正午までの罠
第三十八話 正午までの罠
翌朝、扉の鍵が外された。
「これから、儀式に関する追加の聞き取りを行います」
二人の神官に挟まれ、私は部屋を出た。
身体を動かしているのは、まだ私だ。
昨夜はほとんど眠れなかった。
エミリアは作戦書を落としていないだろうか。仕掛けを作っているところを見つかっていないだろうか。
考え始めると、不安ばかりが膨らんでいく。
『背筋を伸ばしなさい』
カサンドラの声が、頭の中へ響いた。
『そのような顔では、何か企んでいると自分から知らせているようなものですわ』
私は口を開かず、言われたとおりに背筋を伸ばした。
回廊を進むと、儀式準備室の前へ差しかかった。
「少々、こちらでお待ちください」
一人の神官が、聞き取りを行う部屋の準備を確認しに向かった。
私ともう一人の神官は、その場で待つことになった。
準備室の扉は開いている。
室内には、朝の祭具整理をする五人の修道女が集まっていた。
テレサ。
ベアトリス。
アニエス。
クララ。
そして、マリアンヌ。
その中心には、エミリアもいる。
彼女は私に気づいたが、声をかけなかった。代わりに、神殿服の袖口へ一度だけ触れる。
昨夜、決めておいた合図だ。
罠の準備は終わっている。
私は安堵しそうになった顔を、どうにか引き締めた。
「皆さんに、お伝えしておくことがあります」
エミリアが五人へ向き直る。
「今朝、残っていた聖壺の破片から、白い物質が新たに見つかりました」
祭具を整理していた手が、一斉に止まった。
「その物質は、壁際の保管箱へ収めています。王太子殿下の従者から、正午に王宮薬師へ回す予定だとうかがいました」
嘘だ。
王宮薬師が来る予定などない。
それでも、エミリアは声を震わせなかった。
「調査が終わるまで、誰も保管箱へ触れないでください」
最初に口を開いたのは、テレサだった。
「神殿の祭具から見つかったものを、王宮へ渡すのですか?」
「悪魔の仕業ではなく、人の手による細工だった可能性もあります。外部の知識を借りる必要があるそうです」
テレサは不満そうに口を結んだ。
神殿内部の問題へ王家が介入することを嫌がっているように見える。
ベアトリスは何も言わなかった。
ただ、祭壇布を畳んでいた手が止まり、指先が布へ強く食い込んでいる。
アニエスの視線は、銀の水差しへ向けられた。
クララは香炉の前に立ったまま、こちらを見ようとしない。
「王宮薬師が来るのは、正午ですか?」
マリアンヌが尋ねた。
「はい。それまで、保管箱には近づかないでください」
「承知しました」
マリアンヌは静かに答え、手にしていた布で祭具を拭き始めた。
五人の反応は、それぞれ違っていた。
神殿の威信を気にする者。
自分が扱った祭具へ目を向ける者。
何も言わず、作業を続ける者。
誰が犯人でもおかしくないように思える。
『全員、何かを隠しているように見えますわね』
カサンドラの言うとおりだった。
不安や緊張だけで、人を犯人と決めることはできない。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
先ほどの神官が戻ってきた。
私は準備室から離れ、曲がり角の先にある小部屋へ案内された。
部屋の中央には、机と椅子が置かれている。
壁一枚を挟んだ向こう側が、儀式準備室だ。ただし、準備室の入口は曲がり角の反対側にあるため、ここから出入りする者の姿は見えない。
音だけは、石壁と回廊を通して届くはずだ。
「大司教様がお見えになるまで、こちらでお待ちください」
「どのくらいですの?」
「朝の礼拝が終わり次第、参られます」
神官たちは扉の外へ出た。
扉は半分開けられたままで、そこから二人の見張りがこちらを監視している。
逃げることも、エミリアと話すこともできない。
私は椅子へ座り、机の上で両手を組んだ。
あとは、犯人が動くのを待つしかなかった。
◇
朝の礼拝が終わっても、エリアスは現れなかった。
灰色の外套を着た人物の捜索と、神殿内の確認に追われているらしい。
部屋の外では、神官や修道女が行き交っていた。
足音が近づくたびに、息を止める。
一度目は、書物を抱えた神官だった。
二度目は、祭壇布を運ぶ修道女。
三度目の足音は準備室の前で止まったが、聞こえてきたのは荷物を持ち上げる掛け声だけだった。
誰も保管箱を開けない。
私は椅子を扉から少し遠ざけ、机へ身を乗り出した。
組んだ両手で口元を隠し、見張りに聞こえないほどの声で囁く。
「来ないね……」
『まだ時間はあります』
「犯人が罠だって気づいたんじゃない?」
『声が大きいですわ』
扉の外にいる神官が、こちらを見た。
私は咳をするふりをして顔を伏せる。
神官が視線を戻したのを確かめてから、さらに声を落とした。
「エミリアが見つかった可能性もあるよ」
『不吉なことを言わないでくださる?』
「でも、心配で――」
『あの女は、危険を感じたら逃げると約束しました。今は信じて待つしかありません』
カサンドラの口から、エミリアを信じるという言葉が出るとは思わなかった。
廊下の時計が時を告げる。
正午まで、あと半刻。
偽の証拠が王宮薬師へ渡されるまで、犯人に残された時間も少ない。
それからも、何度か足音が近づいてきた。
そのたびに身構えたが、誰も準備室へ入ろうとはしなかった。
『遅すぎますわ』
カサンドラの声に、苛立ちが混じり始める。
『証拠を消したいのでしょう? さっさと現れて、箱を開ければよろしいのです!』
私は机へさらに身を寄せ、小声で答えた。
「犯人にまで命令しないでよ」
『このまま何も起きなければ、わたくしが修道院へ送られるのですよ!』
「分かってる。私だって焦ってるよ」
『そもそも、この罠で本当に捕まえられるのですか?』
「一緒に考えた作戦でしょ」
『最初に罠を提案したのは、あなたです』
「取っ手に染料を塗れって言ったのはカサンドラじゃん」
『あなたの考えだけでは不十分だったから、補って差し上げたのです!』
「失敗したら私のせいで、成功したらカサンドラのおかげってこと?」
『当然でしょう』
「むちゃくちゃだよ!」
思わず声が大きくなった。
扉の外にいる神官が、怪しむようにこちらを見る。
私は慌てて咳き込み、胸元を押さえた。
「喉が……少し乾いただけですわ」
「お水をお持ちしましょうか?」
「結構です」
神官が視線を戻す。
私は顔を伏せたまま、ほとんど唇を動かさずに囁いた。
「誰のせいだと思ってるの」
『わたくしに返事をする必要はありません!』
「それじゃ会話にならないでしょ」
また足音が聞こえた。
二人そろって黙り、耳を澄ませる。
足音は準備室の近くで遅くなった。
来た。
そう思ったが、そのまま小部屋の前を通り過ぎていく。
『もう我慢なりませんわ』
カサンドラが吐き捨てる。
『わたくしが直接、五人を問い詰めます』
「部屋から出られないでしょ」
『分かっております!』
「じゃあ、落ち着いてよ」
『あなたが落ち着きなさい! 先ほどから、爪を噛もうとしておりますわよ!』
指先を口元へ運びかけていたことに気づき、慌てて手を下ろす。
「身体の中から監視しないでよ」
『わたくしの身体です!』
「今は私が動かしてるけどね」
『この役立たずの身体……!』
「自分の身体に言う台詞じゃないよ!」
また声が大きくなりそうになり、私は両手で口を押さえた。
扉の外にいる神官は、今度こそ不審そうに私を見ている。
しばらく黙っていると、ようやく視線を外してくれた。
「このまま誰も来なかったら、どうする?」
私は口元を隠し、今度は聞き取るのも難しいほどの声で尋ねた。
『昨夜、決めたでしょう。罠を諦め、壺の破片と香炉を調べ直します』
「それで間に合うかな」
『間に合わせるのです』
強い言葉だった。
けれど、カサンドラも焦っていることは伝わってきた。
もし、この罠が失敗すれば。
明日の日没には、カサンドラは聖セレナ修道院へ送られる。
ゲームで見た、あの結末へ近づいてしまう。
考えるほど、作戦の穴ばかりが見えてきた。
白い物質を奪った人物と、儀式へ細工した犯人が別人だったら。
犯人がすでに神殿の外へ逃げていたら。
そもそも、五人の中に犯人がいなかったら。
『美咲』
カサンドラが呼びかける。
『今さら、できることはありません。落ち着きなさい』
私は見張りへ視線を走らせ、囁く。
「カサンドラも緊張してるでしょ」
『……当然ですわ』
素直に認めた声が、いつもより近く感じられた。
そのとき、回廊の向こうから足音が聞こえた。
人目を忍ぶような、ゆっくりとした足音。
近づいてくる。
やがて、曲がり角の向こうで止まった。
私は椅子から立ち上がる。
見張りの神官がこちらを見た。
「どうなさいました?」
「少し、足がしびれただけですわ」
平静を装いながら、耳を澄ませる。
しばらく、何も聞こえなかった。
気のせいだったのかもしれない。
そう思った瞬間――。
ガランッ!
呼び鈴が金属盆へ落ちる、激しい音が回廊へ響き渡った。
続いて、女性の短い悲鳴が上がる。
「何の音だ!」
見張りの神官たちが、曲がり角の向こうへ駆け出した。
何人もの足音と怒鳴り声が重なる。
私は開いた扉の向こうを見つめた。
『かかりましたわ』
カサンドラの声が、静かに響いた。




