11.薬師だった
数ヶ月後には、ミリアの献身的な看護の甲斐もあり、リュカの怪我はすっかり良くなっていた。杖もなく歩けるようになり、全身に負っていた擦り傷は跡すら残っていない。肉体的には健康そのものだった。
ただ、記憶だけは少しも戻ることはなかった。
どんな本を読んでも、絵を見ても、使用人の誰と話してみてもこれといって感じるものはない。自分は誰だったのか、何をしていたのか、家族はいたのか、どうして崖から落ちたのか、どこへ向う——或いは帰るつもりだったのか。なにも思い出せない。もしも、ずっとこのままだったら——。
顔を曇らせ不安気に瞳を揺らすリュカに、ミリアはそっと声をかけるだけだった。
「大丈夫。きっとそのうち思い出せますわ」
大丈夫。
その、なんの根拠もない言葉に、けれどリュカは安堵した。張りつめていた心が解れ、ゆっくりと呼吸が出来た。
(少しずつでもいい。思い出そう)
農夫だったのか。物売りだったのか、あるいは粉ひきだったのか。
自分が何者だったかはまだ分からないけれど、全てを思い出して優しいミリアに恩を返したい。いつまでもミリアの優しさにあぐらをかいているわけにはいかないと。
しかし問題は、リュカの記憶以外にもあった。
ミリアもジーンもリュカにとても親切にしてくれたけれど、その家族までそうだとは限らなかったのだ。特に家長であるミリアの父はリュカの存在に難色を示している。得体も知れぬ男が上がり込んでいるのだから無理もない話だ。それでも可愛いひとり娘が「放っておけない」と懇願するものだからミリアの父はこれも慈善活動と口を閉ざしていた。
だがリュカが回復したと知り彼もようやく重い腰をあげる。
ある夜、喉が渇いて目覚めたリュカは、伯爵家の一室でミリアが言い争うのを聞いた。ミリアが声を荒げるなど珍しく、リュカはその方角へそろりと足を向けた。
固く閉ざされた扉に耳を当て、リュカはくぐもったミリアと、それに呼応する男性の声を聴いた。
「嫌ですわ」
「ミリア」
困ったようにミリアの名を呟いた低い声は、ミリアの父クーシャン伯爵のそれだった。リュカはまだ彼とは口も利いたことがないが、何度か姿を目にしたことはある。しわがれた声が響いた。
「彼の当面の生活費は保証する。仕事も街に用意した。だから」
言い聞かせるように言った伯爵に、ミリアは泣き出しそうな声をあげていた。
「お父様、まだ彼は記憶が戻っていないのですよ。知らない街で知らない人の中に放り込むなんて私にはできません」
「だが、いつまでもここに住まわせるわけにはいかないだろう。若い男と一緒にいると知られただけで、お前の名前にも傷がつくんだぞ」
「困っている方を見捨てるくらいなら、名前に傷がついた方がましですわ」
「ミリア」
最後の声は、伯爵よりも若い男性のものだった。ミリアの兄だろう。漏れ聞こえてくる家族の不和に、リュカの胃がきしむ。自分を助けたせいで、ミリアが困るなんて。
ミリアの兄が言った。
「これはお前だけの問題じゃない。醜聞はハイネ家全体にふりかかる」
「……結局は家が大事なのですね」
「当たり前だ。私たちがどれだけの領民を抱えていると思っている。引きこもってばかりのお前にはわからないだろう、が……」
そこでミリアの兄は言葉を止めた。言い過ぎたと思ったのだろうか。数秒のち、決まりが悪そうに続ける。
「とにかく、彼には出て行ってもらう」
「お兄様」
「いいな」
リュカはそこで扉から離れた。
自分はミリアの荷物になっている。このまま伯爵の言う通り彼女から離れるべきなのだろう。伯爵は、縁もゆかりもない自分をここまで助けてくれた。それだけでも十分有り難いことなのだ。ミリアへの恩は働きながら返していこう——そう思った瞬間だった。
「ミリア……っ!」
ミリアの兄の叫び声があがった。
続いて、伯爵の声も。
「ミリア、ミリア……っ‼」
名を連呼する伯爵の声に、扉を開けようとリュカは手を伸ばした。と、重厚な扉が軋みながら開く。中からミリアと同じ薄茶の髪をした男が現れ、廊下にたたずんでいたリュカを見て表情を険しくした。
「貴様のせいだ」
「……ミリア様は」
「倒れた。すぐにジーンを呼んで来い。持病の発作だろう」
発作。
リュカははっと室内を窺う。薄暗い部屋の奥に、倒れたミリアと彼女を抱きかかえる伯爵の姿があった。
「ミリア……っ」
駆け出したリュカは、膝をついてミリアを覗き込んだ。
苦し気に眉根を寄せ、胸元を握りしめている。
「これは」
伯爵は苦しむ娘を見つめながら言った。
「この頃は落ち着いていたんだが……興奮するとめまいを起こして倒れるんだ」
「僕の、せいですか」
そう呟いたリュカに、伯爵は否定も肯定もしなかった。そんなことよりも、ミリアの身を案じている。
「すまないが、ジーンを呼んできてくれないか」
「ジーンさんを呼んで来たら治るんですか」
「いや」
伯爵はリュカを責めるでもなく、娘の肩を抱きなおす。ミリアの額にはじんわりと汗が浮かんでいた。
「発作を止める薬がある」
「なんの薬ですか。材料は?めまいの頻度は?」
「材料はよくわからないが、めまいは酷い時は数日に一度はあった。薬は、主治医が処方したものだ」
「見せていただけませんか。僕は薬には詳しいんです」
リュカは咄嗟に口をついていた。伯爵はさすがにいぶかしむ。
「……君は記憶がないのでは」
「薬師だったという記憶は残っています」
自分でも驚くほどあっさりと断言していた。
口にしてしまえば、知識は後から後から溢れ出た。効能と薬効とをすらすらと説明し、それが合っているという確信も持てた。
ジーンからミリアの薬を受け取った後も、その粉薬のにおいを嗅いだだけで成分が理解できた。それよりももっと効く薬があるとも。
その処方には主治医の協力を仰がねばならなかったが、リュカの確かな技術によって精製された薬はミリアの身体に良く効いた。
翌日の朝には、土気色をしていたミリアの顔に赤みがまし、呼吸も落ち着いた。
その姿に、伯爵もミリアの兄もほっと肩を撫で下ろし、リュカも嬉しくてたまらなくなった。ミリアの役に立てたと。リュカはその時からミリアの専属の薬師となったのだった。




