16.気付いたら
「すぐに手当を」
リリは痛みに朦朧としながらも目の前のリュカを見つめた。
窺うように背を屈めたリュカの眉根はきつく寄せられていて、怒っているようにも見える。その表情には、見覚えがあった。——あれは村の男の子と取っ組み合いの喧嘩をした時のこと。怪我をしたリリはこんな風にひどいしかめ面をされ、長いお説教を食らった。あれはとても怖かったから覚えている。普段温厚な彼は、相手の男の子たちにも怒鳴りに行って、大人が出てくる程の大騒ぎになった。それ以来リリは、無茶な喧嘩はなるべく止めようと心に誓ったものだった。
でも、今のシーンでは止めずにいられなかった。あのままでは確実に煮立ったスープはミリアの腕にかかっていた。ちらりと見たミリアは心細そうに両手を握りしめているけれど無事なようだ。(良かった)リリがそう息をついたのもつかの間。
「っ……」
突然の浮遊感に息をのむ。膝裏と肩にしっかりとリュカの腕が回され、さっと抱き上げられていた。高くなった視界と、すぐ近くにあるリュカの顔にリリの心臓がうるさく跳ねる。
「浴室は?」
リュカは硬直しているスージーに尋ねた。
「あ、あっちです。ご案内します!」
そうスージーが飛び出そうとした時だった。
「わ、私は悪くないぞ!そのメイドがぶつかってきたんだ!」
そう叫んだのは、スージーにぶつかった紳士だった。赤ら顔のまま、スージーに向かって人差し指を突き出す。スージーははっと紳士に顔を向けた。
「そっちがぶつかって……!」
と、そう言いかけて止める。そうして諦めたように「申し訳ございません」と目をつむり、頭を下げた。謝る必要なんかない、一部始終を見ていたリリはそう吠えたかった。紳士は、ねめつけるようにスージーのつむじを見下ろしている。
「なんだ?今何か言いかけただろう?まさか、私が悪いとでも?ああ参った!責任転嫁か」
大げさに両手を広げて身の潔白を証明しようとする紳士に、リリの口は勝手に動いていた。
「あなたが悪いに決まってるでしょ」
「リリ」
「黙って」と囁くリュカを無視して、リリは紳士に突っかかる。
「あたし見てたのよ。あなたが酔っぱらってスージーにぶつかるところ。スージーはちゃんと周りを見ていたわ。そこにあなたがよろけてぶつかったんじゃない」
「な……」
紳士は信じられないものを見たと言うように、大きく目を見開いた。酒のせいだけではなく、顔が真っ赤になっていくのがわかる。
「なんだお前は!誰に向かって口をきいている!」
「知らないわよ。でもあなたがスージーにぶつかった人だって事は知ってる。スージーに謝って」
「リリ……!」
リュカが焦れたように深く息をついた。
仕方なさそうに紳士に向き直る。
「アングレー卿、どうかご容赦を。この娘は新人でして、まだ慣れていないのです。それよりも手当を先に」
「……君は!ミリア様の」
リュカの顔を認識した紳士は、あからさまに狼狽えた。リュカではなく、リュカの主人のミリア、引いては伯爵家を気にしているようだった。人だかりの中にミリアの姿を見つけ、瞬時に態度を変える。
「……そうだったのか。以後気を付けるように」
背を向けようとする紳士に、リュカは早口に言った。
「時にラングレー卿。僕もあなたはひどく酔っていらっしゃったように見えたのですが、まっすぐに歩くことは出来ますか」
「何を」
調子に乗るなと言うようにラングレー卿は声を荒げる。
「泥酔されていてはお部屋に戻るのも危険でしょうから、心配で」
「歩けるさ」
「それは良かった。出過ぎたことを申し訳ありません」
まっすぐに歩けるのなら大丈夫ですね。とリュカはほほ笑み、スージーに再び視線を投げた。
「スージーさん、案内を頼みます」
「は、はいっ」
スージーは慌てて人だかりをわけた。
「早く」
リュカに急かされ、スージーは小走りになる。
騒然としてしまった会場の隅に、リリはヘンリーの姿を見つけた。ヘンリーは困ったような、だけれど嬉しそうな顔つきで、こちらを見ていた。
*
使用人用の浴室の椅子に下ろされたリリは、ブラウスの腕部分だけを慎重に切り裂かれた。赤く変色してしまった皮膚に、リュカは一層顔をしかめた。スージーはリュカに頼まれて清潔な布をとりに行ってくれている。この忙しい時に申し訳ないと、リリは落ち込んだ。
跪いて、リリの腕にちゃぷりと水をかけ続けながら、リュカが言った。
「痛むだろ」
「少し、でも平気よ」
「嘘つき」
リュカに睨まれ、リリの心臓はたやすく縮んだ。
「平気なわけないだろ。こんなに腫れて……跡が残る」
そう言って、苦しそうに息を吐かれる。
「こないだは落馬、今夜火傷。……わかってる?下手したら死ぬところだったんだよ」
静かに怒るリュカに、リリの声は小さくなる。
「死ななかったからいいじゃない」
リリの一言は火に油を注いだようなものだった。リュカはいらだったようにリリを見上げた。
「そういう問題じゃない。もっと気を付けろと言ってるんだ。君が大けがでもしたら、心配する人だっているだろ」
「……あなたも?」
リリの問いに、リュカは言葉を詰まらせた。
「そりゃ……心配にはなるよ。君だってさっきはミリアが怪我しそうになったからかばってくれたんだろ。一緒だよ」
ミリアのことは、ミリアと呼ぶのか。
リリはそっと質問を重ねた。
「ねえ。さっきあたしの名前、呼んでくれたわよね」
「ああ——」
「もしかして、思い出してくれたの」
囁くように言ったリリの視線を受け止め、リュカはしばし沈黙した。それは、実際には数秒のことだったのだろう。けれどリリにとっては永遠のように長い時間に感じられた。
止めていた息を吐き出すみたいにして、リュカがふっと視線をそらす。
「……よくわからない。気づいたら叫んでた」
緊張の糸が緩み、リリは肩を落とした。
「そう」
湧きあがっていた期待がしぼんでいく。
「……そう、よね。そんなにすぐに思い出せたら……こんなところにいないわよね」
「ごめん」
意気消沈したリリに、リュカが済まなさそうに呟く。
思い出す気がないから?それとも、無駄に期待をさせてしまったから?
リリは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。尋ねるほどの気力はそがれていたし、傷もひりひりと痛みを増していた。こんなことでめげるわけにはいかないけれど、これ以上会話を続けるには疲れが溜まりすぎていた。
リュカも気まずさに耐えかねたのだろう。おもむろに立ち上がった。
「火傷に良く効く薬がある。とってくるよ」
「……ありがとう」
そう言ったリリに「いや」とリュカが振り返る。
「礼を言うのは僕の方だ。ミリアを助けてくれてありがとう」
「……どういたしまして」
スージーの戻って来る足音がして、会話は途切れた。




