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ネガティブプレゼンス  作者: 鈴蘭かな


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4/11

4.同じ家に生まれた他人

 雨宮乙葉は、自分が冷たい人間だと知っている。


 優しくないわけではない。

 意地悪でもない。

 

 ただ、どうでもいいのだ。

 人が。

 

 朝、教室のドアを開ける。


「おはよー!」


 自分でもよく通ると思う声で笑って、手を振る。


「おはよー、乙葉!」


 いくつもの声が返ってくる。


 その瞬間、乙葉は思う。


 誰だっけ。


 顔は知っている。

 たぶん昨日も話した。

 でも、名前と性格と悩みと好きなものは、全部曖昧だ。


 覚えようとしたことがない。


 クラスの誰が失恋したとか、

 家庭が複雑だとか、

 誰が仲良いとか、誰が喧嘩してるとか、

 SNSで病んでいるとか。


 全部、「そうなんだ」で終わる。


 胸は何も動かない。


 なのに、自分は人気者だ。


 明るくて、話しやすくて、性格がいいらしい。


 理由は単純だった。


 期待しない。

 踏み込まない。

 覚えない。

 背負わない。


 誰の人生にも、入り込まない。


 だから、壊さない。


 小春は正反対だった。


 姉は、人を見すぎる。


 クラスの端の席の、声の小さい女子。

 体育の後、いつも一人で座っている男子。

 廊下ですれ違う時に目を逸らした子。


 全部、覚えている。


「あの子、今日声元気なかったよね」

「昨日、靴下左右違ってたよ」

「たぶん、家で何かあったんだと思う」


 どうでもいい細部を、どうでもよくなさそうに拾う。


 乙葉からすれば異常だった。

 そんなこと、気にしてどうするのだろう。

 本人が言わないなら、知らなくていいのに。


「……疲れない?」

と聞いたことがある。


 小春は困った顔で、

「勝手に考えちゃう」

 と言った。


それがもう、乙葉には理解できなかった。


 小春は、人の表情を見る。

 声色を聞く。

 間の取り方を分析する。

 一言一言の裏を読む。


「今の言い方、傷つけたかも」

「嫌われたかも」

「変に思われたかも」


 と、勝手に怯える。


 ある日、帰り道で小春が言った。


「今日、私のせいでクラスの空気悪くなった気がする」


「誰もそんなの気にしてないよ」


 そう言うと、


「でも……私がいると、静かになるから」

と小春は俯いた。


 乙葉は内心思った。


――それ、気のせい。

 世界はそんなにお前を中心に回ってない。


 でも、それは言わなかった。


 小春のことを、暗いと思ったことはある。


 無口で、反応が遅くて、目線が下がりがちで。


 でも嫌いではなかった。


 むしろ落ち着く。


 自分が無理に明るくならなくていい相手。


 沈黙が気まずくならない存在。


 乙葉にとって小春は、


「扱いやすい人」だった。


 そして同時に、


「損な生き物」でもあった。


 夜の電車は空いていた。


 白い蛍光灯。

 外はポツリポツリと小さな家屋の明かりが星のように灯っている。


 二人並んで座っているのに、距離は遠い。


 乙葉はスマホも見ず、前を見つめていた。


 小春は窓に映る自分の顔を見ていた。


「……ねえ」


 乙葉が言う。


「小春さ、前から思ってたんだけど、他人に興味持ちすぎ。そんなに他人に興味を持たなくてもいいし、他人も小春を見てないよ」


 小春が少しだけ瞬きをする。


「そうかな」


「うん。ありえないくらい」


 乙葉は淡々と続けた。


「私なんて、ほんとに何も感じないよ」


「誰が落ち込んでも、死にたいって言ってても、へー、で終わり。」


小春の指が膝の上で強く絡まる。


「みんなには性格いいって思われてるけど、それは優しいからじゃない、空っぽだから。期待しないし、傷つかないし、怒らない。だから笑えるだけ」


 電車の揺れだけが音を立てる。


「小春はさ、人の人生に入り込みすぎ。他人の地獄を、自分の部屋に運び込むタイプ」


 小春は俯いた。


「……でも、勝手に考えちゃう。考えないと、不安で」


 乙葉はため息をついた。

 しばらく沈黙してから、ぽつりと付け足す。


「……でも、小春は勘違いされてるとも思う」


 小春が顔を上げる。


「暗いとか、怖いとか、空気悪くするとか。そんなの、ただの誤解。人のこと考えすぎなだけなのにね。優しすぎるだけ」


 乙葉は前を向いたまま言う。


「そこは、ちょっと可哀想」


 小春は何も言えなかった。


 胸の奥が、じんわり痛くなった。


「私はさ」


 乙葉は小さく続ける。


「小春のその部分、羨ましい。私は人間っていうより、装置だから」


「笑う機械、光るだけの存在。今日、診断されてちょっと自分の中にあったモヤモヤに気づいたかも。ついてきてよかった」


 駅を降り、夜道を歩く。


 街灯が二人の影を伸ばす。


 乙葉はまた言った。


「中学の時さ、クラスの子がリスカして入院したの。へーって思っただけ」


「戻ってきた時も普通に“おかえり”って言った。なんなら大丈夫だった?ってすごい心配した。名前ちょっと忘れてたし興味なんてなかったけど、周りから見た私ならこうするだろうなってのもあった」


「周りのみんなは、その子のことをちょっと引いた目で見ててさ。でも私は前と同じテンションで話しかけた。そうすることが一番めんどくさくないし正解っぽかったから。そもそもリスカしようがしまいが私には関係ないし本当に興味がないから引く意味もわからない。私って中身結構腐ってると思う」


 小春は足を止めそうになった。


 乙葉の声は冷たく、平坦で、事務的だった。


 感情の温度がなかった。


「ね、最低でしょ」


「でも本当」


 小春はその横顔を見る。


 同じ家で育った妹なのに、知らない人みたいだった。



家の灯りが見える。


玄関を開ける。


「おかえりー!」

 母の声。


「遅かったな」

 父も顔を出す。


 その瞬間。


 乙葉の表情が切り替わる。


 ぱっと明るく、軽く、完璧な笑顔。


「ただいまー!」


「ねえ聞いて聞いて!今日ね!」


 さっきまでの冷たい声は消えていた。家の空気が一気に温度を上げる。

 

 小春は一歩後ろで靴を脱ぎながら、その背中を見る。

 光の中心。闇の隣。


 同じ家に生まれた、他人。


 乙葉の背中は、玄関の明かりの中でやけに軽く見えた。


 誰にも引っかからず、

 誰の心にも沈まず、

 ただ前だけを向いて歩いていける人の背中。


 乙葉なりの地獄があっても私と比べたら生きやすい人生なんだろうな、と小春は思う。


 乙葉が言った「考えすぎ」は、きっと正しい。


 でもそれは、人気者で、愛されて、光の中に立つ側の言葉だ。


 嫌われ者の立場は違う。


 自分がそこにいるだけで空気が重くなることを、視線が逸れることを、声のトーンが変わることを、小春は何度も経験してきた。


 迷惑をかけているのは分かっている。


 でも謝れない。謝る前に顔がこわばり、相手への申し訳なさからどんどん顔が暗くなっていく。


 感謝したい時も、伝えたいことがある時も、口を開けない。


 ただ真顔で立っているだけ。


 話したい言葉は、いつも喉の奥で溶ける。


 人と関わるたび、脳の中で反省会が始まる。

 あの時の表情。

 あの沈黙。

 あの間。


 全部、自分のせいだと思う。自分のせいで他人を嫌な気持ちにさせる度数が高すぎる。気にしないでいられないレベルだ。


 乙葉には、きっとない。


 誰かの人生を背負う感覚も、

 空気を壊したかもしれないという恐怖も、

 眠れなくなるほどの自己嫌悪も。


 小春は、乙葉の後ろ姿を見つめた。


 光に向かって歩いていく背中。


――羨ましい。


 心の底から、そう思った。


 そして同時に、分かってしまった。


 私たちは、きっと一生分かり合えない。


 同じ日に生まれて、同じ家で育って、


 それでも、まるで違う世界に住んでいる。


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