不穏な舞踏会
王妃の後ろから、一人の侍従が銀髪交じりの男を連れてきた。
「王妃陛下。宮廷会計官のマルセル・ローデン伯爵が、今夜の祝宴にかかる費用についてご報告に参りました」
ローデン伯爵…そんなキャラいたっけな…?
「追加された演奏曲の費用を含め、明朝までに最終的な収支をまとめます」
「ありがとう。では、今夜はあなたも祝宴を楽しんでちょうだい」
王妃は帳簿を侍従へ預けた。
ローデン伯爵が一礼して離れると、第二王子ユリウスがその背中へ声をかけた。
「伯爵。私が頼んだ近衛騎士団の予算はどうなった?」
「殿下から提出された見積もりには、不足している資料がございます」
「必要なものは、すべて出したはずだ」
「確認が取れない以上、予算を増やすことはできません」
ユリウスの顔から、普段の軽薄そうな笑みが消えた。
「その説明を、私は先週から待っている」
「明日、あらためてご説明いたします」
ローデン伯爵は頭を下げたが、ユリウスは納得していない様子で立ち去った。
入れ替わるように、王宮付きの医師シラスが伯爵へ近づく。その手には、小さな革表紙の帳面が握られていた。そして、シラスの黒い礼服には、蛇の巻きついた杖を刻んだ小さな銀の留め具が並んでいた。宮廷医師だけに与えられるものらしい。
「伯爵。慈善院へ届ける予定だった寝台が、申請した数より五台も少なかったそうです」
「納品記録を確認しています」
「病人を床に寝かせたまま、確認が終わるまで待てと?」
「今夜中に代わりの寝台を手配させます」
「必ずお願いします」
シラスは厳しい目を向けたあと、エミリアのもとへ歩いていった。
今度は、父オズワルド公爵が私のそばへやってくる。
「カサンドラ。アレクシス殿下とは話せたかい?」
「ええ。少しだけ」
「聖女候補が現れたからといって、焦る必要はない。お前はヴァレンティア公爵家の娘だ。そのことを忘れてはいけないよ」
「承知しております」
父は満足そうにうなずき、ローデン伯爵を呼び止めた。
「伯爵。公爵領の橋の修繕申請は届いているだろうか」
「はい。しかし、申請された費用には不明な点がございます。確認が済むまで承認はできません」
父の笑みが、ほんの一瞬だけ消えた。
「不明な点?」
「詳しい内容は、明日お伝えします」
「分かった。よく確認しておいてくれ」
父は穏やかな口調を崩さなかった。けれど、伯爵を見送る目は冷たかった。
ローデン伯爵は王妃に祝宴の支出を報告し、ユリウスとは近衛騎士団の予算をめぐって対立した。シラスからは慈善院の備品について責められ、父の申請にも疑問を抱いている。
宮廷会計官なのだから、金に関する相談を受けるのは珍しくない。
このときの私は、それ以上深く考えなかった。
広間に人が増え、さっきまでよりも空気が重く感じられた。
香水と酒の匂いが入り交じり、頭の奥がぼんやりしてくる。慣れない靴と締めつけの強いドレスにも、そろそろ限界だった。
「ちょっと外の空気を吸ってくる」
『どなたにおっしゃっているのです?』
私は扇で口元を隠した。
「カサンドラに決まってるでしょ」
『舞踏会の途中で、何も言わずに席を外すつもりですの?』
「少しだけだよ。このままだと、本当に倒れそうなの」
カサンドラはしばらく黙っていた。
『……東の廊下をまっすぐ進みなさい。突き当たりに、小さなバルコニーがあります』
「最初から素直に教えてくれればいいのに」
『早く行って、早く戻りなさい』
人の多さに息苦しくなり、私は一人で広間を抜け出した。
静かな廊下を進み、突き当たりにある扉を開ける。夜の冷たい空気が頬をなで、火照っていた身体から少しずつ熱が引いていった。
バルコニーで少しだけ夜風に当たり、深く息を吸う。
「生き返った……」
『大げさですこと』
「カサンドラは、あの人混みで平気なの?」
『社交界では、あの程度は普通です』
「私は1年、ほとんど家から出てなかったんだよ。いきなり難易度が高すぎるって」
『あなたのことは分かりませんが、いつまでもここにいてはいけません。戻りますわよ』
「はいはい」
身体はまだ私が動かしているのに、どうして命令されなければならないのだろう。
来た道を引き返していると、廊下の奥に若い侍女が立っていた。
こちらを見ていた侍女と目が合う。
彼女は驚いたように身体をこわばらせ、それから慌てて頭を下げた。
彼女は驚いたように身体をこわばらせ、それから慌てて頭を下げた。
さすがは悪役令嬢。廊下を歩いているだけで、使用人にまで恐れられているらしい。
私も軽く会釈を返し、そのまま広間へ戻った。
「カサンドラ様」
戻って間もなく、声をかけてきたのは王太子の護衛を務める騎士、ルシアンだった。
「先ほど、お一人で広間を出ていかれましたね。少し顔色も優れないように見えます。お疲れでしたら、控え室までお送りします」
「ありがとう。でも、大丈夫よ。少し風に当たってきたから」
「そうですか。何かあれば、すぐにお呼びください」
真面目な顔で告げるルシアンに、思わず笑みがこぼれそうになる。
『気を許しすぎですわ』
私は周囲を確認し、ルシアンに聞こえないほどの小声で答えた。
「心配してくれただけだよ」
そのときだった。
広間の奥から、何かが倒れる大きな音が響いた。
続いて、女性の悲鳴が上がる。
「人が倒れています! 誰か、医師を!」
楽団の演奏が止まり、招待客たちが一斉に騒ぎ始めた。
ルシアンがすぐに私の前へ出る。
「ここを動かないでください」
彼は人をかき分け、騒ぎの起きた小部屋へ向かった。
ここにいるべきだと思った。けれど、言いようのない胸騒ぎが、私をその場に留めなかった。
私はドレスの裾を押さえ、ルシアンの後を追った。
小部屋の入口には、すでに人だかりができている。
その中心で、ローデン伯爵が倒れていた。
胸元の礼服が赤く染まり、傍らには血の付着した銀のペーパーナイフが落ちている。
小部屋の机には、開いた書類入れと帳簿が残されていた。床には数枚の紙が散らばっている。
シラス医師が駆け寄り、伯爵の首筋へ指を当てた。やがて、静かに首を横へ振る。
「……亡くなっています」
誰かが息をのみ、別の誰かが短い悲鳴を上げた。
私は動けなかった。
王妃ヴァレリア。第二王子ユリウス。宮廷医師シラス。そして、父オズワルド公爵。
伯爵が倒れる直前、それぞれ違う理由で彼と言葉を交わしていた四人が、離れた場所から遺体を見つめている。
『ねえ……これも、あなたの知っている、げぇむの内容なの?』
カサンドラの声が震えていた。
『犯人は誰? わたくしは安全なのよね?』
私は血に染まったローデン伯爵を見つめた。
何度も遊んだゲームに、こんな事件はなかった。
「分からない……」
唇が震え、かすれた声が漏れる。
「私……こんなストーリー知らない……」




