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初恋の相手

「どうして、そんなにアレクシス殿下のことが好きなの?」


 私が尋ねると、カサンドラは黙り込んだ。


 さっきまでエミリアへの不満を途切れることなく並べていたのに、急に静かになる。


「言いたくないなら、無理に聞かないけど」


『……笑いませんか?』


「笑わないよ」


『本当に?』


「笑ったら、好きなだけ身体を動かしていいから」


『当然です。あなたには二度と渡しません』


「そこまで?」


『それほどの覚悟がなければ、わたくしの話を聞く資格はありませんわ』


「分かった。絶対に笑わない」


 カサンドラは、しばらく私の言葉を疑っていた。


 やがて諦めたように、小さく息を吐く。


『わたくしが初めて殿下とお会いしたのは、八歳の春でした』


 カサンドラは、少しずつ昔のことを話し始めた。


     ◇


 その日、王宮では王族と高位貴族の子どもたちを集めた、小さなお茶会が開かれていた。


 カサンドラにとって、それが初めて招かれた王宮のお茶会だった。


 当時からヴァレンティア公爵家は、王国でも特に強い影響力を持っていた。その一人娘であるカサンドラには、幼い頃から公爵令嬢として完璧に振る舞うことが求められていた。


 王宮へ向かう馬車の中でも、父オズワルドは何度も注意を繰り返した。


「今日のお茶会には、アレクシス殿下も出席される。決してヴァレンティア家の名を汚してはいけないよ」


「はい、お父様」


「お前はいずれ、この国を支える立場になるかもしれない。そのことを忘れないように」


「承知しております」


 カサンドラは、言われた意味を理解していた。


 王太子であるアレクシスと年齢が近く、家柄も申し分のない公爵令嬢。周囲はすでに、彼女を将来の王太子妃候補として見ていた。


 その日のために、カサンドラは公爵邸で何週間も礼儀作法を学んでいた。


 お辞儀の角度。


 カップを持つ指の位置。


 王族へ話しかけられた際の答え方。


 出席する貴族の家名と爵位だけでなく、その両親が就いている役職まで、すべて頭へ入れていた。


 失敗するはずがない。


 そう思っていた。


 庭園でのお茶会が始まると、子どもたちは順番にアレクシスへ挨拶した。


 カサンドラの番が近づく。


 教えられたとおりに歩き、決められた位置で立ち止まる。


 あとは、屋敷で何度も練習した礼をするだけだった。


 ところが、前に並んでいた伯爵家の少年が、下がる際にカサンドラのドレスの裾を踏んだ。


 足を取られたカサンドラは体勢を崩し、手にしていた扇を落としてしまった。


 扇が石畳へ当たり、乾いた音を立てる。


 アレクシスが椅子から腰を浮かせ、手を伸ばしかけた。しかし、カサンドラはどうにか自分で転倒を免れた。


 周囲の視線が、一斉に集まる。


 カサンドラは慌てて扇を拾った。けれど、頭の中が真っ白になり、用意していた挨拶の言葉が出てこない。


「カサンドラ・ヴァレンティアです」


 それだけ言うのが精いっぱいだった。


 礼をする順番も間違えた。


 名乗る際に告げるべき言葉も、半分以上抜けていた。


 後ろに並んでいた令嬢たちが、扇の陰で笑っている。


「ずいぶん練習したと聞いていたのに」


「王太子妃になるおつもりなのでしょう?」


「あれでは無理ですわね」


 小さな声だったが、カサンドラには聞こえていた。


 アレクシスは何かを言おうとした。


 しかし、カサンドラは彼からも笑われるのが怖くなり、逃げるようにその場を離れた。


 お茶会が終わるまで耐えることはできなかった。人のいない庭園の奥へ入り、背の高い生け垣の陰へ隠れた。


 泣いてはいけない。


 公爵令嬢が、人前で涙を見せてはいけない。


 何度そう言い聞かせても、涙が止まらなかった。


「お父様に叱られる……」


 失敗そのものより、父を失望させたことが怖かった。


 あれほど練習したのに。


 一度間違えただけで、すべてが無駄になった。


 カサンドラは涙を拭い、立ち上がった。


 せめて、もう一度だけ正しい挨拶をしてみようと思った。


 誰も見ていない庭園で姿勢を正し、右足を半歩後ろへ引く。


「カサンドラ・ヴァレンティアと申します。本日はお招きいただき――」


 途中で声が震え、言葉に詰まる。


 カサンドラは唇を結び、もう一度だけ最初からやり直そうとした。


「さっきも、それを言おうとしていたの?」


 突然声をかけられ、カサンドラは飛び上がった。


 生け垣の向こうに立っていたのは、アレクシスだった。


 少し離れた場所には護衛騎士の姿がある。アレクシスは護衛をそこへ待たせ、一人でカサンドラのもとへ来たらしい。


「で、殿下……」


 カサンドラは慌てて涙を拭い、礼をやり直そうとした。


「カサンドラ・ヴァレンティアと申します。本日は――」


「もう挨拶はしてもらったよ」


「ですが、先ほどは失敗いたしました」


「扇を落としたこと?」


「礼の順番も、申し上げるべき言葉も間違えました。あれほど練習しましたのに……」


 また涙がこぼれそうになり、カサンドラはうつむいた。


「皆が笑っておりました。きっとお父様も、わたくしに失望なさいます」


 アレクシスは少し考え、カサンドラが持っている扇へ目を向けた。


「扇を落としたのは、君のドレスを踏んだ子がいたからだろう?」


「ご覧になっていたのですか?」


「うん。でも、君はその子を責めなかった」


「皆の前で騒ぎを起こすわけにはまいりません」


「それなら、君はただ失敗したんじゃない。その場で騒ぎを起こさないようにしたんだ」


「それでも、挨拶には失敗しました」


「失敗したら、それまで練習してきたことも、全部なかったことになるの?」


 カサンドラは答えられなかった。


「僕は、君が屋敷でどれだけ練習したのか知らない。でも、失敗したまま逃げずに、ここでもう一度やり直そうとしていたことは分かるよ」


 アレクシスが右手を差し出した。


「だから、次はきっと大丈夫だ」


 カサンドラは、差し出された手を見つめた。


 失敗した自分を慰められたことはなかった。


 どれほど練習しても、できれば当然。失敗すれば、努力が足りないと言われる。


 けれどアレクシスは、失敗したことを笑わなかった。


 それどころか、一人でもう一度やり直そうとしていたカサンドラを認めてくれた。


「立てる?」


 カサンドラは、おそるおそるその手を取った。


「殿下は……わたくしに失望しておられないのですか?」


「どうして僕が失望するの?」


「わたくしは、将来、殿下をお支えする者になるかもしれないと教えられております。それなのに、皆の前で失敗を……」


「僕だって、昨日の剣術の稽古で転んだよ」


「殿下が?」


「すごく痛かった。でも、先生には王太子が地面に寝ている場合ではないと言われた」


 アレクシスは困ったように笑った。


「失敗できないのは、僕も同じみたいだ」


 完璧な王子だと思っていた。


 何でもできて、失敗などせず、カサンドラとは違って叱られることもない人だと思っていた。


 けれど、彼も自分と同じだった。


 失敗を許されず、できて当然だと思われている。


「でしたら、わたくしが殿下をお支えします」


 気づけば、カサンドラはそう答えていた。


「殿下が失敗なさったときは、わたくしが何度でも立たせて差し上げます」


「それは心強いな」


 アレクシスは笑った。


 今度は王太子としての微笑みではなかった。


 失敗したことのある一人の少年として、カサンドラへ向けた笑顔だった。


「では、もう一度、僕に挨拶してくれる?」


「よろしいのですか?」


「もちろん。僕はまだ、君のきちんとした挨拶を聞いていないから」


 カサンドラは、アレクシスの手を離した。


 涙を拭い、ドレスの裾を整える。


 背筋を伸ばし、右足を半歩後ろへ引いた。


「カサンドラ・ヴァレンティアと申します。本日はお招きいただき、心より感謝申し上げます。殿下にお会いできましたことを、大変光栄に存じます」


 今度は、最後まで一度も間違えなかった。


 アレクシスも王太子として、正式な礼を返す。


「来てくれてありがとう、カサンドラ。これからよろしく」


「はい!」


 そのあと、アレクシスはもう一度カサンドラの手を取った。


 二人は並んで庭園を歩き、お茶会へ戻った。


 この人の隣に立ちたい。


 王太子妃になれと教えられたからではない。


 ヴァレンティア家のためでもない。


 失敗した自分を笑わず、もう一度やり直そうとする気持ちを認めてくれた。この人の隣に立ち、この人を支えたい。


 幼いカサンドラは、その日初めて、自分の意思で将来の夢を決めた。


     ◇


『それ以来です』


 カサンドラの話が終わった。


 私は机に伏せた紙を見つめながら、すぐには何も言えなかった。


『殿下のお隣へ立つため、礼儀も、政治も、外国語も学びました。苦手なことからも逃げず、王太子妃にふさわしい令嬢になろうと努力してきたのです』


「カサンドラは、殿下を取られるのが怖いだけじゃないんだね」


『どういう意味です?』


「エミリアが選ばれたら、今まで頑張ってきた自分まで、いらないって言われる気がするんでしょ?」


 カサンドラは、すぐには答えなかった。


 長い沈黙のあと、かすかな声が聞こえる。


『……殿下を失うのが怖いのです』


 初めて、カサンドラが自分から怖いと認めた。


『それだけではありません。あの日から積み重ねてきたわたくしの人生まで、無意味だったことになりそうで……それが、怖いのです』


 ゲームの中で見たカサンドラは、王太子を奪われまいとする嫉妬深い悪役令嬢だった。


 けれど、彼女が守ろうとしていたのは、恋だけではなかった。


 アレクシスの隣へ立つために努力してきた、自分自身の人生だった。


『やはり、つまらない話だったでしょう』


「そんなことないよ」


『同情は必要ありませんわ』


「同情じゃない」


 私は小さく笑った。


「そりゃ、好きになるよ」


 カサンドラから、返事はなかった。


 ただ、さっきまで荒れていた彼女の気配が、少しだけ穏やかになった気がした。

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