第九幕 一人目の容疑者は、美しい声
セイレーンと思しき存在と遭遇した後のこと。
四人のすぐ脇で豪奢な馬車が止まる。
馬車の主人が騒ぎを聞きつけたのか、人だかりの理由を尋ねようとしたのか。
ここまでは、あり得そうなことでおかしなことではない。
振り向いたアンジェリーナの前で御者が静かに扉を開けた。
降りてきたのは侍女を従えた美しい女性だった。ラグイアーナ王国の誇る美を凝縮したような、類まれなる美貌。はじめて見る女性の美しさにアンジェリーナは息を呑んだ。女性は華やかなドレスを身につけて、羽飾りのついた目立つ帽子をかぶっている。形のいい、女性の薔薇のような赤い唇が弧を描いた。
「ごきげんよう」
たった一言、それだけなのにアンジェリーナの背筋がぞくりとした。
……うそでしょう。こんな声、聞いたことがないわ。
意識していないと、思考が引きずられてしまいそうなほど美しい声だ。
しかも見事な赤褐色の髪に、意識が奪われるほど美しい声――――まるでセイレーンのような人。
アンジェリーナの隣で、残る三人は呆然と彼女を見つめている。まるで魅入られたようなジルベルトの横顔を見て、アンジェリーナの胸がざわついた。
一瞬ののち、ジルベルトは警戒するようにアンジェリーナを背後にかばった。
「失礼、名前をうかがってもよろしいか?」
警戒しながらもジルベルトの言葉遣いが丁寧なのは、高位貴族の女性と判断したから。女性は男女の取り巻きを引き連れ、装飾品も凝ったものを身につけている。彼女は甘やかに微笑んで、ふたたび美しい声を響かせた。
「エリティア・マリー・ラグイアーナ」
ジルベルトの目が、大きく見開かれる。
「ラグイアーナ王国第一王女殿下」
「そうよ。あなたには愛称であるマリと呼ぶことを許します、ジルベルト……いいえ、ジル」
目の前に、本物の王女様がいる。
しかも私が呼ぶのに時間がかかった愛称を、ためらうことなく呼んでいた。ジルと呼ぶ権利が自分だけのものではない、そのことになぜかアンジェリーナは深く傷ついている。
妖艶でありながら、どこか夢見るような無垢な微笑みを浮かべて第一王女殿下――――エリティアはジルベルトに自身の手を差し出した。
「調べたのよ、あなたは婚約者がいないそうね。ですから私の婚約者候補となる栄誉を与えます」
突然の出来事に、アンジェリーナは言葉を失った。
想定外が起きる嫌な予感、アンジェリーナの経験では嫌な予感ほどよく当たるものだ。セイレーンのように美しい彼女の声が、歌うように言葉をつむぐ。
「取り急ぎ婚約届を用意させたの。結婚式はいつがいいかしら?」
一国の王女によるまさかの婚約宣言。さらに上をいく結婚発言。
エリティアはジルベルトと視線を合わせて微笑んだ。
まるで舞台に立つ女優のように大胆な仕草でエリティアはジルベルトへと手を差し出した。取り巻きは誰一人止めることもなく、ただ彼女の微笑みに見とれている。
何これ、こわい。
アンジェリーナはおののいた。ここにきてようやくジルベルトが動き出す。
「言っている意味がまったく理解できない。これほど異常な状態なのに、周囲の人間が誰も咎めないというのはどういう理屈だ?」
ジルベルトはアンジェリーナのおかげで少々のことでは驚かなくなった自負があったけれど、さすがにこの状況は無理だった。
エリティアは周囲の人間に視線を合わせて、彼らの表情を確認すると微笑んだ。
「あなたが私の隣に立つのがふさわしいと彼らも思っているからよ。あなたの価値は、誰よりも王女であるこの私が理解している」
それではまるで、アンジェリーナでは足りないと言われているみたいだ。まっさらだったアンジェリーナの心の奥に黒いシミのようなものが広がる。
考えるより先に体が動いた。アンジェリーナはジルベルトを守るように一歩前に出るとエリティアの取り巻きがアンジェリーナに鋭い視線を向けた。
人はこわい、こわいけれど……ここで逃げたら守ることなんてできない。
その一心だけでアンジェリーナは前に立って、奥歯をぐっと噛んだ。広げた扇子越しに、値踏みするような王女殿下の視線がアンジェリーナに突き刺さる。
「ああ、そちらが一緒に国を出たという元聖女ね。噂では聞いていたけれど、かわいらしい方だこと」
褒めているようで、褒めていない。この独特の言い回しにアンジェリーナは覚えがあった。
いたなー、セントレア王国でも。遠回しに嫌味を言うご令嬢。彼女達のかわいらしいは「相手にする価値もない」だったか……。
当時のアンジェリーナは淑女の皆様に人気の高いグレアム・べアズリース伯爵子息と無駄に婚約していたから悪目立ちしていた。セントレア王国限定だと思っていたが、こういう言い方をする人は他にもいたようだ。
緊張が高まって誰もが口をつぐむ最中、アンジェリーナは唐突に悪寒を感じた。
悪い意味で慣れているアンジェリーナは、この悪寒が誰によるものかを直感だけで理解する。音がしそうなほど歪な動きで発生源に視線を向けると、秒で視線をそらした。
顔色の悪いアレスティオから、すがるような視線が飛んできたけれど、アンジェリーナは沈痛な面持ちで首を振る。そして口には出さないけれど、心の中でしっかりアレスティオに謝罪する。
ごめんなさい。あれはもう無理、手遅れ。
「――――アンジェリーナを馬鹿にするな」
「えっ?」
アンジェリーナの視線の先でかつてないほどにジルベルトが激怒していた。
想像していなかった展開に、エリティアは小さな声でつぶやくと目を丸くする。ジルベルトが黙っていたのはアンジェリーナを怖がらせない程度に怒りが落ち着くまで抑えていただけだった。
突然噴き出した激しい怒りに、エリティアの護衛や取り巻き達の顔色が一気に青ざめる。
権力では勝っていても、戦闘になれば勝ち目はない。純粋な強者に対する恐怖、そういう種類のものだ。普段から叱られ慣れているはずのアレスティオでさえ、今は震えが止まらなかった。
「ジルの地雷がアンジェリーナだと知らずに踏み抜いたか。やばいなこれ、あとで俺の夢に出てくるやつ!」
「静かに、アレスは黙ってください。ここから面白くなりそうなんですから」
「面白いって余裕かましてるけれど、ジャミルさー」
背後でひそひそと会話を交わすアレスティオとジャミルは、ジルベルトに無言でにらまれて沈黙する。
前に出たアンジェリーナをかばうように胸元へ引き寄せると、ジルベルトは正面からエリティアに冷ややかな眼差しを向ける。
「ずいぶんと幸せな世界で生きているようだ。脳内に花でも咲いているのか?」
「言い方に気をつけなさい、私は王女よ」
「だからこの程度で済んでいる」
すごい、不敬という言葉がかすんで見える。
腕の中でアンジェリーナが遠い目をすると、ジルベルトの声がさらに一段低くなる。
「赤の他人に名を呼ぶ許可を出した覚えはない」
「そんなつれない言い方をしないでちょうだい、ジル。私とあなたの仲でしょう?」
「どんな仲だ、アンジェリーナに誤解されるような言い方は止めてもらおう」
「誤解、そうかしら?」
「一国の王女とは思えない振舞い、そこまでして私に何をさせたいんだ?」
「婚約届に私の記名は終わっているの。隣にあなたの名前を書けばいいのではないかしら?」
冗談とも、本気ともつかない顔でエリティアはにっこりと笑う。
ジルベルトは完全に表情を消した。
「たしかに私は国を出たが、王の血を引く私の婚約や婚姻は国が管理するところ。あなたの行動はリゾルド=ロバルディア王国の判断に横槍を入れる行為であることを承知のうえか?」
そのくらいはアンジェリーナにもわかる。承諾もなくジルベルト様と婚約を結ぼうなんてリゾルド=ロバルディア王国に喧嘩売ったようなものだ。
けれどエリティアは動揺することもなく、微笑みながらこう答えた。
「父にお願いするわ。私が願えばなんでも叶えてくれるのよ」
「話にならないな」
差し出された手に触れることもなく、ジルベルトは背を向ける。
彼の視線の先には真っ白に燃え尽きたようなテオドーロがいた。知らせを受けて急いで駆けつけたという雰囲気で、息が上がり、服は乱れている。
「おい、いつまで呆けているつもりだ。これ以上我が国を愚弄する気なら本気で剣を抜くぞ」
ジルベルトが耳元でささやくとテオドーロの膝が震えた。
一触即発。誰もが口をつぐむ中、場違いなまでにのんびりとした声が響く。
「おかしいわね、いつもならこの声で願えばすべてが叶うのに」
そうつぶやいたエリティアの声は、おそろしいほどに澄み切っていた。
疑うことを知らない純粋で無垢な声音が、本気で願えば叶うと信じているように聞こえてアンジェリーナの背筋が寒くなる。
アンジェリーナの魔除けの力をもってしても、エリティアからは魔のつくものの気配を感じない。彼女は間違いなく人間のはずだ。
だがこの人は人型の魔物……魔人や魔王のような考え方をする。
人から大切なものを奪うことに罪悪感のないこの人は、本当にセイレーンではないのだろうか。それとも私には感じ取れないような別の力を隠している?
エリティアはふふっと笑って、品のある仕草で首をかしげた。
「しかたありません、出直しましょう。次にお会いするときは良い返事をもらえることを期待しておりますわ」
不愉快そうに眉を寄せたジルベルトは、無言のまま振り向きもしなかった。アンジェリーナの手を引くとジャミルとアレスティオに視線を合わせる。
「行くぞ」
短く言い置いて、さっさと歩き出した。アレスティオはエリティアを横目に見て立ち去り、ジャミルは軽く目礼して場を後にする。
――――
エリティアの視線が、最後に立ち去るジャミルの背を追った。
ちらりと見えた孔雀石の瞳、各国の王家につながる貴族の血筋には、瞳に珍しい色合いをした人物が生まれると聞く。
エリティアは扇を広げて口元を隠した。
「あの孔雀石の色の瞳をした男性は、もしかして貴族かしら?」
「はい。セザイア帝国ラシムール公爵家、ジャミル=ラシムールです。貴族でありながら帝国の認める特級商人でもあります」
そこまで話したところで、取り巻きの男は目つきを鋭くする。
「ラグイアーナの商圏を荒らし、独占してきた契約を横から奪っていく。だまされるほうが悪いのに、正義を振りかざして横から利益を奪うような最低の商人ですよ」
「まあ、それは良くないわね」
「私と付き合いのある商人も被害にあっています」
するといい事を思いついたとばかりに薄く笑って、エリティアは取り巻きの男に話しかける。
「ちょうどいいわ、彼にも罰を与えましょう」
「おお、ありがとうございます!」
「いいのよ、国民と国益を守るのは王女の務めだもの。誰からも不審に思われないような状況で、あの男と接触する機会を設けてちょうだい」
「直接お会いになるつもりですか。それはいくらなんでも危険です」
「うふふ、心配してくれてありがとう。でもね、腹の探り合いは商人だけの専売特許ではないのよ。セザイア帝国の特級商人がどの程度か、王女として見極めて差し上げるわ」
エリティアはどこまでも強気な態度を崩さない。取り巻きがうっとりとした顔で見上げると、鷹揚にうなずいて見せた。けれど扇の陰では形のよい彼女の唇が醜く歪んでいる。
エリティアはジルベルトの端正な横顔と、真っ直ぐに伸びた背を思い浮かべた。
物でも、人でも。エリティアは美しいものを愛している。美しいものを蒐集品に加えるためなら、どんな汚れた手でも使うことをいとわないほどに愛していた。
「自分の手を汚さない人間に愛を語る価値はないわ」
敵の敵は味方、まずは罠を仕掛けて魔除けの聖女を絶望させる。
そして最後の仕上げに、目の前で愛する男を暗く深い水底に引きずり込むのだ。
――――
「いやー、まさかこんな現実離れした出来事が起きると思わなかったよな。比類なきラグイアーナオペラも真っ青だ!」
ぼやくアレスティオの声が虚しく響いた。
アンジェリーナは無言で歩くジルベルトの背中を見上げる。普段以上に強い力でつないだ手が、どうにも落ち着かない。
「ジル、大丈夫ですか?」
わずかにアンジェリーナの息が上がっていることに気がついて、ようやくジルベルトは足を止めた。
「すまない、歩く速度が早かったな」
「いいえ、平気です。それよりもジルのほうが心配で」
アンジェリーナが立ち止ると、ジルベルトは深々と息を吐く。
「あの場に一瞬でも長くいたくなかった」
「その気持ちは何となくわかります。でも」
「……あれは危険だ。彼女の声には魔力がこめられている」
「え?」
ジルベルトがアンジェリーナの言葉をさえぎった。最後までアンジェリーナの言葉を聞いてから話す人なのに、珍しく。
「魔法のように即効性のあるものではない。あの声で繰り返し『願えば叶う』、そういう質のものだ。劇的な変化があるわけではないから、周囲は王女の声が異質なことに気づかないまま歪んだ」
内容を理解したところで、アンジェリーナは呆然とする。
「そんなことが……よく気がつきましたね」
「魔法ではないから途中までわからなかった。だけど話している途中で、独特の揺らぎというか、波長のようなものを感じたんだ。声を通じて、聴覚から内側を侵食しようと魔力を注ぎ込まれる感覚。だから不敬を承知で、早々に会話を切り上げた」
ジルベルトはいつになく慎重に言葉を選ぶ。
異常に気がつかなかったらどうなっていたのか。
その先に待ち受ける展開を想像してアンジェリーナは青ざめた。アレスティオは難しい顔をする。
「じゃあ、王女の取り巻きは」
「すでに彼女の声の支配下にある、だからあんな異常な言動を放置できるんだ。普通の精神状態なら止めているだろう」
ジルベルトは表情を固くした。
「厄介なのは、取り巻きが自分達がおかしいことに気づいていないことだ。それに……たぶん王女自身も」
「本人が気づかないなんてことがあり得るのか?」
「あの声で繰り返し『そばにいてほしい』と願うだけだ。それだけで叶う。魔法とか、魔力の質がどうとか理屈はどうでもいい。そう考えると余計にこわいな、魔法ではないから魔道具で対処もできない」
そうつぶやいたジルベルトの顔色が悪くなる。
「あの声を聞き続けたら、たとえ自分に不都合があろうと王女の願いを叶えようとするだろう。まるでセイレーンの歌に誘われて岩礁へと進路を向ける船乗りのようだ」
「ジルがそこまで警戒するなら相当だな」
そうつぶやいて、アレスティオは眉をひそめる。
ジルベルトに視線を合わせて、アンジェリーナは首をかしげた。
「そういえば第一王女殿下に婚約者はいないのですか?」
「詳しくは知らないが最初に決まった婚約者を事故で亡くしている。それ以降、婚約したという話は聞かないな」
「事故ですか?」
「ああ。魔獣対応区域を通過中に魔犬の群れに襲われたそうだ」
想像もしていなかったエリティアの過去にアンジェリーナは言葉を失った。
魔犬の一頭一頭は大したことはないけれど、群れで襲うときは非常に厄介だ。婚約者自身もそれを知っていて十分に注意していたつもりだった。
「婚約者は王女の誕生日に間に合わせるため他国から帰国する途中だったらしい。奪われずに残った誕生日の贈り物だけが王女の手元に渡った」
「あせっていたから余計に隙を突かれたんじゃないか。魔獣は気配を読むのが得意だからな」
アレスティオは痛ましいという顔をする。眉を寄せたジャミルが補足するように言葉をつないだ。
「亡き婚約者の贈り物を胸に抱いて、嘆く王女の歌が王城を震わせる。エリティア王女の悲劇はラグイアーナオペラの題材にも使われているのです。先ほどのように取り巻きや彼女の信奉者が多いというのはそれもあるのでしょうね」
アレスティオが考え込むジルベルトの顔をのぞき込んだ。
「これからどうする?」
「単純だが、王女を避けるしかないだろう」
ジルベルトは深々と息を吐いた。
「繰り返し彼女の声を聞くというところが重要だ。接触しないように、とにかく距離をとる。警戒心がないときや、無防備なところであの声を聞いてしまうのが一番危険な気がする」
「ジルベルトはこのことを国には知らせますか?」
「そうするつもりだ、あの声を外交の場で使われたらまずい」
「では私も。商人は特に注意が必要かもしれませんね。顧客に呼ばれたら、嫌でも同席しないわけにはいきませんから」
「外交の場で使われなかったのは運がよかったとしか言いようがないな!」
しみじみとアレスティオが言うと、ジャミルはうなずいた。
「アレスの言うとおりです。王女殿下と同席するときは注意が必要と、王国と取引のある商人に周知します。同じ担当者が対応しない、対応時間は短く……といったところでしょうか」
「ジャミルも気をつけたほうがいい。わかっていると思うが行動が目につきやすいだけに、特級商人は特に目をつけられやすい」
ジルベルトの言葉にジャミルはうなずいた。
そしてアンジェリーナに視線を合わせると小さく笑った。安心させるように、いつもより柔らかい笑みを浮かべて。
「心配していただいてありがとうございます。ですが王女殿下と直接会う予定はありませんし、きっと大丈夫でしょう」




