8.空気
葛西先生は静かに言った。
「雨宮小春さん」
「僕と一緒に、裏でやらないか」
裏医者。
芸能界。
心を壊した人間の、受け皿。
全部、遠い世界の話みたい。
でもさっきまで、すぐ隣に“その世界の人”がいた。
私は、何も言えずに黙り込んだ。
期待されるのが、怖かった。
役割を与えられるのが、怖かった。
何より、「やれるかもしれない」と思ってしまった自分が、怖かった。
それを察したのか、葛西先生は無理に言葉を重ねなかった。
「すぐに決めなくていいよ」
「一旦、持ち帰って考えて」
椅子から立ち上がりながら、
去り際に、ふと思い出したように言う。
「今日はね」
「君たち二人の“異質さ”の解明について、やっと、光が見えた気がする。僕自身も、少し整理してみるよ」
その言葉は、励ましというより、研究者の独り言みたいだった。
診察室を出て、夜の街に出る。
駅へ向かう道で、乙葉がいきなり明るい声を出した。
「すごいじゃん、小春!」
「芸能界の裏のヒーロー的ポジションじゃん! 私だったら即やるけどなー! かっこいいもん」
私は、少しだけ考えてから答えた。
「……そんな期待されるようなものじゃないと思う」
「多分、迷惑もかけるし、向いてないと思う」
乙葉は肩をすくめた。
「真逆だねー、ほんと」
「でもさ、向いてるかどうかより、“必要とされるかどうか”じゃない? 小春を必要としてる人がたくさんいるかもしれないんだよ」
そう言いながら、乙葉は私の顔をニヤニヤした目で見てきた。
「向いてないとか言いながら、どこかでやってみたい、私ならできるかもとかも思ってるでしょ?」
「え? ……そんなことないよ」
「生まれてからずっと一緒にいる私の目は誤魔化せないよ。今の小春、すごい生き生きした良い顔してる」
カシャッ!
そう言いながら乙葉は、スマホを取り出して私の顔の写真を撮った。
「え、やめてよ」
乙葉のスマホを奪い取ろうとするけれど、私よりも身長も手足も長い乙葉からスマホを奪い取ることは困難だ。
「大丈夫。誰にも見せないし。誰かに見せたいくらい良い顔してるけど」
スマホの画面を見ながら乙葉は言う。
「……誰にも見せないとかそういう問題でもないし、デバイスに残ってるのが嫌。……使い道も何もないんだから、残ってても容量食うだけだよ」
「別に使い道とか考えてなかったけど、使ってほしいなら待ち受けとかにしちゃおっかな」
「え、本当にやめて」
私は久しぶりに乙葉に対して殺気を放った。
「やだねーw 私に追いつけたら消すよー。よーい、どん!」
そう言いながら駅まで、全速力で走り出す乙葉。
「もう」
追いつけるはずもないが、渋々追いかける私。
久しぶりに全速力で走った。
夜の静けさの中での二人きりの空間はこの世界に二人しかいないみたいに思わされる。
あまり最近は話してこなかったけれど、根本は変わっていない。
心のどこかで、いつからか乙葉とは住む世界が違ったように感じられていたけど、今この瞬間は同じ世界線で、同じ時を刻んでいることを感じられて少し嬉しかった。
夜の街灯の光に落ちた女子高生二人の影は、時間を巻き戻したみたいに幼く見えた。
―――翌日。
学校。
いつも通り、私は下を向いて席に着く。
でも、今日は少しだけ、視線を上げた。
誰とも話していないのに、
誰とも関わっていないのに。
このクラスの全員の顔と、フルネーム。
なんとなくの関係性。
誰と誰が仲が良くて、
今どこが冷えているのか。
全部、わかる。
ここ、空気悪いな。
喧嘩したのかな。
この人、あの人のこと好きだな。
考えたくなくても、勝手に入ってくる。
人間観察するつもりはないけれど、一人一人の感情を読み取ってしまう。
気持ち悪い能力だ、と思う。
最近、特に気になっているのは、野球部のエース、田口くん。
明るくて、爽やかで、モテるタイプ。
中学から一緒で、中学2年の時は同じクラスにもなったことがあるけれど接点は一切ない。向こうに私の存在が知られてるのかわからないレベルだ。
乙葉と田口くんは仲が良いから、乙葉の片割れ的な薄い存在感は持ってるかもしれない。
乙葉自体、誰とでも仲良い感じだけど、夕食の時の他愛もない会話で、乙葉から名前が出る数人のうちの1人だったし、家にも数人グループで遊びに来ていたこともある。
ただの友達でしかなかったみたいだけれど、遊びに来た数回は、毎回それなりの手土産を持ってきてくれていて、私も美味しく頂いてたし、私たちの両親からの好感度も高い。
何も関わりがないのに、私だけが知ってるのって向こうからしたら、すごい気持ち悪いだろうなと思うけど、乙葉からの話を聞いて、私の中での大まかな人間像は出来上がっている。
爽やかで明るい好青年。
私の対極にいる1番苦手なタイプ。
なのに最近、元気がない。
授業中も、昼休みも、机に突っ伏していることが多い。
――絶対、近くの席になりたくない。
私の近くに来たら、本当に学校に来なくなるかもしれない。
私は、根っから明るい人が苦手だ。
乙葉以外は。
相手の立場からしたら、私は毒だと思うから。
だから、避けている。
でも。
そう思えば思うほど、不思議と席が近くなるのが、私だった。
考えないようにしていた、そのとき。
数学ノートの返却。
なぜか、私の机の上に、田口くんのノートが置かれていた。
……間違えたんだ。
返さなきゃ。
田口くんは、相変わらず机に突っ伏している。
キンコンカンコーン。
「席についてー。授業始めるよー」
化学の先生が教室に入ってきた。
返すなら昼休みしかない。
いろんな状況に応じれるように脳内シミュレーションを念入りに行った。
最近、田口くんは全く席から離れない。席を離れたタイミングを狙いたいけれど、今日も席を立つ雰囲気を微塵も感じ取れなかった。
昼休み。
このタイミングしかない。
起こさないようにそっと置こう。
私は、机の端を狙って、そっとノートを置いた。
ノートの角が、ほんの少しだけ、田口くんの腕に当たった。
「……ん?」
顔が上がる。
やばい。
逃げようとしたけど、遅かった。
「あ、数学ノートか、ありがとう」
短く、穏やかな声。私の顔をまっすぐ見て言った。
私は、ぺこっと頭を下げただけ。
人の人生、特に、明るい人の人生にはあんまり、私は関わりたくない。相手の人生に迷惑をかけないためにも、自分が傷つかないためにも。
私は、変なくらい下を向いたまま、そそくさと退散した。




