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17.リュカの苛立ち

***


 無意識だった。

 リリ、と。

 気付いた瞬間にはもう、リュカはそう叫んでいた。

 そんな自分に驚くよりも先に身体が動いて、リリを抱き上げた。早く冷やさないと——頭にあったのはただそれだけだった。


 激痛だったろう。ブラウスの下から現れた彼女の皮膚はまだらに変色していた。リュカは拳をぎりりと握りしめる。届かない距離ではなかったのにどうして気づけなかったのか。その上、記憶を思い出したのかと期待までさせてしまった——。違うと、思い出したわけではないとわかった瞬間のあのリリの表情が脳裏に焼き付いて離れなかった。ゆっくりと下ろされた視線、力の抜けていく肩、笑おうとして失敗した唇。リュカは己の無力を痛感した。ごめんとしか言いようがない。どんなに優しくしたところで、結局“リュカ”にはなにも出来ないのだから。




 苦々しい思いを抱えたままリュカが自分の客室に入ると、そこにはミリアの姿があった。人がいると思っていなかったリュカはドアノブを握りしめたまま動きを止めてしまう。


「ミリア」

「お帰りなさい、リュカ」


 部屋の中央にいたミリアはドレス姿のままで、そう言えばあのまま放置してしまっていたのだとはっと思い出した。


「ごめん、ひとりにして」


 言いながら後ろ手にドアを閉める。ミリアは「そんなこと」と小さく首を横に振った。


「それより、リリさんは……」

「大丈夫、命にかかわることはないよ」


 心労をかけまいと、リュカは軽く言って部屋の隅に置いていた茶色のトランクを漁った。中から鎮痛剤を取り出す。


「薬を届けてくるよ」

「私も行きますわ。直接お礼を言いたいもの」


 負い目を感じているのだろうミリアの瞳は不安気に揺らいでいた。だが、リリの痛みはこれから更に増すだろうと思えた。ミリアの謝罪をしたいという気持ちもわかるが、今は安静が必要だ。リュカはトランクを閉じて立ち上がる。


「……今夜はどうかな。まだ手当も済んでないし」

「でも、私のせいで」

「ミリアのせいじゃない。元凶はラングレー卿だよ」


 リュカがそう言っても、ミリアは承服しかねる様子だ。妙なところで頑固なこのお嬢様をどう言いくるめようかとリュカは思案をめぐらす。


「わかった。じゃあ、明日、一緒にリリのところに行こう」

「……わかりました。出来たら、リリさんのお好きなものでもお贈りしたいのですが」

「うん、聞いておくよ」


 そう言ってやっと、ミリアは納得したようだった。

 安堵して、リュカはミリアのひんやりした肩に手を置いた。薄手のドレスは暖かい夜会の会場では平気だったろうけれど、暖炉のない部屋には寒すぎる。


「ジーンさんが心配するよ、そろそろ部屋に戻らないと」

「ええ」

「送るよ」


 ミリアの手を引いて、リュカは客室を一緒に出た。

 部屋に向かう途中、つとミリアが言った。


「でも、私全然知りませんでした。リュカったらいつの間にリリさんとお友達に?」

「え」


 リュカは首を傾げる。


「別に友達なんかじゃ」


 ミリアも真似るようにして首を傾けた。


「そうですか……?」

「そうだよ」


 詰まりそうになった声をなんとか吐き出す。

 自分とリリは、ミリアの目にはそんなに親し気に映ったのだろうか。——確かに、咄嗟のこととはいえ、女性を抱き抱えるなんてミリアにもしたことはなかった。それもあんな大勢の前で。親し気に見えたのも無理はないのかもしれない。気を付けようとリュカは自分に言い聞かせた。


「それよりミリア、明日は——」


 ミリアに別の話題を振って、リュカはなんとか話をごまかした。客室に送り届けるまでの道のりが、やけに長く感じていた。 


***


 痛い。痛い。痛い。

 リリは時間の経過と共にどんどん増してくる痛みに目をつぶった。意識を痛み以外に向けようとあれこれ考えてみたけれど、どうしても最後は『痛い』という感情に戻ってきてしまう。どうどうめぐりだった。


「おいおい、大丈夫か?」


 呆れたようにも聞こえる籠りのある声に、リリはうっすら目を開けた。

 浴室の入り口に、ヘンリーが立っていた。水をかけ続けてくれていたスージーが、突然現れたヘンリーに「きゃっ」と短い声をあげる。リリは唸った。


「大丈夫……じゃない」

「みたいだな」


 言ってヘンリーは、スージーから水をかけるための桶を奪った。


「代わりますよ、彼女とは友人なんです」


 スージーは驚きながらも、こくこくと頷いた。


「ありがとうございます」

「いえいえ。っと……こりゃひどい」


 リリの傷を目の当たりにしてヘンリーは顔をしかめた。スージーも涙を浮かべたまま「そうなんです」と鼻声を響かせる。


「リリ……本当にごめんなさい、私の不注意で」

「泣かないで。スージーさんのせいじゃないんだから」

「でも」


 ぐすぐすと鼻をすするスージーに、リリは苦笑いを返す。ヘンリーも気の毒そうにスージーを見ていた。


「そうだよ、あんたが泣くことはない。悪いのはあの男だ。リリも一発かませてやってたし、かっこよかったな」

「……あたしは、なんにも」


 リリは言って、俯いた。

 別に謙遜したわけじゃない。実際にリリはなんにも出来なかった。

 そう——結局あの男を怯ませたのはリュカとミリアの名で、リリはなんの役にも立ちはしなかった。それどころか、あの時リュカが助けてくれなければ、最悪スージーもリリも解雇、あるいは不敬罪とされる可能性もあったのだ。後先を考えず貴族に噛みついてしまった自分のせいで——。

 リリが首になるのはまだいい。けれど、スージーまで危険に巻き込んでいたのかと思えば、ヘンリーの賞賛を素直に受け止めることなんてとてもできはしなかった。


 しかし、落ち込むリリにスージーは言った。

 

「ううん。私もかっこいいと思ったわ。本当にありがとうリリ。私にはあんなこと言える勇気ないもの」

「スージー……」

「こうやってお城で働いてるとね、ああいう人に理不尽に怒られることって結構あるのよ。でも、一回一回たてついてたら、仕事がなくなっちゃう。それが怖くて私いつも我慢してた。でも今夜はすっきりしたわ。リリには痛い思いさせちゃったけど……本当にありがとう」


 スージーは言って、リリの無事な方の肩をさすった。


「出来ることがあったらなんでも言ってね」


 スージーの暖かい気遣いに、リリは涙ぐんだ。余計なことをしたなんて思われてやしないかと心配だった。ヘンリーは水をかけ続けながら言った。


「俺はスージーさんの生き方に一票かな。たてつくよりも我慢した方が面倒もあとくされも少なくて済む。リリはもう少し考えて行動するべきだと思うけどな」

「わかってるわよ……」


 リリは唇をまごつかせる。

 そんなお小言なら、何百回と聞いてきた。その度に反省もしたし、冷静になろうと頑張った。でも、気付いた時にはもう口が動いてしまっているのだ。許せないものは許せないし、見過ごすなんて出来ない。仕方がない。それはもうリリの癖のようなものだった。


「あら、ヘンリーさんったらわかってないのね。そこがリリのいいところなのに」


 ね、とスージーが片目をつぶる。


「私はリリみたいにちゃんと口に出せる人、好きよ。男だったらお嫁さんにして欲しいくらい」


 と、ヘンリーが勝ち誇ったように肩をすくめた。


「残念だったな。彼女は既婚者だ」

「まあ!そうなの、リリ」


 驚いたスージーが大げさに口を開けてリリを見つめた。既婚者と言っても良いものなのかしらと、リリは曖昧に笑う。


「知らなかったわ!私はてっきり——」

「悪いけど」


 それはヒヤリとするほど、冷たい声だった。

 スージーは口を開けたまま固まり、ヘンリーも動かし続けていた手をぴたりと止めた。いつからいたのだろう。リュカが、浴室の入り口で無表情にこちらを見下ろしていた。


「お喋りなら、あとにしてくれないかな。リリは君たちが思ってるより重症なんだ」


 言って、リュカはすっとスージーに視線を投げた。


「スージーさん、部屋を用意できますか。なるべく静かで、清潔なところがいい」

「あっわ、わかりました!」


 スージーは言って、ばっと立ち上がり「またね」とリリに耳打ちするとすぐに駆けて行った。リュカはすっとリリのそばにかがむと、ヘンリーから水桶を受け取った。


「ヘンリーさん、でしたか。リリのことをよくご存じのようで」

「ええ、まあ」


 ヘンリーはいっきに商売人の顔になって、にこやかに返す。しかしその笑顔はわずかにひきつっているような気がした。そう思うリリもぴりついた空気になにも言えないでいたのだけれど。

 

「ちょっと仲良くなったんですよ」

「へえ」


 全く興味を持っていないとでも言いたげな、短く、失礼で、そっけない返事だった。そのくせ機嫌が悪いことだけはひしひしと伝わってくる。でも、どうして彼の機嫌が悪いのかまではわからずたじろくリリの腕に、リュカがそっと水をかけた。


「あとは僕が診ます。リリ、部屋が準備できたら連れていくよ」

「あ……りがとう」


 連れていくって、またお姫様抱っこで?あれは他の人に見られたら恥ずかしいから遠慮して欲しいところなのだが。今はそんな意見を言えるような空気ではなかった。


「ミリア様についていらっしゃらなくて良いのですか?」


 挑発するように言ったのはヘンリーだった。リリはどうしてそんなことを今言うのだろうとヘンリーを軽くにらむ。リュカは表情をぴくりとも動かさず「大丈夫ですよ」と返した。


「ミリアもリリの怪我を心配してましたから」


 その一言に、リリの胸がつんと痛む。

 リュカはミリアとさっき会ってきたのだ。そこでリリの話をしたのだろう。どんな話を?リュカはミリアにリリのことをなんて話したのだろう。ただの使用人か、あるいはあの時の落馬した人か。どんな話題にしろ、ふたりが話しているところを想像すると胸がもやもやして、リリはもう一時もリュカといたくないような気分になっていた。感情に任せてリリは、腕をひっこめた。リュカが怒ったみたいにして腕を掴もうとしてくる。


「リリ、腕を。まだ冷やさないと」

「あの……私はもういいから、ミリア様についていてあげて」


 もやもやが苛立ちになって、しまいには早口になっていく。


「さっきの酔っ払いに絡まれて、こんな大騒ぎになっちゃって、ミリア様もびっくりしてると思うの。だから」

「それは大丈夫だって」

「でも」

「僕じゃ嫌?」

「……嫌なのはあなたの方でしょ」


 ミリアに頼まれて、責任と義理で、嫌々様子を見にきたのじゃないの。

 自分でも醜いと思う感情をもてあまして、リリは俯く。ああダメだ。全然上手くいかない。どうして自分はこうも感情が先走ってしまうのだろう、優しくできないんだろう。これじゃ、リュカの心が離れていくだけだとわかるのに、可愛くないことばかり言ってしまう。

 下を向いたリリの頬に、そっとリュカの手が伸ばされた。


「嫌じゃないよ」


 上を向かせられ、瞳を覗き込まれた。真剣な顔は、やっぱり彼にそっくりで。


「全然、嫌じゃない。だから手当させて」


 リリはもう頷くことしか出来なかった。

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