23.何度でも
***
リリは一度、自宅に戻っていた。
一番気がかりだった薬草たちは、マトソンたちが水やりをしてくれていたおかげで皆無事だった。良かったと胸を撫で下ろすのと同時に「これからどうしよう」という現実的な問題が重くのしかかった。
薬草が無事だったとしても、リリには使い方がわからない。
ただずっと、ハイルに言われた通りに栽培していただけだ。
枯らさないようにと、それだけを考えて。
この家もそうだ。
元々はハイルのものだし、このままリリが住み続けてもいいものかと迷われた。
いっそのこと、全てを投げだして一から出直すべきかと考えたけれど、薬草の世話を止めようとも思えない。彼らにはなんの罪もない。
「困ったわ」
リリは裏庭の花壇の前でしゃがみこんで、途方にくれる。
その耳に、ふと、幻聴が届いた。
「……リリ!」
切羽詰まったように名前を呼ばれる。
表の方で、扉が荒々しく開かれる音がした。
「リリ、リリ……!どこだ」
足音はばたばたと家じゅうを駆けまわり、二階へ駆けあがっていく音がして、すぐにまた降りてきた。その間も、自分の名前を呼ぶ声が止むことはない。
あらゆる扉や、戸棚まで開閉する音が響く。
「リリ……‼」
ここよ、と一声あげれば済むことなのだろうが。
喉も足も、凍てついたように動かなかった。
「リリ!返事をしてくれ」
どうして、彼がここに。
今朝ミリアと出て行ったのでは。
疑問ばかりが湧いて出る。
やがて表の扉が開く音がして、すぐに彼は裏庭にやってきた。そこにリリの姿を見つけて、顔色を変える。
「リリ」
わずかに息のあがったリュカが、すぐそばで立ち止まった。
リリは呆然と見上げる。
「……なに」
なにをしにきたの。
いや、どうしてここがわかったのだろう。
尋ねようとしたリリの前に、リュカがひざまずいた。そうして、真直ぐに見つめられる。
「ただいま」
「え」
一瞬、言われた言葉の意味が理解できなかった。だってそれは、帰宅を告げるためのものだ。
「今、なんて」
「……ただいま」
もう一度繰り返して、リュカはリリの頬に手を伸ばした。いや、リュカではない。
彼は。
「ハイルなの?」
リュカは――ハイルは、頷いた。
リリはうわ言のように唇を動かしていた。
「……思い出したの?全部?本当に?」
「うん、思い出したよ。僕が君の夫で、君が僕の奥さんだってことも」
ハイルはリリの手を強く握りしめた。
「全部、思い出した」
ハイルの顔が近づく。
ひざまずいたまま、身体を抱き寄せられた。
「ただいま、リリ」
家の中に入っても、ハイルはリリの手を離そうとはしなかった。
ソファに寄添うように座り、これまでのことをぽつりぽつりと語り始めた。
綻びはあったらしい。
リリと再会した時から記憶は溢れようとしていたと。
それがこの村や景色を見て、とうとう蘇ったのだと。
「あの、ハイル」
「何?」
「リュカの時の記憶は?」
「……あるよ、全部覚えてる。君に言ってしまった酷いことも、全部覚えてる。もう二度とあんな思いはさせない」
近い距離に、リリの心臓はばくばくとうるさく跳ねていた。
少しばかり顔を離して、リリは質問を変える。
「……ミリアさんは?」
「家に戻ったよ」
「お別れしたの?」
「元々僕の家はここだ」
不思議そうにハイルは首を傾げ、リリがせっかく空けた距離を縮めてくる。
「迷惑をかけてごめん」
「迷惑だなんて……一番大変だったのはハイルでしょ」
リリは顔をあげて、ハイルに微笑んだ。
「お帰りなさい。それと、帰ってきてくれてありがとう」
「僕のほうこそ、待っていてくれてありがとう。薬草の世話も大変だったろ」
「ううん、村の人たちも手伝ってくれたから」
「そう」
ハイルの顔が近づいて、またキスを落とされた。帰宅してこれで何度目だろう。まるで今までの空白を取り戻すかのように、ハイルはリリを抱きしめキスを繰り返した。
と、ふとハイルは真顔になる。
「リリ、お願いがある」
「なに……?」
「もう二度と僕を諦めないで欲しい」
ハイルの追い詰められたような声に、リリははっとした。
「なにがあっても。僕もリリを諦めないから」
まだ、想い出になんかしないで欲しい。
ハイルがささやき、リリは頷いた。
窓の外では、今年初めての雪が降り始めていた。
***
その夜の聖夜祭には、村中の人間が集まっていた。
広場に設置された屋台は、屋外にも関わらず皆陽気にはしゃいでいる。
ハイルは酒を片手に、隣で眠ってしまったリリを守りながら、中央で踊り歌う連中を眺めていた。
「やぁ、心友よ」
正面の席にどかりと座ったのはヘンリーだ。
ハイルは「やあ」と短く返す。
ヘンリーは頬杖をついて、寝息を立てているリリを見つめた。
「幸せそうだなぁ」
自分の腕を枕に、うつ伏せるようにして眠っているリリの口元は、確かに柔らかな弧を描いていた。その背には、ハイルの黒い上着がかけられている。
「弱いくせに飲みたがるから」
ハイルは言って、落ちそうになった上着をかけなおしてやった。それでもリリは、幸福な眠りから覚めることはない。
村の人々は次々にハイルの帰宅を祝ってくれた。
本当に本当に心配したのだと、マトソンには怒鳴られた。
「君は幸せものだな」
ヘンリーがからかうように言う。
ハイルは「本当に」と呟いた。
‘ハイル’はまったく、幸せものだった。
そう、どこか客観的に思うのは、自分の中に巣くうリュカの意識なのだろうか。
ヘンリーは背中を椅子に預けて大仰に息をついた。
「けど本当に、めでたしめでたしで良かったよ。正直、もう駄目かと思った」
「悲観的だね、珍しい」
「笑い事じゃないぞ」
ヘンリーは本当に珍しく顔をしかめてみせた。
「リリを連れて君の記憶を取り戻す手がかりを探しに行こうかと思ったくらいなんだから」
「ふたりで旅?駄目だよ、危ない」
「誰のせいだよ」
ハイルは「ごめん」と謝った。
「僕のせいだ。だから君が責任を感じることはないんだよ」
ハイルは夕刻、ミリアと最後の別れをした。
ミリアはすっかり泣きはらした顔で、だけれどどこかすっきりしたようにハイルに「幸せに」と笑った。出会った頃に比べれば、ミリアはうんと強くなった。身体も、心も。
元々ミリアの虚弱体質は、性格が招いたところもあった。
リュカという友達を得て少し自信がついたらしい。「ありがとう」とまで言われた。
感謝すべきはこちらの方だった。
ミリアのおかげで、薬師としての知識は増えたし、
異国の薬学書や、医師の技術まで目の当たりに出来た。
この村にいたままでは、決して手に入らなかった経験だ。
寿命が延ばせるかはわからないけれど、やってみようと思えるいくつかの可能性は増えた。
せっかく買った土産も、綺麗な指輪も、金貨さえも失ってしまったけれど。
ハイルは一番大切なものを取り戻すことが出来た。
ヘンリーは酒を追加して、言った。
「しかし。リリは変に自信がないというか、身を引きがちなところが良くないな」
「優しい子だからね」
‘リュカ’と別れようとしたリリを思い出せばハイルの胸は強く痛んだ。
もう二度とあのような決断はさせまいと心に誓う。
ヘンリーは硬い干し肉を齧った。
「逆だったら、ハイルは絶対に離れないだろうにな」
「逆?」
ハイルはきょとりと問い返す。
「リリが記憶をなくしたらってこと?」
「ああ」
リリが、僕を忘れる……そんなことになったら。
ハイルは愛しい妻の寝顔を見つめて、微笑んだ。
「もう一度好きになってもらうしかないよね」
どこからそんな自信が来るのだろう。
ヘンリーはやれやれと息をこぼした。
読んでくださってありがとうございました。




