20.それぞれの
***
薄暗い廊下を歩きながら、リュカは痛む胸を押さえた。
この数日で、多少なりとも情は湧いていたけれど、リリとの別れがここまで堪えるとは思わなかった。
もしも思い出せていたのなら、一緒にいられたのだろうか。
愚問だった。現実問題なにも思い出していないリュカは、リリが出した答えを受け入れる他ない。他人のリュカといても、リリは悲しいだけだろう。かみ合わない思い出、知っているはずの知らないこと。そのすべてが、自分とリリを隔たせる。
リリが喜々として語った想い出のすべてに、リュカは曖昧な反応しか返せない。
川へ魚を釣りに行った?
チョコレートをふたりで分け合って食べた?
同級生と喧嘩をして教師に怒鳴られた?
そんなこと、リュカは知らない。
それはハイルとリリの思い出だった。
そこへどうして、他人の自分が割り込めただろう。
大切に思い始めているからこそ、リュカには無理だった。
「また残したの?」
ベッドに臥せったままのミリアに、リュカは軽い息をついた。
サイドテーブルに置かれた銀のトレイには、一口かじっただけのパンと冷めてしまったスープがあった。
「食欲がなくて」
ミリアは、ここ数日ほとんど食事をしていない。
日に日に痩せ衰えていく姿に、リュカもジーンも顔を曇らせていく。領主に急遽の暇を申し出たのもそのためだ。
リュカはベッドの脇に運んできた椅子に座って、ミリアの額に触れた。
熱はないようで、安心する。
「色々あったから疲れてるんだよ」
「……早く、家に帰りたいわ」
床の中で、ミリアはうわごとのようにそう繰り返した。リュカはミリアの手をとって頷く。
「ああ、帰ろう」
ミリアはそっとリュカを見上げる。
「リュカも一緒に?」
「当たり前だろ」
ほほ笑めば、ミリアも花が開くようにはにかんだ。
「……今日は、リリさんのところへは」
「さっき行ってきたよ。明日発つからって、挨拶もしてきた」
ミリアは「そうですか」と浅く息をした。
「私も、ご挨拶しないと」
「無理しないで。家に着いたら手紙でも出せばいい」
言ってから、リュカは結局住所を聞きそびれたことを思い出した。
もう一度聞きに行こうか。でも、そこまですべきなのだろうか。
と、そこへノック音がした。
誰だろうとリュカとミリアは顔を一瞬見合わせて、リュカが立ち上がる。扉を開く、とそこには。
「やあ、ハイル」
片手をあげた旅の商人——ヘンリーが立っていた。
「どういうつもりだ」
ヘンリーを押し出すようにして廊下の隅に追いやって、リュカは声を潜めながら怒鳴った。
「ミリアに聞こえたかもしれない」
「まずいことか?」
「当たり前だ。あの子は驚いたり興奮すると発作が起きるんだ」
「じゃあ、ゆっくり順序立てて本当のことを教えてやればいいじゃないか。リリは自分の妻だったって。でも手を切って君と帰るんだって」
信じられない、とリュカは眉を寄せた。
「どうしてそのことを——君は、もしかして」
「そうだよ、ハイルとリリの知り合いさ。とくに君が記憶を失う寸前まで一緒にいた。いや、むしろすべての元凶だと言ってもいい」
吐き捨てるようにヘンリーは言った。
「俺が君を商売に誘った。その帰り道で、君は記憶を失ってる」
リリの周りをうろつく目障りな商人。
そんな風にしか思っていなかった男が、知人だった。
リュカは驚愕して、言葉を失う。
「ああ、言わなかったのは意地悪じゃないよ。どうせ言っても君はリリの時みたいに俺を拒絶しただろうし、どうせなら、リリと親しいところでも見せつけてハイルの嫉妬心を呼び起こしてやろうと思ったのさ。ハイルは穏やかな奴に見えて、結構独占欲の強い男だったから」
「独占欲?」
「そうだよ、ハイルはリリが十六になった途端、速攻で求婚してた。そんなに急がなくてもあんなじゃじゃ馬誰も取りゃしないのにさ」
「じゃじゃ馬って」
リュカが抗議しようとするが、ヘンリーはふらりと話題を変える。
「君たち、明日出て行くんだろう?」
「ああ……」
仕方なく返事をしたリュカに、ヘンリーは頷く。
「それは良かった。俺には、色々あって、帰る家ってのがなくてね。ひとりで気ままに暮らしてる。それはそれでとっても楽しいよ。色んなところに行けるし。
——けど、ハイルと旅をして思ったんだ。帰る場所があるって素敵なことなんだなって。君は、帰ることをとてもとても楽しみにしていたから」
ヘンリーは思い出すようにリュカを眺めた。
「だからこそ、こんなことになって、君を誘ったことを本当に後悔した」
それを自分に言って、彼はどうしたいのだろう。
「——リュカ。リリのところへ帰ってやってくれないか。
あの子はずっと君を探してた。毎日寝ないで、狂ったみたいに、泣いて、喚いてた。俺はそんなリリを見ていられなくて、君を探してまわった。このままなんてあんまりだ。頼むよ、そばにいてやってくれないか。あの子は君が思ってるほど気丈じゃない」
そういうことか。リュカは苛立って、首を振る。
「僕はハイルじゃない。代わりにはなれない」
「代わりになる必要はない。一緒に暮らせば、もしかしたら」
「いつ思い出すかも、思い出せるかもわからないのに?一緒にいろって?……君の贖罪に使われるなんてまっぴらだ」
ヘンリーは図星を指されたというように、動きを止めた。
「……本当に、悪かった」
こんなつもりじゃなかったと、呟かれる。
ふざけるな。と思った。
項垂れたいのは、こちらだと言うのに。
***
ミリアはぱたんと、読みかけの本を閉じた。
どんなに目で文字を追っても、内容が入って来ない。
先ほどやってきたヘンリー、という旅の商人とリュカの会話は途中で聞くのを止めた。
けれど、昼間に立ち聞きをしてしまったリリの声は、ずっと耳を離れなかった。
“本当にハイルの幸せを願うなら、ハイルが幸せかどうかが重要で、“あたしと”幸せになることじゃないって”
そう言って、リリはリュカを諦めてくれた。
体調を崩したふりをすれば、リュカはすんなりと屋敷へ戻ることを了承してくれた。
全てミリアの思惑通りにことは運んだ。
なのにどうしてだろう。
心のもやは晴れず、それどころか、一層深まった気がする。
ミリアには、リリがわからなかった。
リュカが幸せなら、自分も幸せなんて、そんなの嘘だ。
本当に好きなら、絶対に手放したくないと思うはず。手放せるのなら、その程度の想いだったというだけのこと。でも、リリから感じられたのは、リュカへの——いや、ハイルへの暖かで、優しい、大きな愛情だけだった。そこに、邪推は少しも交じっていない。ミリアの、ような。
でも、少しくらい、夢を見てはいけないの。
だってミリアの恋は、所詮叶うことはない。
ミリアはその内、決められた相手との結婚が待っている。それを受け入れる覚悟も出来ている。
子供の頃から弱かった身体。
思い通りに動かせず、やりたいこともままならなかった。
苦い薬を飲み続け、食べ物も制限されてきた。
リュカは、そんなミリアに神様が授けてくれた褒美だとすら思っていた。けれど。
きっと違ったのだ。
運命なんて何処にもなくて。
すべては、ただの偶然だった。
「ミリア?」
ふと話しかけられ、ミリアは我に返る。
ジーンと共に帰宅の準備をしてくれていたリュカがこちらを見ていた。普段通りに見えるけれど、内心ではなにを考えているのだろう。
「具合悪い?紅茶でも淹れようか」
いつも通りの優しいリュカに、ミリアの胸が軋む。
このままミリアが別の男性と結婚をしても、しなくてもきっと一緒にいてくれるのだろう。ミリアが手放すまでは。
だけどリュカの本心はきっと、リリにある。
「……ミリアっ?」
ミリアは一筋の涙を零した。頬を伝い、顎にたまり、やがて滴となって閉じた本の表紙に落ちていく。いくつもいくつも、滴は落ちて、そのたび、本を濡らしていった。
リュカが本心を自覚することはない。記憶を思い出さないから。
けれど記憶を思い出せば、ハイルは絶対にリリを選ぶ。
どちらにしろ、ミリアには永遠の片思いだ。
「ごめん、なさい……っなんでもないの」
リュカが眉を寄せてくる。
「なんでもないことないだろう、どこか痛む?すぐに医者を」
「リュカさん」
留めたのは、ジーンだった。
リュカの肩に手を置いて、引き下がらせる。
「ここは私が。あとはひとりで出来ますので、お先にお休みください」
「でも」
「お任せください、さ、お嬢様。涙をお拭きになって」
ミリアは縋るように、ジーンの差し出したハンカチを受け取った。
戸惑うリュカをジーンが強引に部屋から追い出す。
「お嬢様」
ジーンはベッドの端に座って、ミリアを自分の胸に抱きよせた。
「私でよろしければ、お話をお聞かせくださいな」
しゃくりをあげるミリアの髪を、ジーンはいつまでもいつまでも、撫で続けた。




