私の話
『わたくしが話したのですから、今度はあなたが話しなさい』
カサンドラに言われ、私は机の上の紙から顔を上げた。
「私の話?」
『そうです。あなたはわたくしのことばかり聞いて、ご自分のことはほとんど話していないでしょう』
「面白い話なんてないよ」
『それを決めるのは、聞いてからですわ』
扉の向こうには、見張りの神官がいる。
私は寝台へ移動すると、枕を抱えて口元を隠した。
「分かった。じゃあ、少しだけね」
カサンドラは、それ以上急かさなかった。
何から話せばいいのか分からず、私は枕の縫い目を指でなぞった。
「私は二十五歳。佐倉美咲。前は、小さな会社で事務の仕事をしてたんだ」
仕事を始めたばかりの頃は、私なりに頑張ろうとしていた。
出勤時間より早く会社へ行き、その日にすることを手帳へ書いた。教えられたことを忘れないように、帰宅してからノートへまとめたこともある。
それでも、失敗はなくならなかった。
ある日、私が入力した数字の間違いで、取引先へ渡す書類を作り直すことになった。
上司から皆の前で注意された。
怒鳴られたわけではない。
次から気をつけるようにと言われただけだった。
それなのに、周りの人たちが全員、私を見ている気がした。
「それから、間違えるのが怖くなったんだ。入力した数字を何度も確認して、提出する前にも見直して。それでも不安で、また最初から確認してた」
失敗しないために確認しているのに、そのせいで仕事が遅れた。
周りの人が次の作業へ進んでいる間も、私は同じ書類を見つめていた。
早くしなければと焦るほど、簡単なこともできなくなった。
「分からないことがあっても、質問できなかった。一度教えたでしょって思われるのが怖くて、自分で何とかしようとして、余計に時間がかかった」
夜、布団へ入ってからも、その日の失敗を何度も思い出した。
あのとき、どうして確認しなかったのか。
どうして、もっと早く質問できなかったのか。
明日は失敗しないようにしようと思うのに、朝が来ると身体が重くなった。
「ある朝、仕事へ行く準備をして、玄関まで行ったんだ。靴も履いた。でも、扉を開けられなかった」
鞄を持ったまま、玄関に立ち尽くした。
時計の針だけが進んでいった。
遅刻する。
会社へ連絡しなければならない。
頭では分かっているのに、指が動かなかった。
結局、その日は体調が悪いと嘘をついて休んだ。
一日休めば、次の日には行けると思っていた。
けれど翌朝も、その次の朝も、職場へ向かうことを考えるだけで息が苦しくなった。
「それで、辞めた」
声にしてみると、あまりにも短かった。
けれど、その一言を口にするまでには、何週間もかかった。
辞めた直後は、少し休んだら次の仕事を探そうと思っていた。
一週間。
一か月。
季節が変わっても、私は動けなかった。
「誰かに会うと、仕事はどうしたのとか、これからどうするのとか聞かれる。心配してくれてるって分かってても、答えられない自分を責められてる気がしてさ」
問い詰められたわけではない。
たぶん、私が勝手に怖がっていただけだ。
それでも、答えられない自分を見られるのが嫌だった。
家族に食事へ呼ばれても、返事だけして部屋から出ないことがあった。
食卓の笑い声が聞こえると、そこに混ざれない自分が余計に惨めに思えた。
いつからか、昼も夜も部屋の中で過ごすようになった。
起きて、ゲームをして、ご飯を食べて、またゲームをする。
そんな毎日だった。
「ゲームをしている間だけは、余計なことを考えなくて済んだんだ。画面の中なら、次に何をすればいいか分かるから」
選択肢を選ぶ。
イベントを進める。
失敗したら、やり直す。
現実では、どれを選べば正解なのか分からなかった。けれどゲームの中には、どこかに正しい道が用意されているはずだった。
だから私は、『聖女と五つの誓い』を三か月も続けた。
「最初は普通に遊んでた。でも、どのルートでもカサンドラが処刑されたり、追放されたりするのが嫌になったんだ」
『わたくしは、げぇむの中でもそのような目に遭っていたのですね』
「うん。最初は、そういう役回りの悪役令嬢なんだと思ってた」
カサンドラは、エミリアを傷つける。
身分の低い者を見下し、自分の非を認めようとしない。
決して善人ではない。
それでも物語を繰り返すうちに、気になることが増えていった。
どうして、そこまで王太子妃の座へ執着するのか。
なぜ、誰にも助けを求めないのか。
何を恐れているのか。
ゲームの登場人物たちは、誰もカサンドラの気持ちを知ろうとしなかった。
そして最後には、彼女がすべて悪かったことにされてしまう。
「トゥルーエンドがあるって聞いて、何か条件を見落としてるんだと思った。それからは、選んだ答えや起きた出来事をノートに書きながら、最初からやり直した」
カサンドラの結末は変わらなかった。
選択肢を変えても、イベントの順番を変えても、処刑、追放、幽閉のどれかへたどり着く。
ノートのページだけが増えていった。
「三か月かけても、トゥルーエンドには入れなかった。仕事を辞めて、部屋にこもって、ゲームの中でも何も成し遂げられなかった」
こんなことを話すつもりではなかった。
一度口にすると、止められなかった。
カサンドラは何も尋ねず、黙って聞いていた。
「それでも、カサンドラが処刑されるのは嫌だったんだ」
『どうしてです?』
その声に責める響きはなかった。
「似てると思ったから、かな」
誰にも弱いところを見せず、平気なふりをする。
傷つけられる前に人を遠ざけ、自分を守ろうとする。
やり方は違う。カサンドラのほうが、ずっと強い。
それでも、誰にも本当の気持ちを話せないところは、少し似ていると思った。
「私は人に会わないことで、平気なふりをしてた。カサンドラは人に厳しくすることで、平気なふりをしてた。だから、放っておけなかったのかもしれない」
廊下で足音が止まった。
私は話すのをやめ、枕へ顔を寄せる。
扉の外で神官が咳払いをした。しばらくして、足音が遠ざかっていく。
私は小さく息を吐いた。
「だから、カサンドラが処刑されない結末を見つけたかった。でも、最後まで見つけられなかった」
『それでも、わたくしを見捨てなかったのですね』
「ゲームの中では、助けられなかったけどね」
『今は?』
「今は、見捨てたくないよ」
口にしてから、少し気恥ずかしくなった。
カサンドラは、すぐには返事をしなかった。
『仕事を辞めたことを、後悔していますか?』
「分からない。辞めなかったら、もっと壊れてたかもしれない。でも、辞めたあとの自分を好きにはなれなかった」
『そうですか』
カサンドラは、それ以上何も言わなかった。
励ますことも、責めることもしない。
ただ、私の言葉をそのまま受け止めてくれた。
それが、少しだけうれしかった。
『話してくれて、ありがとうございます』
「カサンドラがお礼を言うなんて、珍しいね」
『今すぐ取り消してもよろしくてよ』
「駄目。もう聞いたから」
『まったく……』
呆れた声が頭の中に響く。
「私も、カサンドラの話を聞けてよかった」
『そうですか』
「うん。お互いのこと、少しは分かったかな」
『あなたが想像していたより、わたくしが高潔な人間だったと分かったでしょう』
「それはどうかな」
『美咲!』
私は慌てて枕へ顔を埋め、声を抑えて笑った。
扉の外には見張りがいる。
明日の日没までに、悪魔の仕業ではないと証明しなければならない。
それでも今夜だけは、事件の話へ戻る前に、もう少しカサンドラと話していたかった。




