聖女候補
三日後。
王宮の大舞踏会場は、金色の灯りと色とりどりのドレスに満ちていた。
社交期の始まりを祝う舞踏会には、王族や高位貴族だけでなく、王都に滞在する多くの貴族が招かれている。広間のあちこちで、久しぶりに顔を合わせた人々が近況を語り合い、楽団の奏でる音楽がその声を包んでいた。
「人が多いね……」
私は口元を扇で隠し、小さくつぶやいた。
『声に出さないでください。周囲に聞かれます』
頭の中で、カサンドラがすぐに注意する。
『ごめん。つい』
『謝るより、口を閉じなさい』
この三日間、私たちは身体の主導権をどうすれば入れ替えられるのか、何度も試してきた。
カサンドラが「代わりなさい」と命じると、すんなり私から身体を奪うことがある。反対に、彼女がどれだけ命じても、私が身体を動かしたまま変化しないこともあった。私から交代を頼んだときも同じだ。強い怒りや驚きがきっかけで、本人の意思に関係なく入れ替わったこともある。
決まった方法は、まだ見つかっていない。
今夜はカサンドラに身体を任せる予定だった。慣れない舞踏会で私が失敗をすれば、彼女の立場まで危うくなる。そう考えて、入場前に何度も交代を試みた。
けれど、主導権は移らなかった。
『どうしてですの……。いつもなら、あなたに渡せたのに』
『私に聞かれても分からないよ』
『仕方ありません。今夜はあなたが、わたくしとして振る舞いなさい』
こうして私は、カサンドラの身体を動かしている。
背筋を伸ばし、歩幅を小さくする。グラスを持つときは、指先を揃える。
『肘を張りすぎです』
「こう?」
『今度は縮こまりすぎです』
「貴族って大変だなあ」
『あなたが不器用なのです』
『ブローチが曲がっています。左胸の正しい位置へ直しなさい』
「少しくらい変わらないでしょ」
『変わります。ヴァレンティア家の紋章を、だらしなく身につけるつもりですか?』
私は青い宝石のブローチを、左胸の少し高い位置へ直した。
カサンドラの指導は厳しかった。けれど、失敗すれば困るのは私だけではない。私は彼女の言うとおり、背筋を伸ばし直した。
広間の中央では、国王と王妃が招待客を迎えていた。王妃ヴァレリアは柔らかく微笑みながら、広間の様子を絶えず目で追っている。誰が誰と話し、どの家門が集まっているか。優雅な笑みの奥で、彼女はすべてを確かめているようだった。
「王妃様、今夜の招待客をずいぶん気にしているみたいだね」
『王家が開く舞踏会ですもの。誰が出席したかは、今後の政治にも関わります』
カサンドラの説明を聞き、私は王妃へ視線を戻した。華やかな場にも、貴族同士の思惑が交差しているらしい。
少し離れた壁際には、第二王子ユリウスがいた。
淡い金髪を後ろへ流し、金糸の刺繍が入った深緑の礼服をまとっている。整った顔には薄い笑みが浮かんでいたが、その青い瞳は冷めていた。
彼は王太子アレクシスの弟で、王妃ヴァレリアの次男だ。王位継承者として人々の中心に立つ兄とは違い、誰かと親しく話すでもなく、広間の様子を眺めている。
私に気づくと、ユリウスは片方の眉を上げた。そばにいた貴族へ、聞こえる程度の声で言う。
「今夜は母上にとって、大事な舞踏会だ。聖女候補を皆に見せ、王家の威信を示す。さて、彼女がどれだけ期待に応えられるかな」
笑みを浮かべてはいたが、その言葉には皮肉が混じっていた。
私は彼のそばを通り過ぎる前に、足を止めた。
「殿下は、聖女候補が失敗するところをご覧になりたいのですか?」
ユリウスは肩をすくめる。
「そうは言っていない。母上の期待が大きすぎるだけだ」
「では、期待どおりにいくかどうか、最後までご覧になればよろしいのに」
「君はずいぶんと余裕があるな」
「わたくしは、まだ何も聞かされておりませんもの」
言いながら、胸の奥がわずかに痛んだ。
カサンドラなら、聖女候補が失敗するのを望んでいるかもしれない。彼女にとってエミリアは、アレクシスの心を奪うかもしれない相手なのだから。
『余計なことを言わないでください』
『軽く返しただけだよ』
『その軽口で、余計な敵を作らないでくださいませ』
ユリウスはそれ以上何も言わず、また広間を眺め始めた。
そのとき、王太子アレクシスが騎士のルシアンとの会話を切り上げ、こちらに気づいた。ユリウスとは対照的に、相手の目を見て話す男だった。王太子らしい堂々とした足取りで、私の前へ進み出る。
「カサンドラ。体調を崩したと聞いたが、もう大丈夫か?」
「ええ。ご心配をおかけしました」
私が答えると、アレクシスは穏やかにうなずいた。表情に不審なところはない。少なくとも、今の返事に違和感を覚えた様子はなかった。
「今夜、聖女候補が皆に紹介される。彼女はまだ社交界に慣れていない。君も力になってやってほしい」
『なぜ、わたくしが?』
カサンドラの声が頭の中で響いた。
その言葉とほとんど同時に、私の口が動く。
「なぜ、わたくしが?」
声に出してしまったと気づき、私は慌てて口元を押さえた。
アレクシスがわずかに眉を寄せる。
「今のは……」
「申し訳ありません。急に頼まれて、驚いてしまいました」
「無理に引き受けてほしいわけじゃない。ただ、君なら彼女に社交界のことを教えてやれると思ったんだ」
『わたくしが、あの女に?』
カサンドラの不満が、また頭の中で膨らむ。私は唇をきつく結び、今度こそ口に出さないようにした。
「少し考えさせてくださいませ」
「分かった。返事は急がなくていい」
アレクシスはそれ以上追及せず、ルシアンのもとへ戻っていった。けれど、去り際に一度だけこちらを振り返った。
『次に同じことをしたら、どうなるか分かっていますわね』
『私だって、わざとじゃないよ』
返事をしかけたとき、楽団の演奏が最後の一音を残して止んだ。
談笑していた貴族たちの声も、波が引くように静まっていく。国王が壇上へ進み、広間を見渡した。
「今宵、皆に紹介したい者がいる。聖女候補、エミリア・ハインツ嬢だ」
扉が開く。
淡い青のドレスをまとった少女が、ゆっくりと広間へ足を踏み入れた。
その瞬間、招待客たちの視線が一斉に彼女へ注がれた。扇の陰から値踏みする目。期待に満ちた目。隣の相手に小声でささやく者もいる。けれど、誰もが彼女から目を離せずにいた。
広間の中央を進むエミリアの足取りは、緊張のためか少しぎこちない。それでも彼女は立ち止まらず、国王と王妃の前で深く礼をした。続けて招待客たちにも頭を下げる。
控えめな拍手が起こり、やがて広間全体へ広がっていった。
エミリア・ハインツ。ゲームで何度も見た、物語の主人公。
画面越しに知っているはずの顔なのに、こうして大勢の視線を浴びながら立つ彼女は、記憶の中の姿よりずっと現実味があった。
拍手が静まると、エミリアはもう一度、招待客たちへ向き直った。握りしめた手には、かすかな震えが残っている。それでも彼女は顔を上げ、広間を見渡した。
「エミリア・ハインツと申します。このような場にお招きいただき、光栄です。聖女候補としては、まだ学ぶことばかりですが……私の力が誰かのお役に立てるよう、精いっぱい努めます。どうぞよろしくお願いいたします」
言葉を終えると、彼女は深く頭を下げた。再び拍手が起こる。今度は、先ほどよりも温かな響きが広間に広がった。
エミリア・ハインツ。
ゲームでは、彼女の登場を境にカサンドラの立場が少しずつ崩れていく。




