オーバードライブ…2
「脚細いよな。胸も小さいけど」
草の匂いの風が吹き、高水敷には僕たちの背後の鉄塔が長い影を落としていた。富士見線7号。そんな名前の鉄塔だ。たいていのものには名前がある。知ると知らざるとに関わらず。
僕たちの議題は学年で一番かわいい女子を決めようとするものに変わっており、オオトモさんはどうだろうかという僕の提案に対するヤベのコメントがそれだった。ヤベのコメントも否定できないが、オオトモさんのかわいさも否定できず、そうでなければ吹奏楽部の部長は勤まるまい。吹奏楽部に外観で部長を選出する制度があるのかは知らないが、毎年の体育祭や文化行事を眺めるに、そういう傾向があることは観察できる。
「キクチさんは?」
「あの子んちのラーメンはまあまあ美味いよな。他のもん喰ったことねえけど」
僕たちの地理的状況について非文学的な説明を試みるならば、こういうことになる。東から西に向けて、団地と住民施設、右岸、川、左岸、工場および資材置き場等、国道、倉庫および物流センター等、斜面林、台地、畑および一戸建ての住宅地。論理的には説明不要だろうが、川は当然南から北に向けて流れており、全体としての地形も北に向けてゆるやかに下っている。地図を描いて説明してもよいのだが、プライバシー保護のために地図にモザイクをかける必要があるし、モザイクをかけた地図に、あるいは地図のモザイクを除去する作業に興奮できる性癖をお持ちの方が多数派とは思わないので、割愛する。四つの市町の境が集中する地帯でもあり、正確な説明は放棄するが、いずれにせよ僕たちの町は川の東側ではある。
ヤベと僕は左岸、すなわち町の反対側の土手にいて、食品工場の背中の配電設備や空調ダクトを眺める趣味もないので、川および対岸の団地――賃貸側の四、五、六街区だ――に顔を向ける斜面におり、ヤベは両手を枕にして寝っ転がり、その左隣、すなわち北側で、僕は傾斜に合わせて角度を調整した体育座りをしている。二台の自転車は工場裏の鉄柵の脇に仲良く駐めてあり、僕たちはほどよき暑さの工場の日陰に陣取っている。そんなところだ。
「クロカワさん」
「頭おかしいよな、あいつ。嫌いじゃねぇけど」
対岸の土手の向こう、すなわち四街区の南には、下流から上流に向けて、三階建ての小学校、四階建ての中学校、五階建ての高等学校と、多少の間を空けながらもほぼひと揃いの教育施設がひと連なりに並んでいる。一貫校というわけではない。他地域からの流入による人口の急激な増加に合わせて立て続けに開校した――させざるを得なかった――公立の学校群だ。当然教員どももどこの馬の骨とも知れない連中を無理矢理かき集めたわけだが、その言い方はいくらなんでも失礼だ。馬ほど優しく賢く美しく、自由で気高い生き物はそうそういないのであり、教員なんぞとは風する馬牛も相及ばずといったところだろう。教員どもに馬と鹿の見分け方を教える必要はあるだろうが、馬の馴致より遥かに骨の折れる不毛な作業になるのは間違いなく、死に馬に鍼刺すようなことはやめて、予後不良扱いをする方が賢明な判断ではあるだろう。
「ヤマモトさん?」
「誰それ」
「背の高い子」
「ああ、あれな。バレー部の部長だろ」
「たぶん」
「かわいいか、あれ?」
そう問われると答えに窮するが、ヤマモトさんのいつもにこにことした朗らかさを僕は評価する。僕に評価されて嬉しいかは知らないが。
僕たちが通う麗しき学舎は、三つの校舎のちょうど真ん中に位置している。Z市立T小学校でもなく、S玉県立Z北高等学校でもなく、Z市立第四中学校だ。開校順に無印、二、三、四、五、六と無造作にナンバリングされただけの粗雑な校名ではあるが、中身と比較すればもったいないぐらいに丁寧に考え抜かれた美しい校名とは言える。「叡智」という言葉が校歌には含まれているが、そんなものを求めてこんなところにやってくる人間がいたならば、相当の変わり者と、より正確に言えば気が狂っていると見なさざるを得まい。だったらU野動物園のサル山でも探した方が、よっぽど望みに近いものが手に入るだろう、と関係者は語る。U野まではS駅から急行に乗って終点のI袋で降り、丸い緑のY手線に乗り換えるだけでいい。一時間もあれば充分だ。
「生徒会長とか」
「お前も生徒会長好きなの? 生徒会長はマコトだろ?」
マコトは三組の男子生徒で、色白でふっくらとしていて、団地住民で、母親が韓国人で、生徒会長に片思いをしていた。あだ名があるならば「韓国人」か「生徒会長」だったが、たいていの男子は普通に「マコト」と呼んでいた。
「そういうわけじゃないけど。あくまで客観的にね」
僕は客観性を大事にする人間だ。
カマボコ型ではない北高の体育館の手前には、川縁の雑木にところどころを遮られながら、僅かなアーチを描いて水平方向に広がる一本の白い筋が見える。『ふれあい橋』という名の橋長一二〇メートルほどのほっそりとした橋梁がその正体で、一九九N年の落成以来、川を跨いで飛び地的に市域および学区となっている地区の生徒たちは、長々とした通学路の最終通過地としてあの橋を渡って四中に通っている。歴史的には飛び地どころかひとつの中心地であったような伝統的な地区なのだが、産業構造や人口動態や交通の変化によってなにかにと変容があり、場合により不便を被っているということなのだろう。少し大きめの地図を広げれば、さつまいもとイノシシの合成獣のような形の県域の鼻面にはやたらと濃ゆいC父地方というかC父国が聖なるB甲山に抱かれてどっしりと構えているのであり、S玉県やZ市もそうそう単純ではないのだ。
橋には橋脚の真上に二ヶ所のバルコニー的な膨らみ部分が設けられており、川と団地とニュータウンと鉄塔と電線を眺められるベンチも用意されてはいるが、脳のどの部位に欠損があればこんな風景をとっくりと観賞したいという常軌を逸した欲求が生ずるのかはわからない。
とはいえ、生活にいくばくかの潤いなり心安らかなるひと時なり語らえる場所なりを、という設計者のロマンティックな感傷には――たとえそれが現実から三光年ほど遊離したものだとしても――共感するところもないでもない。少なくともひたすら殺伐とした思想に基づいて設計されるよりはよっぽどマシだろう。
僕はといえば昨年の十二月のある夜、諸事情によりクラスメイトの某を殴ってやろうとザ・カクテルバーの空き瓶を持ってあの橋で待ち構えていたことがあったが、結局某は現れず、寒くもなれば馬鹿馬鹿しくもなってきたので帰宅した。設計者が予期しなかったであろう平和ならざる橋梁の利用法ではあるが、完全なる他人事として眺めるならば、八割の滑稽さの中に二割のロマンティックが含まれていた光景だったとは思う。ロマンティックは常に痙攣的なものとは限らないが、予期の外に――しばしば滑稽を伴いながら――生ずるものではあるだろう。ザ・カクテルバーという銘柄選択のレアリスムが我ながらよい。味はブルーハワイだったはずだ。
僕の視力ではここからは見えないが、アルミニウム製の茶色い高欄には鳩だかなんだかの鳥たちのレリーフが飾ってあり、橋全体で百八羽というのがその正確な数だ。なにを思って人間の煩悩と同じ数にしたのかはわからない。
イニシャルにして隠すまでもない善良かつ凡庸な橋名は、小学生の頃に隣のクラスの進化途中の類人猿のような容貌の男性教諭の命名が公募で採用されたものだった。名称は当然、時代的な「ふれあい」とやらの欠如とやらを陰画として示すわけだが、それはさておき自動車交通を排除した歩行者および自転車専用の橋梁としたことは評価する。自動車道路橋としたならば、国道やインターチェンジ絡みの交通量の多い上下流の橋梁の抜け道として使用されることはまず間違いなく、地域住民の静穏な住環境および学生や生徒諸氏の交通の安全を確保することはできなかっただろう。凡庸ではあるがよく考えられた必要な橋であり、地域社会および景観との調和のとれた良橋と呼んでよかろう。
団地のメインストリートも自動車は隣市であるS市に直接は抜けられないようになっており、住環境と交通安全の面のみを見ればひとつの方法だったとは言える。僕は客観性と公平性を大事にする人間であり、すべてに文句を言いたいわけではないし、道路に供えられた花々を眺めることを好まないのだ。ついでに言えば主として大型車が残していく煙草の吸殻と弁当の残滓を眺めることも好まず、ここがゴミ箱のような町であることは否定しないにせよ、だからとて赤の他人の大人たちのゴミ箱にされて嬉しいわけもない。変速機つきのトンボ型の愛車で国道沿いを流す度に、そんなことは考える。
気まぐれで市内の他地域を颯爽と流してみれば、我らがメインストリートがいかに安全面で恵まれた道路であるかは感じる。新興の住宅地であるがゆえに土地関係のしがらみがさほどなかったであろうことが影響するのかはわからないが、他地域だと歩道もなく、見通しも悪く、ぐちゃぐちゃと入り組み、すれ違うことさえやっとな道路をイライラした車がぞろぞろと走っているのが当たり前なわけで、生真面目で善良な小中学生が文部省だか教育委員会だかの通達通りの他所者教員のやる気の欠片もない口先だけの言葉を真に受けてしまい、健気にも郷土とやらを学ぼうと思い立って『Fガロ』だか『Y田書店』だかで買った真新しいノートブックを持ってうきうきと自転車で市内を巡りでもしようものなら、翌日のS玉新聞の交通事故欄に短く哀れなニュースが載るのは間違いない。斯様な状況において彼または彼女を殺したのは誰か、というのはコック・ロビン殺害事件よりもいくらか厄介な案件ではあるが、「安全に移動ができる」という道としての本質を見失っていない道路は少なくともこの市には多いわけではないし、人間を排除して車を通すというのが昭和が目指した町作りではあったわけだ。それが計画的に為されたとは思えない混沌ぶりは、たとえばZ市にお越しいただければ実感できよう。
そもそもN本国本来の道は自動車交通に適したものではなかったとも言え、そう考えれば根は昭和よりも深いところにまで潜っているのかもしれない。言語、教育、文化、学問、思想、行政、農業、経済、あれこれの歪みや狂いは明治期に端を発している可能性も大いにあろう。交通に関しては、僕は馬社会への回帰を提案する。馬糞もエネルギー源として利用すればよい。自然環境も再生され、ストレスも軽減され、住み心地もよく平和で優しい最先端のエコロジーな社会になるだろう。
「――」
僕は言葉を発そうとして、やめた。先ほどから挙げている女子生徒たちの中には、僕の母校であるT小学校の出身者は含まれていない。これには事情があり、団地の三街区以外の住民児童は自動的にT小に通うことになるのだが――三街区住民は『リバーサイド』住民ともどもZ小行きだ――少なくとも僕たちの世代では比較的容姿の良好な女子たちはそれが美しさのステイタスであるかのように、競うように次々に地域外へと転出していったからだ。サトウさん、マエモトさん、タムラさん、エンドウさん、五年生のときに転校してきて卒業を待たずに去ったナンブさん。僕の同級生でも六年間でそれだけの人材流出があり、隣のクラスも含めれば当然倍にはなるはずだ。初恋の人が転校してしまった、なんていう話はこの団地では当たり前すぎていかなるドラマも発生しようがなく、毎年恒例行事として転校による失恋を経験したところでどうということはない。B・I・N・G・O、そんなところだろう。
容姿を問わなければ流出はさらに多く、異性のみならず同性の友人たちも去っていくわけで、毎年のように「親友」が消えていくこともすぐにどうとも思わなくなった。高学年の頃に僕を中心にアガサ・Cリスティが小さな流行を見せたことがあったが、今思えば自分たちの状況と重ね合わせていたところはあったのかもしれない。
T小卒業女子の容姿に関する名誉のためになにかを言っておこうかと思ったが、まったく面白いものにならなかったから省略する。そんな話をするぐらいなら、九九の暗唱でもしてみせた方がよっぽど愉快なひと時を提供できるだろう。
いわゆる学力等に関しては、少なくとも僕たちの世代のT小出身者はそれほど悪くはないと僕は思うというかそもそも僕が優秀だし、教員どもとは違って無知でも低能でもないから偏差値やらを無条件に信仰してあへあへと汚らわしいよだれとケツ汁を垂れ流し続けているわけでもないにせよ、通りのよい大学に進学する人間もちらほらいるだろう。ついでに言えば、現行の偏差値制度が普及したのは昭和四〇年代以降に過ぎない。大量の情報を処理するにはなにが必要か、と考えればわかる話だ。我々は自分が物心ついた頃からあるものは「これまでもずっとあり、これからもずっとあるもの」と妄信してしまいがちだが、歴史を知ればそんな事実はないとわかるし、当然に変わり得るものだとわかる。
歴史を知らないと目先のことしか見えなくなる。目先のことしか見えないのはなにも見えていないのと同じことだ。大人たちは歴史を知らない。論理的帰結がケツ汁だ。
さて、僕たちの周りから去っていった人間たちは皆嬉々として去っていったわけだが、その中に「踏み台型」と「転勤族」がいたことはわかる。先の女子勢だとナンブさんがそもそも転勤の流れの中で転がり続けてこんなところに辿り着いてしまったはずだ。それはそれで幸福とは思わないが、一般に転勤が生ずるような就業状態というのは比較的経済水準が高いようではある。経済水準の高さと幸福度が比例するかは僕は知らないから訊かないでほしい。
仮に、遠い未来に転勤族令嬢のナンブさんが、「あたしには故郷がない……」と寂しく思うことがあるならば、安心してほしい。この魂が此岸に滞留している限りは僕は覚えているし、あなたのことを好きだったセキネKニヒコくんもきっと覚えているはずだ。ということで、僕たちの心の中があなたの故郷になる――団地の2DKの一階の北向きの四畳半程度の狭く暖かみのないじっとりと湿って黴臭く殺伐として謎の虫も入ってくる眺めと風通しが悪くプライペート性が低く雑然として退屈で空虚で孤独で低俗で時おりはバルサンを焚きたくなるような居心地の悪かろう心ではあるが、それでもナンブさんのためのクッションぐらいは埃とダニの死骸をはたいて用意するし――座布団ではない――畳敷きだからとて座布団を遣っていると思ったら大間違いだ――ご希望ならばフルーチェかゼリエースぐらいはお出しする。それ以上のもてなしは期待しないでほしい。あるものはある。ないものはない。それだけだ。
もっとも、愚かで汚らしい畜群を眺めるかのごとき冷ややかな眼差しで僕たちを眺めていた彼女ならば、懐かしく思い出すどころか人生の汚点として消去してしまいたいような虚しく惨めな日々だったのだろうし、むしろ僕たちの記憶からも完全に消えてしまいたいぐらいではあるだろう。その辺りはご愁傷しゃまとしか言いようがない。人間の記憶というのは、かくたいげんクォタイユェン郭泰源のサイド寄りのスリークウォータースローから放たれる最速一五六キロメートル毎時の速球および多彩な変化球、とりわけスライダーのようには思うようなコントロールが効かないものなのだ。
そんなこんなの僕たちの状況を――ケツ汁ではなくミステリの女王だ――ある程度は理解している教諭もいるにはいたようで、僕は直接は関わったことのない女性教諭だが、小学校の卒業文集では転校していった教え子の名前も「どこかの空の下の」として、マキさん、マミさん、ヒロシ君、フミオ君、云々と連ね――我々の学年における彼女の教え子の範囲内で、六年間で十一人は転校したようだ――さらには二年生の終わりに車で追突されて亡くなった「天国のナツコさん」の名前とともに「卒業おめでとうございます」としている。美しい配慮と言えるだろう。
◆
「そんなこんなの僕たちの状況」を、より広い視野で、より客観的に、よりわかりやすく、より非文学的に説明するためには、結局は数字をお見せするのが一番早いし正確だろう。
プライバシー保護のために数字には僅かな変更を加えてあるということにしてほしい。同じくプライバシー保護のために今が何年であるのかも巧みに――アトランタ・オリンピックなどという際どい話題もありながら――隠してはきたわけだが、統計を眺めれば勘が異常に鋭い方なら察しがついてしまうかもしれない。仮にわかってしまったとしても、なにも言わずに心の中に――朝起きて布団を畳んで押し入れにしまうように――しまっていただき、僕たちのプライバシーの保護に――駅前で体制迎合派の中学生たちが内申点稼ぎのために呼びかける赤い羽根の共同募金のように――ご協力いただきたい。この物語はフィクションです云々というやつだ。Z団地もSニュータウンもO和田プールもひばりやもイニシャルみたいな名称のゲームセンターもLポートもPモールもY瀬川もふれあい橋も百八羽のなにかもT小もZ小も四中もオオトモさんも、すべては僕の類稀なる想像力の産物であり、実在する云々とは一切関係がないし、モデルさえも存在しないということにしておいてほしい。僕さえも僕の想像力の産物だ。想像する僕を僕は想像する。
想像上ではあるが、いくらか太めの枠は「僕は一応そのときそこにいた」ということではある。大した意味はない。単に「その時期の話をしています」というだけだ。ついでに言えば僕は早生まれの魚座であり、N本国の理不尽な教育制度上、早生まれにはかなりの不利があるから避けられるなら避けた方がいい。それが明るい家族計画というものだ。成長の差が極めて大きい年代に、最大一年分多く育っている人間たちと体育で競えと言われ、お前は劣った人間だ、社会の落伍者だ、生まれついての敗北者だ、今すぐ死ね、直ちに死ね、犬のように死ね、と決めつけられても困ったものである。頭はあるが、そんなものはこの国とこの町と四中ではなんの役にも立たないどころか、人生をひたすら不幸にするだけの呪いのような足枷にしかならない。頭が足枷になるというシュールな体位はさておき、Bドレールのアルバトロスに僕は少なからず共感する。
統計的にはZ団地というのはわかりやすい団地で、「Z市Z三丁目」がまるまるZ団地であって他ではほぼないので、「町丁別の世帯数、男女別人口」を見ればZ団地の世帯数および人口がわかる。ということで元の数字は「Z三丁目」のそれではあるのだが、わかりやすくするために「Z団地人口」としておいた。「Z団地入口」ではない。実在するバス停ではあるが、ひとつのバス停が数千もあっても仕方あるまい。
比較のために『Sニュータウン』関係の数字も出した。こちらもおよそは町名でわかるので、そう遠い数字ではあるまい。『Sニュータウン』関係者の方々にとっては勝手に引き合いに出されてご迷惑かもしれないが、それなりの羨望の眼差しがあった上での話なので、ご容赦いただきたい。もしも通り一本向こう側に生まれていたら、ということを、どうしても考えてしまうのだ。見事な負け犬のウルフK串ではある。
前置きが長くなったが、これ以上の解説は後回しにして、表をご覧いただきたい。
【ごめんなさい。割愛せざるをえません】
何が起こっても変じゃない そんな時代さ 覚悟はできてる
かつてMター・CルドレンのSライ氏はそう歌ったが、「それでは、具体的にどんな時代かを、人口動態の観点から数字で見てみましょう。どうぞ」といったところだ。リアクションは「おー」だろう。思いのほか大きな話にはなるが、因果連鎖の軸は明確だ。
T京に向かう人口の流れが一九六〇年頃を境に南K東の他地域に流れ始め、流れた人口の受け皿としてT京都と隣接するZ市の人口が急増し、急増する人口を受け入れるためにZ団地が造られ、Z団地の児童を受け入れるためにT小学校が造られ、主としてT小学校の卒業生を受け入れるために第四中学校が造られ、増加しすぎたT小学校の児童を吸収するためにZ小学校が造られたが、八〇年代に入って人口の流れが変わり、Z団地の人口が減少し、地域の児童数も急速に減少している。(二二〇字)
このあたりが模範解答だろう。こんな時代だ。どこのナメクジの骨とも知れない社会科教員が教えるよりは僕が教えた方がよっぽどマトモな授業になるはずだし、四中生にしておくにはもったいないと我ながら思う。教員はなんのためにいるのか。Hイデガーでも答えられない難問だ。「先公? 生徒にぶん殴られるためにいるんじゃねぇのか!」という八〇年代風のバリバリな回答もひとつの正解ではあろう。そのぐらいの使用法しか僕にも思い浮かばない。よい教員は死んだ教員だけだ。
ポイントはZ市の人口の急増だ。なにが「どこにでもある普通の町」なものか。どう見ても異常だ。異常が異常とわからない人間が異常だ。異常を「発展」と捉えていた時代が異常だ。この異常が始動因となって他のすべての異常――Z市という異常、Z団地という異常、T小という異常、四中という異常――がある。この始動因の前にはあれこれの因果連鎖があるわけだが、遡ればひとまずは戦争であり戦後であり云々ということにはなりつ、その辺りの話を追い始めれば果てしないことになるから追わない。「もはや戦後ではない」などと後代を苛立たせるために発されたようなコメントにも言及しない。
近年のZ市は統計資料から昭和期の数字を追い出しつつあるが、いかにも教育のない人間の発想だ。統計の読み方や使い方を知っていればそうするわけがないし、この数字がわからなくなればなぜこの町がこうあるのかも、どうあるべきかも絶対にわからなくなる。
このあとになにが起こるかは明白であり、T小学校かZ小学校のどちらかが廃校となってひとつに統合されるだろう。数字がそう語っている。覚悟するまでもない自明の理だ。蝗の群れが通り過ぎたあとのようなZ団地は今後も順調に人口を縮小し続けることは確定しており、残る関心はその速度とその場しのぎの利用法と――この先数十年は続く「その場」だ――解体時期と解体後の土地の利用法だけだ。
T小学校+Z小学校の児童数だけを見ると「佐々木のフォークみたいだな」と思ってしまうような見事な落ちっぷりだが、少なくとも八〇年代のSニュータウンには児童がいるので、「伊藤智仁のスライダーみたいだな」というのが正解だろう。どちらにせよ誰にも打てない魔球であることには変わりはない。
僕が知りたいことはひとまずふたつあり、ひとつは他地域でも大なり小なり生じているであろうこういう現象が、具体的にどの町でいつどのように起こったか――起こっているか――ということだ。近場にあるなら訪れて眺めてみて、「おー」というリアクションをとってみたい。「おー」のあとは特になにをするでもなく――その町のために僕になにができるわけでもないので――いくらかの気まずい時間のあとに、体裁として「Uルンです」で何枚かの記念撮影をして、そうした方がいいのかなという雰囲気になったならば関係者の方々と握手ぐらいはして、「そうかー」という一定の満足感とともに、電車に揺られて帰宅するだけだ。
もうひとつも関連はするが、公立小学校の開校から児童数減少による閉校までの最短記録を知りたい。激戦区S玉県の並みいる強豪校を打ち破ってK東大会に出場できるとは思っていないが、もしかしたら我々のそれは県内ランキング入りぐらいはできるのではないかと期待している。自己ベスト的な最短記録を目指すならばZ小を廃校にしてT小を残した方がよいが、最大瞬間児童数一二〇〇人にまで達してからの急降下の廃校というインパクトを重視するならばT小を廃校にしてZ小を残した方がいい。どちらかの廃校自体は先述の通り自明の理だから特にどうもこうもないが、記録の観点からは岐路に立たされてはおり、参考資料として他地域の状況を知りたい。僕は別に「一番じゃないと気が済まない」タイプではないから、敗けたら敗けたで「あ、そうなんですね」だし、完敗なら完敗で「うわーすごいな。どうやったんですか」だし、上には上がいることを知って「おー」と驚きたいだけではある。割と『牛肉と馬鈴薯』だ。
それなりの記録を達成したならばしたで、やはり「おー」であって、それ以上でもそれ以下でもない。T小がそれほど悪い学校だったと――なぜ僕たちがO縄の人たちの怒りを叫ばされているんだろうかという疑問を抱かざるを得ないほどの過剰で的外れな反戦反米教育はさておき――いうわけではないし、さりとて積極的によいと主張するほどよいわけでもなく――特筆すべき長所はそこらへんにあるということだ――転出はやたらと多かったし上級生に性質の悪いのが転校してきて地域に不穏をもたらしはしたものの、総合的には「なるほど、小学校ではあった」ぐらいのものだし――四中は「これは教育施設ではない」だ――Z小もT小より多少はよくてもだいたい似たようなものだろうと勝手に思ってはいるが、児童数の減少は「この町はダメだ」あるいは「他によりよい町がある」という子育て世代の大人たちの冷静かつ功利的な判断によって人工的に起こっているわけだし、児童たちも嬉々として去っていき、あるいはこの町を通過する必要もなく平和に他に落ち着いているわけで、『最後の授業』やら過疎化の離島で云々的な美談が発生する余地がない。
過疎化というならZ団地も異様な過疎化が進行中だし、離島というなら相当の離島ではあるが、僕だって家庭の事情が許すならば積極的に過疎化に貢献したかったのであり、むしろこんな不毛な過疎化現象に関わることなく平和に生きて平和に死にたかったのであり、特にN本H送K会のドキュメンタリーで取り上げていただくには及ばないというか、そもそも大人たちがこの町をなかったことにしようとし、ないものとして忘れようとしているわけで、この町に関しては僕もそう思う。最初から存在しなかったことにしてほしい。
といって、という話で、時間の本質は不可逆性であり、ひとたび存在を始めてしまった存在を遡ってなにも存在しなかったことにすることはできず、存在は然るべきときが来るまで存在し続け、然るべきときが来れば存在をやめるだけだ。Z団地の「然るべきとき」は三年後でなければ数十年後が漠と予定されてはおり、それが長いか短いかはその都度の尺度によるだろう。
最大の疑問は「なぜ人々はT京に向かうのか?」ということだが、Y川出版社だかT京書籍だかの教科書通りの答えで事足りるならば、わざわざN渕剛が声を嗄らして歌うこともなかろう。そして、そこに含まれるせっせせっせとしたものが、僕にはわからないのだ。物体として法律上T京都とされる空間に侵入すればいいだけなら自転車で一五分足らずでK瀬市であり、特にどうということがない。K瀬市を悪く言うつもりはない。実はD田団地がちょっと好きだ。自然が豊か、地形の変化がある、よい公園が近所に複数ある、規模がほどよい、色がかわいい、Y瀬川がきれい、妙に和む、そんな魅力を感じる。
そんなD田団地やAが丘団地やT丘団地やN塩団地はさておき、この辺りは父親を理解できないところでもあり、T京がいいのか、故郷がいいのか、どちらかがいいのならば、なぜS玉県に来たのか、という話だ。父親が嫌いなわけではない。彼の名誉のためにそれは言っておく。理解できないものは理解できないという、ごく冷静な話だ。理解できないからといって嫌いになる必要はない。孤独にぱちぱちと囲碁に取り組み続ける彼の背中には、感じるものがある。趙治勲という名前はどうにか覚えた。あとは忘れた。
父親は「俺はアンチGアンツだ」と称して赤いヘルメットの市民球団あたりを応援し、母親は虚ろに「野球=Gアンツ」と盲信して曲げることなく、僕と弟はなんの疑いもなくパンジャの子の勇ましい横顔が描かれたキャップを被って児童期を過ごしてきたという、考えてみれば面倒臭い家族構成ではある。幸福かどうかは訊かないでほしい。応援球団の不一致が法定離婚事由になるのかは知らないが、見た目より根深い不一致があることは両親を眺めているとわかる。昔は怒鳴っている父親が悪いと思っていたが、だんだん怒鳴らせている母親が悪いということを理解できるようになってきた。この辺りも人間の面倒臭いところではあり、目につく攻撃性の有無および善悪のイメージは善悪とは関係がないし、攻撃するよりないところまで追い込む人間がけっこうな悪であることも多い。外観に騙されてはいけない。
そんな我が家の台所事情は善悪の彼岸に放置するとして、南K東ならどこでもいいのか、という疑問もある。いくらかK奈川県が人口の増加が早いとはいえ、C葉県もS玉県も等しく人口が増加しているのであり、区別しているように思えない。「でも、違いますよね」としか言いようもなく、やはり謎だ。仮に見分けがついていないのならば、PモールのU野眼科に行くなり、N本地図を描き写して学んでみるなり、なんらかの対処は必要だろう。もしかしたらなんとかかんとかメータの気球の代わりにT京タワーやK門やG座W光やI09が見えてしまうのかもしれないし、A川R之介に憧れたK木村のT島S治青年のようにT京都の形ばかりを描いてしまうのかもしれないが。ついでに言えば『正義と微笑』のカルチュア観はいかにも時代の愚かさを示すものではあるが、詳細は長くなるから省略する。
◆
文学賞とやらの枚数指定を吐血しそうなぐらいに気にしてPルーストほどの分量で語るべき話のほぼすべてを省略せざるを得ないという大半誇張の部分的な真実を読者の皆様に報告しつつ、いまだに「N字」ではなく「原稿用紙N枚」で数えて提出しろと要求され続けているアレな状況も報告しておく。文明社会にお住まいの皆様なら冗談だと思うだろう。僕も冗談としか思わない。Fァインマンさんだって冗談で言っているはずだ。出版業界だけは大真面目だ。もしかしたら「この門をくぐらんとする者、一切の正気を棄てよ」という地獄からの熱いメッセージなのかもしれないし、あるいは小学生の作文の提出が求められているのかもしれない。小学生の作文よりマシな文章が書店に溢れているかどうかは――お前は知っているはずだ。偽善の讀者よ、我が同胞、我が兄弟よ!
K貫之氏やM式部氏も原稿用紙に書いていたのならある程度は由緒正しき伝統なのかもしれないが、もちろんそんなわけがない。I原西鶴氏やK亭馬琴氏も違う。中学校を出ている人ならご存知だろう。かつては句読点もなかったし、そもそもは紙も文字もなかったし、B琶法師たちはなにをやっていたのかという話でもある。本当は点字や音声等での提出も受け付けるぐらいが、公平で健全で才能を無駄に潰さない社会ではあるだろう。
諸国に目を向ければ十九世紀後半以降は――Dビュッシーが幕末生まれ大正七年没の明治期の人間だという衝撃の事実よ――当然タイプライターが普及しており、タイプライターと向き合う文人たちの有名な肖像も多々あれば、タイプライターにまつわる名言も少ないわけがない。Hミングウェイ、Bールドウィン、Bコウスキー、Gンズバーグ、偽善の讀者がお好きな名前がいくらでも挙がってくるだろう。Mラルメの美しきそれは――おそらくは文芸史上最も美しい品のひとつだろう――確かにタイプライターでは書き得ないものではある。もちろん原稿用紙でも不可能だ。
◆
N本語の学習者に「某国民に訊いてはいけない一〇の質問」を教えるならば、一位から三位は「どうしてですか?」「具体的には?」「なんのために?」だろう。某国民にその質問をすればうろたえるか、怒り出すか、うろたえて怒り出すかであり、マトモなコミュニケーションにはまずならない。誰が言っていただとか自分の信念だとか、どうでもいいことを語り始めるならまだマシな部類だが、誰もそんなことは訊いていない。「昔」とは正確にはいつで、どうしてその時期にはそうしたのか、という話もありつ、質問に即した回答ができないのも国民性であり、いかに自問自答慣れしていないかでもある。「考える」とはどんな活動だと思っているのやら。
◆
確かに、この話は僕なりの『失われた時を求めて』ではある。Pルーストは一行読んだだけで全身に蕁麻疹が出て三日は寝込むぐらい嫌いだし、マドレーヌよりは理容Sズキで散髪後にもらえるKっぱえびせんの方が好きだし――シェービングクリームと蒸しタオルの匂い、商店街のアーケードの下のひんやりとした夕の色と空気と足下のタイル、二〇円で動く塗装の剥げた乗り物的な遊具の記憶と結びついている、さくさくと乾いた香ばしい塩味だ――正確には『無駄に失われた時を求めて』ではあるのだが、どうして僕の人生の時間が無駄に失われることになったのかは――お前は知っているはずだ。偽善の讀者よ、我が同胞、我が兄弟よ!
◆
なお、僕のBドレールへの好みはA川R之介経由で形成されたものと見せかけてBUCK-TICK経由で形成されたものだ。モノクロのジャケットと独特のフォントとアコーディオンのあのアレであり、一部の神に――或ひは惡魔に――選ばれし偽善の讀者の脳内で流れ始めたあのギターとあの声が、今僕の頭の中でも流れている。たかが言葉だけでコミュニケーションが成立してしまうことの不思議さに、人はもっと驚いた方がいい。我々は千年の時を超えてS少納言氏と会話をし、同じ星を眺めることができ、夜寝起きて水を飲み、こころゆく、と思ふことができるのだ。
◆
そんなことより時代も言語も人種も民族も年齢も地域も性別も社会階層も超えて人間は人間に絶望し続けてきたという事実がなんら驚きではないという事実がなんら驚きではないという事実の方が驚きの事実ではある。
◆
ということで、この話は『デ・プロフンディス・クラマウィ』でもある。人間の愚かさという深淵から――というほど深みはないが、脱け出せないということでは確かに深い――誰に向けてでもなく虚しく叫ぶよりない、古来より繰り返され続け、人類の滅亡まで繰り返され続けるであろう、人間の真実の叫び、呪詛の叫びである。
◆
この疑問と――「なぜ人々はT京に向かうのか?」という疑問だ――人間の愚かさに関しては疑問の余地がない――一体である「人々はどこから来るのか?」という問いに対する正確な答えが見えないのは統計資料の限界だ。本籍地関係の統計を廃止したことには大人の事情があるのだろうから、そこは「ああ、まあ、はい」ではあるが、人間の動き方が見えづらくなったのは間違いないし、その見えなさに困惑しながら生きている。事実がわからなければ対処のしようがないのだ。K・ヘーリンジが指摘するように、現代社会は「見えない社会」であるとは言えよう。Bのそれではないが、このBはあくまでイニシャルのBであり、I葉氏とM本氏のプライバシーはゆるぎなく守られているから安心してほしい。この地球のプライバシーは僕が守る。それが僕の生き方だ。
昭和十五年の国勢調査ならば本籍地と現在地のクロス集計があるのでわかりやすく、たとえば現在地がT京府である七二三万〇〇八二人のうち本籍地もT京府なのが三八〇万一〇七二人ということで、四七・四パーセントは他地域を本籍地とする人間であることがすぐにわかる。口ではなにを言おうが、数字は正直なのだ。
同様に、現在地がS玉県である一六〇万二四九二人のうち本籍地もS玉県なのが一四四万九五五四人、すなわち九〇・五パーセントはS玉県を本籍地とする人間だったことも丸見えだ。この数字に一九六〇年頃を境に大きな変化があったことが現在のS玉県の特徴であり、大なり小なりの諸現象なり諸問題を引き起こしていることでもあり、変化の内訳も諸現象も諸問題も含めてS玉県を形成るすべての要素ではあるわけで、心変わりを責めるかどうかはあとで考えるとして当然比較はしてみたいわけだが、大人の事情は大人の事情だ。
出生地と現在地の乖離は諸地域の状況を示し、N本国の社会構造全体の動きや変化を眺め、異なる人生の流れを理解し合うためのわかりやすい情報のひとつなのだが、隠したいならば仕方がない。不正確で不透明で不合理な情報に基づいて、無知と無理解と誤解と誤謬と錯誤と錯覚と迷妄と譫妄と暗愚と蒙昧と傲慢と偏見と差別意識と敵意と悪意と憎悪と侮蔑と物質と記憶と欲望と理性と薔薇と雨と紙切れとバイブルと愛しさと切なさと心強さに脳を凝り固まらせ、あることないことでっち上げて喚き散らし、猜疑の目で人々を睨みつけ、あらん限りの悪口雑言で善男善女を支離滅裂に罵詈罵倒するとしよう。僕が力尽きて斃れたあとは罵倒観音を旧K越街道沿いに建立してほしい。どうせ郷土資料集「わがまちZ」だかなんだかを体裁だけ学んだことにさせられる小学生以外は誰も見向きはしまい。
ついでに言えば、「この町は『よい町』である」「この町は未来に向けて発展している」といった類のありふれた結論ありきのわがまち云々が完全に間違っていることには早く気がついた方がいい。「よい」あるいは「発展している」町だから好きになれ、誇りを持てるというのならば、「よりよい」「より発展している」町があれば、「より好き」になれ、「より誇り」が持てる。学歴で人を判断したくはないが、さすがにこの簡単な理屈がわからない人間は尋常小学校ぐらいは出てからものを言ってくれと思う。
Z市よりK祥寺の方が「よりよい」です。だからZ市よりK祥寺の方が好きだし、K祥寺の人間になれたらより誇りが持てます。Z市はどこの誰がどの角度からどう見ても「より悪い」です。スローモーションでもう一度見ても「より悪い」です。誇りなど持ちようがありません。本当はT京がいいです。K祥寺がいいです。フィリップ・K・ジョージがいいです。Hモニカ横丁を縦横に渡って知り尽くしたいです。Iの頭公園は俺の庭だぜと言ってみたいです。Z市に住んでいるのは完全に妥協です。諦めです。怠惰です。敗北です。Z市は完全に失敗都市です。T京様のでき損ないの植民地です。Z市民はことごとく人生の敗残者です。生まれながらの卑しい賤民です。Z市民を名乗ることが惨めで仕方ありません。Z市の出身を名乗るぐらいならまだ汚泥濃縮貯留槽の出身を名乗った方が堂々と陽の光の下を歩けます。どうしてこの宇宙に渦巻く天の川銀河の片隅にZ市などというものが存在してしまったのでしょう。Z市がなければあたしもZ市民なんかにならずに済んだのに。いえ、そうではありません。Z市以前にS玉県が存在してしまったことがそもそもの間違いだったのです。S玉県さえなければM蔵國のままT京様と一体でいられたのに。おお、なんということでしょう。かの忌わしくも野蛮な逆賊の明治政府によって、慕わしきT京様と哀れなS玉県めは無惨にも引き裂かれてしまったのです。無学で品のない狂気に満ちた凶暴な田舎猿の明治政府に乗っ取られて、T京様は変わってしまわれた。昔はこれほどまでに傲慢にS玉県めを足蹴にするようなお方ではなかったのに。O宮県、U和県、I間県、K谷県と、名を変え姿を変え、泥水をすすり草を噛み、T京様をお慕いしながら今日までどうにか生き延びてきたものの、T京様の寵愛を失ったこの身など、もはやどうなっても構いませぬ。いっそ憎き米兵にこの身のすべてを任せてしまいたい。米空軍O和田通信所などではこの虚ろな心を埋め切れるものではありませぬ。おお、そうでした、O縄には溢れんばかりの米軍基地があるではございませぬか。そのいづれかをZ市に移設しておしまいなさい。O縄の幸福はT京様の、いえすべての民の幸福でございます。それがT小学校が命を賭して妾に教えようとしたことの真意でございましょう。O縄のために、すべての民の幸福のために、Z市など米兵に捧げてしまいましょう。それがZ市の進むべき道、あるべき姿でございます。
という話だ。とにかくキリがない。「住みやすい」なら「より住みやすい」がある。「自然が豊か」なら「より自然が豊か」がある。「都心に近い」なら「より都心に近い」があるし、「都心そのもの」がある。「総合的にまあまあ悪くはない」なら「より総合的にまあまあ悪くはない」がある。「ちょっと頑張ればK祥寺まで自転車で行けなくもない」なら「よりちょっと頑張ればK祥寺まで自転車で行けなくもない」がある。もっとも、この点だけはZ市はK祥寺に勝っており、K祥寺からK祥寺まで自転車で行くことはできないからだ。K祥寺内を自転車で移動するだけであり、快適というならそちらの方が快適ではあろう。
電車を忘れて自転車目線で見ると行動範囲や地域の見え方が変わってくるという事実はさておき、戦争を知らない子どもたちもキャンプ・Dレイクを知らない大人たちもさておき、K祥寺を目指したってZ市はK祥寺ではないから絶対にK祥寺にはなれない。『Rるぶ K東周辺 K祥寺らしさのある町ランキング』でも七十五位以内にさえ入れない。T沢の足元にも及ばないどころか左足の小指の爪の甘皮にも及ばない。T武T上線沿いでもK越はもちろんK福岡の方がまだK祥寺らしさがある。M蔵野線沿いなら南K谷の方がよっぽどK祥寺らしいし、八月下旬にはK東有数のA波踊りも――S玉県民がA波踊りに熱中する背景事情こそ僕が問うていることではあるにせよ――ある。O宮に関しては省略するが、というかそこはさすがにO宮はI袋と並ぶS玉県の実質的な首都ではあるわけで、とにかくキリがない。
じゃあどうすればいいの、ということを考えるために、人間の頭蓋骨の中には用いるべき大きめで複雑な灰白色の物体が入っているわけだが、入っていない人間もどきがそこらにぞろぞろ蠢いていることは知っている。ヒントを出すなら「信頼関係」というのはひとつのキーワードではある。
ともあれ、今様の統計資料では「S玉県内からの転入」「T京都からの転入」が多くなるわけだが、たとえばI手県からT京都N馬区に一時的に住んでからZ市に転居してきた場合、「T京都からの転入」ということになってしまう。実態はI手県、別名イーハトーブ県からの転入だ。
加えて、地方出身者――というまとめ方に問題があることは承知した上でそう言うが――には出身地を隠したがる傾向があり、先の例ならまず「T京から引っ越してきました」と言うだろう。確かにその言い回しならば嘘ではない。
出身地やパーソナリティの詐称もざらにあり、B琶湖のあるS賀県から来たねん、K西人やで、めっちゃお好み焼きやねん、やんなぁやんなぁなんでやねんと言っていた人間が、実際はB琶湖経由のS根県の人間だ、などということは珍しくもない。B琶湖がない方のS賀県になにがあるかと言えば、僕は真っ先に焼き物を思う。美しいものがあるはずだ。あとはU野温泉、K津くんち、面浮立、あれこれ、と。
本当はS玉県もこういう受け入れ体制を整えた方がいいのかもしれない。どのみち全国各地から人々が集まってくるのだから、どこになにがあるかを知っておき、どこであれなにかを言えるようにしておく。そうすればいわゆる地方出身者も闇雲な引け目を感じ、反動で闇雲な敵意を撒き散らさないで済むようになるかもしれないし、翻ってS玉県も誰かにとってはなにかであると理解できるようになるかもしれない。
といって、現実はM芳町のさつまいもほど甘くはないので、S玉県とか田舎だしダサいよな、とK奈川県民気取りのM崎系ニューカマー二世に不毛な喧嘩を売られ、ということが繰り返される。当人が隠せているつもりで得意になっているほどには尻――げふんげふん、背骨は隠せていないものではあるが、死んでも治らない類の病に生まれつき冒されているならば、つける薬もなかろう。ひとまず温泉大国G馬県のK津にでも行って骨休めをしてきたらどうか。自然も豊かで癒されよう。
場合によっては「『K都に近いほうのO阪から来たんやけど、T京はほんまあかんわー。まーS玉やC葉みたいなド田舎に較べたらまだマシやから堪忍しといたるー』と言いつつ、少し問い詰めれば『ほんまはF岡出身なんやけどO阪の方が長いからー。ほとんどO阪の人間みたいなもんやー』になりつつ本当はF岡県という名のS賀県に住んでいたこともあるK本県出身のK児島県民」という面倒臭い人間もいるだろう。なにと戦っているつもりなのかは知らないが、まさに『象徴と差異――田舎者の帝国』(Le symbole et la différence : L'Empire des campagnards M・コーサンジャリ 細田学訳 みやかわ文庫)の世界ではある。
「地方」はそんなに似通った愚かしい状況なのだろうか、というのもまた疑問であり、異常というならばそれが異常だが、これ以上は僕が扱うべき問題ではないから扱わない。「団地」に生まれ育った人間にしか「団地」のことがわからないように、「地方」に生まれ育った人間にしか「地方」のことはわからないというならば、それはその通りだろう。僕はひとつの「団地」について冷静な話をしようとしている。あなたならどうする。
◆
視線を『ふれあい橋』からぐぐっと下流に戻していけば、濃色に繁る夏の木々と、幼児向けのかわいらしい円形プール付きの中央公園および五街区の始まりとなる団地棟の頭を越して、くすんだ灰色にくすんだ青色の縦ラインが入った、くすんだ直方体のくすんだ給水塔が、くすみをくすませながらくすんだように突き出していた。
多少の相違はあれどだいたいは同じ意匠の建造物に埋め尽くされた団地風景の中で、給水塔はひとり俗にまみれぬ矜持をもって凛として悠然と聳え、というほどでもなく、そもそも凛としてだの爛としてだの陳腐にして双生児的な常套句を散りばめれば「文学的!」になると青洟を垂らしながら能天気に信じ込めるほど僕は趣味のない人間ではないし、「文学!」とやらに女學生的な勘違いをした皮相的にして陰茎包皮的な憧れと妄想と恥垢を抱けるほど教育のない人間でもないが、いずれにせよ給水塔はそれなりの存在感を伴った一点のアクセントにはなっているし、水を必要とする生きた人間たちがそこに住んでいることを機能上自ずから示す施設ではある。強いて故郷の風景ないし共同体の象徴とやらを制定するならば、あの給水塔であっても僕は構わない。
「ワタナベさんは?」
「ルミだろ? あいつ、バカだよな。おっぱいに栄養を取られすぎて頭に回ってないんじゃないのか」
おっぱい、という単語に僕は少し反応しつつ、続けた。
「カミヤさん」
「あの子んち、金持ちなんだよな。父ちゃんが駅前のビルとか持ってんだぜ」
ビルを持っている。賃貸の2DKで弟と二段ベッドを分かち合う僕には想像だにできない世界の話だ。金はあるところにはある。逆も真なり。
そんな富裕層の世界は僕には関係ないからいいとして、僕ばかりが女子の名前を挙げ続けるのもだんだん苦しくなってきた。
「ミヤモトさん、も、かわいいと言えば、かわいくない?」
ヤベはしばらく考え、おお、と感心したような声をあげた。
「ああ、確かにかわいいかもしんない。小学校の頃はクソ地味だったんだけどな。中学入って色気づいて、かわいくなったのかね。まだ彼氏いねぇんだろうけど、髪型変えてちゃんと化粧したら、もっと化けるよな」
それから、ため息をつくような声でヤベは付け加えた。
「あいつ、めちゃくちゃ頭いいよな。いつも上の方いんだろ?」
ヤベはこちらを見上げ、僕は頷いたが、しばらくしてヤベは顔を戻し、少し寂しそうに言った。
「でもあれか、お前も頭いいもんな」
僕は答えられなかった。ヤベはのんびりした声で、空に向かって言った。
「いいよな、頭いいヤツって」
◆
「自分を含む数字」というのは奇妙なものではあり、ある年の人口が二人増えているのは僕の両親が結婚して引っ越してきたからだし、別の年の人口がひとり増えているのは弟が生まれたからだし、ひとり減ったのは向かいの棟のサトウさんの妹さんが急な腸の病気で亡くなったからだったりする。僕もショックだったし、不吉な茶色に染まったその日の空のことは今でも覚えているし、妹さんの苦しみやご家族の方のお気持ちを考えると今でも胸が痛い。
人口関係の数字の一というのは必ず具体的な生きた個人の一であり、自分はさておき弟が生まれた一をなかったことにされたら僕は頭に来るし、妹さんを亡くした一をなかったことにされたらサトウさんは悲しいはずだし、団地の小公園のゴンドラ型のブランコで事故で亡くなった一学年上のシノハラくん、ファミリーレストラン前の急角度の交差点で右折車との正面衝突で亡くなったバイク好きのフルタさん、なかったことにしてよい一などないと僕は思う。
◆
僕はなにを言っていいかわからず黙っていたが、ヤベは気にせずうっとりとした顔で空を眺め、言った。空には輪郭と濃淡のくっきりとした夏の雲がゆっくりと動いていた。
「まあ、テニス部はみんなかわいいよな。キクチさん、カミヤさん、マコト、それから、ヒロミちゃんも美人っちゃ美人だろ、シライさん、もちろんアイコの方な、シライさんもイヌイさんもミカミさんもいて、ナリユウもまぁ美人だよな、コンタクトにすりゃいいのにな、あと誰だ、エノモトか、まぁいいやアレは、で、転校しちゃったけどヒトツバシさんだろ、あ、ヒトツバシさんが一番かわいかったんじゃねぇか、ちっちゃくて、髪もつやつやのさらさらで、目もきらきらのうるうるだろ、そんで、なに、透明感? 透明感みてぇなのがあるよな、ヒトツバシさん、ああいうのが透明感だよな」
僕は頷きを返し、可憐、と形容を付け加えた。ああ、それかもしんねえ、可憐で透明感だよな、どこ行っちゃったんだろうなヒトツバシさん、もったいねぇ、なんか足りねぇと思ったらヒトツバシさんか、ヒトツバシさんがいなくちゃ始まんねえだろ、とヤベはひとしきり首を捻り、それから空とテニス部に戻った。
「ほんで、ハルちゃんも元テニス部で、ミヤモトもテニス部だもんな。かわいい子しか入れねえとか、決まりでもあるのかね」
「カメイさんは?」
僕の指摘にヤベの幸せそうな顔が凍り、こちらを見て訊ねた。
「あれ、テニス部なの?」
「たぶん。ラケット持ってたし」
「卓球のラケットじゃねぇの?」
希望を込めてヤベは訊ね、僕は否定した。
「あの大きさはテニスだと思う。バドミントン部もないし」
「嘘だろ?」
懇願するような目でヤベは問い、僕は正確に事実を伝えた。
「少なくとも、僕にはテニスのラケットに見えた」
口を開けて息を吸い、非難と絶望の混じった声でヤベは嘆いた。
「マジか。なに考えてんだアイツ」
それは言いすぎだろうと僕は少し噴き、もしかしたら純粋にテニスが好きなのかもしれないし、と前置きをした上で、言ってみた。
「変わりたかった、とか」
ヤベは眉をひそめて目を閉じ、少し考え、眉をゆるめて目を開け、言った。
「ああ、なるほどな。そういう見方もあるか。明るくなりてぇとか、強いグループに入りてぇとか、なによ、自信? 自信みてぇなもんをもって、積極的になりてぇとか、そういうことだよな。そう言われりゃ気持ちもわかるっちゃわかるかもしれねぇな。暗いまんま弱いまんまじゃみじめだし、つまんねぇもんな。まぁ、なに考えてんのかわかんねぇ顔してるけどな」
首を捻るヤベに、僕は思うところを言ってみた。
「でも彼女なりに笑顔を作ろうとしたりはしているんじゃない?」
ヤベはぱっとこちらを見て、驚いたように訊いた。
「あの薄らにやにやしたみてぇな気持ち悪ぃ顔って、そういうことなの?」
僕は首を振り、答えた。
「わかんないよ。なんとなくそんな気がするだけ。あれは彼女なりの笑顔なのかもしれないって」
ふうむ、と唸りながら首を捻り、ヤベは言った。
「彼女なり、ね」
顔を戻し、考え深げに、ヤベはもう一度呟いた。
「彼女なり、か」
◆
九〇年代のこの町や四中もロクな場所ではないが、八〇年代よりは少なくとも外観だけはいくらかマシになったというのならば、「かもね」と唇をぴくぴくと引きつらせながら苦笑する。さすがに以前ほどには窓ガラスがしゃんがしゃんの暴走族ぱおんぱおんという状況ではなくなりつつあるし、S駅周辺にイラン人はいるものの、その筋のお方の凛々しいお姿をお見かけすることはめっきりなくなった。『北斗の拳』的な世紀末というならば八〇年代がそれだったのだろうというか、八〇年代の世相をそのまま描いたのが『北斗の拳』だったのかもしれない。僕たちにとっての世紀末はある程度以上は『ドラゴンヘッド』のそれではあり、時代を象徴する作品と誰かが呼ぶならば否定はしない。
といって、暴力が日常茶飯の平常運行ではなく――T武T上線の人身事故は日常茶飯の平常運行だが――悪と見なされるようになるほどまでに八〇年代は平和で保守的な時代になっていたということなのかもしれないし、あるいは昭和という狂気と殺戮に満ちた六十二年と十四日間がまるまる世紀末だった可能性も充分にある。元号が変わったからとて、昭和を作った人間たちが絶滅したからとて、深すぎる業が消滅するわけもなく、子々孫々、世界が終わるまで因果連鎖は続いていくのだ。そう考えれば、ノストラダムスの大予言は人類にとって極めて親切な、希望に満ちたものだとは言えよう。無邪気な猫のような誰かが三年後にこの世界のリセットボタンを押してくれるならば、それに越したことはあるまい。どこのセーブポイントからコンティニューすればよいのかはわからないし、結局は永劫回帰的なバグに陥るのかもしれないが、いずれにせよ僕は再ゲームからはしれっと離脱させていただくことにしよう。オリムピツク大会は狂人たちだけでやってくれればよい。僕は観戦さえしたくない。若者のオリムピツク離れと云ふものであらう。
九〇年代がよき時代だったのかどうかは後代の判断に任せるしかないが、ニルヴァーナと『完全自殺マニュアル』が広く大衆的な支持を受けていた時代だったということは思い出していただきたい。それが正常だというならば僕は黙り込むよりないにせよ、仮に二十一世紀とやらが訪れるとして、「昔はよかったね」などと言われるようにはならないでほしいと切に願う。九〇年代なんていうひどい時代もあったんだね、あの時代はまだ昭和だったんだね、昭和ってやだね、チョベリバだね、と、団地の公園のベンチの脇のカラスの死骸に涌いた蛆を眺めるかのような吐き気と嫌悪感とともに懐古できるようにならんことを。
◆
転校現象と因果関係があるとは思わないが、宮崎勤による連続幼女誘拐殺人事件が近隣他地域の「団地」で起きたということ、および僕たちが被害者たちと同世代であることはここで言及しておく。夜のダイニング・キッチンの丸いフード付きの暖色の白熱電球の下で深刻な声と表情で語り合う両親の姿と重く静かな雰囲気、切れ切れに聞こえてきた単語は今でも覚えているし、「僕もシカクでユウカイされて殺されてしまうんだ……」という悲しみと恐怖が胸に生じたことも覚えている。六歳の終わり頃の話であり、「自分は死ぬんだ」「唐突に、理不尽に、暴力的に、惨たらしく死ぬんだ」ということを理解するのに六歳が平均的かつ妥当な年齢なのかは知らないし、そもそも人生の初期に持つべき死のイメージが他者のそれではなく自己の死であり、平和なものではなくこの上なく残虐非道なものであることが平均的かつ妥当なことなのかも知らないが、以来僕の――僕たちの――脳のどこかにずっと死の想念とでもいうべきものが取り憑いていて離れず、おそらくは世界観のベースになっているのだろうし、死への不安および恐怖と、その夜になぜかかかっていたキューカンバーがどうのといった能天気な英語の学習曲が結びついてしまい、時おり能天気に脳内に流れ出しては困ったことになる。もっとも、当時は「死角」がわからなかったので、団地の建物が「四角」だから、四角の角のところで連れ去られてしまうという理解ではあった。六歳児なりの論理的な解釈ではある。
大人たちが思うより児童は論理的だし、ものごとを理解しているし、悲しみや不安や恐怖に取り憑かれるものだということは、頭の片隅に入れておいてよいだろう。もっとも、幼児や児童や生徒も思考や感情や人格を有した一個の独立した人間である、という単純な事実を知っている大人が多いようには見えず、どこでどんな間違った教育を受ければそんな簡単なことがわからなくなるのかはわからない。あるいは今の大人たちは人生において正常な教育を受け、自分を教育する機会が〇・三秒ほども得られなかったのかもしれず、それならばそれは斟酌すべきことではあるだろうから、正直に自己申告していただきたい。自分が人間になれていなければ、他人が人間だということもわかるまい。
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なお、僕にとっての「大人たち」は一九四〇年から一九五五年生まれぐらいの人間が中心ではある。一九九X年における四十一歳から五十六歳ぐらいであり、早生まれの十四歳にとってはまさに「大人たち」ではあろう。
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スポーツ選手であれミュージシャンであれ漫画家であれお笑い芸人であれ、僕たちにとっての最初のヒーローは一九六〇年代生まれの人々ではある。プリクラも六〇年代半ば生まれの女性が開発したはずだ。当時二十九歳。若い力が町の風景を変え、数え切れない思い出を人々に与えてくれたというわけだ。
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宮崎勤も一九六二年生まれだ。ああいえばJ祐氏も一九六二年生まれだ。
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『仮面ライダー』が一九七一年、『マジンガーZ』が一九七二年、『宇宙戦艦ヤマト』が一九七四年、ビデオデッキの販売と「コミックマーケット」が一九七五年に始まっており、『月刊アニメージュ』が一九七八年、『月刊ムー』が一九七九年の刊行だ。
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A山幸二もオレステス・DストラーデもK泰源もI東勤もM藤敬司もM沢光晴もT田延彦もH袋寅泰もM島昌利もYガミトールもK保田利伸もアクセル・Rーズもカーク・Hメットもマーティ・Fリードマンもジョン・ボン・JョヴィもK梨憲武もT門ジモンもK正和もGモウひろしもT八郎もW辺浩弐もA孫子武丸もM上隆もトニー・Lオンも一九六二年生まれだ。
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この辺りの時間差もややこしい話ではあり、「昭和生まれ=昭和の人」ということでもなく、「平成らしさ」を作っているのは一九六〇年代生まれの人々だったりするし、それを享受しているのは七〇年代生まれの人間たちや、八〇年代生まれの――昭和の末裔の――我々だったりもするわけだ。
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ついでに言えば、僕が罵る教員どもは中学のそれであり、高校のそれもおそらくは同類だが、大学の先生は含まれていない。少なくとも僕のようなタイプは中高を飛ばして大学に行ってしまうのがよいのではないかとときどき思う。僕は学ぶことが好きな人間なのだ。
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教育批判はひとまず一万字分ほど省略する。学習指導要領とやらの無意味さは言うまでもない。どこの国のどんな現実を眺めてなんのために誰に対してものを言っているのかという話であり、強いて言うなら昭和二十二年度版の『試案』が一番マシだったとは思うにせよ、文部省はあり得ない妄想から目を覚まし、まずは異常な教員どもからいたいけな児童生徒を守る方法を考えるべきだろう。次は児童生徒から児童生徒を守る方法だ。生理的欲求や安全欲求さえ満たされていない状況で自己超越欲求の話をされてもどうにもならない。
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雪の入学式、というだけで、わかる方にはおわかりだろうし、それ以外の方にはなんのことだかわからないかもしれないし、場合によってはそれが当たり前なのかもしれない。時代や地域というのはそういうものであり、誰しもが共有できるわけではないし、ダルシムが共有できるわけでもない。ダルシムを共有したければ、下R上Lの例のアレをあのタイミングでアレするだけだ。今あなたの脳内に黒い画面に現れるアレとあの音と指の感覚が再現されたことを僕は知っている。そう。右手の親指の動き方はその通りだ。あの音が鳴った。成功だ。あの大きさ、あの重さ、あのひんやりしたアレを手に、テレビの前であぐらをかいたあなたは、いくらかにやにやしていたかもしれない。それともぼんやりと口を開いていたのだろうか。電源スイッチをオンにする指の感触も思い出せるはずだ。当然イジェクトボタンを押し込むそれも。そのとき隣には誰がいただろうか。どんな間取りの家で、どこから光が射していただろうか。床はカーペットだっただろうか、畳だっただろうか、フローリングだっただろうか。それともソファがあったのだろうか。机の手触りはどんなものだっただろうか。クッションは、蛍光灯の紐は、トイレのノブは。ペットはいただろうか。水槽はあっただろうか。ぬいぐるみはどうだろう。台所の水道はどうすれば水が出るタイプだっただろうか。水が出るときはどこからどんな音がしただろうか。お菓子と飲み物を持ってきてくれたのは誰で、どんな声と表情をしていただろうか。どんな匂いがしていただろうか。
さて、ピカピカの一年生めいた赤と黒のSタンダール風のランドセルに喜びと誇りと希望と向学心を詰め込んでT小学校の門を入ったときには二クラス――一学年最大八クラスあった小学校が、十五年足らずでそのザマだ――八〇人いたはずの児童が、六年後にぽんぽんと筒を鳴らしながら門を出ていったのは六三人だけだった。パンダの描かれた防災頭巾を使用しても生命の損失を防げないようななにかが起こったわけではなく、T小学校の体育館の臙脂色の緞帳の向こうに八岐大蛇やミーノタウロスの類が棲みついていたわけでもない。転出超過による減少だ。T小学校の名誉のために言っておけば、六年間でランドセルはいくらかボロボロになったものの、誇りや希望の類はこの段階ではさほど損なわれてはいない。問題は次の三年間だが、団地の話を続けよう。
僕の認識によれば、転出入での児童の増減は二六減の一〇増ということになる。ひとりは先述の通り事故で亡くなった。ナンブさんのように入って出ていった児童も数人はいるはずだが、そこまでは僕ひとりでは把握しきれない。平均では毎年四・三人が転出し、一・七人が転入したということにはなるが、〇・七人という半端な状態で入ってこられてもなかなか怖いものはある。それは地獄先生の世界だろう。僕たちが生きていたのはあくまでもスリラーの世界だ。
児童がひとり減るということは家族まるごと四人ほど仲良く減っているわけで、なるほど団地人口も減るわけだ。世帯数が減っていない理由はわからない。僕の知らないところで、存在感のない善良な何者かたちが入ってきていたのだろう。
一〇増部分にはZ団地の努力が実ったところはあり、『Zハイツ』や『増築』目当てで転入してきた世帯が、僕たちの学年で三、四世帯はいるはずだ。比較的良好な住環境ができたがゆえに賃貸なりからそちらに移って団地内には留まった人間、すなわち転出を抑制できたのが四世帯か五世帯、そのぐらいはいるのだろう。数字には表れない隠れた増だ。
いずれにせよ時代の波は去り、「憧れの団地」はとっくに太古の遺物となっており、人々は『Sニュータウン』をはじめとする「ニュータウン」やマンションや一戸建て、どこであれ「よりよい環境」を求めて去っていき、去れば二度とは戻ってこなかった。ゴーン・ウィズ・ザ・ウインド。激動の時代ということでは南北戦争にもそうそう引けを取るまい。
急拵えの団地ゆえに山積する諸問題を「旧住民」たちが七〇年代の住民運動等を経て改善していき、部分的には反対運動によって発展を止め、ともあれ一通り生活の基盤が整ったであろう一九八〇年頃には戻りようがなく人の流れが変わっていたというのがなんとも皮肉な話であり、じたばたも含めてそうした推移に僕はいくらかの昏い悦びを覚えてしまう。未来に対する無知が、人間の人間らしさを形作る。
時代の流れの変わり端をいつどこの誰がどのぐらい把握していたのかはわからないが、結果的には波の崩れ際に嬉々として乗ったのがZ団地だったということにはなる。S玉県には海がないから波乗りもわからない、と、からかいたいわけではない。昔はS玉県にも海があった。だいぶ昔の話ではある。
賢い人なら早くから終わりは見えていたのではないかという気もし、裏を返せばごにょごにょごにょではあるが、いずれにせよ八〇年頃に転入してきたであろう「新住民」たち――僕たちの同窓生の親にも多い――は比較的賢い部類で、終わりを見越し、すでに次のステップを考えた上で、Z団地は一時的な仮住まいと割り切っていた。それゆえのアガサ・Cリスティ現象だ。
世代や価値観や志向や教育水準や経済水準や人生設計や出身地や職業の性質が違い、「団地観」もまるで異なる新旧住民が相容れるわけもなく、新旧それぞれも一枚岩なわけもなく、様々な層が混在しながら溶け合うことがなく、複雑で面倒臭いミルフィーユ――というほど上品なものでもないが――を形成し、ぎくしゃくとして不自然で嘘臭く一体感のない奇妙でやりづらく薄氷を踏むような息苦しい居心地の悪い不気味で不透明な空間と人間関係を形成していた、というのが、八〇年代から九〇年代のZ団地を生きたひとりの男児の見た世界ではある。いくらかの詳細は語ろうと思えば語れるが、まったく面白くないからやめておく。どのおばちゃんがどうだとか、そういう話だ。彼女たちを生々しく想起するだけで気が滅入る。人生にはもう少し有意義な想像力の遣い方があるはずだ。
強いて注目するならば「ド地元民」の存在ではあろう。声の大きい人間が――田舎者は声が大きい――「団地は人種のるつぼ!」「なにもないところに!」「新しくできた町!」「みんな余所者!」「あたしたちが造ってきた!」と主張するからそれが事実に思えてしまうが、実際は一定数の昔ながらの地元住民もいる。統計の初期にいるような、どれだけ世代だかわからないぐらい昔からこのあたりの土地にいる人間だ。『Zハイツ』などにどうにか残った人々にもそういう層がいるのではないかと思う。Z団地がいくらか廃れても、昔から住んできた土地はそうそう離れたくないのだろう。
◆
Z団地を語るにあたり、自分が生まれる前のことも他地域のことも僕の知ったことではない、という立場からものを言おうかとも思ったのだが、それではあまりにも無責任であり、無責任なのは大人どもだけで充分なので、夏休みの自由研究として僕なりの「団地史」をいくらかは作ってみた。気軽な雑談として、気軽に聞いてほしい。
大N本帝国関係だけで三一〇万人の死者と罹災戸数二三〇万戸と六二九万人の引揚者と数え切れないどころではない悲惨と不幸を生み出し、当時領土としていた土地の四十五パーセントを失って終わった「かの戦争」の直後には、四二〇万戸の住居が足りないという正気とは思えない状況があった。
敗戦後のN本政府は真っ先にRAAを作りつつK東軍は民間人を見捨てて逃げつつマ司令官はA木飛行場に降り立ちつつ第一S命館が庁舎にされつつGHQによる占領を受けつつあれこれが接収されつつあれこれが米軍基地にされつつ誰彼が戦争責任を問われつつDDTが撒かれつつ食糧難もありつつ凶悪事件も多発しつつ子どもはどかどか生まれつつ失業者も浮浪児も家出少女も不良少年もパンパンも溢れつつあちこちに闇市やら赤線やら連れ込み旅館やらトルコ風呂やらキャバレーやらができつつわらわらと新制大学もできつつバクダンやらカストリやら性病やらヒロポンやらが流行しつつ船は港に着きつつ女たちはジルバを踊りつつ傷痍軍人はハーモニカを吹きつつ未亡人はお好み焼きを焼きつつS台牛タンやらU都宮餃子やらも生まれつつC鮮戦争とそれによる特需とやらもありつつ米兵あるところに女たちもありつつR道山は白黒テレビの中でSャープ兄弟を薙ぎ倒しつつプロ野球は二リーグ制になりつつ女と靴下は強くなりつつ陰茎は障子を突き破りつつあちこちで花火が打ち揚げられつつあちこちにコンドームが散乱しつつ二五五万三五三〇人が小学校に入学しつつJ衛隊が設置されつつ売春防止法はまだできておらず、足りない住居は頼りない越冬住宅やら復興住宅やら公営住宅やらなにやらでどうにかしつつ長々としたJ由党のY田茂内閣政権下でなにをやっていたかはさておき一〇年経っても相変わらず二七一万戸が足りないという頭のおかしい住宅難とぞろぞろとT京やらの大都市に押し寄せては溢れ出す人々をどうにかするために、N本M主党のH山一郎内閣への政権交代直後の一九五五年にようやくN本住宅公団が設立された。
同法人の使命をよく伝える『住宅公団の歌』というものがあるので、ご紹介しておこう。作詞はかのサトウハチロー氏、作曲はかの古関裕而氏だ。
ならんだ ならんだ ならんだ窓が
窓、窓、窓、窓、明るい窓が
どこの窓にも幸せ満ちて
眺める彼方の朝の虹
みんなの みんなの みんなの 家だ
われらの われらの 住宅公団
あとは愛だの夢だの声だのつばめだの、だいたい似たような歌詞が四番まで続く、平和な歌だ。
そんなこんなでともかくも一九五六年のO阪府S市K岡団地を皮切りにN本住宅公団による「団地」の造成が始まり、一九五七年にT武T上線沿線初の同公団による「団地」、『T瀬団地』二二八戸の入居が開始された。当時のF士見村であり、村は一九六四年に町になり、一九七二年に市になった。人口の伸び方を感じられる時の刻み方であろう。およそはT京から円のように人口増加の波が町々を呑み込んでいったというイメージでよく、F士見村は畏れ多すぎる方々がお住まいの旧E戸城からは三〇キロメートル圏内ではある。S玉県の地理がわからない方は地図を広げてみてほしいと言いたいところだが、人口増加現象はT京都内でもC葉県でもK奈川県でも起こっているはずだから、広めの地図は必要だろう。
『T瀬団地』の云々は僕も『F士見市史 通史編 下巻』に書かれてあることしか知らないから省略する。都市化、団地族、サラリーマン、その手の話だ。
五〇年代型の「団地」はいわば「オーセンティック団地」のようなものではあるはずで、そうした「団地」群にノスタルジックな感傷を覚ゆる人がいるならば、それは理解できる。僕は団地マニアの類ではないから多くは知らないが、建築様式としても量産型になる前の個性があっておかしくないし、今となれば文化的景観の趣もあろう。この時代の「団地」は主として「団地族」の住居であり、「庶民的な生活」云々をイメージしてしまうと間違ったことになる。
六〇年代に各地にあれこれできた「団地」にはできた分だけあれこれあったようで、団地を狙った賊がいたり、悪質商法のターゲットになったり、上下水道のトラブルがあったり、郵便受けが放火されたり、地盤が沈下したり、杜撰な工事に泣いたり、陸の孤島になったり、自治会が怒ったり、プロパンガスが爆発したり、老人がガス中毒で死んだり、観葉植物が流行したり、牛乳が流行したり、赤痢が流行したり、奇病が流行したり、幼児がどこぞから落っこちたり、幼児がドブに落っこちたり、幼児が汚水槽に落っこちたり、幼児がマンホールに落っこちたり、公園で幼女が誘拐されたり、舞踊教師がビール瓶で殴られたり、団地夫人が高校生に縛られたり、団地夫人が愛人女性に刺し殺されたり、母子が心中したり、夫婦が心中したり、社長が愛人と心中したり、老女が自殺したり、主婦が自殺したり、人妻が自殺したり、団地夫人が自殺したりと、「団地」についてなにかを語るならば、確かにこの時代は面白いはずだ。人が集まるところに事件は起こる。
得られる教訓があるならば、「幼児は落っこちる」ということだろう。ギリシア神話では幼児はやたら殺されるにせよ、落っこちる話があったかは記憶が定かではなく――イーカロスは落っこちたが幼児ではないし、決して勇気があって落っこちたわけではない――K岡輝による愚かで醜い古典の改竄だ――団地の空から落っこちてくるのは鳩のフンと幼児だけとは限らないが、ともあれ幼児は落っこちる。「子どもは飛び出す、幼児は落っこちる、乳児はなんでも口に入れる」。覚えておいてよいことだろう。この辺りは子どもが世界を広げ、能力を獲得していく自然で素直な成長過程で発生することでもあるのだろう、と、小生の愚妻は急に目を見開いて呟き、それからまたいつもの動きのない愚かな妻に戻った。掴みどころのない不思議で愚かな妻ではある。
「野鳥の団地」「蜂の団地」「お墓の団地」など、一九六八年にはすでに「団地」という言葉は比喩的な転用もされており、「団地族」「憧れの団地」が「団地は普通」に変わっていくひとつの過程を感じられるのかもしれないし、感じられないのかもしれない。僕としてはどちらでもいい。
七〇年代前半の「団地」も大筋は変わらず、相変わらず幼児が落っこちたりカギっ子が焼死したりOLが襲われたり主婦が自殺したり母子が心中したり父親が幼女を絞殺したり主婦が主婦を刺し殺したり自治会が怒ったりしていたようではあるが、ゴミ処理や騒音や悪臭や光化学スモッグが問題になってくるのは時代らしさなのかもしれない。人類の歴史は問題の発生と解決と軽視と放置と隠蔽と曲解と複雑化と悪化と撒き散らしと先送りと知らんぷりとすり替えと居直りと押しつけ合いと一方的で強制的な押しつけと絶望的な抗議と無知と諦めで成り立っているのだろう。歴史の終わりはすべての問題の解決ではなく、解決不可能が確定してからいくらかじたばたしたあとの身動きひとつ取れない完全な詰みという形になるはずだ。未来に進めば進むほど、指せる手は限られてくる。
「造成っても造成っても溢れる人」という自由律俳句的な状況にあったのが当時の「団地」ではあったようで、あちこちにあれこれがどかどかと作られ、あちこちのあれこれの人々がどかどかと入り、高層化も進んでいったようだ。愛すべき我らがZ団地もこの時期の歴史遺産であり、二二〇七戸というそれなりの規模の団地として一九七〇年に入居を開始した。当初の入居倍率は六・六倍だったそうであり、一世帯三・五人と考えれば五万〇九八一人ぐらいがZ団地に入りたくて入りたくてたまらなかったということになろうか。「団地」としては決して珍しい話ではなく、数十倍や百倍を超すような時期なり団地なりもあったというのだから驚きだ。この辺り、世帯の細分化、いわゆる「核家族化」の進行もあって、人口に対する世帯数が増加したという背景もあったりなかったりするらしい。ややこしい時代を作ってくれたものだ。
Z団地に限らず、かつてはあれこれの希望やらを胸に「団地」の入居者募集情報を眺め、裸電球がぶら下がった間借りの二階の六畳一間でちゃぶ台でも囲んで夫婦やら家族やらであれこれと話し合い、期待やらなにやらの思いを込めつつ応募をし、あれこれと思いながら発表を待ち、当選番号を眺めるなり電話を受けるなりして夫婦やら家族やらで一喜一憂し、入居が決まればいそいそとあれこれの準備をするなどしていた善良な人々がいたと思うと、「ふむ……」ではある。
近隣の高層型団地としては一九七六年入居開始の十五階建ての『A霞H崎団地』がT武T上線からの車窓風景のひとつではあり、そう考えると団地やニュータウンの愛好家には少しは見どころのある路線なのかもしれない。半可通より通向けとは思う。「団地=Z団地=五階建てがいっぱい」という生まれつきの先入観に囚われている僕のごとき人間は、「そうか、ああいうのも団地なんだ」といくらか意外に思ってしまうが、人間がいかに「自分=普通」と思い込みやすいかのひとつの例だ。誤解だ。見えない物を見ようとする誤解、全て誤解だ。Z団地の住宅棟は全て、という話だ。
高層化が進むほど飛び降り自殺に適した環境も整ってくるのであり、自殺志願者にとってはひとつの黄金時代を迎えつつあったのかもしれない。事実、七〇年代から九〇年代に向けて飛び降り自殺者数は右肩上がりで増加しており、全体の自殺者数増加の底をしっかりと支えている。薬物、ガス、飛び降りと、自殺方法のトレンドも移り変わるものであり、生活環境の変化をしみじみと感じられよう。
衝動的に行為に踏み切れるのが飛び降り自殺のひとつの魅力ではあるが、『マニュアル』通りに下に人がいないか、クッションになるようなものがないかの確認は必要で、Z団地でも四階から落っこちた幼児が芝生をクッションとして助かったケースがあるそうだ。その場合は助かったことを喜ぶべきではある。エレヴェイターでの事故や閉じ込めも、高層化に付随して自ずから生じることだろう。
一九七四年にはすべての都道府県で住宅数が世帯数を上回り、この辺りから住宅供給は「質より量」ではなく「量より質」に向かい始め、云々というひとつの転換点ではあるのだろう。一九七一年には『T摩ニュータウン』の入居も開始され、時期を前後してマンションブーム的なものも起こり、その後に繋がっていく流れになる。「N本列島改造論」とやらもあり、不動産ブームとやらもあり、オイルショックとやらもあり、いずれにせよ絶え間なく狂った状態にあったのが昭和期だったと言えよう。
そんな住宅事情の変化もあって七〇年代末から八〇年代に入る頃にはありありと不人気な「失敗団地」も生じ、空き家が非行少年の溜まり場になったりもしていたようだ。非行少年はシンナー遊び、というのがなんとも時代を感じさせる。
八〇年代に入って人口の流入が落ち着き始めたのはなによりとしか言いようがない。相変わらず幼児は落っこち、人々は飛び降り、ガスストーブは爆発していたものの、「団地」で発生する事件は減少しており、それはすなわち「団地」の全盛期が終焉を迎えたことも意味しよう。
われらの『N本住宅公団』も二十六年間で一千を超す「団地」を建設し、一〇八万三八四〇戸の住宅を供給してN本史上に残るその役割を終え、一九八一年に後継の『J宅・T市整備公団』に業務を引き継いで解散した。引揚者もそうだが、数字で眺めてみないとその異様な規模を感じづらい。個々の事例を軽視してよいわけもないが、そればかりに焦点を合わせてしまうと全体の量感を見失う。ともあれ、N本全国の「団地人口」なり「団地出身者人口」は、少なくともひとつの県に相当するぐらいのヴォリュームがあるのだ。
一方のマンションはといえば、当然幼児は落っこち、人々は飛び降りるわけだが、火災が増え、紛争が増え、非合法の賭博や風俗店の温床になり、云々ということにはなる。「合法=善/非合法=悪」ではないことはさておき――ガルシア・LルカもK林多喜二も法の名の下に殺された――マンション×トルコ風呂で「マントル」というN本人の言語感覚は評価する。すべてが間違っており、ここまでのケイオスを達成するとむしろ座りのよさが生じてくるのだから、言葉というのは不思議なものだ。N本語への不満は少なからずあるが、この手の「俗語」は侮れない。
住民と業者と地方公共団体の三つ巴の様相も呈してきたようで、市やら町やらが住民の味方なわけもない。至るところに分断を作り、不信の種をせっせと撒いていたのが昭和時代だ。視界を覆い隠し、はみ出たものを切り捨てたからとて平らに成るわけもない。
放っておけばK越の伝統的な町並みを破壊してまでマンションを建設しようとするのが大人どもであり、奴等の辞書の「正気」の項は黒く塗り潰されているのだ。下品で野蛮な下衆どもめ。そういう連中はどこから湧いてくるのかという話だが、いずれにせよ昭和期にS玉県で破壊された景観や文化財のリストを作ったら、相当酷いものになるだろう。S玉県になにがあるのないのといった話は、最低限の初等教育を受けてからにしてほしいものだ――カンザスからひょこひょこ出てきた案山子でないならば。オズの国ならここじゃあないぜ。
反面では守るべきものを守ろうと戦ってきた人々もいたわけで、そうした人々の志を思うと、僕のどこかに熱いなにかがどうにかなってしまう。もちろん卑猥な話ではない。
そんなこんなもありながら、頭に世界地図を描いたおじさんが現れ、フォークシンガーはカーラジオを消して受話器を耳に傾け、どこかの広場でなにかがあり、人々はピクニックに出かけ、壁に鶴嘴が打ち下ろされ、地中海で食事会が開かれ、東欧の老夫婦はクリスマスを血で飾り、 八〇年代は終わっていくことになる。ムスリムたちは黒い旗の下に集い始め、静かな遊園地には見えない灰が降り続けていた。
九〇年代に入ってバブルとやらが弾けたことはさておき、社会の中での「団地」の存在感は薄れ、すでに忘却は始まっていると考えてよいのだろう。とかく昭和の人間は人の話を聞かず、興奮しやすく、怒りっぽく、忘れっぽい。GHQの指令で脳のどこかを切除されているのではないかと疑う。どうせ切除するならもう少し穏やかで理性的な人々にしてほしかった。それともGHQは関与しておらず、ヒロポンのやり過ぎやシンナーの吸い過ぎなのだろうか。
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オウム真理教の一連の事件に関してはどちらかというと「不謹慎」に扱っていた僕たちがいることは否定しない。不謹慎の内訳は不謹慎だから省略するが、「Aーチャリー」とあだ名がついた女子生徒もいたし、それは野球部でもないのに自発的に坊主頭にした男子生徒が「S岩石だ」と喜ばれて頭を撫でられたりはたかれたりするぐらいの気安さではあった。考えてみれば『ジョジョ』の第三部とS岩石が僕たちの「旅」や「世界」のイメージを形成していったような気もしつつ、阪神大震災が起こったときには僕たちはシャトーS沢におけるスキー教室の真っ最中ではあった。ヤベと同じ部屋だった中学一年次のそれだ。あなたはどこにいただろうか。それともまだ生まれていなかったのだろうか、若き友よ。
そんなこんなもありながら、どのぐらいの地域および世代の人間たちが「若木のみどりさわやかに」あるいは「H名スズラン朝が来る」と言ってなんの話だかわかるかは気になるところだ。なぜG馬県なのに「さかさのF士」なのか、という疑問が生じるには小学五年生はまだ若すぎたのかもしれない。「世のちり洗うS万温泉」を知るのにふさわしい年齢がいくつなのかは当該県民に訊いてみてほしい。そして、T武T上線の「上」が意味するところを必ずしも知らないのがT武T上線民ではある。「東( ニ)上( ル)」ではない。「 ル レ上京( ニ)」とは違うので、上京者諸君は注意されたい。
もっとも、M蔵野線のM蔵野とやらがどこにあるのかは僕も知らない。忌わしき某中学校の呪わしき某校歌にも開口一番歌われてはいるが、僕は生まれてから一度もそれらしきものを見たことがないし、校歌など一言半句の真実も書かれていない徹頭徹尾の出鱈目ではあるので、M蔵野などいうものはY田美妙やK木田獨歩の文章中以外には存在していない甘やかな幻想の類なのだろうという認識には達している。
ついでに言えば「漢文」は訓読ではなく中国語として読むべしという主張に僕は概ね賛成するが、訓読には訓読としての独自の経緯があり、すでに訓読文で書かれたものが相当数ある以上、どうもこうもないという立場ではある。書かれたものがあるならば、それは読まれるべきものではあるだろう。単によくできた仕組みではあるし、少なくともひとつの言葉のあり方として面白くはある。いずれにせよ、古いものを古いという理由で否定する姿勢こそがものすごく古臭いものではある。
新世代と旧世代の対立は神話の時代から繰り返され続けていることではあるし、古いか新しいかも古くから主張され、議論され、愚民すなわち愚かな民を欺き続けていることではあり、少なくとも古いか新しいかは古くからの人間の基本的な関心事のひとつであるとは言える。「新しきこととは忘れ去られたことに過ぎない」というのが誰の言葉だったかは忘れたが、「新しい葡萄酒は新しい革袋に」はおよそ二千年前に、「温故而知新」はおよそ二千五百年前に、「陽の下に新しきことなし」も二千数百年以上前には言われていましたよね、あなたはどう思いますか、という話をすると「きょとん?」とされて話にならないという面倒臭さをなくすために、誰か古くからの『新旧議論集』を公平にまとめて人類共通の基礎知識として頒布してくれないかとは思いつつ、頒布したところで勉強を嫌がって「そんなものは古臭い」と言い始める新しいつもりの古臭い輩が必ずいるから結局は同じ古臭いことが繰り返されるはずだし、僕も「やはり先人のおっしゃっていたことは正しかった」と確認して微苦笑するだけになるはずだし、その微苦笑もやはり古くから繰り返され続けてきたことではあるはずだ。
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「新しい波などない。海があるだけだ」というのもまた『新旧議論集』に掲載すべき真理ではあるだろう。
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ということでZ団地の話に戻る。Z団地でシンナーが流行していたという事実は確認されていない。していなかったという事実も確認されていない。
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Z団地がよくない理由、失敗の理由も色々と考えたし、ある程度以上把握もしているのだが、結論は「Z団地は『失敗』ではない」というところに落ち着いた。当然「問題」もない。この団地は達成しようとしたことを達成し、「あるべき状態」のままにあるというか、これ以上に望ましく、かつ現実的な「あるべき状態」が見当たらないので、「失敗」でもないし「問題」の発生しようもない。「衰退」さえしていないという認識でよいと考える。
結局、この団地の一番理解できないものが「2DK」であり、どんな人間のどんな人生のどんな段階のどんな生活を想定したものなのかがわからず、半端に浮いてしまう。この辺りも団地の初期なり云々のあれこれが食い違うところなのだが、省略する。どうして「憧れの団地」だったのかも省略する。「戦後の焼け野原に……バラックが……」という類の話は内申点稼ぎのボランティア中学生がたっぷりと聞いている振りをしてくれるだろう。実に卑劣で下劣で愚劣な制度だ。昨日の鬼畜が今日の理想、というのもとんでもない話ではありつ、住居様式の変化でさえ「民主主義」の話にしたがるのも戦後らしさではありつ、民主主義は手段に過ぎないという話は省略する。
いかんせん時代の流れが早すぎ、変化が激しすぎ、あちこちからあれこれの人間が押し寄せすぎ、異なる世代や異なる層での共通認識が著しく持ちにくいというか不可能なのだとは思う。「中卒は金の卵」なんて「教育ママ」に言ったら、正気とは思われないだろう。一時期のZ団地にはどちらもいたはずだ。「原文ママ」がいたかは知らない。「キャンディママ」はいた。「飴玉ばあさん」も「座敷女」もいた。「パパママバイバイ」は団地の図書館で借りて読んだ。ものすごく暗い気持ちになった。小学生たちの間に「はだしのゲン」が別目的で流行ってしまうことはさておき、N本人の必読書というなら原民喜だろう。
それぞれがそれぞれのあれこれ観や立場を冷静に和やかに対等の立場で話し合うことができたならばZ団地も少しは楽しい場所になるのだろうが、決してそうはならないからまったく楽しくない。「人種のるつぼ」「社会の縮図」と呼ぶにはそもそもT京の型落ちではあるわけだし、多様性も下以外はバッサリとカットされていて一定の凡庸さの中に収まるようなものでしかないし、保守的で閉鎖的で画一性も要求される。全体としては「リトル田舎」でありつつ、「故郷」になるような根も繋がりも落ち着きも安らぎもなく、「拠点」「出発点」になるような活気も自由も協力も方向性も夢も希望もなく、乱雑でありながら抑圧された、「都会と田舎の悪いところを合わせたような場所」と言えば言えるのかもしれない。
そんな戦後の焼け野原や九〇年代の状況も含めつつ、「団地とはなにか」と問うならば、それは「団地」を取り巻く環境のすべて、そこに関わったすべての人間、起きたすべての出来事の動的な集合体ではあり、BルザックでなければZ団地ひとつの人間喜劇さえ描き切ることはできまい。先述の通り相当面倒臭いミルフィーユ――というほど上品なものでもないが――ではあり、沈黙するほど語り得ぬものでもないにせよ、「これが団地だ!」どころか「これがZ団地だ!」という安易な見通しは立てようもない。生まれたときから住んでいても、およそ不快だということとその原因のいくらかはわかっても、細部は到底わからない。わかりたくもないし、わからずに済ませたかったし、わかったところで面白くもないだろう。ということで、わざわざペール・ラシェーズから這いずり出てまでバ氏にお越しいただくには及ばない。
Z団地にもいくつかの月並みな喜劇の型はあるが、月並みそのものだから省略する。田舎から出てきて身寄りもなく病気をして困っていたところに、といった類の陰気な話だ。そういうストーリー自体が勧誘マニュアルに含まれているのかもしれない。ある種のデウス・エクス・マーキナーとして機能しているところはあるのだろう。
考えてみれば団地の造成とセットで神社を勧請しなかったのは不思議ではある。神なき時代の産物だったのだろう。いかに人心が荒んでいたかではある。寺院との強い繋がりがあるようにも思えず、団地が宗教的空白地帯であるといえばそういう見方はできる、云々と、視点により様々な団地像は見えてこよう。頭の足りない文系大学院生には到底追えないが、頭が足りているなら他のことをやった方が遥かに健康によいという領域が団地ではある。ついでに言えば、隣のS市を眺めるに、神社を中心とした地域コミュニティの方が強固で親しく健全で楽しきものには見える。子どもの習い事にはおピアノよりもお囃子を、というのも、ものごとを知っている層のひとつの考え方ではあろう。
「四人暮らしは無理」というのが2DKだし、三人でも子がある程度育てば無理が出てくる。自ずから「結婚してある程度子が育つまでの比較的若い夫婦」というのが2DK向きのひとつの世帯像ということになり、当然その世帯は然るべき時期に然るべくして去る。去ることが前提の設計であり、まさに前提通りに子育て世帯がぞろぞろと去っていったわけで、狙い通りとしか言いようがなく、疑問の余地がない。残る疑問は、「なぜそんな不穏な狙いを持ったのか?」ということではある。
商店街のあり方、消費行動の変化、駅や他の町との関係など、他にも語る素材はあるのだが、誰がどう考えても同じ答えに辿り着きそうなので、多くを語る必要を感じないというか、語ることに徒労感がある。結局は「この時期にこういうものをここにこう造ったら必ずこうなり、必ず行き詰まる」という、ある種の化学的な必然性をもって、あるべきようにあるのがZ団地だ、という認識に落ち着くだけなのだ。歴史が何度繰り返されても、必ず同じように行き詰まり、必ず同じような下降曲線を辿る。そもそもの始まりから下降するのが前提の町であり、発展や永続は想定されていない。当初想定されていた下降曲線を下回る下落があれば「衰退」なのだろうが、充分に想定しうる下降曲線でしかないので、これも「狙い通り」という話だろう。使い捨てられるために造られ、予定通りに使い捨てられた。なんの問題もない。
まったくエコではないし、使い捨てられたあとの数十年をどうするつもりだったのかは僕の預かり知るところではない。建設業者等にとってどんな事業だったのかも僕の預かり知るところではない。どこで間違ったのかと言えばそもそもの思想や前提が間違っていたわけだが、その思想や前提さえも時代の中での相当の蓋然性と無知の中で形成されたものなのだから、動かし難い。やはりこうなる、という話だ。嘘だと思うなら初手からZ団地の歴史をリプレイしてみてほしい。相当早くに詰みが確定しているはずだし、オルタナティヴな道筋はないはずだ。
もちろん、住民たちは居住および移転の自由を有しているので、ここでの生活が望ましいと思えば留まり、あるいは後から移ってきて幸福に暮らすことは可能だし、移転先に幸福を求めることもできる。子どもたちは去ったが、静かになって暮らしやすくなったと言えば言えるのであり、そういう環境を求める人には適していよう。おそらくは高齢者夫婦にとっても2DKは望ましい住まいではあるのだろう。この町を「失敗」と呼ぶことを好まない理由はその辺りにもある。ここが幸福な人にとっては幸福なのであり、自分がここで一ピコメートルたりとも幸福ではないからといって、他人の幸福にどうこう嘴を突っ込むのもおかしい。厭なら出ていけ、という類の町であり、厭だけど家庭の事情で出ていくに出ていけないということもありつ、厭だから出ていく人口の方が多いので、こういう数字になっている。
仮に去った人間たちからアンケートを取ることができたならば、「Z団地を去ってからの方が幸福になった」という意見が多数を占めることになるだろう。去った先の都合が悪ければいつでも戻ってはこられるわけだが、そうはなっていないのだから。
当然逆の意見も訊かなければ不公平であり、残っている人間からアンケートを取れば、少なくとも「それなりに幸福ではある」がやや多数派という結果になってもおかしくはない。何度生まれ変わっても絶対にZ団地に生まれ育ちたい、絶対に人生のこの時期をここでこのように過ごしたい、他のすべての可能性は意思的に拒否する、団地名店街やDるま通り商店会やF士ショッピングタウンやSマダストア以外での消費行動をするぐらいなら飢えて死んだ方がマシだ、死ぬときはJ宏先生に看取られて死にたい、決して救急車で円筒形のC央病院になど運んでくれるな、私はI田屋酒店の酒でしか酔えず、私の腰痛はI黒先生にしか治せないのだ、何億マルク積まれてもこの団地を離れてなるものか、なぜこの団地には墓地が併設されていないのか、それがこの団地の唯一にして最大の欠陥である、私が安らげる場所はZ団地以外にはあり得ないのに、そうだ三角公園が空いているではないか、なぜメタセコイアの木の下に私のための墓を用意してくれないのか、ならばこの団地の墓標をすなわち私の墓標としよう、私とともに滅びるがよいZ団地よ、業火よ焼け、焼いて焼いて焼き尽くしてしまえ、灰になれ、そうだ灰になれ、この地に生きて死んだすべての人々の生活の記憶とともに灰になれ、博多人形もゴムの木もハムスターの給水器も碁盤もミシンもエレクトーンも象のじょうろもビニールプールもバリ島土産も灰になれ、むしろ生まれ変わったらZ団地になりたい、Z団地そのものになりたい、すべての瞬間をZ団地として生きて死にたい、何京回でもそうしたい、私の骨を鉄筋代わりに使っておくれ、遺灰をコンクリートに塗り込めておくれ、叶わぬならば給水塔の屋上で鳥葬に付しておくれ、Z団地の空になりたい、というほど熱烈なZ団地愛を持った人間がどのぐらいいるものなのか、僕も気になる。ぜひ回覧板か自治会費の集金のついでにでも調査してみてほしいものだ。
ともあれ、永劫回帰的な、何度やっても必ず行き詰まる、どこにも辿り着けない、失敗にさえも辿り着けないという出口のなさが僕がこの団地にずっと感じ続けてきた不快と不安と恐怖の一例ではあり、その象徴としてS市に抜けられない道というものもある。ここが世界の終着点だ、世界の行き止まりだ、と。
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