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3/13

アンミラ、ギルドを制圧する

「マナミさん、それ全部買うんですかぁ!?」


 市場の布屋で、リリィが目を丸くした。


 まなみの腕の中には、真っ白な綿の布。明るいオレンジ色の布。細いレースのリボン。そして、型紙を引くための大きな紙の束。


「全部買います!」


「お給金、なくなっちゃいませんかぁ?」


「なくなります! でも、いいの!」


 まなみは、きっぱりと言い切った。


 オタクにとって、衣装作りの材料費は「必要経費」である。生活費とは別枠の、魂の予算である。たとえ異世界でも、その鉄則は変わらない。


「それで、なにを作るんですかぁ?」


「ふっふっふ……それはね、リリィちゃん」


 まなみは、遠い目をした。


 学生時代。ファミレスのバイトの帰り道。いつか着てみたいと思いながら、雑誌の写真を眺めていた、あの制服。


 ぱりっとした白いブラウス。胸元をきゅっと持ち上げる、独特の形のエプロン。ふんわり広がるスカート。


 通称、アンミラ。


 飲食店の制服の中でも、ひときわ輝く、伝説のデザインである。


「――世界一かわいい…ウェイトレスの制服だよっ!」



   ◇ ◇ ◇



 その夜、まなみは寝なかった。


 ギルド二階の小さな部屋。ろうそくの明かりの下で、床いっぱいに広げた紙に型紙を引く。


 ……引こうとして、鉛筆が止まった。


(……エプロンの胸当ての、カーブ。……どんな角度だったっけ)


 雑誌の写真を眺めていたのは、もう、何年も前だ。


 スマホがあれば、1秒で画像検索できるのに。ここには、スマホも、ネットも、ない。


(……資料が、ない……)


 オタクにとって、資料のない衣装作りほど、こわいものはない。


 まなみは、床にぺたんと座りこんで、天井をあおいだ。


 それから。


「……あ」


 がばっと、身体を起こした。


 部屋の隅の通勤用のバッグ。この世界に一緒に落ちてきた、数少ない持ち物。


 その底にずっしりと重い、一冊の本が入っている。


 トラックに轢かれる、ほんの数分前。仕事帰りの本屋で血迷って買った、ネタ本。



『超・詠唱大全!』



 まなみは、バッグから本を引っぱり出して、表紙をめくった。


 最初の数ページは、巻頭カラーの口絵だ。本に載っている名詠唱のキャラクターたちが、一枚の大きな絵に、ぎゅっと集められている。星の魔女。白い翼の聖女。剣を掲げた騎士。


 その、いちばん端っこ。


 小さく、ちょこんと、描かれている女の子がいた。


 白いブラウス。オレンジのスカート。胸元を、下から、きゅっと持ち上げるエプロン。


「……いたぁ……!」


 深夜アニメ『魔法喫茶ポラリス』の看板娘、こはるちゃん。


 この子は特別、詠唱をするようなキャラでもないので、本文には載っていない。口絵だけの、友情出演だ。


 でも、今のまなみには、どんな大魔法のページよりも、ありがたかった。


「こはるちゃん、ありがとう……! 資料、ありがとう……!」


 ろうそくの明かりに、口絵を近づける。


 エプロンの胸当ての角度。肩ひもの幅。スカートの広がり方。袖口のライン。


 ぜんぶ、ちゃんと、フルカラーで描いてあった。


(……まさか、異世界に来て最初に役に立ったのが、口絵の端っこだなんて)


 まなみは、口絵のページを床に開いたまま、もう一度、鉛筆を握った。


 本文のほうは、チラリとも見なかった。見開きいっぱいの、びっしりの文字。今はそれどころではない。


 夜明け前、型紙を引き終えたまなみは、本を、そのまま、バッグの底に戻した。


 自分の身体のサイズは、よくわかっている。何十着も衣装を作ってきたのだから。


(胸囲……うん、知ってた。この数字、知ってた)


 布を裁つ。まち針を打つ。ミシンはないので、全部手縫いだ。


 ちく、ちく、ちく、ちく


 指先はちゃんと覚えていた。久しぶりなのに、針の運びに迷いがない。一針ごとに、身体の奥のほうから、熱いものがこみ上げてくる。


(楽しい……)


 会社に入ってから、こんなふうに夢中になったことはなかった。原稿も、衣装も、気づけば全部止まっていた。


(やっぱりわたし、作るの好きなんだなぁ……)


 窓の外が白んでくるころ。


 まなみは、完成した制服を両手で掲げて、ひとりで小さくガッツポーズをした。



   ◇ ◇ ◇



 朝。四つ葉亭の開店前。


 厨房で仕込みをしていたレオンは、背後で扉が開く音に振り返った。


「おはようございます、店長っ!」


 そこに立っていたのは、まなみだった。


 ぱりっとした白いブラウス。袖口にはオレンジのライン。腰から下を包む、明るいオレンジのスカートが、ふんわりと膝上で広がっている。


 そして、胸元。


 オレンジ色の胸当てが、下から、ぐいっと支えるような形で――


 つまり、ものすごく、強調されていた。


 ブカブカの作業服では、まったくわからなかったもの。


 ドーーーーン!と。


 そこに、あった。


 レオンの手から、おたまが滑り落ちた。


 からん、と乾いた音が厨房に響く。


「……どうですか!? かわいくないですか!?」


 まなみは、その場でくるりと一回転した。スカートがふわりと舞う。長い黒髪は、リボンでハーフアップにまとめてある。いつも隠れがちな目元が、今日はちゃんと見えていた。たれ目がちな瞳が、きらきらと期待に輝いている。


 レオンは、ゆっくりとおたまを拾い上げた。


 それから、天井のほうを見た。


「……好きにしろって言ったのは、俺だったな」


「はい!」


「……」


「店長? なんで天井見てるんですか?」


「……なんでもねえ」



 開店と同時に、ギルドの空気が変わった。


 依頼の掲示板の前にいた冒険者たちが、一斉に振り返った。カウンターで手続きをしていた依頼人が、書類を書く手を止めた。受付のリリィが「かわいいーっ!」と叫んだ。


「マナミさん! なにそれなにそれ! すっごくかわいいですぅ!」


「えへへ、でしょ〜?」


 ギルドの入り口から入ってきたミアは、まなみを見るなり、ぴたりと立ち止まった。


「……あんた、それ」


「どうですかミアさん!」


「かわいいよ。かわいいけどさ…」


 ミアは、こめかみを押さえた。


「目に悪い」


「えっ」


 その後ろで、ピートが抱えていた分厚い魔法書を、どさっと床に落とした。耳まで真っ赤になっている。


「ぴ、ピートくん? 大丈夫?」


「だ、だだだ大丈夫です! 僕はなにも見ていません…!」


 見ていた。目を見開いていた。


 そして、ギルドマスターの部屋から出てきたガルドは腹を抱えて大笑いした。


「がっはっはっは! こりゃあいい! 四つ葉亭に看板娘ができたな!」



   ◇ ◇ ◇



 その日の昼、四つ葉亭は満席になった。


「い、いらっしゃいませー! 少々お待ちくださいませー!」


 六つのテーブルも、五つのカウンター席も、全部埋まっていた。入り口には、順番待ちの列までできている。


 客の顔ぶれは、明らかにいつもと違った。


 普段は街の大衆食堂で済ませている、若い冒険者たち。依頼の受付に来ただけの、商人や職人。なぜか、ギルドに用もないはずの近所の男たちまで。


 全員が、ちらちらと、まなみのほうを見ていた。


(……あれ? これ、もしかして)


 まなみは、五皿持ちでテーブルの間を駆け抜けながら、ようやく気づいた。


(制服効果、えげつなくない!?)


 この世界の人々にとって、アンミラの制服は、生まれて初めて見るデザインだった。かわいい。とにかく、かわいい。


 そして同時に、それまでブカブカの作業服に隠されていた、まなみの、スタイルが。


 端的に言えば男たちによって、とても目に悪かった。性的な意味で。


 厨房では、レオンが無言で鍋を振り続けていた。注文が止まらない。仕込んでおいたシチューは、昼のうちに底をついた。


「店長! 唐揚げ追加三つです!」


「……あいよ」


 レオンの額には、汗がにじんでいた。でも、その横顔はどこか楽しそうにも見えた。



 それから、四つ葉亭は毎日、昼も夜も満席になった。


 割高なはずの食堂に、男たちがこぞって通い始めたのだ。


 当然、よからぬことを考える者もいた。


「よぉ姉ちゃ〜ん!仕事終わったら、ちょっと付き合えよぉ〜?」


 ある日の夜。酒の入った大柄な男が、まなみの手首をつかんだ。見かけない顔だった。よその街から流れてきた荒くれ者らしい。


「あ、あの、困ります……」


(うわ、きた!セクハラ同僚の異世界版だ…こういうやつ、どの世界にもいるんだな……)


 内心でうんざりしながら、まなみが苦笑いを浮かべた、そのとき。


 食堂の空気が、すうっと冷えた。


 隣のテーブルで飲んでいたミアが、剣の柄に手をかけて立ち上がっていた。奥の席の、顔に傷のある高ランク冒険者たちが無言でこちらを見ていた。


 そして、ギルドの奥から、のしのしと足音が近づいてくる。


「おう。うちの看板娘に、なんか用か」


 ガルドだった。笑っている。笑っているのに、目がまったく笑っていない。


 とどめに、男の背後にいつの間にかレオンが立っていた。


「……店で騒ぐな」


 低い声。それだけだった。


 それだけなのに、男の顔から、さあっと血の気が引いていった。


「……っ、す、すいやせんでしたぁっ!」


 男は、まなみの手首を放すと、代金をテーブルに叩きつけて逃げていった。



 その後、まなみにちょっかいを出そうとする者はいなくなった。


 ここは冒険者ギルドの中。しかも、高ランクの冒険者たちとギルドマスターが、常に睨みを利かせている。手を出せるはずがなかった。


 そんな状況で、行き場を失った男たちがどうしたかというと…。


 街の夜の店に駆け込んで、「あの食堂の娘みたいな服を着てくれぇ…!」と涙ながらに懇願したらしい。


 しばらくして、夜の街ではオレンジ色の制服を着たお姉さんたちが大人気になった。


 という噂を、まなみはリリィから聞いた。


(えぇ……わたし、異世界の夜の街のトレンドを作っちゃった……?)


 なんとも言えない気持ちになった。



   ◇ ◇ ◇



 ある日の夕方。


 カウンター席に座った若い冒険者が、もじもじしながらまなみに話しかけてきた。まだ十八、九だろうか。最近、毎日のように通ってくる子だった。


「あ、あの、マナミさん。俺、この前、D級に上がったんです」


「えーっ、すごい! おめでとうございます!」


「それで、その……マナミさんの、その服、すごく似合ってます」


「えへへ……そうですかぁ? 見る目ありますね!」


 まなみは、カウンターに両肘をついて、にこーっと笑った。


 ファミレス時代に鍛えた、常連さん向けスマイルである。


「すっごぉい♡ D級ってことは、もっと上も目指せちゃいますね! かっこいいなぁ〜♡」


「ほ、ほんとですか!?」


 若い冒険者は、ぱあっと顔を輝かせて立ち上がった。まなみは調子に乗っていた。


「俺、今からもっと難しい依頼受けてきます! C級の魔物討伐とか! 帰ってきたら、土産話いっぱい聞いてくださいね!」


「えっ、あ、うん、がんばってね〜?」


 若い冒険者は代金を置くと、意気揚々と受付のほうへ駆けていった。


 まなみは、ひらひらと手を振って見送った。


(ふふふ…異世界の男子、ちょろいな……!)


「――マナミ」


 背後から名前を呼ばれた。


 振り返ると厨房の入り口に、レオンが立っていた。


 いつもの眠たげな目ではなかった。静かで、でも、どこか硬い目だった。


「……マナミ。ああやって男をおだてるのは、やめとけ」


「え……」


「ここはギルドの食堂だ」


 レオンは、受付で依頼書を受け取っている若い冒険者の背中を、じっと見つめた。


「お前にかっこいいところを見せたくて、無茶な依頼をこなそうとして死ぬ若者を、俺は見たくねぇ」


 まなみは、息をのんだ。


 ここは、日本のファミレスじゃない。


 お客さんは、明日も生きて帰ってくるとは限らない人たちなのだ。


「……ご、ごめんなさい!」


 まなみは、慌てて受付に走った。若い冒険者の袖をつかんで、「やっぱり、いつもの依頼にしよ? ね? ちゃんと帰ってきて、また唐揚げ食べに来てくれたほうが、わたし嬉しいな!」と、必死に説得した。


 若い冒険者は、少し残念そうに、でもどこか嬉しそうに、D級の依頼書に持ち替えた。



 閉店後。


 テーブルを拭きながら、まなみは、厨房のレオンの背中をそっと盗み見た。


(……店長、すごく怖い顔してたな…)


 死ぬ若者を、見たくない。


 その言葉が、なぜか、ずっと胸に引っかかっていた。





 それでも、四つ葉亭は、今日も満席だった。


 リリィとおしゃべりして、ミアに頭を撫でられて、ピートには相変わらず目を逸らされて、ガルドに豪快に笑われて。


 そして、無口な店長の作るまかないは、今日もおいしかった。


(前のブラック企業と比べたら……)


 まなみは、ふふっと笑った。


(ここ、めちゃくちゃ良い職場じゃん!)



   ◇ ◇ ◇



 三日後、あの若い冒険者は、ちゃんと帰ってきた。


「マナミさん! D級の依頼、ばっちり終わらせてきました!」


「おかえりなさーい! よかったぁ!」


 泥だらけの顔で笑う彼に、まなみは心の底からほっとした。唐揚げをひとつおまけしてあげたら、泣きそうなくらい喜んでいた。


 厨房の奥で、レオンが小さく息をついたのが見えた。



   ◇ ◇ ◇



 それから、しばらくたったある朝。


 まなみがいつものように一階に下りていくと、四つ葉亭の扉に、木の札がかかっていた。


『しばらく休業します』


「……え?」


 厨房をのぞく。誰もいない。火も入っていない。いつもなら、この時間には鍋からいいにおいが立ちのぼっているのに。


「店長ー?」


 返事はなかった。


「店長なら、朝早くに出かけましたよぉ」


 振り返ると、受付のカウンターからリリィが顔を出していた。いつもの元気な笑顔ではなく、少しだけ、困ったような顔をしていた。


「毎年、この時期だけは、何日かお店を閉めるんですぅ」


「毎年……?」


「わたしからは、あんまり言えないんですけどぉ……」


 リリィは、ちらりとギルドマスターの部屋のほうを見た。


「気になるなら、ガルドさんに聞いてみてくださいねぇ」



 ギルドマスターの部屋は、書類と酒瓶と、使い込まれた大剣で散らかっていた。


 ガルドは、窓際の椅子にどっかりと座って、外を眺めていた。


「おう、嬢ちゃん。……レオンのことか?」


「……はい」


 ガルドは、しばらく黙っていた。


 それから、太い指で、ひげをがしがしとかいた。


「まぁ…なんだ。あいつにはな、仲間がいたんだ」




 ――レオンは、ここから馬車で三日ほど行った、小さな村の出身だった。


 同じ村で、同じ年に生まれた幼馴染が、ほかに三人いた。


 盾役のカイ。でかい図体でとにかくよく笑う、うるさい男だった。


 魔法使いのノア。口を開けば皮肉ばかりだが、誰より仲間の面倒を見ていた。


 そして、回復役のエマ。


「エマって子はな…料理がうまかった」


 ガルドは、遠い目をした。


「野営でも、あの子が作ると、なんでも美味くなった。レオンの料理は、全部エマに教わったもんだ」


 まなみの脳裏に、初めて食べたまかないのシチューの味がよみがえった。


 やわらかく煮込まれた鶏肉。甘い根菜。ほんのり効いたハーブ。


(あれ……)


「四人は十五で村を出て、このギルドで冒険者になった。腕は確かだった。あっという間に名を上げて、二十歳を過ぎたころには…このギルドでも指折りのパーティになってた」


「もしかして、パーティの名前は……」


「『四つ葉』だ」


 ガルドは、ふっと笑った。


「村の丘に四つ葉のクローバーがたくさん生えてたんだと。四人で、よく集めてたんだと。ガキくせえ名前だって、俺は散々からかったもんだが」


 四つ葉亭。


 店の壁にかかった、色あせたクローバーの看板。


「エマはな……レオンに惚れてた。誰が見てもわかるくらいにな」


 ガルドは、窓の外に目を戻した。


「レオンも、まあ……満更でもなかったんだろうよ。あの鈍い男がな、エマの前でだけは妙にそわそわしてやがった」


 まなみは、なにも言えなかった。


 その先の話は、聞かなくてもわかってしまった。


「……五年前だ。ある依頼で、四人は、戻ってこなかった。正確には、ひとりだけ戻ってきた」


 ガルドの声が、少しだけ低くなった。


「詳しいことは、俺の口から言うもんじゃねえ。いつか、あいつが話したくなったら…あいつから聞いてやってくれ」


「……はい」


「レオンはそれから、剣を置いた。死んだみてえな顔で、何ヶ月も部屋に閉じこもってた。それでも、人間、食わなきゃ生きていけねえ……だから俺が、無理やり厨房に放り込んだ」


 ガルドは、苦笑した。


「そしたらあいつ、エマに教わった料理を、黙々と作り始めてな。それが、四つ葉亭の始まりだ」



 そして今日が、その日だった。


 五年前、『四つ葉』の四人が依頼に出て、レオンひとりだけが帰ってきた日。


 だからレオンは毎年この日だけ店を閉めて、街外れの丘へ行く。ふるさとの村の方角が見える、小さな丘。そこに眠る、三人の仲間の墓参りに。




   ◇ ◇ ◇



 部屋に戻ったまなみは、ベッドの上で膝を抱えた。


(……重い)


 ネット小説ならよくある設定だ。仲間を失った元冒険者。心に傷を負った、無口な男。何度も読んだことがある。


 でも、それは物語の中の話だった。


 レオンは、生きている人間だ。毎日、自分のためにまかないを作ってくれる人だ。


 初めて食べたシチューで泣いたとき、黙っておかわりを足してくれた人だ。


 若い冒険者の背中を、あんなに硬い目で見ていた理由が、今ならわかる。


(店長……)


 胸の奥が、きゅうっと痛くなった。


 まなみは、ばっと顔を上げた。


「……元気、出してもらおう」


 自分にできることなんて、たかが知れている。過去を変えることなんて、できるわけがない。


 でも、明日、店長が帰ってきたとき、少しでも笑ってくれたら。


「よしっ!」



   ◇ ◇ ◇



 翌朝。


 厨房に入ってきたレオンは、いつも通りの眠たげな顔をしていた。


「おはようございます、店長っ!」


「……ああ。昨日は悪かったな」


 いつも通り、エプロンの紐を締める。いつも通り、仕込みを始める。


 何も変わらないように見えた。


 でも、まなみには、その背中がほんの少しだけ、いつもより小さく見えた。


(作戦、開始……!)



 作戦その一。笑顔で元気づける。


「店長っ! 今日のまかない、わたしが特別においしくしてあげますね!」


「……は?」


 まなみは、レオンが作ったまかないのスープの前で、両手でハートの形を作った。


「おいしくなーれ♡ おいしくなーれ♡ 萌え萌えキュンっ♡」


 厨房に、沈黙が落ちた。


 レオンは、スープとまなみの顔を、交互に見た。


「……今のは、なんだ」


「お、おまじないですぅ……わたしの故郷の……」


「……そうか」


 レオンは、無言でスープを飲んだ。表情は、一ミリも変わらなかった。


(効いてない! 異世界の男に萌え萌えキュンは効かない!?)



 作戦その二。おいしいものを作ってあげる。


「店長! 今日はわたしが店長にお菓子を作ります!」


「……卵は貸さねえって言ったよな」


「今回は卵を使いません! クッキーです!」


 小麦粉と、バターと、砂糖。混ぜて、こねて、焼くだけ。これなら、いくら料理をしないまなみでも――


 かまどの中から、もくもくと黒い煙が上がった。


「あああああっ!」


 取り出した天板の上には、炭のかけらが並んでいた。


 レオンは、そのうちのひとつをつまんで、かじった。


 がりっ、と石みたいな音がした。


「……苦いな」


「食べなくていいですっ!」



 作戦その三。楽しい話をする。


「店長! わたしの故郷の話、聞いてください! すっごく面白いんですよ!」


 昼のピークが過ぎた食堂で、まなみは必死にしゃべった。


 日本のこと。アニメのこと。漫画のこと。毎週楽しみにしていた深夜アニメの、最終回で推しが死んだときの話。


「――それでね、最終回で、主人公をかばって推しが死んじゃって……! わたし、三日間ごはんが食べられなくて……!」


 しゃべりながら、まなみは、はっと口を押さえた。


(あ)


 仲間をかばって、死ぬ。


 今、一番しちゃいけない話だった。


「ち、ちが、今のなし! 今のなしです! えっと、えっと、楽しい話……!」


 頭が真っ白になる。


 なにを言っても、空回りする。なにをしても、裏目に出る。


 元気を出してほしいのに。笑ってほしいのに。


 気づけば、まなみの目に、じわっと涙がにじんでいた。


「……ご、ごめんなさい……」



 レオンは、しばらく黙っていた。


 それから、ふうっと、長い息を吐いた。


「……ガルドさんから、聞いたのか」


 まなみは、びくっと肩を震わせた。


 ごまかそうとして、やめた。こくり、と小さくうなずく。


「……勝手にごめんなさい」


「別に、隠してたわけじゃねえ。ギルドの古株なら、みんな知ってる話だ」


 レオンは、厨房の壁にもたれかかった。


 視線の先には、色あせた四つ葉の看板があった。


「……それで、朝から妙な呪文を唱えたり、炭を焼いたりしてたのか」


「呪文じゃないです……おまじないです……あとクッキーです……」


「炭だったろ、あれは」


「うぅ……」


 まなみは、エプロンの裾をぎゅっと握りしめた。


「わ、わたし……店長に、元気になってほしくて……でも、なにやっても、全部空回りで……」


 声が震える。


「わたし、なんにもできないから……料理もできないし、強くもないし……でも、店長のシチュー食べたとき、ほんとに、救われたんです。だから、今度は、わたしが、なにか……」


 最後のほうは、ほとんど言葉になっていなかった。



 ふいに、頭の上に、大きな手が乗った。


 ごつごつしていて、あたたかい手だった。


 くしゃっ、と髪をかき回される。


「……っ」


 顔を上げると、レオンが、まなみを見下ろしていた。


 笑っていた。


 ほんの少しだけ。口の端が、わずかに上がっただけの、不器用な笑い方だった。


 でも、まなみが初めて見る、レオンの笑顔だった。


「……ありがとな、マナミ」


 低い声が、やさしく響いた。


「萌え萌えなんとかは、よくわからなかったが」


「そ、それは、忘れてください……!」


「炭も、苦かったが」


「それも忘れてください……!」


 レオンは、くっ、と喉の奥で笑った。


「……でも、まあ。悪くなかった」



 その日のまかないは、シチューだった。


 初めてまなみが泣いた、あのシチュー。


 レオンは、湯気の立つ皿をまなみの前に置くと、ぽつりと言った。


「これは、エマの味だ」


 まなみは、スプーンを持つ手を止めた。


「あいつが一番得意だった料理だ。何回作っても、あいつほどうまくはできねえが」


 レオンは、少しだけ目を細めた。


「お前が、うまいって泣いてくれたとき……あいつの料理が、ちゃんとまだ誰かを救えるんだって思った」


 まなみは、なにも言えずに、シチューをひと口すくった。


 やわらかくて、甘くて、ほんのりハーブの香りがして。


 やっぱり、泣きそうなくらい、おいしかった。


「……おいしいです、店長」


「……そうか」



 その夜、ギルド二階の部屋で、まなみは天井を見上げていた。


 頭に乗せられた手の重さが、まだ残っている気がした。


 初めて見た店長の、不器用な笑顔が、まぶたの裏から消えなかった。


(……なんだろ、これ)


 胸のあたりが、ふわふわする。


 まなみは、その感覚に名前をつけないまま、毛布を頭までかぶった。


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