19. 彼氏彼女
「こんな朝早くに来る思いよらんかったけえ、びっくりした」
そうして探るような目を、上目遣いで向けてくる。
ああ、そうだった。本来の用事があるのだった。忘れてた、ヤバい。
「いや、その、昨日の……謝らんといけん思うて」
「あ、ああ……」
川内はまた俯いた。けれどさきほどまでの俯きとは違うと思う。
「あの、ついで、じゃないから」
「うん……」
川内は、こくりと頷いて続けた。
「そんな、怒るようなことでもなかったんじゃけど……あのときは、なんか、腹が立って」
「いや、一発アウトでも仕方ないこと言うた」
姉ちゃんにもそう非難された。
「じゃけえ、謝ろうと思うて」
「うん……大丈夫……。本当は、嬉しかったけえ……」
ぼそぼそと、口の中でつぶやくようなその言葉が、耳に届く。嬉しかった? 本当に? ということは。
「えーと、付き合うってことでいい?」
つい急いてしまって、そう口にしてから、はた、と気付く。
あれ、これ、脅しみたいになっていないか?
「あっ、それとこれとは話は別だから、断っても別に笑ったりしないし」
慌てて両手を胸の前で振りながら弁解すると、川内は頬を緩める。
「うん、わかっとる。付き合うんじゃったら、ちゃんと話さんといけんと……思うて……話したんじゃし……」
最後のほうの言葉は、消え入りそうになっていた。
これはさすがに、受け入れてくれたと思っていいだろう。
「じゃ、じゃあ。よ、よろしくお願いします」
「お願いします」
二人して頭を下げ合い。そして顔を見合わせて、笑った。
でもそれから、なにを話せばいいのかわからなくて、とはいえなんだか立ち去りがたくて、俺はパイプ椅子に座ったまま、ただ黙っていた。
「あの……神崎くん」
「えっ」
声を掛けられて、弾かれるように顔を上げる。川内は、困ったように眉尻を下げていた。
「私、まだ途中じゃけえ……」
そうか、水遣りの最中だったのだ。
「あっ、ああ、うん。手伝おうか」
「ううん、朝は私、やりたいけえ」
「そっか」
植物と会話しているのだと、さっき確かに聞いた。それでも、その現場を見られるというのは抵抗があるのかもしれない。
「わかった。じゃあ先に教室に行ってる」
「うん」
そう締めて、二人して席から立つ。
けれどそのまま立ち去ったら、これから彼氏彼女として付き合っていく、という事実が流れていくような気がして、足が動かせなかった。
「あのっ、川内」
そう呼びかけると、彼女はこちらを振り返る。
この子が俺の彼女なんだと思うと、なんだかどぎまぎしてしまう。不思議な気分だ。
「あの、今度、二人で出掛けない?」
「二人で?」
「二人で」
「う、うん」
「つっ、次の日曜とか」
「うっ、うん」
川内がこくこくと頷く。よかった。
「あの、尾崎と木下には……」
「あっ、どうしようか」
「ちょっと……タイミングを見計らおう」
「うん、わかった」
「じゃあ、またあとで」
「うん、あとで」
そう言ってしまっては、もう温室を出て行くしかない。
後ろ髪を引かれる思いだったけれど、俺はなんとか足を動かして、教室に向かった。
◇
「はよ」
教室にたどり着いて、自分の席に向かう。尾崎と木下はもう教室にいた。
「おはよー」
「はよー」
そう挨拶を交わして、席に腰掛ける。
自然に振舞わないといけない、なんてことを考える。けれどなんだろう、今までどうしてたっけ。わからなくなってきた。
「神崎」
後ろからちょいちょいとつつかれて、ビクッと身体が震える。
「えっ、なにっ」
慌てて振り返ると、声が裏返ってしまった。……どう考えても不自然極まりない。
木下は一瞬怪訝な顔をしたものの、すぐにいつもの表情に戻って、そしてこちらに手を伸ばしてきた。
「自転車のカギ。助かった」
「あ、ああ……うん」
手のひらを差し出してカギを受け取る。そういえばそうだった。自転車を貸したのだった。
前の席から尾崎がやってきて俺の前に立ち、そして密やかに問う。
「驚いた?」
「えっ」
川内が植物と話ができるとかいう話に? いや、それは尾崎にも明かしていないという話だった。違う。
ああ、そうだ。尾崎と木下が付き合い始めたというのを、昨日、聞いたんだった。
なんだかもっと以前に聞いたような気がする。あれからいろいろあったから、昨日のホームセンターでの出来事とか、全部頭から吹っ飛んでしまっているような感じだ。
尾崎は俺の前で首を傾げている。不審そうな目をしてこちらを見ていた。
まいった。自然に振舞う、ということがこんなに難しいとは思わなかった。
それでもなんとか、口を開く。
「あ、ああ……驚いた……ような、そうでもない、ような……」
しどろもどろでそう答えると、尾崎はポンポンと俺の肩を叩く。
「とにかく、園芸部以外には内緒じゃけえね」
「あっ、うん」
「自然にしてよ。なんよ、朝からギクシャクして」
「そ、そう?」
「うん」
よかった、どうやら二人の交際を聞いたから態度が変になってしまっていると誤解されたようだ。となると、これに乗るしかない。
「ごめん、なんか……ちょっと、意識してしもうて」
「今までと一緒だって」
それはきっと間違いない。なんだか少し、落ち着いてきた。
笑って尾崎に言う。
「おめでとう?」
「めでたいかどうかは、わからんわ」
そう返して、あはは、と笑っている。後ろの席では木下が机に突っ伏してしまっていた。
「おはよう」
「おはよー、ハルちゃん」
そこで川内が教室に入ってきた。
やっぱりまだ、自然に、というのは難しい。けれどなんとか挨拶する。
「おはよ」
「おはよう」
にっこりと笑って、川内が返してくる。あれ?
「千夏ちゃん、昨日、種買ったけえ」
「あー聞いた聞いた。サボテンだって?」
「うん、そう。お昼休み、種撒きする?」
「するー」
「あっ、じゃあワシらも昼休みにしようで」
「あ、ああ、うん」
そんな話をしていると、予鈴が鳴った。俺たちはバタバタと席に着く。
前の席の川内の背中を見て、なんだか複雑な気持ちになった。あまりにも自然で、あの温室での出来事が夢だったのではないか、という気分にもなってきていた。
そのあと、昼休憩に温室に集まったときも、帰り道を三人で歩いたときも、川内の態度はとても自然でいつも通りだった。
俺だけがどぎまぎしているのかな、と少し寂しくなった。
◇
家に帰ると姉ちゃんはもう家にいて、居間でくつろいでいた。
「そういえば最近、早いな」
「うるさいな」
単純に事実を述べただけなのだが、なにか気に障ったらしい。不機嫌そうにそう返された。
「上手くいった、とかいう報告はいらんけえね」
そしてさらに、そう続けてきた。ということは、上手くいく、という予想がついていたのか。
「なんでわかったん?」
「わかるわ。『ついで』に怒るいうことは、そういうことじゃろ」
なるほど。
「まあ断る口実にするって可能性もあるけど、あの子、そういうことはしそうにないし」
「ああ、うん」
そう頷くと、姉ちゃんはこちらを横目で見て、嫌そうに眉根を寄せた。なんだなんだ。
「あ、そうだ」
俺は姉ちゃんに手を差し出す。
「なんよ、これ」
俺の手のひらを見て、姉ちゃんは瞬きを繰り返した。
「日曜、出掛けるけえ。小遣い、くれるんじゃろ?」
姉ちゃんが約束したのだ。『あんたがデートするときになったら、あげるわ』と。
姉ちゃんはますます眉間にしわを寄せた。
「ほんま、はがええわ」
そう返事して、深く深くため息をついた。




