怒り
小応接室へ入れられる直前、顔色を心配した侍女が、私の肩へ薄い布を掛けてくれた。
部屋へ入ると、背後で扉が閉まった。
鍵はかけられなかった。
けれど、扉の両側には帯剣した騎士が立っている。勝手に出ようとすれば、すぐに止められるだろう。
壁の時計が、一定の間隔で音を刻んでいる。
その音を聞くたびに、胸が締めつけられた。
私は椅子に腰を下ろし、膝の上で両手を握りしめる。
「私、どうなっちゃうの……」
『顔を上げなさい。あなたは伯爵を殺していません』
カサンドラの声にも、いつもの余裕はなかった。
「でも、あの侍女は私を見たって言った」
『何かの見間違いです』
「見間違いで済まなかったら?」
『済ませるのです。このままでは、半年後の処刑を避けるどころか、今夜の殺人犯として捕らえられてしまいます』
カサンドラの声が強くなる。
「こんなの、ゲームのシナリオにはなかった。犯人が誰なのかも、疑いを晴らす方法も分からないよ」
『でしたら、わたくしたちで調べるしかありません』
「協力してくれるの?」
『犯人捜しに興味はありません』
「じゃあ、何がしたいの?」
『わたくしに罪を着せた者を見つけ、必ず後悔させます』
目的は少し違う。
それでも、一人ではないと思えただけで、呼吸が少し楽になった。
「分かった。二人で犯人を見つけよう」
『あなたが仕切らないでくださいませ』
廊下から、硬い靴音が聞こえてきた。
足音が扉の前で止まり、短く二度、扉が叩かれる。
「入る」
最初に現れたのは、五十歳ほどの男だった。
短く刈り込んだ灰色の髪。頬には、眉の下から顎近くまで伸びる古い傷がある。紺色の騎士服の胸元には、王宮警備隊長を示す銀の紋章がついていた。
男の後ろから、ルシアンと王太子アレクシスが入ってくる。
「王宮警備隊長、ガレス・クロイツだ」
男は私の向かいへ座った。
机の上に、数枚の紙と懐中時計を置く。
「国王陛下より、ローデン伯爵殺害事件の調査を命じられた。これから、あなたが広間を離れていた間のことを確認させていただく」
事情聴取をするのは、ガレス隊長らしい。
ルシアンは壁際に立ち、心配そうに私を見ている。アレクシスは隊長の後方に立ったまま、険しい表情を崩さなかった。
「よろしいですな、カサンドラ様」
「ええ」
震えを隠し、カサンドラの話し方を真似る。
ガレス隊長が一枚目の紙へ目を落とした。
「八時四十五分。王宮の侍従が、ローデン伯爵へ書類を届けている。その時点で、伯爵は生きていた」
隊長の指が、紙に書かれた時刻をなぞる。
「九時。頼まれていたワインを届けるため、侍女が小部屋へ入った。そこで伯爵の遺体を発見した」
八時四十五分から九時まで。
犯行に使えた時間は、十五分しかない。
「あなたが広間を出たのは、八時四十五分の鐘が鳴った直後だった。間違いありませんか?」
正確な時刻までは覚えていない。
『楽団が二曲目を終えた直後です。おそらく、その頃でしょう』
「その頃だったと思います。人の多さに息苦しくなり、バルコニーへ出ました」
「どの道を通って?」
「東側の廊下です。突き当たりのバルコニーで夜風に当たり、同じ道を戻りました」
「その廊下には、伯爵が発見された小部屋がある」
「前を通っただけです。中には入っておりません」
「バルコニーであなたを見た者は?」
答えられなかった。
あのとき、バルコニーには誰もいなかった。
「……おりませんわ」
「つまり、八時四十五分から広間へ戻るまでの行動を証明できる者はいない」
「だからといって、わたくしが伯爵を殺したことにはならないでしょう」
「そのとおりです」
ガレス隊長は、あっさり認めた。
「広間を離れたという事実だけなら、疑う理由にはならない」
そう言いながら、二枚目の紙を机に置く。
「しかし、侍女は八時五十五分頃、小部屋の扉の前に一人の女性が現れるのを見ている」
部屋の空気が、さらに重くなった。
「その女性は金色の髪で、あなたと同じ濃紺のドレスを着ていた。さらに、青い宝石のブローチも身につけていたという」
どれも、今の私に当てはまっている。
「見間違いですわ」
「見間違いだと主張するのであれば、なぜ髪、ドレス、ブローチの三つが一致したのか説明していただきたい」
「顔をはっきり見たわけではないのでしょう?」
「距離があったため、表情までは確認できなかったそうです。しかし、その女性が廊下を進み、侍女の前を通っている」
侍女は、扉の前に現れた女性を見た。
そのあと、廊下を歩いてきた私とすれ違った。
だから、同じ人物だと思った。
ガレス隊長の説明には、何もおかしなところがなかった。
「お待ちください」
壁際に立っていたルシアンが口を挟んだ。
「髪と服装が似ていたというだけで、カサンドラ様本人だと断定することはできません」
「ブローチまで一致している」
「似た宝石を身につけた者が、ほかにいなかったとは限らないでしょう」
「ならば、該当する者を挙げてもらいたい」
ルシアンは答えられなかった。
「私は、証言だけでカサンドラ様を犯人と決めているわけではない」
ガレス隊長は、三枚目の紙を机に置いた。
「殺害に使われたペーパーナイフは、もともと小部屋の机に置かれていた。犯人は凶器を持ち込む必要がなかった」
「それが、わたくしと何の関係があるのです?」
「あなたが凶器を持っていなかったとしても、疑いを否定する材料にはならないということです」
淡々とした言葉が、一つずつ逃げ道を塞いでいく。
「そして、ローデン伯爵はヴァレンティア公爵領の橋の修繕費について調べていた」
『何をおっしゃりたいのです』
カサンドラの声に怒りがにじむ。
「それは父と伯爵の問題です。わたくしには関係ありません」
「伯爵は、申請された費用に不審な点があると考えていた。明日、詳しい資料を確認する予定だったそうです」
「だから、わたくしが口を封じたと?」
「可能性を示しているだけです」
ガレス隊長は声の調子を変えない。
「あなたには、伯爵を殺害できる時間があった。現場へ続く廊下を通っている。扉の前に現れた姿を見た者がいる。さらに、伯爵の調査によって、あなたの家が不利益を受ける可能性があった」
一つ一つは、私が犯人だと証明するものではない。
けれど、並べられると、最初から私だけを指し示していたように聞こえる。
「隊長、それ以上は推測です」
ルシアンが一歩前へ出た。
「カサンドラ様が橋の修繕費について知っていた証拠はありません。侍女も顔を確認していない。それに、伯爵と対立していた者はほかにもいたはずです」
「第二王子殿下、シラス医師、オズワルド公爵、王妃陛下。全員から話を聞く予定だ」
「ならば、カサンドラ様だけを犯人のように扱うのは不公平です」
「彼女だけが、犯行時刻に現場付近を一人で歩き、扉の前に立つ姿を見られている」
ルシアンが言葉を失う。
ガレス隊長は感情で責めているのではない。
確認された事実だけを、冷静に並べている。
だからこそ、反論できなかった。
そのとき、扉が叩かれた。
入ってきた騎士が、ガレス隊長へ耳打ちする。隊長は報告を聞き終えると、新しい紙を受け取った。
「聖女候補、エミリア・ハインツ嬢からの証言です」
ガレス隊長が内容を読み上げる。
「エミリア嬢は、あなたが広間へ戻ってきたところを見ている。その後、ルシアン卿と話している姿も確認している。悲鳴が上がるまで、あなたは広間にいた」
胸の奥に、わずかな希望が生まれた。
「それなら、わたくしにはアリバイがあるということでしょう」
「広間へ戻ったあとのアリバイです」
希望は、すぐに打ち消された。
「エミリア嬢があなたを見たのは、九時の鐘が鳴る少し前。伯爵を殺害したあと、広間へ戻ることは可能です」
助けようとしてくれたエミリアの証言でも、疑いは晴れなかった。
ガレス隊長は紙を一つにまとめる。
「現時点では、あなたが犯人だと断定できる証拠はない。しかし、最も疑わしい人物であることも否定できない」
『最も疑わしいですって……?』
カサンドラの声が低くなる。
「アレクシス様」
私の口から、予定していなかった言葉が出た。
『美咲、もう結構です』
カサンドラの怒りが、身体の内側から伝わってくる。
「あなたも、わたくしが伯爵を殺したとお考えなのですか?」
アレクシスの表情が曇った。
「そうは言っていない」
「では、わたくしを信じるとおっしゃってください」
「私は王太子だ。調査が終わる前に、誰か一人の無実を断言することはできない」
『誰か一人……?』
身体の奥から、焼けるような熱が噴き上がった。
右手が勝手に椅子の肘掛けをつかむ。
身体の感覚が私から離れ、カサンドラ自身の声が口から飛び出した。
「わたくしは、あなたにとって“誰か一人”でしかないのですか!」
「カサンドラ、落ち着いてくれ」
「伯爵を殺していないと、何度申し上げれば分かるのです! 証拠もないのに閉じ込め、父まで疑っておきながら、落ち着けですって?」
「感情的になっても、事実は変わりません」
ガレス隊長が冷静に告げた。
「あなたが犯行可能な時間に現場付近にいたことも、扉の前に立つ姿を目撃されたことも事実です」
「侍女の見間違いです!」
「そう主張する根拠は?」
「それは……」
「根拠がないのなら、声を荒らげても疑いは消えない」
「無礼な!」
カサンドラが立ち上がる。
ルシアンがすぐに、私たちとガレス隊長の間へ入った。
「隊長、言葉が過ぎます」
「私は事実を確認している」
「カサンドラ様は、まだ罪人ではありません」
「だから拘束せず、事情を聞いている」
ガレス隊長はルシアンから視線を外し、カサンドラを見る。
「公爵令嬢であろうと、王太子殿下と親しい間柄であろうと、疑わしい点を見逃すつもりはありません」
カサンドラの拳が震えている。
『カサンドラ、落ち着いて!』
私は頭の中から必死に呼びかけた。
『このまま怒鳴ったら、本当に犯人だと思われる!』
カサンドラは言い返そうとしたが、寸前で唇をかんだ。
『いったんここから出よう』
『逃げるつもりはありませんわ』
『逃げるんじゃない。頭を冷やすの。化粧室へ行って、冷たい水で顔を洗おう』
『必要ありません』
『あるよ! 今のカサンドラ、何を言うか分からない!』
カサンドラは肩で息をしていた。
『ここで公爵家の名前を出して脅したら、ガレス隊長が言った動機を、自分で補強することになるよ』
その言葉で、カサンドラの動きが止まった。
しばらくして、固く握っていた拳を開く。
「……少し、席を外しますわ」
「事情聴取の途中です」
「気分が優れません。化粧室へ行かせてくださいませ」
ガレス隊長は、カサンドラの荒い呼吸を見つめたあと、扉の外へ声をかけた。
「女性騎士を一人。カサンドラ様に同行しろ」
若い女性騎士が入ってくる。
「五分で戻っていただきます」
「結構ですわ」
カサンドラは怒りを収められないまま、足早に部屋を出た。
女性騎士に付き添われ、廊下の先にある化粧室へ入る。
扉が閉まると、カサンドラは洗面台へ両手をついた。
『水で顔を冷やして』
「命令しないでくださいませ」
『いいから。今のまま戻ったら、またガレス隊長と喧嘩になるよ』
「喧嘩ではありません。あの男が無礼なのです!」
『分かった。ガレス隊長が悪い。それでいいから、今は落ち着いて』
カサンドラは唇をかみ、銀の水差しから洗面鉢へ水を注いだ。
冷たい水を両手ですくい、頬へ押し当てる。
『息を吸って』
「あなたは、わたくしの母親ですの?」
『いいから、ゆっくり!』
息を吸い、吐く。
もう一度、冷たい水で顔を洗う。
身体を支配していた熱が、少しずつ引いていく。
カサンドラが大きく息を吐いた瞬間、手足の感覚が私へ戻ってきた。
「代わった……」
『今だけです。すぐにお返しなさい』
「分かってるよ」
私は肩に掛けていた布を外し、洗面台の脇へ置いた。
もう一度水をすくい、火照った頬へ当てる。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
正面の鏡に、濡れた顔のカサンドラが映っている。
私は鏡の中の自分を見つめた。
何かが引っかかった。
けれど、それが何なのか、すぐには分からない。
鏡の中の姿と、自分の身体をもう一度見比べる。
「あれ……?」




