15.残り十日
リリとヘンリーが動き出して三日が経った。
けれど、リリがリュカと接触出来たのはあの夜だけで、それからは影を見ることすら出来ていなかった。
ミリア付きのリュカがひとりになることは皆無だったのだ。
ヘンリーはなんとか隙を見つけてくれようとして、積極的にリュカとミリアに話しかけている。が、他の用のない客が連れてしまったりと思うようにことは運ばなかった。
聖夜祭までは、あと十日。
たった十日と、リリの焦燥は募っていく。
このまま二度と話せないのだろうか。
諦めたくはない。けれど、出来ることは限られすぎていた。広い城のどの部屋がリュカの寝室なのかもわからない。上位の貴族たちには簡単に話しかけることも許されない。
リリは毎日の大量の洗濯で荒れた自分の両手を握りしめた。
冷たい井戸の水はリリの身体を芯から冷やした。アカギレで割れた皮膚を治す暇もなく次の洗濯物がやってくる。こんなことをしている場合ではないのにと、リリは焦りをぶつけるようにシーツを洗濯板にこすりつけた。
「——給仕係?」
「そうだ」
その晩の報告会で、ヘンリーは言った。
「このままじゃ埒があかない。やっぱり君が会わないと」
そこで給仕係だとヘンリーはもう一度繰り返した。
「執事の人がぼやいてたんだ。料理を運んだり、酒を注いだりする人間が足りないって。皆疲れも溜まってきているし。だからその執事さんにリリを薦めたんだ。よく動く奴がいますって」
「でも、あたしメイドの真似事なんて」
「大丈夫、給仕なんて酒場の仕事と一緒だよ。ちょっと客が上品になっただけさ」
言いながら、ヘンリーはリリに暖かいミルクの入ったマグを渡した。熱くて、ひび割れた患部にじくじくと染みる。
「夜会に出て、ハイルに会うんだ」
リリは頷き、熱しすぎたミルクに口をつける。
うまくいくかしら。
そんなことを考えながら飲んだせいか、リリは舌先を少しだけ火傷してしまった。
*
リリは唖然とした。
初めて足を踏み入れたパーティーの内側は、想像以上に明るく、また人々でごった返していた。
——綺麗……
高い円形の天井からは二つの巨大なシャンデリアがつるされ、煌々と黄金の光を放っていた。数か所にあるテーブルには肉や魚、スープにパン、それから大量のフルーツなどが所狭しと並べられている。
そんな料理を尻目に、着飾った紳士淑女は細身のグラスを片手に立ったまま食事を楽しんでいた。
そんな別世界にくらくらしていられるのは最初の数分だけだった。
空いた皿は即時に下げて、とメイドのスージーに言われていたのを思い出し、リリは汚れた皿やグラスがないかと目を光らせた。食器に不足はないか、飲み物を欲している客人がいないかも気を配り、出来上がったばかりの肉料理を運ぶ。
手慣れた様子に、スージーは「助かるわ」と裏手で声をかけてくれた。
「あなた手際がいいわね。このままここで働いたら?メイド長さえ味方につければ、旦那様も気に入ってくれるわよ」
「ううん。あたしは別に仕事もあるから」
「そう?残念だわ」
スージーは本当に残念そうに顔を曇らせながら、調理場へ入る。
そこかしこに白い制服を着たコックが走り回り、汗だくになって料理を作っていた。
「そこ、冷めちまうから早く持って行ってくれ!」
コックのひとりが怒鳴る。暖かいスープが出来上がったところだった。調理台に置かれた銀色のつぼ型鍋からは、ゆらゆらと湯気が立ちのぼっている。
「これは重たいし慣れてないと大変だから、私が持っていくわね」
スージーが手を伸ばした。
「リリはそっちのサラダをお願い」
「ええ」
リリは言われた通り、ガラス製のボウルに美しく盛り付けられたサラダの大皿を手に取った。これはこれでとても重量がある。
「さ、戻りましょ」
スージーは銀の鍋を零さないように注意しながらよたよたとパーティーホールへ戻る。
ホールには酔っぱらった客人もいて悪気なくよろけてくるものだから、それを避けるのは大変なことだった。こちらに非はなくとも、あちらには身分がある。
スージーとリリは身体を反らせたり、向きを変えたりしながら人々の間を通り抜けた。と、そこに溢れている数十の会話から、リリは知っている声を聞き分けた。間違えるはずもないそれは、心地よく穏やかで、切ないほど優しかった。
「ちゃんと食べないとダメだよ、ミリア」
慈愛のこもったリュカの声に、リリの胸は簡単に痛んだ。
すぐそこのテーブルの脇で、リュカとミリアが見つめ合っている。ミリアの持っている皿には、ビーンズと小さな丸いパンしか乗っていなかった。
「これじゃ足りないだろ。肉料理も食べるんだ」
諭すように言いながら、リュカは料理をとりわけている。しかしミリアは物憂げだ。今日は前とは違ったドレスを身に着けていた。薄桃のレースが幾重にも重なった花のようなドレスは、琥珀色のミリアの肌を守るように巻き付いているのに、細い肩と鎖骨は外気にさらされたままだった。
くるりと巻かれた髪のひと房が、うつむき加減の横顔にはらりと落ちる。
「食欲がないの」
伏せるように下ろされた睫毛の長さに、リリは見惚れる。
綺麗な子。
リュカと並べば、それは一層際立った。天使を象った彫刻のようなふたりを前に、リリはせっかくヘンリーと立てていた計画を思い出せなくなった。
リュカの記憶を揺さぶるために、ハイルと話しかけてみようとか、薬草の名前を言ってみようとか、なんなら記憶を失った時と同じ衝撃を与えられないかなんてことも、話していたのだ。でも、あまりにもミリアに優しいリュカを前に、リリの足はそこに根が生えたみたいに動かなくなった。
その時だった。
「よい、しょ」
スージーが、ミリアのそばのテーブルで、熱い鍋のスープをテーブルにおろそうと持ち上げていた。その背後によたよたした足取りの紳士が後ろむきで近づいていることなんて気づかないまま。彼は相手との話に夢中で、スージーが目に入っていない。背を向けているスージーも、また。
危ない。
リリがそう思った瞬間には遅かった。
「きゃっ」
「うわ」
よろけた紳士にぶつかられ、スージーが体勢を崩す。必然的に、スージーの持っていた鍋も揺れ、中のスープが溢れ出てくる。その矛先は——ミリアだった。
「ダメ!」
リリは咄嗟にサラダ皿を放り出して、腕を伸ばした。庇うようにミリアの前に出る。次の瞬間、ばしゃりと中のスープが飛び散って、リリの腕と肩にかかった。その熱さに一瞬頭が真っ白になる。
「……っ」
がらんがらん、と鈍い音を立てて銀の鍋が床に転がった。
スージーが悲鳴をあげて、口元に両手をあてる。大丈夫、と言おうとして、リリは固まった。スープがかかっていない方の腕を強く掴まれる。知っている体温、懐かしい感触。そして。
「リリ‼」
ちょっと前までは、もう二度と呼んで貰えることがないと思っていた——。
「ハイ、ル」
思い出してくれたの
期待に胸を膨らませたリリはハイルに夢中で、青ざめたミリアの視線に気づくことが出来なかった。




