18.深窓の令嬢は
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聞き間違い、なんかじゃなくて。
あの時あの子は——リリは、リュカのことを“ハイル”と呼んでいた。
それがあなたの本当の名前なの。
そう聞きたかったのにミリアは尋ねることが出来なかった。リュカの反応が怖くて、ミリアは、気付かないふりをした。
リリがリュカの本当の恋人で彼を取り戻しにきたのだとしたら、ミリアは身を引くべきなのだろう。
でも、リュカはなにも言わなかった。彼自身はまだ、記憶を思い出したわけではないのかもしれない。しかしリリは大人しくなどしていないだろう。彼を取り戻すのに、これほど最善の機会はない。
ミリアはじわりじわりとやってくる別れの予感に怯えた。
思い出したら、リュカはどうするのだろう。
ミリアの手を払って、リリの元へ帰るのだろうか。
それが普通だ。
——じゃあもし、思い出さなかったら?
リュカとして、このまま変わらずミリアといてくれるのだろうか。
そうだといいのに。
熱いスープから自分をかばってくれた勇敢な娘は、リュカをあっという間にさらってしまうのだろう。ミリアには、なすすべもない。
それでも、リュカと離れたくないと思った。
ずっとずっと一緒にいたい。
他の誰でも嫌だ。
リュカが好きなのだ。
優しくて、知的で、穏やかで。
そばにいると安心する。
このままリュカがなにも思い出さなければいいのに。
そう思う自分を嫌悪をするくせに、リュカを手放す決心も出来ない。
ミリアはもう、自分を止めることが出来なかった。
***
ミリアが面会に来たのは、翌日の午後のことだった。
リリは客間の一室(とは言ってもとても簡素で狭い部屋だった)のベッドの上で、上半身だけを起こしていた。昨夜は痛みでほとんど眠ることも出来ず、夜を明かした。今はリュカのくれた鎮静剤が効いているのか、痛みも和らぎ、睡魔に襲われていた。
「少し眠りなよ」
寝ずの番をしてくれたリュカが言った。彼はあれからずっとリリの傷を診てくれた。けれど、期待していたような出来事はなく、ただ時間だけが過ぎていった。
「ええ」
リリはうつらうつらとしていた眼をこすって、少し眠ろうとベッドに身を横たえ、ようとした。コンコン、と木の扉をたたく音が響く。
「はい」
リュカが振り向きざまに返事をすると「私です」とか細い女の声が返ってきた。リリはどきりと心臓をはねさせる。ミリアだ。
リュカがちらっと、リリに視線を向ける。困ったような顔なのは、リリの怪我を気にしてなのか、心中を気にしてなのか。
「リュカもいらっしゃるの?リリさんにご挨拶をしたいのだけど」
「ああ、うん。でも今は眠って——」
リュカは眠っているからとミリアを遠ざけようとしていたのだろう。
でも、これはいい機会だ。
リリは声を張り上げる。
「どうぞ」
少しばかり力が入って、かたく冷たい印象になってしまったかもしれない。
扉の向こうの声が、怯んだように止まった。
「……ミリア?」
心配そうにリュカが扉を開ける。と、バスケットを持ったミリアと、その後ろに侍女ジーンの姿があった。
「ごめんなさい。お邪魔でしたでしょうか」
「いや、えっと」
「邪魔だなんてとんでもありません」
リリはベッドの中からミリアに向かって笑いかけた。
リュカと一緒に過ごしているミリアに嫉妬がないと言えば嘘になる。けれど、ミリア自身にはなんの落ち度もない。それどころか彼女には感謝すべきだった。リュカを助けてくれたのだから。
おずおずと部屋に入ってきたミリアに、リリは頭を下げた。
「すみません、ご心配をおかけして」
「いいえ。謝るのは私の方ですわ。昨夜は本当にありがとうございました。これ、お口に合うと良いのですが……ぜひ召し上がってくださいな」
「ありがとうございます」
ミリアはサイドテーブルに持ってきた大きなバスケットを置いた。中にはあふれんばかりのフルーツや菓子やらが詰め込まれている。
「他にもご入用のものがあったら、遠慮なくおっしゃってください。もちろん治療費もお支払いいたしますから」
「いえ、あたしが勝手にしたことですから」
「でも」
終わりの見えなさそうな会話に終止符を打ってくれたのはリュカだった。
「ミリア、その話はまたあとで。リリはまだ安静にしてないといけないから」
「そう、ですわね。私ったら、ごめんなさい」
ミリアは悲しそうに俯く。
綺麗にカールした薄茶の髪がひと房、鎖骨の上に零れ落ちる。
言葉遣いも、儚げな印象も、なにもかもが深窓の令嬢を思わせた。自分とは大違いだ。
「いいえ」
リリは首を振る。
今にも泣きだしてしまいそうなミリアの手をとった。
「お心遣い、本当に嬉しいです。治療費も、お言葉に甘えさせてもらいます。でもご自分のせいだなんて絶対に思わないでくださいね。幸いあたしの身体は丈夫に出来てますから」
リリが笑うと、ミリアは「はい」と手を引いた。
「お大事に」
そのあとミリアは、リュカとジーンを伴ってリリの客間を出て行った。
最後までおしとやかな娘だった。




