紫色に染まった手
呼び鈴の音が鳴り響いた。
私は反射的に小部屋を飛び出そうとした。
「お待ちください!」
準備室へ走りかけた神官の一人が振り返り、私の前へ立ち塞がる。
「部屋へお戻りください」
「誰かが罠にかかったのよ!」
「罠?」
神官の表情が変わった。
「昨夜、割れた聖壺の底から白い物質を見つけました。でも、灰色の外套を着た人物に奪われたんです」
「その話は、大司教様からうかがっています。しかし、罠とは何です?」
「白い物質がもう一つ残っていると、儀式に参加した修道女たちへ伝えました。それを消そうとする人物を見つけるため、保管箱へ仕掛けをしたんです」
「許可を得たのですか?」
「それは……あとで説明します。今は、箱を開けた人を逃がさないで!」
曲がり角の先から、女性の声が聞こえてきた。
「離してください! 私は何もしておりません!」
続いて、複数の足音が近づいてくる。
エリアスの姿は、まだ見えない。
代わりに現れたのは、神殿の警備を取り仕切る神官長だった。
「何があった?」
「カサンドラ様が、準備室の保管箱へ罠を仕掛けたと……」
神官長が険しい目を向けてくる。
「事情は中で説明します。わたくしにも確認させてください」
「あなたは監視下に置かれている身です」
「承知しております。ですから、監視をつけたままで構いません。ですが、今捕まえた人物が、昨夜の灰色の人物かもしれないのです」
神官長はわずかに迷った。
「両側から離れるな。祭具には触れさせるな」
「承知しました」
私は二人の神官に挟まれ、準備室へ向かった。
入口には、すでに人だかりができていた。
その中央で、修道女が二人の神官に腕を押さえられている。
マリアンヌだった。
右手が鮮やかな紫色に染まっている。顔料を拭おうとしたのか、袖口にまで紫色の汚れが広がっていた。
壁際の保管箱は蓋が開き、その背後では呼び鈴が金属盆の上に転がっている。
別の神官が、布に包まれた白い塊を両手で持っていた。
「これは?」
神官長が尋ねる。
「マリアンヌが保管箱から取り出したものです」
「違います!」
マリアンヌが叫んだ。
「箱の蓋が少し浮いていたので、中を確かめようと持ち上げただけです!」
「それなら、なぜ中身を取り出した?」
「箱から落ちそうになったので、布で包んだだけです。大司教様へ直接お渡ししようと……」
「触れてはならないと、エミリア嬢から聞いたはずだ」
「ですが、王宮へ運ばれてしまえば、神殿の問題が外へ漏れます。私は神殿の名誉を守ろうとしただけです!」
周囲の修道女たちがざわめいた。
神官長が、保管箱の裏にある仕掛けを確認する。
「これは、あなたが用意したものですか?」
「罠を考えたのは、わたくしです。エミリア嬢には、わたくしが協力をお願いしました」
人だかりの後ろから、エミリアが姿を現した。
「申し訳ありません。実際に仕掛けたのは私です」
顔は青ざめていたが、逃げずに神官長の前へ進み出る。
「偽物の白い塊を箱へ入れ、取っ手の裏に紫色の顔料を塗りました。箱を開ければ、呼び鈴が金属盆へ落ちるようにもしました」
「大司教様の許可は?」
「いただいておりません」
「勝手な行動で、あなた自身が危険にさらされた可能性もあります」
「分かっています」
「この件は、大司教様がお戻りになり次第、すべて報告します。それまで、ここから動いてはなりません」
「承知しました」
エミリアは深く頭を下げた。
「エミリア嬢を責めないでください。協力を求めたのは、わたくしです」
「誰が考えたとしても、無断で罠を仕掛けた事実は変わりません」
「やり方が間違っていたことは認めます」
私は神官長の目を見た。
「ですが、マリアンヌが触れてはならないと命じられた箱を開け、中身を持ち出そうとしたことも事実です」
マリアンヌの肩が揺れる。
「違います。私は証拠を消そうとしたのではありません」
「では、どうして準備室へ入ると、ほかの祭具には目も向けず、保管箱へ向かったのですか?」
エミリアが尋ねた。
「見ていたのですか……?」
「隣の祈祷室にいました」
エミリアは胸元で両手を握りながらも、はっきりと証言した。
「あなたは準備室へ入ると、扉を半分閉めました。それから、まっすぐ保管箱へ向かいました。蓋を開け、用意していた布で白い塊を包むところも見ています」
「それは、白い物質のことが心配だったからです」
「心配だったのなら、なぜ誰にも知らせなかったのですか?」
「王宮へ渡すべきではないと思っただけです!」
マリアンヌは声を荒らげた。
「神殿の儀式に人間が細工したと知られれば、どれほどの騒ぎになるか分かっているのですか? 私は神殿を守ろうとしただけです!」
『都合のよい言い訳ですこと』
カサンドラの怒りが、身体の奥から伝わってくる。
けれど、マリアンヌの言い分を完全に否定できる証拠はない。
彼女が偽物の証拠を持ち出そうとしたことは確かだ。
しかし、それだけでは聖壺へ細工した人物だと断定できない。
「神殿の名誉を守るためなら、触れてはならないと命じられたものを、誰にも告げず持ち出してよいのですか?」
「私が大司教様へお渡しするつもりでした」
「それなら、布を用意して、人目がなくなるのを待つ必要はありません」
「人目がなくなるのを待ってなどおりません!」
「偶然、誰もいないときに箱を開けたのですか?」
「そうです!」
マリアンヌは言い切った。
身体の奥から、強い力が湧き上がる。
指先の感覚が遠ざかり、姿勢がまっすぐに伸びた。
怒りを抑えきれなくなったカサンドラが、身体の主導権を奪ったのだ。
「では、もう一つお尋ねしますわ」
カサンドラの声が、静かな準備室へ響いた。
「あなたは、何を守るために箱の中身を持ち出そうとしたのです?」
「何度も申し上げているでしょう。神殿の名誉です」
「王宮薬師へ調べられると、なぜ神殿の名誉が傷つくのです?」
「人間が儀式へ細工したと知られてしまうからです!」
「白い物質が細工に使われたものだと、誰からお聞きになったのです?」
マリアンヌが言葉に詰まった。
「エミリア嬢が伝えたのは、聖壺の破片から白い物質が見つかったということだけ。それが儀式へ使われたものだとは、誰も申し上げておりません」
「それは……状況を考えれば、誰にでも分かります」
「そうでしょうか。水の跡や、砕けた陶器の粉という可能性もありますわ」
「違います! あれは壺の底に残っていた、細工の痕跡です。王宮へ渡れば、すべて分かってしまうから――」
マリアンヌの声が止まった。
準備室が静まり返る。
カサンドラが、ゆっくりと彼女へ歩み寄った。
「今、何とおっしゃいました?」
「わ、私は……」
「エミリア嬢が皆様へ伝えたのは、聖壺の破片から白い物質が見つかったということだけです」
マリアンヌの顔から、血の気が引いていく。
「どうして、それが壺の底に残された細工の痕跡だと知っているのです?」




