13. お願い その2
「ま、それはそれとして。とにかくお母さんは意地になっとったんじゃけど、今回のことで、じいちゃんを施設に預けたほうが、みーんな幸せじゃってわかったんよね。ほいじゃけえ、クソオヤジにも会ったわ」
「えっ」
噂の、浮気をして出て行ったという、尾崎の父親だ。
「まあ会いとうもないけど、仕方ないよね。クソオヤジがじいちゃんの実子じゃけえね、クソオヤジが書類とか、いろいろやらんと」
この場合、クソって言うな、とは、木下も文句をつけないのではないだろうか。
「ほいでね、離婚するって」
しゃべっていることは、離婚するとかいうあまりポジティブとは思えない言葉なのに、尾崎はやけにスッキリとした表情をしていた。
「ウチの高校の卒業と同時に離婚するって」
「今すぐ、じゃないんだ」
「まあいろいろ、手続きとかあるみたいなし。キリのええところ、いうんじゃないん? お母さんは名字を変えたいみたいじゃけえ、卒業してからなら、名字が変わってもそんなに変じゃないじゃろうし。ウチは別にいつ変わってもええんじゃけど」
そう話して、また尾崎は足をプラプラと振っている。
俺はそれまでの話を頭の中で整理してみた。
「つまり、じいちゃんの世話をするために、今まで離婚せんかったいうこと?」
「それだけじゃないんじゃろうけど、まあそういうことよね」
他所の家庭のことに首を突っ込む立場じゃない。それに俺にとっては、あまりにも話が複雑すぎる。でもちょっと、納得しきれない話だ。
うーん、と考え込んでいると、尾崎はふと自分の腕時計に視線を落として、口を開いた。
「あ、いけん。自分のことだけしゃべりすぎた」
「え?」
「ウチの話はもうええんよ。おしまい!」
そう締めると、パン、と手を叩く。それが終了の合図らしい。
「ここまでは、木下にもハルちゃんにも報告したんよ。でも、神崎に言いたいのは、こっから」
「え、なに?」
さきほどまで、自分の感情を誤魔化すかのように笑顔のままだった尾崎は、その表情から笑みを消して、俺に向き直った。
「お願いが、あるんじゃ」
「お願い?」
俺がそうおうむ返しにすると、至極真面目な顔をして、尾崎はこくりと頷いた。
まっすぐに俺を見て、尾崎は続ける。
「そういうわけで、ウチ、しばらく園芸部に来れんかもしれんけえ、ハルちゃんと一緒におってあげて」
「え?」
川内?
「あの子、ほっといたらイジメられるかもしれんけえ。ウチのこと、庇ったことがあるんよね。それで先輩に目を付けられとる」
庇ったことがある? 先輩に目を付けられている? それで、イジメられるかもしれない?
川内の姿を思い浮かべてみる。けれど、どうもそういうものと結びつかない。
たとえば、相手がクラスメートとかなら、気に入らないという理由で無視されたり、からかわれたり、ということはあるかもしれない。川内は大人しいし、俯きがちだし、おどおどしすぎだから、悲しいかな、イジメの標的になるかもしれない、という気はする。
幸い、今は気の強い尾崎がべったりとくっついているし、うちのクラスは全体的にのほほんとした雰囲気だから、その心配はなさそうだ。
だが、尾崎は先輩からのイジメを心配している。
「なにをやらかして目を付けられとるん?」
「二年になってすぐなんじゃけど、ウチらの教室の階のトイレね、全部埋まっとって」
「はあ?」
いきなり話がすっ飛んだ気がする。なんでここでトイレ?
「それで、三年の階のトイレに行ったんよね。そしたら、中で捕まって。『ウチらの階のトイレ使いんさんな』って」
「……いや……ちょっとよく……」
なぜ三年の階のトイレを使ってはいけないんだ? 意味がわからない。
俺の戸惑いを見た尾崎は、クスクスと笑いながら続ける。
「なんか、女子の間では、なんとなく決まっとるんよね。他の階のトイレ使っちゃいけんって。でもウチ、我慢できんくてさあ」
「……はあ」
「おまけに髪とか染めとるけえ、『生意気』じゃって言われて、囲まれて」
怖い。のんびりした高校だと思っていたのに、そんなことがあるなんて。
「ほいでハルちゃんは、ウチが別の階のトイレに行こうとしよるのを見とったらしくて、心配になって付いてきたんと」
たぶん尾崎は、『わー、トイレ空いてなーい!』とか大げさに騒ぎながら移動したのではないだろうか。簡単に想像できる。それを見た川内が心配になって、あとをそっとついていった。それもなんとなく、想像できる。
そしてなかなか出てこないことに不安になった川内が中を覗き込むと、尾崎が三年の先輩たちに囲まれていた。
「あんな小さくて、大きな声も出せんような子がね、ブルブル震えながら『先生呼びますよ!』って」
くすくす笑いながら、大切な秘密を明かすようにそう話す。
「ほいで、すれ違いざまに先輩らが、『覚えときんさいよ』って言ったんよ。じゃけえウチ、ずっとハルちゃんと一緒におったんよね。なんか申し訳ないじゃん?」
それで、系統がまったく違う二人が、ずっと一緒にいるようになったのだ。
尾崎は部活まで付き合って園芸部員になったのか。サボテンを枯らしたような女の子が。
「そんな経緯があったんか」
「そう。ハルちゃんも最初は遠慮しとったけど、まあなんか、ウチもあの子の傍は居心地がええんよね。ハルちゃんは迷惑かもしらんけど」
そう話しながら、尾崎は肩をすくめる。
「いや」
だから、俺は緩く首を横に振った。
「川内も、尾崎の隣で居心地がいいみたいに、見える」
俺の言葉に何度か目を瞬かせた尾崎は、口を笑みの形にして、そして小さく「うん、ありがとね」と礼を口にした。
「まあもう時間も経っとるし、大丈夫なんかなって気はするけど、やっぱり誰かに傍におってもろうたほうが安心なけえ」
「尾崎って、過保護な姉みたいよの」
前々から思っていたことを口にしてみる。
そう評されてまんざらでもなかったのか、尾崎はふふんと鼻を鳴らした。
「ま、ウチはしっかりものじゃし?」
「そういうことにしといてもええけど、疑問は残るのう」
ニヤつきながらからかうと、尾崎は少し唇を尖らせて返してきた。
「タカちゃんは意地悪なねー」
ふいにそんな発言をされて、思わず頭を下げて顔を隠した。
「……忘れとったのに……」
くそ、姉ちゃんのせいだ。
あはは、と笑いながら、尾崎は何度も俺の肩を叩く。
「まあまあ。とにかく、ウチのお願い、聞いてくれる?」
そう請われて、ゆっくりと顔を上げる。尾崎は穏やかに微笑んで、こちらの返事を待っている。
けれどきっと、答えはわかっているのだ。
俺は頷いた。
「うん、大丈夫。なるべく近くにおるけえ」
「ほうね。ほいなら安心じゃわ」
俺の返答に安心したのか、ほっと息を吐いた尾崎だったが、なにかに気付いたようにこちらに顔を向けた。
「あ、トイレにまで付き合わんでもええんよ」
「当たり前じゃろ!」
いったいなにを言い出すのか。慌てふためく俺を見て、尾崎はまた楽しそうに笑う。
そして腕時計をもう一度見て、立ち上がった。
「時間じゃね。はあー、たいぎいわ」
俺も立ち上がって、パイプ椅子を畳んで片付ける。温度計を見るとちょうどよさそうだったので、窓はそのままにして、二人で温室を出た。
そして教室までの道のりで、ぽつぽつと話をする。
「名字が変わったら、尾崎って呼べんな」
「じゃあ、千夏って呼ぶ?」
面白そうに目を細めて、そう提案してきた。
「ううーん……」
名前呼びはさすがにちょっと、抵抗がある。なんというか、気恥ずかしいというか。
「ほいでもウチは、どうせ何年かしたらまた名字が変わるじゃろ。じゃけえ、なんでもええよ」
ああ、なるほど。いつか結婚したら、また名字が変わるかもしれないのか。
ふいに、からかいたくなって、こう言った。
「木下、に変わるかもしれんよ」
「さあ、それはわからんけど」
そう返して、尾崎は微笑む。からかいは不発だったようで、特に恥ずかしがることもない、穏やかな返事だった。
わからない、か。絶対にない、ではないんだな、とちょっと温かな気持ちになった。
俺のそういう思いに気付いているのかいないのか、横にいる尾崎は続ける。
「まあでも、離婚をここまでせんかったのは、良かったんかもしれん」
「え? なんで?」
「お母さんの旧姓、村上なんよね。そしたらウチらの出席番号、四人並べんかったじゃん?」
「ああ」
なるほど。もしも尾崎が村上だったら、四人がここまで仲良くなっていなかった可能性もあるのか。
「なんでも、良し悪しなんかもしれんねえ」
「うん」
そんなことを話しながら、俺たちは教室への道のりを歩いたのだった。




