魔力1と、超・詠唱大全
「マナミさーん! 明日、健康診断ですからねぇ!」
ある日の昼休み。香草焼きを頬張りながら、リリィが言った。
「健康診断?」
「年に一回、ギルドの職員と冒険者はみんな受けるんです。身体の調子と、あと魔力の測定ですねぇ」
「魔力の測定……!」
まなみの手から、お盆が落ちかけた。
(きた。きた、きた、きたぁ〜!)
読んだことがある。何回も、何十回も、何百回も読んだことがある。
異世界転移した主人公が、ギルドで魔力を測る。水晶玉に手をかざす。すると水晶がまばゆく光り輝いて、ぴしっ、とひびが入って、ぱりーんと砕け散る。周囲が「な、なんだこの魔力は……!?」とどよめく。
伝統芸能である。
「ねえねえリリィちゃん、それって水晶玉に手をかざすやつ!?」
「え、はい」
「水晶、割れたりする!?」
「割れたことはぁ……ないと思いますけどぉ……」
リリィは、不思議そうに首をかしげた。
まなみは、ぐっと拳を握った。
(異世界物のお約束……! わたしにもついに来たかもしれない……!)
◇ ◇ ◇
翌日。ギルドの二階にある、広い会議室。
机の上に、こぶし大の透明な水晶玉が置かれていた。その前に、職員や冒険者たちがずらりと列を作っている。
「はい、手をかざしてくださいねー」
白衣のような長い上着を着た、ギルド付きの治療師のおばあさんが、順番に測定していく。
水晶玉の中に、ぽうっと淡い光の数字が浮かび上がる仕組みらしい。
「リリィちゃん、32。健康そのものだね」
「えへへ」
「ミア、85。剣士にしちゃ多いほうだ」
「まあね」
「ピート、310。おや、また伸びたね」
「あ、ありがとうございます!」
ピートが、照れくさそうに眼鏡を押し上げた。
まなみは、列に並びながら、こっそりミアに耳打ちした。
「ミアさんミアさんっ!普通の人って、どれくらいなんですか?」
「んー、街の人なら20から50くらいかな?冒険者で100前後。魔法使いなら、300超えたら一人前って言われてる」
「へえぇ〜……!」
(ってことは、1000とか10000とか出たら、伝説級……!)
胸が高鳴る。
自分は異世界から来た人間だ。この世界の常識には、当てはまらないかもしれない。もしかしたら、とんでもない数字が出るかもしれない。
「次、マナミ」
「は、はいっ!」
まなみは、水晶玉の前に立った。
深呼吸をひとつ。
会議室の入り口からエプロン姿のレオンが、腕を組んでこちらを見ているのが見えた。厨房を抜けてきたらしい。
(見ててください、店長……!)
まなみは、そっと右手をかざした。
水晶玉の中に、ぽうっ、と光が灯った。
ほんの、ほんのかすかな、蛍の光みたいな明かりだった。
浮かび上がった数字は。
『 1 』
「…………」
会議室が、しんと静まり返った。
まなみは、まばたきをした。
もう一回、まばたきをした。
「……あの、これ、壊れてません?」
「壊れてないよ」
治療師のおばあさんは、水晶玉をこんこんと指で叩いた。
「さっきピートが310出したばかりだろう」
「じゃあ、えっと、桁が……1000とか、10000とか、表示しきれなくて……」
「1だよ」
おばあさんは、静かに言った。
「あんたの魔力は、1」
ざわっ、と会議室がどよめいた。
水晶が割れたときのどよめきではなかった。
「い、1……?」
「1って、出るのか……?」
「生まれたばっかの赤ん坊でも、10はあるぞ……」
ミアが、信じられないものを見る目で、まなみの肩をつかんだ。
「魔力1ってぇ!? どんだけ貧弱なんだよ! あんた、いったいどんな環境で育ったんだ……!」
その一言で、まなみの中で、なにかがぷつんと切れた。
「う、うぇ〜んっ! セクハラブラック企業環境だよぉ!!!」
「せくはら……? ぶらっく……?」
「上司はクソで! 同僚はセクハラ魔で! 毎日終電で! ごはんはカップ麺で! 休みの日は寝てるだけで!」
まなみは、ミアの胸に顔をうずめて、わんわん泣いた。
意味はほとんど伝わっていなかった。
伝わっていなかったが…会議室にいた全員が、なんとなく察した。
この子は、とんでもなく過酷な場所で生きてきたのだ、と。
「……そっか。そっかぁ……」
ミアが、まなみの頭をよしよしと撫でた。
リリィが、目をうるませながらまなみの手を握った。
「マナミさん……つらかったんですねぇ……!」
ピートは眼鏡を外して、そっと目元をぬぐっていた。
治療師のおばあさんは、まなみの診断書に、さらさらと何かを書き足した。
『栄養状態、要観察。過労の形跡あり。周囲は優しくすること』
(なんか診断書に変なこと書かれてる!)
その日の昼。
四つ葉亭のまかないは、いつもより明らかに豪華だった。
唐揚げが山盛りになっていた。
シチューの肉がいつもの倍入っていた。
デザートに果物まで添えられていた。
「店長……これ……」
「……食え」
レオンは、それだけ言って厨房に戻ろうとした。
それから、少しだけ振り返った。
「魔力なんかなくても、皿は運べる」
「……っ」
「お前は、うちの店に必要だ。それで十分だろ」
ぶっきらぼうな言い方だった。
まなみは、ぎゅっと唐揚げを噛みしめた。
(……店長、やさしい〜〜〜〜〜っ!!)
◇ ◇ ◇
その夜、ギルド二階の部屋で、まなみはベッドに座ったまま、自分の手のひらを見つめていた。
(……わたし、魔法、使いたかったんだなぁ)
水晶玉の前に立ったとき、あんなに胸が高鳴った。とんでもない数字が出るかもしれないと、本気で期待していた。
S級冒険者になれなくても。現代知識無双ができなくても。
心のどこかで…魔法だけは、と思っていた。
子どものころから、ずっと憧れていた。テレビの前でアニメのキャラの真似をして、呪文を唱えた。ノートに、オリジナルの魔法陣を描いた。大人になっても、ネット小説を読むたびに、詠唱のシーンで胸が熱くなった。
だって魔法は、かっこいいのだ。
「……1、かぁ」
翌日から、まなみはピートに魔法のことを聞くようになった。
「魔力が少なくても、使える魔法ってないの?」
ピートは、申し訳なさそうに眉を下げた。
「魔力の量も問題なんですけど……それより、もっと根本的なことがあって」
「根本的?」
「そもそも魔法って、『魔法の概念』が身体に馴染んでいないと、使えないんです」
ピートは、分厚い魔法書を開いて、説明してくれた。
この世界の人間は、生まれたときから、魔法に囲まれて育つ。母親が子守唄を歌いながら灯した明かり。父親が薪に点けた火。近所の子どもが遊びで飛ばした、小さなつむじ風。
そういうものに、物心つく前から触れ続けることで、「魔法とはこういうものだ」という感覚が、無意識のレベルで刷り込まれていく。
「思想とか、心理の、一番深いところに馴染んでいないと、魔法は形になりません。だから、みんな頭の中でイメージするだけで、無詠唱で使えるんです」
「じゃあ、大人になってから…ゼロから覚えるのは……?」
「……聞いたことが、ないです」
ピートは、言いにくそうに目を伏せた。
「十歳を過ぎてから魔法を覚え始めた人は、ほとんどいないって習いました。マナミさんは、その……」
「二十三歳です」
「……ですよね」
つまり。
現代日本から来た、実際に魔法なんて一度も見たことのない一般成人女性のまなみが、今からこの世界の「魔法の概念」を手に入れるのは、不可能だということだった。
それでも、まなみはあきらめなかった。
(いや、待って。わたしには、ほかの人にないものがある)
魔法のない世界で育った。だからこそ、この世界の常識に縛られていない。
そして何より、創作で山ほど魔法に触れてきた。アニメ、漫画、ラノベ、ゲーム。炎の魔法、氷の魔法、雷の魔法。ありとあらゆる魔法の描写を、脳みそに叩き込んできた。
(その知識でなんとかなるのでは!?)
夜。部屋の真ん中で、まなみは仁王立ちした。
右手を前に突き出す。左手で、右の手首をつかむ。アニメで見た、あのポーズ。
「――ファイアボール!」
なにも起きなかった。
「……ファイア! フレイム! 火球! 燃えろっ!」
なにも起きなかった。
ポーズを変える。両手を天にかざす。片膝をつく。目を閉じて、身体の奥から湧き上がる力をイメージする。
「はぁぁぁぁぁっ……!」
なにも起きなかった。
隣の部屋から、「マナミさん……? だ、大丈夫ですか……?」と、遠慮がちな声が聞こえた。
「だ、大丈夫! なんでもないの! おやすみ、ピートくん!」
まなみは、真っ赤になって布団に潜り込んだ。
次の夜も。その次の夜も。
まなみは、思いつく限りの方法を試した。
でも、指先から火花ひとつ、出ることはなかった。
一週間後。
ベッドに大の字に寝転がって、まなみは天井の木目を見つめていた。
(……むりだぁ、これぇ)
魔力は1。魔法の概念もない。創作の知識は、ただの知識でしかなかった。
ネット小説の主人公たちは、なぜ、あんなに簡単に魔法を使えたのだろう。
(ああ、そっか……あれは、物語だからか)
まなみは、遠い目をした。
この先の人生が、ぼんやりと見えた気がした。
(一生、食堂のウェイトレスかぁ……)
まあ、それも悪くない。四つ葉亭は良い職場だ。みんな優しい。まかないはおいしい。
(ちょっとかわいい衣装で、男の人を手玉に取りながら……いや、それは店長に怒られるか……)
それで、いつか、どこかの優良物件と結婚して。子どもを産んで、子育てをして。
(優良物件……)
ふと、頭の中に、ひとりの男の顔が浮かんだ。
くすんだ金髪。眠たげな灰色の目。不器用な笑い方。
「…………っ!?」
まなみは、がばっと跳ね起きた。
(な、なんで今、店長の顔が浮かんだの!? ちがうちがう! 今のはちがう!)
顔が熱い。心臓がうるさい。
ぶんぶんと首を振って、意味もなく部屋の中を見回す。
そのとき、視界の端に、部屋の隅に置きっぱなしのバッグが映った。
日本から持ってきた、通勤用のバッグ。
異世界に来てから、一度も開けていなかった。中に入っているのは、どうせ役に立たないものばかりだと思っていたから。電池の切れたスマホ。社員証。ハンカチ。
そして。
「……あ」
まなみは、ベッドから下りて、バッグの口を開けた。
手を入れる。指先に、ずっしりと重い、硬い表紙が触れた。
引っぱり出す。
ろうそくの明かりを受けて、表紙の金の箔押しが、きらりと光った。
『超・詠唱大全!』
あの日、仕事帰りの本屋で、血迷って買ったネタ本。
トラックに轢かれる、ほんの数分前に。
「……そういえば、まだ一回も、ちゃんと読んでなかったな」
まなみは、ベッドに腰を下ろして、そっと最初のページを開いた。
◇ ◇ ◇
ろうそくの明かりの下で、まなみはページをめくった。
店を閉めて、二階の部屋に戻ってきたのが、ついさっき。着替えるのも忘れて、オレンジ色のアンミラの制服のまま、ベッドに転がって本を開いている。
『はじめに――詠唱とは、ロマンである。』
「……わかる」
思わず、声に出してうなずいてしまった。
『近年、多くの作品において「詠唱破棄」「無詠唱」が主流となりつつある。それ自体を否定するつもりはない。だが、我々は忘れてはならない。かつて画面の前で、紙面の前で、長く、重く、美しい言葉の連なりに、胸を焦がしたあの夜を――』
「わかるぅ〜……!」
まなみは、本を抱きしめてベッドの上を転がった。
このネタ本の著者とは、絶対に友達になれる。なんなら一晩中、詠唱について語り合える。
(こんな本が、まさか異世界に一緒に来てたなんて……)
ページをめくるたびに、懐かしい詠唱が目に飛び込んでくる。
子どものころ、夕方の再放送で見た、黒魔術の呪文。中学生のとき、友達と休み時間に唱え合った、死神の鬼道。深夜アニメで、主人公が覚醒する回に流れた、あの長い長い祝詞。
どれも、文字がびっしりだった。見開き二ページ使っているものもある。脚注には「※作中では約1分間にわたって詠唱される」「※この詠唱の途中で敵に二回攻撃されている」などと、余計な情報まで書いてある。
「ふふっ……長っ……」
笑いながら、まなみはページをめくり続けた。
異世界に来てから、こんなに楽しい夜は初めてかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
夜も更けたころ。
まなみは本を胸にのせたまま、ふと、自分の格好に気づいた。
「……あ。まだ制服だ」
白いブラウスに、オレンジのスカート。胸元を下から支える、オレンジの胸当て。
ベッドから起き上がって、窓ガラスに映った自分を見る。
ろうそくの明かりに照らされた、アンミラ姿のウェイトレス。
「……ふふっ」
なんだか、急に懐かしくなった。
学生のころ。ファミレスのバイトから帰って、制服のハンガーを掛けて、それから夜中まで、ずっとやっていたゲームがあった。
『いらっしゃいませ、アプリコット!』
駅前のファミレス「アプリコット」を舞台にした、美少女ゲーム。もちろん、全年齢版の移植版だ。
看板娘のヒロインたちは、みんな、アンミラそっくりの制服を着ていた。あの制服に憧れたのは、雑誌の写真と、このゲームのせいだった。
元気な幼なじみ。しっかり者の先輩。ドジな後輩。
そして、もうひとり。
「……ルナちゃん」
星見ルナ。
いつも遅番に入っている、無口な女の子。ほかのヒロインたちが日常のどたばたで盛り上がる中、ひとりだけ、ずっと不思議なことを言っている子だった。
「わたしは、遠い星から来た魔女なの」
最初は、ただの不思議ちゃんだと思っていた。でも、ルナのルートに入ると、本当に、不思議なことが起きる。
ルナが、詠唱のような台詞を口にするたびに。
◇ ◇ ◇
まなみは、窓辺に立った。
ガラスの向こうに、夜の街の屋根が並んでいる。そのずっと上に、知らない星座が、いっぱいに広がっていた。
ルナのルートで、いちばん好きな場面がある。
閉店後の、真っ暗な店内。停電で、明かりがひとつもつかない夜。最後まで残って片づけをしていた主人公のために、ルナは、制服のまま、窓辺でそっと両手を広げる。
そして、あの台詞を口にする。
何十回も、何百回も、繰り返し見た場面だった。台詞は、一字一句、覚えている。
(……ちょっとだけ)
誰も見ていない。
同じ制服を着ている。
まなみは、窓辺で、ルナと同じように、そっと両手を広げた。
そして、ほとんど無意識に、小さく口ずさんでいた。
「――閉店の札を、裏返して。ここからは、わたしの時間」
頭の中に、あの場面が浮かぶ。
真っ暗なファミレス。並んだテーブル。窓から差しこむ月明かり。アンミラ姿のルナが、ちいさな背中で、夜空を見上げている。
「――シャンデリアさん、おやすみなさい。冷蔵庫さん、おつかれさま。このお店のぜんぶが眠ったあとに、わたしは、星を呼ぶの」
ろうそくの炎が、ふわりと揺れた。
まなみは気づかなかった。ただ、記憶の中のルナの声に、自分の声を重ねていく。
窓ガラスに映った自分の姿と、頭の中のルナの姿が、ぴたりと重なっていた。
「――遠いところから、迷子みたいにやってきた、ちいさな光たち。テーブルの上に、降りておいで。今日いちばん、がんばったひとの、すぐそばに」
身体の奥が、ぽっと、熱くなった。
胸のまんなかに、ちいさな火がともったみたいだった。その火が、言葉をひとつ口にするたびに、どくん、どくんと大きくなっていく。
指先まで、なにかがあふれてくる。
それでもまなみは、止まらなかった。止まれなかった。ここで止めたら、ルナの、あのいちばん大事な台詞が言えない。
まなみは、ルナと同じように、ほんの少しだけ首をかしげて、微笑んだ。
「――ご注文は、星ひとつ。……かしこまりました」
ぽうっ、と。
まなみの手のひらの上に、ちいさな、ちいさな光が、ともった。
それから、ふたつ。みっつ。
光は、どんどん増えていった。
十。五十。百。
ろうそくの炎がかすむほどの、淡い金色の光が、ふわふわと部屋じゅうを漂い始める。天井いっぱいに。窓いっぱいに。ベッドの上にも、床の上にも。
まるで、部屋の中に、星空が降りてきたみたいだった。
そして、まなみ自身も、光っていた。
胸の奥でともった火が、身体じゅうを満たして、髪の一本一本から、あふれ出しそうなほど、どくん、どくんと脈打っている。
「…………え?」
まなみは、自分の両手を見下ろした。
手のひらが、金色に輝いていた。
「え、え、え……?」
台詞が終わってから、ようやく、頭が追いついてきた。
ゲームの中の店内に浮かんだ星は、たしか、テーブルの数と同じ、十個くらいだった。
こんなに、たくさんじゃなかった。
というか、そもそも。
ここは、画面の中じゃない。
(なにこれ。なにこれなにこれなにこれ!?)
「えぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
◇ ◇ ◇
どたどたどたっ、と廊下を走る音がした。
ばんっ、と部屋の扉が開け放たれる。
「マナミさん!? 今の、なんですか!?」
飛び込んできたのは、寝間着姿のピートだった。隣の部屋で寝ていたところを、飛び起きてきたらしい。眼鏡が斜めにずれていて、手には分厚い魔法書を握りしめている。
(そういえば、この一週間の「ファイアボール!」も、全部ピートくんに聞こえてたんだよね……)
こんなときなのに、まなみはちょっとだけ死にたくなった。
「ぴ、ピートくん! わ、わかんない! なんか、光ってる! 部屋も、わたしも、光ってる!」
(そしてわたし、アンミラ着てる……!)
「ものすごい魔力の流れを感じて……え……」
ピートは、部屋じゅうに浮かぶ金色の灯りと、光り輝くまなみを見て、ぽかんと口を開けた。
その後ろから、どすどすと重い足音が近づいてくる。
「なんだなんだ、夜中に騒がしい!」
ガルドだった。寝間着の上に、なぜか大剣だけはしっかり背負っている。
そして、その横に、もうひとり。
「……マナミ」
レオンだった。
厨房で明日の仕込みをしていたのだろう。エプロン姿のまま、手には包丁を握っていた。灰色の目が、いつもの眠たげなものではなく、鋭く光っている。
レオンは、部屋の中をさっと見回した。敵がいないことを確かめてから、ゆっくりと包丁を下ろした。
「……怪我は」
「な、ないです! 元気です! 元気すぎるくらいです!」
「ちょっと、失礼します!」
ピートが、首から下げていた小さな石のペンダントを外した。親指ほどの大きさの、透明な水晶だった。
「これ、簡易の魔力測定石です。自主練習用の……マナミさん、ちょっと握ってみてください」
まなみは、まだ金色に光っている手のひらで、おそるおそる石を受け取った。
水晶の中に、光の数字が浮かび上がる。
『 1 』
1だった。
と思ったのは、ほんの一瞬だった。
次の瞬間、数字が跳ね上がった。
『85』『310』『1000』
「え」
止まらない。
『3000』『7000』『10000』
「え、え、え」
『10000』を超えたところで、数字がぐちゃぐちゃに乱れ始めた。読み取れない光の線が、水晶の中で暴れ回る。
ぴしっ。
小さな音がして、水晶に、ひびが入った。
ぴしぴしぴしっ。
ひびが、一気に全体に広がって。
ぱりーんっ。
まなみの手のひらの上で、水晶は、粉々に砕け散った。
部屋が、しんと静まり返った。
ピートは、眼鏡を押さえたまま固まっていた。ガルドは、ひげをかく手を止めていた。レオンは、眉間にしわを寄せて、まなみを見つめていた。
まなみは、手のひらに残った水晶のかけらを見下ろした。
「…………割れた」
ぽつりと、つぶやく。
「水晶、割れたぁ……!」
そして、満面の笑みで顔を上げた。
「割れましたよ、店長っ! 水晶、割れましたっ! これ、異世界転移の伝統芸能のやつですっ!!」
「……でんとうげいのう?」
「なんでもないですっ!」
◇ ◇ ◇
部屋を漂っていた灯りは、それから10分ほどで、ひとつ、またひとつと消えていった。
最後の灯りが消えたとき、まなみの身体から、すうっと力が抜けた。膝が崩れかけたところを、レオンが片腕で支えてくれた。
「っ、す、すみません……」
「……座ってろ」
ベッドに座らされる。全力疾走した後のように、身体が重かった。
ピートが予備の測定石――今度は自分の部屋から持ってきた、少し大きめのもの――を、まなみの手に握らせた。
『 1 』
「……戻ってる」
「戻ってますね……」
ピートは、床に散らばった水晶のかけらと、まなみの顔を、何度も見比べた。
「マナミさん。さっき、なにをしたんですか?」
「えっと……昔、好きだったお話の、台詞を……」
ゲーム、と言っても通じないだろう。まなみは、言葉を選んだ。
「物語の中の女の子が、魔法を使うときに唱えてた言葉。それを、マネして、言ってみただけで……」
「詠唱……ですか? あの、歴史の授業で習うような、古代式の……?」
「たぶん、そう、なのかな……?」
「それに、さっき壁越しに聞こえてきた声……聞いたこともない言葉でした……」
ピートは頭を抱えた。
「ありえません。マナミさんの魔力は…1です。さっきも、今も。なのに…光っているあいだだけ、10000を超えて……」
ピートは眼鏡を押し上げた。
「魔力1の人が、どうやって……そんなの、どの魔法書にも載っていません……」
まなみは、ぼんやりと、さっきの感覚を思い出していた。
この一週間、何度「ファイアボール!」と叫んでも、なにも起きなかった。
なにかが起きたのは、ルナのことを思い浮かべたときだ。あの場面を、あの声を、あの姿を、頭の中で鮮明に描きながら、一字一句、唱えていったとき。
そして、ルナと同じ制服を着て、ルナと同じように、窓辺に立っていたとき。
(……もしかして)
ピートは言っていた。魔法は、幼いころから無意識に刷り込まれた「魔法の概念」がないと使えない、と。
まなみには、この世界の魔法の概念はない。
でも。
子どものころからテレビの前で、ずっと見てきた。漫画のページの中で、ずっと読んできた。ゲームの画面の中で、ずっと聞いてきた。キャラクターたちが詠唱を唱えて、とんでもない魔法を起こす姿を。
何百回も。何千回も。
(わたしの「魔法の概念」って……アニメと、漫画と、ゲームの、あれなんだ)
だから、この世界の人たちみたいに無詠唱では使えない。
あのキャラクターになりきって、同じ姿で、同じ言葉を、最後まで唱えきったときだけ。
胸の奥の、ちっぽけな魔力1が、火種になる。
まなみにとっての「魔法」が、本物になる。
まなみは、膝の上の『超・詠唱大全!』に目を落とした。
アニメも漫画もゲームもラノベも、名詠唱がまるごと収録された、ネタ本。
(……ってことは、この本、ぜんぶ……)
「……おい、ピート」
それまで黙っていたガルドが、低い声で言った。
「今夜のことは、しばらく誰にも言うな」
「え……」
「魔力1の娘が、妙な言葉を唱えると、魔力が10000を超える。そんな話が外に漏れてみろ」
ガルドは太い腕を組んだ。
「面倒な連中が、山ほど寄ってくるぞ」
ピートはごくりと唾を飲み込んで、うなずいた。
レオンは、なにも言わなかった。ただ、まなみの肩に置いた手にほんの少しだけ、力がこもった。
◇ ◇ ◇
みんなが部屋を出ていったあと。
まなみは、月明かりの差し込むベッドの上で『超・詠唱大全!』をそっと開いた。
ルナの台詞は、この本には載っていない。でも、この本には、アニメや漫画やゲームの名詠唱が、何百も載っている。
ぱらぱらとページをめくって、ずっと先の章。
『第八章 殲滅・大規模攻撃系詠唱』
見開きいっぱいに、さっきとは比べものにならないほど長い詠唱が、びっしりと並んでいた。
『※作中では約2分間にわたって詠唱される』
『※この魔法により、作中の山脈がひとつ消滅している』
まなみは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……これ」
指先が、震えていた。怖いからではなかった。
「これ、全部唱えたら……どうなっちゃうの……?」
その魔法を唱えたのは、『蒼穹のグリモワール』の魔女、ルクレツィア。
思い描くなら、あの紺色のローブも、たぶん要る。
(……作らなきゃ)
窓から差し込む月明かりに照らされて、まなみの目は、オタクの輝きできらきらと光っていた。




