公爵令息ヴィルヘルム③
「あっ」
小さな声がした。
ロレッタがふらりと傾いで、椅子の背に手をついている。額を押さえ、目を閉じて、いかにも今にも倒れそうに。
(出たわ。都合が悪くなると目眩を起こすやつ!)
前世でも見たことがある。追い詰められた人間が、決まってこのタイミングで具合を悪くするのだ。ちなみに医者を呼ぶと言った途端に回復する。
「ロレッタ! 母様、この子は身体が弱いのです。もうこのくらいでお許しください」
(ほらきた)
「まあ大変。ではお医者様を呼びましょうね。ちょうどいらっしゃる頃だわ」
「え」
「ヴィルヘルム、あなたは廊下でお医者様をお待ちなさい。ロレッタは奥の部屋で横になっていただいて。お話の続きは、ロレッタのお加減がよくなってからにいたします」
ロレッタの目が開いた。額を押さえていた手が、そろそろと下りていく。
「い、いえ。もう平気ですので、どうかお構いなく」
「あら、よかった」
わたくしは微笑んだ。
「でもそうね、確かにこの件は終わりにいたしましょう」
そう言ったら、ロレッタの顔に隠しきれないほどはっきりと安堵が浮かんだ。
いつものイレーヌならば、早めに丸め込まれていたことだろう。
(分かりやすい子ねえ)
逆に清々しいかもしれない。どうしてこれにヴィルヘルムが騙されているのかは分からないが、まあ古今東西そういうものなのだろう。
わたくしは座ったまま背筋を伸ばす。
「ロレッタの証言だけでは、アデラインが押したと決めつけることはできないわ。わたくしが足を滑らせたことにします」
「えっ」
「それとロレッタ。今後、我が家への勝手な訪問は許しません。事前の連絡などきちんと手順を踏みなさい」
「そんな、どうしてですか。わたし、ヴィルヘルム様の従姉妹ですよ。マクシミリアン様の姪です!」
夫の名が出たことに、わたくしも少しばかり動揺する。
マクシミリアン・フォン・シュテルンハイム公爵はこの家の主で、わたくしの夫である。
ここ数年は領地だ王都だと飛び回っていて屋敷にいる日の方が少ない。
それ以前に、十数年まともな会話をしていない気がする。
「だから?」
夫の名を出せばわたくしが怯むと思ったのだろうか。あっけらかんとそう言ったら、ロレッタは漫画のように口をぽかんと開けていた。
「この家の女主人はわたくしです。毎週のようにあなたの気まぐれに公爵夫人の予定を合わせるのが、正しいことだとお思いかしら」
「わ、わたし、そんなつもりは」
「それに、わたくしは階段から落ちて具合が悪いの。しばらく静養するからこちらから連絡するまで顔を出さないでちょうだい?」
「……っ」
ロレッタは何か言いかけて、結局言葉にならないまま、侍女に連れられて出ていった。
扉が閉まる。部屋に残ったのは、息子とアデラインと、わたくしだけになった。
「ヴィルヘルム。こちらへいらっしゃい」
息子が寝台の脇まで来る。
「あなた、今日なにをしていたの」
いつもと違う母の様子を感じ取ったのだろう。ヴィルヘルムは背筋を伸ばして緊張した顔をしている。
「こ、公正に事実を明らかにすべきだと思いました」
ヴィルヘルムの口から出た言葉は、やけに立派に響いた。わたくしは掛布の上で手を握る。
公正とはよく言ったものだ。この子は一度だってアデラインの話を聞いていない。
「ヴィルヘルム。とりあえず、一発殴っていいかしら」
「へ」
「歯を食いしばりなさい」
パーン、と乾いた音がした。
「ヴィルヘルムさま! い、今のは、イレーヌさま、どうして」
わたくしの平手打ちに、真っ先に動いたのはアデラインだった。椅子から跳ねるように立ち上がり、息子の傍へ駆け寄って、それからおろおろとわたくしを見上げる。
ヴィルヘルムはというと、アデラインに庇われながら、親父にも殴られたことがないという顔をして呆然としていた。
「ご覧なさい、ヴィルヘルム」
息子が頬を押さえたまま、わたくしを見つめる。
「あなたがロレッタばかり庇う間、アデラインはひとりで闘っていたのよ。それなのに、あなたが叩かれたら真っ先に駆け寄ってくる優しい子だわ。そしてあなたは、その優しい子を何年も傷つけてきたのです」
「僕は、そんなつもりは」
「つもりで済んだら警察はいらないのよ!」
「けいさつ」
「それは公正とは言わないわ」
ヴィルヘルムは答えなかった。答えられなかったのだと思う。
息子の視線が、隣に立つアデラインへ動いた。そのまま、動かなくなった。この子が婚約者の顔をまともに見たのは、もしかしたら今日が初めてかもしれない。
そして、そういう子に育てたのはイレーヌだ。息子ばかりを責められない。
「アデライン。驚かせてしまったわね、ごめんなさい」
「い、いえ、そんな」
「けれど、あなたに謝りたいのはそのことではないの。アデライン、ごめんなさい」
「頭を上げてください、イレーヌさま!」
寝台の上で土下座をすると、悲鳴のような声が上がる。
「わたくしは、あなたを書庫でひとりにしていたこと、本当に申し訳なく思うわ。ロレッタが来るたびにあなたの席がなくなることも、知っていて、何も言わなかったのです」
アデラインは何も言わなかった。しばらくして、目のふちを赤くしたまま、首を横に振る。
「あなたにどう償えばいいのか、わたくしにはまだ見当もつかないの」
わたくしがそう告げると、アデラインはハッとした顔をする。それから、指先で袖口をいじりはじめる。
「で、でしたら、あの、ひとつだけお願いがございます」
「なにかしら。宝石でも領地でも構わなくてよ」
「そんな、とんでもないことでございます。……あの、私と一緒にお茶会をしていただけませんか」
「え……?」
そんなことで、と思いかけて、止まった。
ロレッタとは何度お茶を飲んだか分からない。ではアデラインとは。婚約が結ばれてから、この子とまともに話をしたことが一度でもあっただろうか。
「ええ! もちろんよ! 今すぐやりましょう!」
「奥様」
わたくしの言葉を、ティルダが遮る。
「本日は階段からお落ちになったばかりでございます。御手も腫れておられます。すぐに冷やしませんと」
「あら、本当だわ」
言われてみれば、後頭部がまたずきずきしてきた。それにか弱すぎる手でヴィルヘルムを殴ってしまったことで、手が赤く腫れてしまっている。
「まあ、アデライン。申し訳ないけれど、日を改めてもよろしいかしら。一週間後はいかが。ヴィルヘルムもいいわね」
「は、はい」
「楽しみに、しています」
アデラインが、今度こそ笑ってくれた。その愛らしい笑顔に、わたくしは胸がきゅんとなった。
*
医師の診立ては、しばらく安静に、というものだった。言われるまでもなく、横になった途端に眠り込んでしまったらしい。
浅い眠りのなかで、扉の開く音がした気がした。
近づいてくる足音は、聞き覚えがあるような、ないような。寝台の脇で止まって、しばらく動かない。
「……こんなに腫れて。イレーヌ、無茶をしすぎだ」
それから、頭にそっと手が触れた。髪を崩さないように気をつけた、遠慮がちな撫で方だ。
二度、三度。何か言いかけたような息づかいがあって、結局それは声にならず、足音は静かに遠ざかっていった。
(…………なにかしら)
ぼんやりとそう思って、目が覚めたときにはもう朝だった。
誰かに撫でられた気がしたけれど、まあ夢でしょう。この屋敷で、わたくしの頭を撫でる者などいるはずもない。
身を起こすと、窓辺に花が飾られていた。白と淡い青の、朝に摘んだばかりの花だ。
(そういえば、この部屋には毎日お花があるのよね)
誰が活けているのか、イレーヌは一度も尋ねたことはなかった。綺麗だから、いいことだ。




