容疑者
「私……こんなストーリー知らない……」
床に横たわるローデン伯爵から、目をそらすことができなかった。
胸元を染める赤い血。力なく投げ出された腕。見開かれたまま、何も映していない瞳。
ほんの少し前まで、王妃やユリウス殿下たちと言葉を交わしていた人が、もう二度と動かない。
ゲームの中で人が死ぬ場面なら、何度も見た。
けれど、画面越しに見るのとは違う。鼻につく血の匂いも、招待客たちが息をのむ音も、すべてが現実だった。
指先が震える。喉が塞がり、うまく息を吸えない。
「無理……。こんなの、絶対に無理……」
『落ち着きなさい』
頭の中から聞こえたカサンドラの声も、かすかに震えていた。
「落ち着けるわけないでしょ。人が死んでるんだよ!」
思わず声を上げると、周囲の何人かが振り返った。
慌てて扇で口元を隠し、遺体から数歩離れる。
「私は乙女ゲームのオタクであって、ミステリーには興味ないの! 犯人捜しなんてしたことないし、死体を見るのだって初めてだし……こんなの無理だよ!」
『声を抑えなさい。不審に思われます』
「もう十分、不審な事件が起きてるでしょ!」
『だからこそ、わたくしたちまで怪しまれるような行動をしてはいけないのです!』
強い口調だったが、いつもの勢いはない。
「カサンドラだって怖いんでしょ」
返事が途切れた。
『……当然です。目の前で人が殺されたのですから』
「だったら、そんなに偉そうに言わないでよ」
『わたくしまで取り乱したら、誰があなたを止めるのです!』
震えながらも言い返す声に、私は口を閉じた。
カサンドラも怖いのだ。それでも、身体を動かせない彼女は、私に落ち着けと言うことしかできない。
『よくお聞きなさい。犯人がまだ王宮にいるのなら、周囲が見えなくなることのほうが危険です。まず、呼吸を整えなさい』
私は言われたとおり、ゆっくり息を吸った。
『もう一度』
息を吸い、時間をかけて吐く。
震えは消えなかった。それでも、周囲の様子が少しずつ目に入るようになった。
「すべての扉を閉鎖しろ!」
国王の命令が、広間へ響き渡った。
騎士たちが出入口を塞ぎ、招待客が外へ出ないよう見張り始める。楽団員や使用人も壁際へ集められ、誰もが隣にいる者を疑うような目で見ていた。
さっきまで優雅だった舞踏会場が、一瞬で巨大な牢獄に変わった。
ルシアンは遺体のそばに膝をつき、血のついた銀のペーパーナイフを調べていた。
「これは、この部屋にあったものか?」
年配の侍従が、おそるおそる答える。
「はい。手紙の封を切るため、机の上に置かれておりました」
「ならば、王宮へ凶器を持ち込まなくても犯行は可能だったということか」
「左様でございます」
誰でも手に取れる凶器。そこから犯人を特定するのは難しそうだ。
シラス医師は伯爵の胸元を調べたあと、静かに立ち上がった。指先についた血を布で拭い、重い声で告げる。
「死因は、胸を刺されたことによる出血でしょう。傷は深く、ほぼ即死だったと思われます」
「亡くなった時刻は分かるか?」
「正確なことは調べなければ分かりません。ただ、遺体の状態から見て、それほど時間はたっていないでしょう」
それほど時間がたっていない。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に嫌な予感が広がった。
私は少し前、一人で広間を離れている。
『美咲』
カサンドラも同じことに気づいたらしい。
「大丈夫。バルコニーへ行っただけだもん」
『だから、声に出さないでください!』
ルシアンが立ち上がり、周囲を見渡した。
「遺体を発見した者は誰だ?」
一人の若い侍女が、人々の間から前へ出た。
廊下で私と目が合い、慌てて頭を下げた、あの侍女だった。
「私でございます。九時にワインをお届けするよう、ローデン伯爵から頼まれておりました。お部屋へ入ると、伯爵が倒れていて……」
侍女は遺体を見ないよう、顔を伏せている。握りしめた両手が震えていた。
「部屋へ入る者や、近くを歩いていた不審な者は見なかったか?」
ルシアンに尋ねられると、侍女の肩が大きく揺れた。
何かを言いかけては、口を閉じる。
「見たことがあるのなら、どんなに些細なことでも話してくれ」
ルシアンが促す。
侍女は恐る恐る顔を上げた。その視線が、一瞬だけ私を捉え、すぐに床へ落ちる。
「……見ました」
広間のざわめきが静まった。
「このお部屋から、女性が出てくるところを見ました」
「その女性の顔を確認したのか?」
「はっきりとは……。ですが、金色の髪で、右胸に青い宝石のブローチをつけていらっしゃいました。お顔も、お召し物も、よく似ていて……」
「誰に似ていた?」
侍女は答えようとしなかった。
けれど、集まった人々の視線が、彼女の視線を追うように私へ向けられる。
「答えてくれ」
ルシアンがもう一度促す。
侍女は唇を震わせ、ついに私を指さした。
「カサンドラ・ヴァレンティア様です」
広間中の視線が、一斉に突き刺さった。
「違います!」
考えるより先に声が出た。
「私は、あの部屋になんて入っていません!」
「ですが、廊下でお姿を拝見しました。金色の髪も、青い宝石も、確かに……」
「私はバルコニーに行っただけよ!」
ルシアンが私の前へ進み出る。
「一人で広間を離れたのですね?」
「そうだけど、この部屋には入ってない。廊下を通って、外の空気を吸っていただけなの!」
「広間へ戻られたところは、私も確認しています。しかし、それ以前の行動を証明できる者はいますか?」
答えられなかった。
バルコニーには誰もいなかった。私がそこで風に当たっていたことを証明してくれる人もいない。
『美咲、落ち着きなさい』
カサンドラの声も、もう冷静ではなかった。
『ここで声を荒らげれば、余計に疑われます』
「分かってるよ……」
分かっていても、集まった人々の冷たい視線に耐えられなかった。
ついさっきまで私に笑いかけていた貴族たちが、今は恐ろしいものを見るように距離を取っている。
父なら信じてくれる。
そう思って、オズワルド公爵を捜した。
父は人々の向こうに立っていた。
目が合う。
「お父様……」
しかし、父は助けに来なかった。
悲しそうに眉を下げ、何かを言いたそうに唇を動かしただけだった。その表情は、娘を信じている父親というより、娘が罪を犯したのではないかと恐れている人のものに見えた。
『お父様まで、わたくしを疑っているの……?』
カサンドラの声から、怒りが消えた。
代わりに、ひどく傷ついた気配が伝わってくる。
ルシアンが低い声で告げた。
「カサンドラ様。いくつか確認したいことがあります。別室まで来ていただけますか」
「私を疑っているの?」
「今は、事実を確かめる必要があります」
「私は殺していません」
「それを確認するためです」
彼の後ろから、二人の騎士が近づいてくる。
逃げ道を塞ぐように、私の左右へ立った。
ゲームには存在しなかった殺人事件。
犯人が誰なのかも、これから何が起こるのかも、私には分からない。
そして、その最初の容疑者にされたのは――悪役令嬢カサンドラだった。




