10.忘れよう
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リュカは夜会が苦手だった。
天井から吊り下げられた豪奢なシャンデリアも、着飾った人の波も、決まりきった挨拶も、どれもこれも何度体験しても慣れることはなく、終わった後は気疲れするばかりで。今夜もミリアの付き人として出席していたリュカは時計の針が早く進むことばかりを望んでいた。
所詮リュカは使用人だ、いてもいなくても大した差支えはない。挨拶に回ってくる人間が関わりたいのはミリアであって、リュカではないのだ。今夜は侍女のジーンもついていて、ミリアも珍しく楽しげに他所の人間と会話をしていた。少しくらい抜けても大丈夫だろう。そう思ったリュカは、ジーンに耳打ちして、夜の庭園に出た。会場の熱気に当てられた身体を冷やしたかった。けれど。
(外になんか出るんじゃなかった)
パーティー会場に戻ったリュカは、陰鬱な思いを振り払おうと給仕の盆から新しいグラスを取った。ミリアにはアルコール度数の低い酒を選んでやって手渡す。
「ありがとうございます、リュカ」
可憐に微笑んだミリアににこりと笑って、リュカもグラスを傾ける。心中は、あの村娘のことでいっぱいだった。
焦げ茶の長い髪に、化粧っ気はないが愛らしい顔をした娘。そういえば名前も聞いていなかった。いや聞かない方がいい。必要もない。情が湧く前に関わりを絶つべきだとリュカの本能が警告する。それでも、娘の声が耳から離れてくれない。
(“ハイル”)
それが自分の本当の名なのか。
結婚までしていた事実には驚きを通り越して、もはや他人事としか思えなかった。
(忘れよう)
リュカは村娘の顔を振り払おうと、酒を飲みほした。
*
リュカには二年前からの記憶がない。
気が付けばリュカは清潔で暖かいふかふかのベッドに横たわっていた。意識は朦朧としていて、視界に入ってきた細かな装飾の天井も、すぐそばで椅子に座り本を読んでいる娘も、どこか現実的ではなかった。(これはあとで聞いた話だが、その時は手術のために神経毒を使用されていたそうだ。)
どうやらリュカは崖から転落したらしく、右の脚は折れまがり、全身には打撲と裂傷の跡があり、額からは血が滴っていたそうだ。
幸い崖下は川で、浅瀬に倒れていたリュカを散歩していたミリアとジーンが偶然見つけてくれた。血を流し、意識を失った彼をふたりは最初死体だと思ったそうだが、近寄るとその体は冷えているものの、まだ微かに息があったという。ミリアは大急ぎで助けを呼ぶようにジーンに命令し、自分はリュカの体の具合を見た。
その様子にもう無理かもしれない。とミリアは思ったという。どす黒く流れた血は固まり、いくら呼びかけても、その身体を揺すっても、リュカは目覚めなかったから、と。
しかしリュカは、奇跡的に命を取り留めた。
けれど、意識を取り戻したリュカには記憶がなかった。
自分が誰かも、どこから来て、何をしていたのかもさっぱりと思い出せなかった。
歯を磨いたり、着替えたり、ナイフとフォークの使い方を覚えていたこと、それからミリア達と言語が同じだったことだけが救いだった。
「事故のショックで、記憶が抜け落ちてしまっているのでしょう。時間が経てば元に戻ると思うのですが。それがいつか、または確実に戻るともわかりません」
医師の説明にも、リュカは微妙な反応しか返せなかった。
記憶がないために、どうしても自分のことだとは思えなかったのだ。
一番困ったのは、これからの生活だった。
親切心でミリアに助けられはしたものの、リュカには己の身体意外何ひとつ所持品がなかった。財布もなかった事から、おそらく他に持っていたであろう荷物は転落した際に川に流れてしまったのだろうと思われた。治療費を返す当てもなく、ミリアの好意と優しさに甘える他なかった。
毎日献身的に介護をしてくれるミリアに、リュカは頭があがらない。
「本当にすみません、ご迷惑をおかけして」
「いいえ」
ミリアが優しくかぶりを振ると、両肩に垂れた薄茶の髪が揺れた。
「困った時はお互い様ですわ」
ミリアはハイネ伯爵家の娘だった。
小柄で、ほっそりとしたミリアはいかにも大切に大切に育てられた貴族の姫君そのものだった。ゆっくりとした話し方も、ティーカップを持ち上げる仕草もそのひとつひとつが洗練されていた。全ては侍女兼教育係のジーンの指導によるものだろう。
十四になったというミリアは、本来ならそろそろ社交界へデビューをするべきだそうだが、しかし彼女は家に引きこもってばかりだった。それと言うのもミリアの身体に原因があった。ミリアは生まれついての虚弱体質で、ちょっとの運動でひどく体力を消耗してしまい、季節の変わり目には必ず体調を崩すのだと言う。内気な性格も相まり、ミリアは社交に関して憂鬱な想いを抱えていた。
「この頃はお父様もお兄様も、早く結婚相手を決めなければって、そればっかりなの」
ある日、ミリアはリュカの世話を焼きながらそう言った。ジーンも一緒になって頷く。
「お嬢様にはまだお早いですわ。急いでお相手を見つけて、しようもない殿方にでも嫁いでしまったらそれこそ取り返しがつかなくなると申しますのに。こういった事は、慎重にことを運ばなくては」
「ジーンからも言ってちょうだいな」
ミリアは侍女のジーンとは仲が良いらしく、よく二人でお喋りをしていた。リュカはそんな二人の会話を相槌を打ちながら聞いていた。
記憶を失ったリュカに、この“リュカ”という名前をくれたのもミリアだった。
彼女の好きな小説に出てくるヒーローから取ってくれたらしい。ミリアは大変な読書家だった。身体が弱く、幼い頃から室内でばかり過ごしてきたミリアにとって本は一番の友達だったのだ。
「本は良いわ。特に物語が好き。知らない世界に連れて行ってくれますもの」
「僕も本は好きですよ」
そう言ったリュカに、ミリアは色んな本を貸してくれた。オススメの恋愛小説から、冒険物語、ミステリーまで多種多様に。ベッドの中は暇でしょうと、毎日読み切れないほど本を持ってきてくれた。
ある日、リュカはミリアに尋ねた。
「ミリア様は、どうして縁もゆかりもない僕にそんなに親切にしてくれるんですか」
本から顔をあげて、ミリアは言った。
「たぶん必死だったんですわ。血まみれのあなたを見たとき、恐怖心よりも先に“助けなくちゃ”って気持ちが湧いたの。知らない人だとか考える余裕もないくらいに」
それからはこの人が助かりますようにと祈ってばかりだったと言う。
「それだけですわ」
ミリアが笑うと、辺りの空気まで緩むようだった。リュカはこの心優しい娘に感謝し、この恩をどうにかして返したいと強く思うようになっていった。




