鏡
「あれ……?」
私は鏡の中の自分を見つめた。
濡れた金色の髪。青ざめた顔。濃紺のドレス。
自分の胸元へ手を当て、鏡の中にいるカサンドラと見比べる。
侍女の証言が、頭の中によみがえった。
『金色の髪で、右胸に青い宝石のブローチをつけていました』
もう一度、鏡を見る。
そういうことなのだろうか。
もし、あの侍女が見たものが――。
「確かめないと」
『何をですの?』
カサンドラには、私が考えていることが伝わらない。
けれど、今は説明している時間が惜しかった。
私は肩に掛けていた布を洗面台の脇へ置き、化粧室の扉へ駆け出した。
『美咲? どこへ行くつもりですの!』
扉を勢いよく開ける。
外で待っていた女性騎士が驚き、反射的に私の前へ立った。
「カサンドラ様。まだ五分たっておりませんが」
「すみません、通してください!」
「どちらへ行かれるのです?」
私は女性騎士の横をすり抜け、ドレスの裾を持ち上げて廊下を走り出した。
「カサンドラ様!」
背後から女性騎士の足音が追ってくる。
『美咲、どうしたの!』
「あとで説明する!」
『あとででは分かりません! 今すぐ足を止めなさい!』
慣れない靴では、思うように走れない。何度も裾を踏みそうになりながら、それでも足を止めなかった。
「カサンドラ様、お待ちください!」
女性騎士の声が廊下に響く。
私たちの声を聞いた使用人たちが、驚いて道を空けていく。
『あなたは先ほどまで、殺人事件の容疑者として事情を聞かれていたのですよ! 突然走り出せば、逃げたと思われますわ!』
「逃げるんじゃない!」
『では、何をしているのです!』
「だから、あとで説明するって!」
『冷静になりなさい!』
「私は冷静だよ!」
『王宮の廊下を全力で走っている人間の、どこが冷静なのです!』
言い返せなかった。
けれど、あの侍女が嘘をついていないのだとしたら、確かめなければならない。
小応接室の前を通り過ぎ、東側の廊下へ入る。
あの夜、バルコニーへ向かった道だった。
壁には王家の歴代当主を描いた肖像画が並んでいる。柱の間では、燭台の炎が小さく揺れていた。
私は走る速度を落とし、左右を見回す。
『今度は何をしているのです?』
返事をせず、壁際や柱の陰を確認する。
「どこ……?」
『何かを捜しているのですか?』
後ろから追いついた女性騎士が、私の腕をつかんだ。
「カサンドラ様、これ以上はお止めください」
「もう少しだけ!」
「何をなさろうとしているのです?」
「確かめたいことがあるんです」
「でしたら、ガレス隊長へ事情を説明してください」
「まだ説明できません」
「なぜです?」
「間違っているかもしれないから」
女性騎士の手を振りほどくことはできなかった。
私は無理に逃げようとせず、その場から廊下を見渡した。
ローデン伯爵が発見された小部屋。
侍女が立っていた曲がり角。
私が戻ってきたバルコニーの方向。
三つの位置を順番に確認する。
『美咲、いい加減に説明しなさい!』
頭の中でカサンドラの声が響く。
『先ほどから、いったい何を捜しているのです!』
「お願い。もう少しだけ待って」
『待てません! 何も分からないまま、あなたの奇行に付き合わされているのですよ!』
カサンドラの苛立ちはもっともだった。
それでも、ここで説明して、肝心なものが見つからなかったら、単なる思いつきで終わってしまう。
視線を床へ落とす。
赤い絨毯の端に、細い線が二本残っていた。
何か重いものを動かしたような跡だ。
その線は廊下の奥まで続いている。
「これ……」
私は女性騎士の手を振りほどくのではなく、跡を指さした。
「あの先を確認させてください。お願いします」
女性騎士は絨毯の跡を見て、迷うように眉を寄せた。
「私も同行します。走らないと約束してください」
「分かりました」
『本当に分かっていますの?』
今度は答えなかった。
絨毯に残された跡をたどり、廊下の奥へ進む。
線は、突き当たりにある半開きの扉まで続いていた。
中は備品室だった。
使われなかった椅子や小さなテーブル、花瓶を載せる台などが、所狭しと並べられている。
私は家具の間を進んだ。
部屋の奥で、何かが燭台の光を反射する。
大きな布をかぶせられた、背の高い物が置かれていた。
布の端をつかみ、一気に引き下ろす。
金色の装飾が施された巨大な姿見が現れた。
大人一人の全身を映せるほど大きく、左右の脚には小さな車輪がついている。
移動させるために作られた鏡だった。
私は鏡の前で足を止めた。
鏡の中に、息を切らしたカサンドラが映っている。
乱れた金色の髪。
濃紺のドレス。
右胸元で輝く青い宝石。
『美咲』
カサンドラの声から、苛立ちが消えていた。
『この鏡が、どうしたのです?』
私は鏡へ顔を近づけ、女性騎士には聞こえないほどの声で囁いた。
「あのね、カサンドラ……」




