19.リュカの幸福
ミリアはその日以来、毎日リリを見舞った。
どうしてかリュカの往診の時間ではない時にやってきて、数分話をして帰っていく。毎日毎日、済まなそうにしているミリアに、リリも申し訳なくなった。
早く治して、安心させてあげないと。
リリは、毎日朝と晩に様子を診に来てくれるリュカやヘンリー、スージーのためにもと、治療に専念をした。
その甲斐があって、数日後には痛みはだいぶ薄れていた。
触ればヒリヒリとした痛みはあるけれど、なにもしていなければ普通だったし、関節も動かせる。
「良かったね」
リュカは、リリの回復を心から喜んでくれているようだった。
リリも「ええ」と頷き返す。
それでもまだ、記憶は戻っていないのだけれど、最初に再会した時よりは、リュカはうんと穏やかに話してくれるようになった。
だけれど、今日は様子が違った。
「……ミリアの体調が良くないんだ」
そう、物憂げに呟いた。食欲もないし、薬も嫌がって飲まないのだと言う。
リリはか細いミリアの身体を思い出して眉をひそめた。そう言われれば昨日だって顔色が良くなかったように思う。
「大丈夫なの?」
「……環境の変化で、だと思うけど」
リュカはリリの腕の包帯を巻き直しながら言った。
「大丈夫じゃない、と思う。だから……」
リュカは丁寧に包帯を結び終えて、手を離した。
「明日、ここを発つことになった」
「え……明日?」
突然のことに、リリの声はかすれた。
「でも、聖夜祭まではいるはずだったんじゃ」
聖夜祭はあと四日で終わる。それまでは、こうしていられると思っていたのに。
「そのつもりだったけど、ミリアの体調も良くないし。ミリアのお兄さんだけ残ることになったんだ。移動にも負担はかかるだろうけど、ミリアも自宅の方が落ち着けるだろうしね」
リュカは薬や包帯の切れ端を薬箱にしまいながら、こちらを見ることもなく淡々としていた。決定事項を事務的に伝えると、すっと立ち上がる。用件は済んだとばかりに。いや、実際にリュカの用件は済んだのだろう。
「君の自宅を教えて。慰謝料を送るから」
「……あなたは知ってるはずよ」
リリは半ば投げやりになって言った。
なんだかとても虚しくなっていた。
ここ数日、怪我をしてから、リュカとの交流が増えていた。
治療と称してリュカを引き留め、リリは彼の生活を聞いた。貴族の生活、ミリアの兄に嫌われていること、薬師として勉強もさせてもらっていること——。
反対に、リリの話もした。
酒場で働いていること、両親がいないこと、落馬は二度目だと言うこと——。
リュカはひとつひとつの話題を、頷きながら聞いてくれた。
時に驚き、時にしかめっつらをし、時に神妙な顔つきになって。
知っているはずの話を、聞いてくれた。
でも、そのすべては無駄だった。
リュカは明日、ミリアとここを発ち、二度とは戻ってこないかもしれない。
リリがまた来年くる?と聞いたところで、リュカに決定権があるわけでもない。
「リリ……」
ふてくされたリリに、リュカが困ったように声をかける。
「ねえ、リュカ」
リリは虚しさと悔しさと悲しみでいっぱいになっていた。
「本当に、なんにも思い出せないの?ひとつも?どうして?」
どうして記憶をなくしたりなんかしたの。
責めるように言ってしまったことを後悔して、でもリリの想いはあふれて止まなかった。これが最後なんだろうと思うと、余計に、止まらなかった。
リュカの憐れむような、他人行儀な視線が、苦しくて苦しくてたまらない。
「どうしたら、思い出してくれるの」
リリ、と名前を呼んでくれた時、もしかしたらと期待した。
このまま一緒にいれば、少しずつ思い出してくれるかもと。
でも、この数日一緒にいて、想い出話までしたというのに、リュカはなにも思い出さなかった。
「ごめん」
三度目だ。
リュカのごめんは。
一度目は、あの夜の庭園で、拒絶とともに。
二度目は、数日前に、怪我をした時に。
三度目は、今こうして、お別れのあいさつとして。
「リリといるのは、楽しかったよ。話も面白かったし……でも、なんにも思い出せなかった……」
リュカは淋しそうに口を動かした。
「ごめんね。僕はハイルにはなれそうもない」
言って、リリの髪を名残惜し気に撫でる。その表情も、撫で方も、ハイルそのものだと言うのに。
「ミリアを放っておけない。僕は行くよ」
「……ミリアさんが好きなの?」
リュカは首を傾げる。
「大切にしたいし、守りたいと思ってる。それは、好きと一緒かな」
「じゃあ、あたしのことは?」
リュカは、少し悩むように口をつぐんだ。
「……幸せになって欲しいと思う」
「それは、あたしが不幸に見えるから?」
「幸せそうには思えない……君はハイルに縛られてる」
忘れて、幸せになれと。リュカはそう言いたいのだろう。
「じゃあリュカは、幸せ?」
「え?」
問うと彼は、今までで一番困惑したような顔つきになった。
眉を寄せ、瞬きを繰り返す。
そうしてゆっくりと言った。
「僕は……幸せなんだと思うよ」
命を取り留めて。
大きな病気もなくて。
安定した生活があって。
それは幸せに違いない。
たとえ、思い出せない記憶があっても。
これから、新しい楽しい記憶で埋め尽くせたらいい。
喪失感が埋まるくらいに。
リリは、わかったと頷いた。
「あなたが幸せなら、それでいいわ」
我慢の限界だった。
これ以上すがって、リュカの幸福を壊すことに、なんの意味があるだろう。
リリも新しい想い出を作るべきなのだ。でも——。
「ねえ。最後にひとつだけ、お願いを聞いてくれる?」
「……なに?」
構えるように身体をこわばらせたリュカに、リリはふっとおかしそうに笑った。
「一度だけ、ぎゅっとしてほしいの」
リュカの表情が険しくなる。と、リリは慌ててかぶりを振った。
「本当に一瞬でいいのよ。友人にするハグみたいな、意味のないものでい——」
「これでいい?」
次の瞬間、リリは、リュカの広い胸の中にいた。洗剤の匂いも、着ている布地も、ハイルだった時とは全く違うというのに、どうしてか懐かしい。背中に両腕を回され、ぎゅうっと力強く抱きしめられる。リリは息を止めて自分の両手も彼の背に回してみた。隆起した肩甲骨の感触と、頭のてっぺんに乗せられたハイルの顎の感触を身体中で味わう。ああ、ハイルだ。まるで恋人にするようにリュカは優しく力強くリリを包み込む。想い出の中に放り込むように。
——すぐに帰ってくるから
ハイルの優しい声が蘇って、リリはとうとう涙を零した。
嘘つき。
クッキーもチョコも、イチゴ味の飴も、持って帰ってきてくれなかった。
こんなに待たされたのに。
どれくらいの間、そうしていたのか。
遠くにスージーの声が聞こえて、リリは現実にもどった。
「リュカ、そろそろ……」
くぐもった声をあげるが、リュカの腕の力は緩まない。
「もういいの?」
リリは目をつぶったまま、ええ、と頷く。
リュカが腕を離し、元の距離に戻る。互いに見つめ合うとどちらともなく「元気で」と掠れた声をあげた。
「……諦めないんじゃなかったのか」
リュカが出て行ってすぐに、ヘンリーがやってきた。
そうして開口一番がこれだ。
「盗み聞き?」
「本当にいいのか?行ってしまうぞ」
リリはベッドの上掛けをなおして、言った。
「ヘンリー、あたしね、ハイルの記憶を取り戻そうとずっと躍起になってたでしょ?思い出して欲しくてたまらなかった。でもね、よーく考えてみたの。それって“あたしの願い”なんだなって。本当にハイルの幸せを願うなら、ハイルが幸せかどうかが重要で、“あたしと”幸せになることじゃないって」
「ハイルが幸せそうなら、君も幸せだと言いたいのか?」
偽善的な言葉は、一見理に適っているように聞こえる。
でも。
「じゃあ、どうして泣いてるんだ」
ヘンリーが低い声をあげる。
彼自身も泣きそうになりながら。
「……だってあたしは、ハイルと生きたかった。でも、ハイルはそうじゃない。それを悲しいと思ったって、いいでしょ」
それくらい、いいでしょう。
ちゃんと我慢したんだから。
リリはシーツの上掛けを力任せに握りしめ、涙を零した。
記憶がなくても、リュカに、選んで欲しかった。
でも、もう。
彼は行ってしまう。
遠い土地で、彼は末永く幸せに暮らすのだ。




