと思うのだが、感じ方は人それぞれか。
「ともあれ、普段不真面目な奴が宮仕えの辛さなんて語っても響かねぇな。お前がちゃんとしてねぇと、『白羊』ちゃんの負担がヤバいだろ」
「オイオイ、気が多くて無節操なのもいい加減にしろよ。半魔に公爵に連れてるチビッ子、どれだけ囲い込んだら気が済むんだ、色男?」
「スバルの気が多いのは本当でも、お前の態度は目に余るかしら。ベティーの目には『白羊』が不憫でならんのよ。今度ねぎらいに肩でも揉んでやるかしら」
「いいと思う。ベア子の肩もみは全然効果ないけど、可愛くて癒されるから」
嫌味を言いながら、親指で首を切るポーズをしてくる『黒狗』に、スバルとベアトリスは揃って、親指を下に向けるブーイングで応える。
指のアクション自体は物騒なものだが、これでもこの二ヶ月で培った円満なコミュニケーションだ。教えたのはスバルだが、存外『黒狗』も気に入っているらしい。
「『灰星』さんも『司書』さんも、『黒狗』がごめんなさい。本人に悪気は……あると思いますけど、悪意はないんです。たぶん、本当に」
その『黒狗』の態度を、保護者役の『白羊』が代わりに謝罪する。
両手に持ったお茶のカップを差し出している彼女に、スバルは「いやいや」と苦笑しながら、ありがたくベアトリスと二人分のカップを受け取った。
「『白羊』ちゃんが謝ることじゃないから。あいつもいい大人なんだし、自分の尻は自分で拭かせよう。……お、うまい。さすが、俺の好みがわかってる」
「お気遣いありがとうございますっ。あと、お茶の味はわたしじゃなくて、手伝ってくれた『青蛇』が合わせてくれたものですので」
「む、フェリ……『青蛇』が」
名前で呼びかけたのをギリギリで堪え、スバルは部屋の中央を見る。
そちらには簡素な小卓があり、先の作戦で大きな役割を果たしたクルシュが腕を組み、目をつむって体を休めている。その目の前にカップが置かれると、眼帯に覆われていない方の目が開かれ、カップを置いたフェリスと、目が合った。
たぶん、気付かれずに置きたかったのだろうフェリスは、観念したように吐息し、
「……お茶です、『翠麗』様」
「ああ、感謝する」
「お体はどうですか?」
「好調とはいかないが、以前に比べれば力に振り回されなくなってきた。騙し騙しやるしかないだろう」
「そですか。お茶、ぬるくしてありますので」
「そうか。熱いのは苦手なのでな。助かる」
「知ってます」
「そうか」
目礼し、クルシュがお茶に口を付けると、フェリスは卓を挟んで彼女から一番遠い席に座り、頬杖を突いた。――そんな何気ないやり取りなのに、緊張感MAXだった。
「あ、危うく呼吸を忘れるとこだったぜ……」
「というか、スバルは息を止めてたのよ。つられてベティーも息が詰まる思いかしら。あれ、何とかしてやれないもんなのよ?」
「何とかしたいとは、この二ヶ月ずっと思ってるけどさ……」
何かと心配事の尽きない状況だが、目下、すぐ間近の心配事と言えば、今しがた繰り広げられたような、クルシュとフェリスの摩擦関係だ。
そうなった事情の触りしか知らないスバルだが、主従関係に入った亀裂の修復に、第三者がどこまで力になれるのか不安な手探りが続いている。――求められるのは、スバルとエミリアを和解させた、『聖域』でのオットーのような立ち回りなのだが。
「あいつがいないとこだから素直に褒めるけど、あいつ時々すげぇな。どうやったら、この拗れた関係を正常に戻せるビジョンが浮かぶんだ?」
「スバルとエミリアみたいに、あの二人を箱に閉じ込めたらうまくいくって話じゃなさそうかしら」
「今、あの二人を箱に入れても、気まずい無言が続くだけじゃねぇかな……」
そもそも、スバルとエミリアも、ただ箱に入れて仲直りしたわけではないが。
もちろん、できるだけ二人に同時に話を振ったり、うまく二人でいる時間を用意しようとしてみたり、スバルなりにクルシュとフェリスの関係修復を促す努力はした。
だがそれも、間に挟まったスバルを介したコミュニケーションになったり、二人の息の合った連携で会話を必要としなかったり、不発が続いている。
今回の作戦も、当初はスバルではなく、フェリスが妻役を務める形はどうかと提案したものだったのだが――、
「断固、ドレスは着ないって絶対拒否だったのよ」
「だな。ったく、ナツミがいなかったら、作戦がどうなってたことか。ラチンスはともかく、『黒狗』はドレスなんか絶対着れねぇからな」
「……別に、絶対に女装しなきゃいけないルールじゃないかしら」
「でも、それで偽の子爵の意表は突けたし、パニエの中にベア子も隠せた。一石二鳥どころか三鳥で効果覿面、帝国でも実績がある。やらない理由がない。――Q.E.D.」
「なんか無理くり丸め込まれた気がするロジックなのよ……?」
唇を尖らせ、悩み多き年頃の顔をしたベアトリスの頭をスバルが撫でる。と、そこへ遅れて、別室で話していたらしいラッセルたちがやってくる。
「ご歓談中に失礼。改めて、今後の方針について話しましょう」
言いながら、『白羊』からお茶のカップを受け取るラッセル。その後ろにげんなりした顔で続くラチンスの脇を、「ヘイ」とスバルは肘でつついた。
「何話してたんだ? また仲良く悪巧みかよ」
「仲良くだぁ? テメエの目は節穴かよ。ちまちまと面倒事押し付けられただけだ。あのヤロー、オレを奴隷かなんかだと勘違いしてんじゃねえのか」
「まぁ、生殺与奪の権を握らせてると言えば、俺もお前もベア子も、ラッセルさんの奴隷と言えるかもしれねぇな」
「だとしたら、負担がオレに偏りすぎてんだろうが! テメエらもちったぁ……あー、やっぱいい。テメエらに任せる方がよっぽど不安だ」
「そういうとこじゃねぇかなぁ」
「ああん?」と、苦労性の自覚がなさそうな返事をするラチンスだが、その性分が、ラッセルにあれこれ見込まれている原因なのは間違いない。
口調こそ荒々しいが、たぶん、真面目な内政官タイプなのだ。詳しく聞いていないが、実は名家の出身という意外な設定も関係あるのだろうか。
ともあれ――、
「――『桃兎』から連絡がありました。対『愛し子』に、進展を見込めそうです」
と、小卓に手をついたラッセルからの報告に、にわかに空気が張り詰める。
自然と、スバルもベアトリスを膝に抱えて着席し、床に座った『黒狗』以外の面々が卓につくのを、ラッセルが満足げに見届けた。
「ここしばらくの同行で、『翠麗』たちも『愛し子』の危険性は十分わかったでしょう。あれらを抜本的に取り除かなければ、王国の崩壊は免れない」
「ああ、今夜のことだけじゃない。『入れ替え人形』がこれだけあちこちで起こってるとあっちゃ、おちおち誰かとハグもできねぇ」
「ベティーにとっては死活問題かしら」
膝の上の定位置にいるベアトリスと頷き合い、スバルは王国に蔓延する『愛し子』たちの魔の手――その想像以上の浸透具合に頬の内を噛む。
この問題を解決しないままでは、たとえエミリアが王冠を被ることができても、彼女の望む国造りなどできるはずもない。これは王国で生きる一人として、何より、王選候補者の騎士として、スバルが晴らさなければならない暗雲なのだ。
「それで、『桃兎』ちゃんだっけ。その子はなんて言ってきてるの? 『愛し子』の名簿が手に入ったとか、本拠地がわかったとか?」
「期待はわかりますが、名簿は存在しないでしょう。全ての情報を掌握しているのは彼らの母親だけ……情報の共有をさせず、孤立させるのも躾の手口、でしたね?」
「ええと、はい。そういう人、でした」
思い出すのも辛いだろう記憶に触れられ、『白羊』がわずかに眉を下げる。
ますます、『愛し子』のトップ――『色欲』のカペラにヘイトの溜まる流れだが、フェリスの期待はスバルのそれとも大きく違わない。『愛し子』との戦いが進展するというなら、それを一網打尽にできる可能性に飛びつきたいところだ。
「でもそうじゃないってなると、わかったのは何の情報なんだ?」
「――『入れ替え人形』含め、『色欲』の権能の被害に遭ったものを、元に戻すことができるかもしれない、という情報です」
「――っ」
瞬間、椅子を高く鳴らしたのは、その場に立ち上がったフェリスだ。
小卓に手をついた彼は目を見開き、唇をわななかせる。
「元にって……治せるってこと? あの人たちを、みんな?」
「あくまで可能性、糸口に過ぎません。落ち着きなさい、『青蛇』」
「落ち着けるわけないでしょ! だって、それがあるんなら……」
言葉の途中で俯くフェリス、その続きがスバルにはわかる。
たぶん、こうだ。――そんな方法があるなら、『神龍教会』を頼らなかった。そして、『神龍教会』を頼っていなかったなら、クルシュは今も、と。
だが――、
「過去を悔いても、得られるのは無力感ばかりだ。省みることはいいが、拘泥することがよい結果を生むとは到底思えないな」
そんなフェリスの悔悟は、他ならぬクルシュ自身に否定される。
頬を痛々しく強張らせたフェリスに、スバルはクルシュの方を見た。しかし、眼帯に覆われていない方の目も閉じたクルシュからは、欲しい答えは得られそうにない。
「今言った通り、手に入った情報は解決の糸口……少なくとも、『色欲』の権能の原理の究明に一役買うことになるでしょう。それがわかれば対処法も」
「現状、私の『風見の加護』で真贋の見極めは可能でも、権能の被害者を救うことはできない。我が身のことを振り返れば、手立てがないわけではないが――」
「――『神龍教会』の秘蹟には、極力頼りたくないというのが本音です」
静かだが、有無を言わせないラッセルの口調に、スバルは思わず鼻白んだ。
「本音で話してくれるのは嬉しいけど、そりゃまたどうして。実際、秘蹟に効果があることは……その、あれだ」
「効果は私の体が証明している。――フィルオーレの秘蹟は私を癒した。無論、『色欲』の権能と、私の体を蝕んだあれを同一視していいかは不明だが」
言い淀んだスバルに代わり、当事者のクルシュが自ら語った。
その疑問に対し、ラッセルが顎髭に触れながら、ちらと視線を『白羊』に向ける。それを受け、『白羊』は小さく頷くと、
「フィルオーレのことは、わたしも知っています。あの子が王選候補者に向いているかはともかく、『神龍教会』も信用し切れない組織なのは間違いありません。……わたしも、『愛し子』時代は教会の一員でした。きっと他にも――」
「教会まで『愛し子』が入り込んで……ってのは、城のお偉方がやられてた時点で驚きってほどじゃねぇか。それに……」
「――ティーガ・ラウレオン、あのものも敵に与しているようだったな」
ちらと向けたスバルの目配せに、頷くクルシュがティーガの名前を出す。
マイクロトフの屋敷でクルシュと戦い、その後、彼女と逃亡したスバルまでも、マイクロトフ暗殺の共犯と報告したらしいティーガだ。状況から見て、彼が『愛し子』サイドと協調している可能性はかなり高い。――彼自身が『愛し子』の可能性すらある。
「あいつとは、友達になれると思ったんだけどな……なんて悔やんでても仕方ねぇ。とにかく、『神龍教会』も一枚岩じゃなく、間違いなく『愛し子』も入り込んでる。だから、迂闊に秘蹟には頼れない、ってこと?」
「――――」
「あれ? 『白羊』ちゃん?」
「あっ、ごめんなさい、ボーッとしてしまってましたっ」
重ねたスバルの呼びかけに、『白羊』が慌ててそう答える。
ただ、ボーッとしていたというより、スバルには『白羊』の様子が、まるで痛みを堪えるような、遠くの何かを想うような風に見えたのが気にかかった。
しかし、それを追及しかけたスバルを、ラッセルの咳払いが遮り、
「それがなくとも、私は王城と『神龍教会』とは、一定の距離を保っているのが健全だと考えています。新たな王選候補者の意向に拘らず、『神龍教会』の影響力が大きくなりすぎる手は取りたくない」
「ハッ、ご大層に手なんか選んでられる状況かよ。選り好みしてる間に国が滅んじまったら、『六枚舌』もいい恥の上塗りだな」
「無論、優先順位を見誤るつもりはありませんよ。打つ手がなければ、『神龍教会』の秘蹟だろうと頼らざるを得ない。それも、『神龍教会』の中にいる敵を突き止められなければ、現実的な案とは言えませんが」
「――それでこれであれで? その現実的かつ実現的な案とやらを聞かせてみろよ」
『白羊』から説明を引き取ったラッセルに、そう茶々を入れたのは『黒狗』だ。長い足を床に投げ出したままの『黒狗』は、集まる視線に「なんだどうした」と笑い、
「進まない続かない話に業を煮やしたってだーけーだ。さあさ、話せ話せ腹を割れ! さもないと……いい加減、オレも眠気と根気の限界だ!」
「――。話したように、『色欲』の権能の原理さえわかれば、秘蹟なしでも対処法を探る道筋が立つかもしれません。ただし、それにはある知識が必要になってくる」
「ある知識?」
「ええ。そこで『灰星』、あなたに相談があります」
『黒狗』に促されたことは釈然としないながらも、話を先に進めたラッセルの言葉に、スバルは自分を指差し、首を傾げた。
この流れでスバルに相談とは、いったい何事だろうか。
「力になれることなら何でもだけど、相談って?」
「――ロズワールと連絡を取りたいのです。彼の知識に頼りたい。ですので、雲隠れしている彼と連絡を取り合う術に、心当たりはありませんか」
「ロズワールと、なのよ?」
その名前を聞いて、ベアトリスが訝しげに眉を顰めた。
城に拘禁されたエミリアたちと、王都から逃亡したレムたち、それと同じように、ロズワールもまた、フレデリカや、ロズワール邸にいたリューズとその複製体姉妹の『メイエルズ』、シルフィたちと共に行方をくらましている。
聞いた話だと、王城への登城要請を拒否してバックレているらしく、立場としては完全にお尋ね者ルートに入っているそうだ。――つまり、陣営全員指名手配犯である。
「けど、城にいるっていうエミリアとラム以外の居所は俺たちもわかってねぇよ。ロズワールも例外じゃない。それはラッセ……『銀狐』もわかってるだろ?」
「ええ、そういうお話でしたね。少なくとも、私への報告では」
「――。つまり、ベティーたちがお前たちに隠れて、ロズワールや他の連中と連絡を取り合う手段を持っていると疑っているわけかしら」
「あっても至極当然の警戒と用意ですから、責めはしません」
「お前の方こそ、お友達なら連絡方法の一つや二つ持っていて不思議はないのよ」
「生憎と、その三つ四つも潰されたようで。元々、ロズワールの周りには『六枚舌』のものも配置できませんでしたので、本当の行方知れずです」
肩をすくめるラッセルに、ベアトリスの視線は厳しい。
が、これはスバルからすれば不毛な争いだ。なにせ、ロズワールと連絡する方法がないのはスバルたちも同じ、疑り深いのはラッセルの悪癖だ。職業病かもしれない。
「ちなみに、ロズワールの知識を借りたいってのはどういう話なんだ?」
それ次第では、ロズワールに頼らなくても答えが見つかるかもしれない。
もちろん、ラッセル側で十分に検討した上で、ロズワールならばという考えにはなっているのだろうが、聞くだけならタダだ。
そんな考えで尋ねたスバルに、ラッセルはわずかに目を細めると、
「――『魔女』の研究について」
「え……」
飛び出した単語を聞いて、スバルは目を見張り、息を呑んだ。
そのスバルの反応を余所に、ラッセルは頷いて――、
「どうやら、『魔女』の中に魂の変容について研究していたものがいるらしく、それについての知識を当たりたいのですよ。――確かに、その心当たりのある人材であれば、ロズワールである必要はありませんが、ね」
△▼△▼△▼△
――『魔女』の研究が、『色欲』の権能のカウンターになる。
「ってのは盲点だった。てか、魔女教の話なんだから、『魔女』って単語に意外性があるのがそもそもおかしいんだよな。あいつら、全然『魔女』の話しないから」
何の因果か、六席あるらしい大罪司教の枠の『傲慢』以外とは出くわしたことのあるスバルだが、ちゃんと『魔女』『魔女』言っていたのはペテルギウスくらいのもので、他の連中は『魔女』について言及していた覚えがない。
「いや、シリウスもなんか言ってた気がする。けど、あれもペテルギウスを取られた恨み節みたいな感じだったような……」
「なんにせよ、碌な話じゃないかしら。あいつらに『魔女』の――お母様の話をされるなんて、考えただけでもゾッとするのよ」
スバルの呟きに応じるベアトリス、その語調の弱さと気もそぞろな様子に、スバルはベッドに座った彼女の隣に腰を下ろし、その頭を引き寄せ、胸に抱いた。
広間の話し合いを切り上げ、狩猟小屋の一室に引き上げたところだ。贅沢に、スバルとベアトリスだけの部屋なので、ここでは安心して胸襟を開ける。
「別に、みんなのいるとこでも隠し事なんてしてねぇんだけども」
生憎と、その姿勢は少なくともラッセルにはわかってもらえていないらしい。
どうもラッセルは、スバルがエミリア陣営の騎士としてバリバリに策謀を巡らせ、数多の手札を隠し持った人材と誤解している。そう思わせた一因に、おそらくは白鯨討伐のためのクルシュやアナスタシアとの交渉があるので、スバルに何の責任もないというのはいささか都合が良すぎるが。
いずれにせよ、ラッセルには「ロズワールとの連絡方法を探ってみる」という名目で時間をもらい、スバルはベアトリスとの密談を設けることにした。
無論、議題は言うまでもなく――、
「――魂の変容について研究した『魔女』、か」
「……スバルも、それがお母様のことだと思うかしら」
「お母様ってなると、あれだな。ベア子とかロズワールと縁が深い方のエキドナ」
「なのよ」
コクンと腕の中で頷くベアトリスに、スバルは「ううむ」と小さく唸る。
たびたびスバルの異世界生活に混乱をまき散らしていく『強欲の魔女』だが、今回もその例に漏れず、ややこしい形で事態に関わってくるようだ。
「俺の知ってるエキドナと、ベア子の母親のエキドナ。それに、アナスタシアさんところの襟ドナと、帝国で出くわしたスピンクス……エキドナのバーゲンセールかよ」
「ベティーに言わせれば、スバルやエミリアの知ってる『強欲の魔女』が、出来の悪いパチモンかしら。お母様はそんな意地悪な悪人じゃないのよ」
「まぁ、話聞いてる限り、悪そうなのは俺の知ってるエキドナなんだよな……」
ベアトリスの主張するエキドナは、『聖域』を作り上げた功労者であり、何より、ベアトリスをこの世に生み出した、スバルも感謝しかない存在だ。その実在は、『聖域』の墓所の最奥に隠された棺、その中に安置された亡骸からも明らかだった。
スバルも、棺の中で眠る、そのエキドナを見たから間違いないが――、
「特徴はおんなじでも、別人なんだよな。……ちょっと、ベア子たちのエキドナの方が大人というか、お姉さんというか、母ドナとか親ドナって感じで」
「な、何たる呼び方をするかしら……! いくらスバルでも、お母様をそんなぞんざいに扱うのはベティーが許さんのよ……!」
「いやいや、ごめん! 気持ちはわかる! わかるが、どう説明つけるかな」
一応、スバルの中では、この問題を解決する仮説はある。――それは、スバルが墓所で出くわしたエキドナは若い頃の彼女で、あの彼女が成長し、大人としての振る舞いを身に着けた結果が、ベアトリスの母たる気質を備えた親ドナではないか、だ。
その場合、墓所の中にいたエキドナは、魂状態で若返ったことで、せっかく身に着けた分別を全部落っことしてきたのかもしれない。
「それなら、あいつの鬼畜魔女ぶりにも筋が通る……か。どのみち、ベア子にとっては考えたくない可能性だろうけど」
「スバルが嘘をついてるとは思わないかしら。でも、信じ難いのは間違いないのよ。それに、ラッセルの奴の考えについても、ベティーは懐疑的かしら」
「懐疑的ってのは、ラッセルさんの持ってきた話が『色欲』対策になるか怪しいって話じゃなくて、か?」
「なのよ。――お母様の研究が手掛かりになるとしても、ベティーは『禁書庫』でそれに関連した本を見たことがないかしら。ただの一冊も、なのよ」
視線を落としたベアトリスの言葉に、スバルは何とも言えない複雑な思いだ。
ベアトリスが『禁書庫』で過ごした四百年は、彼女にとって母からの使命であると同時に、長すぎる孤独を強いる時間でもあった。その四百年で、ベアトリスは『禁書庫』にあった本の全てに目を通したというのだ。
そしてそこに、ラッセルの欲する『魂』にまつわる内容は見当たらなかったと。
ただ――、
「エキドナが『魂』について研究してたのは、絶対間違いねぇんだよなぁ」
墓所で、エキドナはスバルに不老不死を目的とした研究をしていたと語り、実際、『魂』を別の器に入れ替える的な方針の失敗作であるスピンクスも実在した。
だから、『魂』について研究していた『魔女』というのが、エキドナのことを指しているのは確実だ。問題は、その研究資料が『禁書庫』に一つもなかったこと。
スバルの立てた仮説だと、スバルの知るエキドナの未来の姿が、ベアトリスが母親と慕っている親ドナだ。非道の研究をするなら、過去ドナか若ドナというべき、性格のねじくれた方のはずだから、親ドナにとっては過去の自分の研究ということになる。
ならば、ベアトリスに託す『禁書庫』に、それに関連した本があるのが自然だ。
「……頭がこんがらがるかしら。でも、お母様以外の『魔女』に、お母様よりそういう分野を深めた『魔女』がいるなんて、とても信じられんのよ」
「まぁ、俺の知ってる『魔女』たちも、そんな感じは全然なかった」
思い出されるエキドナ以外の大罪の『魔女』たちは、ミネルヴァもセクメトも、ダフネもカーミラもテュフォンも、そういう研究者肌とはまるで無縁に思えた。――もちろん、サテラもその枠には収まらないだろう、とも。
「……つまり、研究したのはエキドナなのに、その研究資料を『禁書庫』に置かなかった理由がある、ってことか。禁書ってほどじゃなかったとか?」
「名前は『禁書庫』でも、何でもかんでも禁書だったわけじゃないかしら。リューズがお母様に教えたミートパイのレシピ本なんかも置いてあったのよ」
「そりゃ、秘伝のレシピなら十分に禁書――」
苦笑し、そう言いかけたところで、ふとスバルは息を詰めた。そのスバルの反応に、ベアトリスが「スバル?」と丸い瞳でこちらを見る。
一瞬、脳裏をある可能性が過った。それは、スバルの記憶にある若ドナの印象にはありえないが、ベアトリスから聞く親ドナの印象ならばありえる可能性。
禁書扱いの内容を、ベアトリスの『禁書庫』に置かなかった理由、それが――、
「――リューズさんのことがあったから、とか」
「……リューズの?」
「ああ、リューズさんって言っても、今も俺たちの知恵袋してくれてるみんなのお婆ちゃんリューズさんじゃなくて、お前の……ベア子の、最初の友達の」
「――――」
目を見張ったベアトリス、その双眸の特徴的な紋様が激しい動揺に揺れた。
以前、ベアトリスから打ち明けられた、『聖域』時代の友人――複製体であるリューズたちのオリジナルの、リューズ・メイエルという少女の存在。
『聖域』のシステムの犠牲になったという少女は、ベアトリスの最初の友達であり、その友との別れは、ベアトリスが孤独を選んだ理由にも大きな影響を与えていた。
そして『聖域』のシステムは、『強欲の魔女』の不老不死研究――すなわち、『魂』を用いた研究を応用したものだとも聞く。――だから、思ったのだ。
「もしかしたら、お前のお母様は、そのことを思い出させることになる資料を、お前の目の届くところに置いておきたくなかったのかも、とか」
「おかあ、さまが……」
「――っ」
それは思いつきとも言えないような、仮定に仮定を重ねてもはや妄想だった。そんな確証のない話を聞かされ、瞳を潤ませたベアトリスにスバルは慌てる。
母への想いや思い出は、ベアトリスの心の宝箱に仕舞われた大切なものだ。それを、無遠慮に踏み荒らしてしまったかと、フォローの言葉を探す。
しかし、腕の中のベアトリスは、より強く頭をスバルに押し付けると、
「もしそうだったら、嬉しい、かしら」
「ベアトリス……」
「お母様が、ベティーに待てって言った『その人』のことは、もうわからないのよ。お母様がどんな考えでそれを託してくれたのかも……でも、あの場所を、『禁書庫』をベティーに任せる前に、そう思ってくれてたなら、嬉しいかしら」
「……そうか。うん、そうだな。きっとそうだよ」
たどたどしく、不確かでも、母の愛の可能性を喜びたいと訴えるベアトリス。
その背中を撫でてやりながら、スバルは若ドナが言っていた、「ベアトリスが誰を『その人』に選ぶか知りたいんだ」とかいうクソみたいな考えを、あれも自分への嫌がらせの一環だろうと投げ捨てる。いや、捨てるだけじゃなく、踏みつけておく。
それでベアトリスの気持ちは救われ、スバルも少しは溜飲が下がった。
「けど、『禁書庫』に問題の本がなかった理由はそのハートフルなやつで決着するとして、結局問題が解決してねぇ」
『色欲』の権能のカウンターになるだろう情報、それがエキドナの研究の成果だとしても、手に入れる方法がないのでは話は振り出し――と、思ったのだが。
「その件についてなら、ベティーに心当たりがあるのよ。……ううん、あったわけじゃなく、今になって生まれたかしら」
「ど、どういうことだ? お前が可愛いこと以外何もわからねぇぞ」
「言うまでもないことがわかっても褒めてあげないのよ。――簡単な話かしら。お母様の研究をまとめた本が『禁書庫』にないなら、他の場所にあるってだけなのよ」
「ってことは……その、他の場所ってのに心当たりがあるのか!」
驚愕するスバル、そのスバルの胸から顔を離し、ベアトリスは手の甲でぐいっと自分の目元を拭うと、自信ありげなドヤ顔でコクンと可愛く頷いた。
「そこは、ベティーとお母様が暮らしていた場所かしら。『聖域』にいくにも、他の場所にいくにも、基本はそこを経由していたのよ」
「それってつまり、ベア子の実家……ってこと?」
「実家……確かに、そう言えるかもしれないかしら」
思いがけない情報が飛び出し、当然ながらスバルは目を白黒させる。
なんだか勝手に、ベアトリスも『聖域』出身くらいのイメージでいたが、落ち着いて考えれば、友達がいる場所は家ではなく、通いの場所だ。そうではない実家、それがベアトリスにもあったのだと、新鮮な驚きがある。
「いわゆる、『魔女』の家ってことになるよな? それ、どこにあるんだ?」
「真っ当なやり方じゃ辿り着けないのよ。あの場所には、決まったところからの『扉渡り』でないと辿り着けないようになっているかしら」
「ひ、久々の『扉渡り』……! けど、納得のセキュリティだ!」
実に『魔女』らしいセキュリティが導入されていると言える。実際、条件が満たされなければ、何百年でも放っておかれそうな仕組みだ。
そしてそのセキュリティを、ベアトリスなら解除できる――、
「その決まった場所ってのも、ベア子は知ってるのか?」
「もちろんなのよ。でも、世の中が昔とだいぶ違ってしまったから、確実に『扉渡り』できるポートを選ぶ必要があるかしら。そうなると……」
「そうなると?」
「――フリューゲルの大樹」
「……うぇ?」
口元に手を当てて、真剣に吟味したベアトリスが心当たりを口にした。
それを聞いて、スバルは目をぱちくりとさせ、「もう一回」と指を一本立てて、
「なんだって?」
「だから、フリューゲルの大樹なのよ。目立つから、ポートの隠し場所としてもってこいのランドマークかしら。――クーゲルシュライバー城にいくために」
「――――」
ピシッと、スバルに合わせるように指を立てたベアトリスの豪語に、スバルは二重の衝撃を受けて、しばらく黙り込んだ。
フリューゲルの大樹は、ご存知の通り、折ってしまった。これはスバルの仕業と言えるかもしれないので、ポートが生きているかは要確認が必要だ。
それと、もう一個の衝撃は――、
「クーゲルシュライバーって、ドイツ語でボールペンって意味だぞ」
いったい、誰が何を考えて名付けたのかわからない、ベアトリスの実家へのツッコミだった。




