公爵家使用人ティルダ
◇ティルダ視点
「奥様、起きていらっしゃいますか? ティルダが朝のお支度に参りました」
そう告げると、扉の向こうから「大丈夫よ!」と元気な声が聞こえて安心する。
私、ティルダが公爵家に仕えて十六年ほどになる。
イレーヌ様が伯爵家からこの屋敷へ輿入れなさるとき、ついてくるようにと言っていただいた。それ以来ずっと、私はイレーヌ様のお傍にいる。
「ねえティルダ、ここ、たんこぶになっていないかしら?」
「そうですね。本日の髪型は影響が出ないようにひとつにまとめて片側に流しましょうか」
朝の支度を整えながら、私はイレーヌ様のご様子を窺っていた。
まだ少しぼんやりとしていらっしゃるように見受けられる。
昨日、階段からお落ちになったのだから無理もない。
イレーヌ・フォン・シュテルンハイム公爵夫人。薄い金の髪は、ヴィルヘルム様とまったく同じ色だ。
淡い水色の瞳は、光の加減で銀にも見える。鼻筋の通った、線の細いお顔立ちで、黙っていらっしゃると少し寂しげに見える方だった。
お若い頃はもっと、よく笑う方だったように思う。
イレーヌ様は十五でマクシミリアン様とご婚約なさり、その翌々年に輿入れなさった。十八でヴィルヘルム様をお産みになって、それからずっとこの屋敷の女主人でいらっしゃる。
伯爵家から公爵家へ。身に余るご縁だと、当時は方々で言われていた。イレーヌ様もそれをよくご存じで、だからこそ必死だったのだと思う。公爵夫人らしくあろうと、背筋を伸ばして、言葉を選んで、笑い方まで直して。
そうして、少しずつ、ご自分のものを手放していかれた。
「奥様、朝食は消化のよいスープなどをお持ちいたしましょうか」
「うーん、そうねえ……」
尋ねると、イレーヌ様は枕にもたれたまま何やら思案げな顔をしている。
私はハッとして手を止めた。この十数年、朝食について奥様が何かご要望を仰ったことがあっただろうか。薦められたものを召し上がって、ありがとうと言って、それで終わりではなかったか。
「ねえティルダ。あなたが作るミルク粥がいいわ」
そう言われて、私は手にしていた水差しを危うく落とすところだった。
ミルク粥。伯爵家にいた頃、幼少のみぎりからイレーヌ様が熱を出されるたびに私が作っていたものだ。牛乳で米を煮て、蜂蜜を少し落とすだけの、なんということもない代物である。
公爵邸の厨房には腕のいい料理人が何人もいて、朝食の卓には私には名前も分からないような品が並んでいる。
そうだ。ここに来てから一度だけお作りしたことがある。
輿入れして間もない頃、熱を出されたイレーヌ様に、昔のようにと思って運んだのだ。イレーヌ様は嬉しそうに匙を取られた。その顔を見て、私も嬉しかった。
そこへ、大奥様が入ってこられた。
『まあまあ、そんな粗末なものを食べて!』
寝台の上のイレーヌ様を見下ろして、大奥様は嘲るように笑っていらした。
『お前。いつまでも田舎の娘ではないのだから、公爵家に嫁入りした自覚をお持ちなさいな』
『……はい、申し訳ありません』
『辛気臭い顔はおやめ! 大体お前はね――』
イレーヌ様は匙を置いて、大奥様が去られるまで黙って聞いていらした。体調が悪いというのに、だ。
大奥様がひとしきりイレーヌ様を詰って退出したあと、イレーヌ様は私に謝られた。
『ごめんなさいね、ティルダ。せっかく用意してくれたのに』
台の上のミルク粥はすっかり冷えてしまっていた。
あのときの、悲しそうなお顔を私は今もよく覚えている。
それきり、あの粥が卓に上がることはなかった。それどころか、食べたいものを口にすることもなくなったように思う。
大奥様は、イレーヌ様に大変厳しい方だった。
立ち居振る舞い、言葉遣い、招く客の選び方、出す菓子のひとつに至るまで、やることなすこと全てに口を出された。公爵夫人たる者はこうあるべきだと、毎日のようにイレーヌ様を呼びつけては、長々と話して聞かせておられた。
しかも、旦那様の前では一度もそれをなさらなかった。
私たち使用人は見ていることしかできない。
一度イレーヌ様に、解雇を覚悟の上で、旦那様に進言してはどうかと言ったこともある。
だけれど、公爵位を継いで間もない旦那様には負担になると思ったのだろう。
イレーヌ様は柔らかく微笑むだけだった。
*
厨房を借りて、久しぶりに鍋の前に立った。
牛乳で米を煮て、蜂蜜を落とす。手順など忘れているかと思ったのに、指が勝手に動いた。料理人たちが不思議そうにこちらを見ていたけれど、奥様のご所望ですと言えば、誰も何も言わなかった。
「まあ、ティルダ。本当に作ってくれたのね」
寝室へ運ぶと、イレーヌ様の目がぱっと輝く。
それから匙を取って、一口。
「これよ、これこれ。この優しい味。ずっと食べたかったのよね!」
「っ」
私は、返事ができなかった。
ずっと。
ずっと、食べたかったのだそうだ。
この十数年、一度も仰らなかったのに。訊けばよかった。何が召し上がりたいですかと、たった一度でも訊いていれば。
「ティルダ? どうしたの、泣いているの?」
「いいえ。いいえ、なんでもございません」
慌てて目元を押さえると、イレーヌ様は少し困った顔をなさって、それから匙をもうひと掬いされた。
「蜂蜜、多めにしてくれたでしょう」
「……はい」
「ありがとう。とっても美味しいわ」
昨日、階段からお落ちになってから、イレーヌ様は少し変わられた。
自分から話を聞くと仰った。自分で決めると仰った。ヴィルヘルム様を叱り、アデライン様に頭をお下げになった。何があったのかは分からない。頭を打たれたせいなのだとしたら、本当は心配しなければいけないのだろう。
けれど私は、嬉しかった。
昔のイレーヌ様は、こういう方だった。お優しいのは今と同じでも、違うと思えば違うと仰る方だった。あの頃のイレーヌ様が、少しだけ戻ってきたような気がする。
「ねえティルダ。明日の朝もこれでいいかしら」
「……はい。いくらでもお作りいたします」
「我慢していた分、飽きるまで食べるわ! あっなんだか思い出したら腹が立ってきたわね……」
イレーヌ様は右手で拳を作って、左の手のひらに打ち付ける。まだ手が腫れているから止めた方がいいとは思うのに。
空になった器を下げながら、私はまた顔が緩むのを抑えられなかった。




