6.ブラックホール
今日も診断の日だった。
「私も行くー!」
玄関でそう言って、乙葉が当たり前みたいに靴を履いた。
ここ最近、母の代わりに乙葉が付き添うのが自然になっていた。葛西先生(お医者さん)も「二人とも興味深すぎるから、ぜひ一緒に来て」と言っていたし、たぶんこれからも月に一度、この診断室へは双子で通うことになるのだと思う。
乙葉と二人きりで過ごす時間はこの行き帰りくらいしかない。
同じ家に住んで、同じ高校に通っているのに、それ以外の時間はほとんど交わらない。
それなのに。
乙葉は、私にとってこの世界で唯一、心を許せる人と言ってもいい存在だった。
性格も、立場も、放つ空気も真逆なのに、隣を歩いていると変な安心感がある。
何をしても、どんな状態でも、縁が切れないと分かっている感覚。
私は誰に対しても「嫌われるだろうな」という不安を無意識に抱えているけれど、乙葉に対してだけはそれを感じない。
血が繋がっているから、という理由もあるのかもしれないけれど、乙葉は、私をどう扱えばいいかを考えなくてもいい相手だった。
乙葉が言っていた誰にも本当に興味がないのが、私にとっての居心地の良い理由なのかもしれない。乙葉には何を言っても、なんとも思われないだろうな、受け入れてくれるだろうなという安心感がある。私を変な人ではなく、みんなと同じ一個人として平等に見てくれる空気が私を楽にしてくれる。
私が暗いことで悩んでるのも、ふーんとしか思ってなさそうなとこもありがたい。昔から私は、両親も含めて、おとなしすぎて周りから特別扱いをされることが多かった。
「小春ちゃん楽しめてた?」
「雨宮さんが困ってるだろー」
みんな悪気がないのは分かっていた。
心配してくれているのも、優しさなのも、ちゃんと伝わってくる。
でも、そんなふうに気を遣われるたびに、胸の奥がきゅっと縮む。
私にそんなに構わなくていい。
気を遣わせてしまうこと自体が、もう申し訳なかった。
「小春、先行ってるねー」
「小春、何してんの?」
乙葉の声は、少し雑で、距離が近い。
でも、その“雑さ”が、私にはちょうどよかった。
過剰に気を遣われることも、腫れ物みたいに扱われることもない。
ただ、そこにいる前提で声をかけてくれる。
乙葉と一緒にいる時間は、すごく楽だった。
きっと乙葉は意識していない。
これは天性のものなんだと思う。
もし乙葉がいなかったら、私は本当にこの世界で一人きりだと感じていたかもしれない。
乙葉と特別仲がいいわけではない。むしろぎこちない関係ではあるけど、乙葉の存在は私を少しだけ救ってくれている。
でも、それは同時に、重たい事実でもあった。
幼い頃、
「小春を置いていかないであげて」
「小春は乙葉がいないとダメなんだから」
そんなふうに両親に言われて、私は無理やり乙葉のそばに連れて行かれていた。
乙葉からすれば、きっと面倒だったと思う。
わがままだし、空気も読めないし、話さないし。
私自身もその状況が辛かったし、めんどくさかった。
乙葉の仲良くなるスピードや、輪の広げ方は、私とはまるで違う。
乙葉のグループに混ざっても、楽しいと思えたことはあまりない。
笑っているつもりでも、どこか浮いている。
何かを言えば空気が止まる気がして、結局黙る。
周りの子も、
「私がいないほうがやりやすいだろうな」
そんなことばかり考えていた。
たぶん私は、幼少期からずっと、
自分がいるだけで場の空気を少しずつ重くしてきたんだと思う。
だから、乙葉の隣に立つたび、
救われているのと同時に、
申し訳なさも、自己嫌悪も、ずっと消えなかった。
電車の中、座席に並んで揺られながら、乙葉がふっと言った。
「ねえ、小春。この診断室への行き帰りさ、唯一自分が“自分に戻れてる感じ”するんだよね。なんかリフレッシュになる」
人気者にも、きっと人気者なりの疲れがあるんだろう。
私はその言葉を聞いて、少しだけ乙葉の背中が重く見えた。
診断室では、いつも通りの流れだった。
波形は改善なし。
数値は相変わらず異常。
良くなっている兆候は見られない。
私は慣れていた。
期待しなくなってから、こういう結果にも動揺しなくなった。
カウンセリングの途中、扉が勢いよく開いた。
「葛西先生! 急用です!」
看護助手の女性が、切羽詰まった声でそう言った。
連れられて入ってきたのは、顔色の悪い若い男性だった。
足取りはふらふらで、今にも倒れそうだった。
「……あー、高橋くんか。こっち、腰掛けて」
葛西先生は慣れた様子でベッドへ誘導し、男性を横にさせた。
乙葉が目を見開く。
「あれ? なんか見たことある……高橋涼じゃない?」
「え?」
私も名前を聞いて、やっと気づいた。
「高橋涼って……あのCrown&Knightの?」
現役で飛ぶ鳥落とす勢いの人気アイドル。
テレビやポスターで見る姿とはあまりに違っていて、一瞬同一人物だと認識できなかった。
「大丈夫だから。ゆっくり深呼吸しよう」
葛西先生の声に促され、高橋涼は浅かった呼吸を少しずつ整えていく。
「二人とも、口外しないでね」
私と乙葉は、同時に頷いた。
「昨日、音楽番組出てたよね?」
乙葉が小声で私に聞く。
「……私は見てない」
少し落ち着いたのか、高橋涼はベッドから起き上がり、腰掛けた。
「すみません……恥ずかしいとこ見せちゃって」
顔色は悪いままだったけれど、無理に作った笑顔を浮かべていた。
葛西先生が言う。
「正直、活動休止したほうがいいと思うよ」
その時だった。
高橋涼の視線が、私に向いた。
じっと、まっすぐ、逸らさずに。
「……?」
私は耐えきれなくなって、視線を床に落とした。
イケメンとか以前に、誰かにじっと見られること自体が苦手だった。
「……なんか」
高橋涼が、ぽつりと呟いた。
「ここ、落ち着く」
え?
「さっきまで、頭の中ぐちゃぐちゃだったのに……今、静か」
私は何もしていない。
何も言っていない。
ただ、そこに座っていただけなのに。
「……不思議だな」
そう言って、彼はゆっくりと目を閉じた。
診察室に、静けさが落ちる。
その瞬間、胸の奥に、ひやりとしたものが流れ込んできた。
重たい、というほどじゃない。
水の中に指を入れたときの、あの感覚に近い。
――入ってきた。
そう分かるのに、押し潰される感じはなかった。
少しだけ、呼吸が浅くなる。
でも、意識が揺らぐほどじゃない。
私は無意識に、肩の力を抜いた。
そうすると、その違和感は、すっと奥に沈んでいった。
葛西先生は、その一連を、何も言わずに見ていた。
高橋涼の顔色を確認し、脈を測り、呼吸のリズムを見る。
それから、もう一度、私の方へ視線を向けた。
「……さっきより、落ち着いてるね」
高橋涼は、小さく頷いた。
「さっきまで、胸の奥がざわざわしてたんですけど……今は、静かです」
葛西先生は、メモに何かを書き込む。
「気分が変わったきっかけ、思い当たる?」
「……特に」
高橋涼は首を振ったあと、ちらっと私を見た。
「ただ……この人の近くにいると、変な感じがする」
私はびくっとした。
葛西先生のペンが、ぴたりと止まる。
「変な感じ?」
「悪い意味じゃなくて。
なんていうか……頭の中の音が、小さくなる」
葛西先生は、その言葉を噛みしめるように、少し黙った。
それから、さりげない口調で私に聞く。
「小春さん、今、体調は?」
「……少し、空気が冷たい感じがします」
正直な感想だった。
重くはない。
苦しくもない。
ただ、何かが触れている感覚。
葛西先生は、すぐには何も言わなかった。
視線を逸らし、思考を整理するように天井を見上げる。
それから、ベッドのそばをゆっくり歩きながら、独り言のように呟いた。
「侵食型は、基本的に“周囲を下げる”」
「でも、これは……下げてない」
「むしろ、一部だけが、どこかに移動してる感じだな」
乙葉が、小声で私に聞く。
「小春、なんかした?」
「……何も」
それは本当だった。
葛西先生は、ようやくこちらを向いた。
「小春さん」
「さっき、ほんの一瞬だけ、何か来た感覚はあった?」
私は少し考えてから、頷いた。
「あります。でも……そんなに重くはないです」
その答えを聞いて、葛西先生の表情が、ほんのわずかに変わった。
驚きでも、喜びでもない。
“辻褄が合った”という顔だった。
「……なるほど」
葛西先生は、椅子に腰掛ける。
「これはまだ仮説だけど」
前置きをしてから、続けた。
「雨宮小春さん。
君は、人の闇を“吸っている”可能性がある」
断定はしない。
でも、軽くもない。
「消してるわけじゃない。
抱え込んで潰れてるわけでもない」
「引き受けて、奥に沈めている」
葛西先生は、少し間を置いて、例え話をした。
「ブラックホールってさ」
「強い重力を持っていて、
壊れかけた星や、行き場を失ったものを引き寄せる」
「自分は何も光らない。
でも、その存在があるだけで、周囲の動きが変わる」
私は、黙って聞いていた。
「君は、たぶんそれに近い」
「だから、病みきっている人。
どん底にいる人。
壊れかけている人。
心が空洞になっている人にとっては――」
葛西先生は、慎重に言葉を選ぶ。
「薬になる可能性があるのかもしれない」
その言葉は、胸に落ちた。
強くもなく、軽くもなく。
ただ、確かにそこに残る重さだった。
私は、ずっと自分の存在意義を見失っていた。
私は、ぎゅっと手を握った。
怖かった。
でも、それ以上に。
胸の奥で、今まで感じたことのない感覚が、かすかに灯っていた。
――私にも、意味があるのかもしれない。
光にはなれなくても。
誰かの闇が、逃げ込める場所にはなれるかもしれない。
それは、初めて外側から与えられた、
私の“存在の輪郭”だった。




