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悪魔の逃亡

灰色の外套をまとった人影が、礼拝室から出ていく。


 扉が閉まる直前、カサンドラが叫んだ。


『追いますわよ、美咲!』


「待って。見つかったら、今度こそ言い逃れできないよ」


『あの者を逃がせば、わたくしたちの無実を示すものまで失います!』


 白い塊の正体は分からない。


 けれど、何の意味もないものなら、わざわざ夜中に忍び込み、壺の底から削り取る必要などない。


 あれは、悪魔の仕業に見せかけるために使われた何かかもしれない。


 私は祭壇の陰から飛び出した。


 床に散らばる陶器片を避け、礼拝室の裏口へ走る。


 扉を細く開けると、人影は回廊の角を曲がろうとしていた。片手には、白い塊を入れた小さな容器を抱えている。


「いた……」


『声に出さないで!』


 慌てて口を閉じ、後を追った。


 人影は走っていなかった。


 足音を立てないよう、早足で回廊を進んでいる。こちらには、まだ気づいていないらしい。


 蝋燭の明かりを通り過ぎるたび、灰色の影が石壁の上を伸び縮みする。


 背丈は私とあまり変わらない。


 外套の下から見える履物は、神官の革靴ではなく、修道女たちが履いていた黒い布靴だった。


『女性のようですわね』


「たぶん」


『返事は不要です』


 だったら話しかけないでほしい。


 人影が回廊の突き当たりで立ち止まった。


 私は慌てて石柱の陰へ身を隠す。


 人影は左右を確かめると、右側の扉へ鍵を差し込んだ。迷うことなく、一度で錠を開ける。


 神殿内部の鍵を持っている。


 しかも、封印された礼拝室へ裏口から入る方法まで知っていた。


 やはり、神殿の人間だ。


 扉が閉じる寸前、私は石柱の陰から飛び出した。


 取っ手をつかみ、静かに押し開ける。


 その先には、下へ続く狭い階段があった。


 人影が持つ明かりが、階段の下へ遠ざかっていく。


『見失いますわよ』


 私は手すりをつかみ、階段を下りた。


 走りにくい靴と長いドレスのせいで、思うように進めない。前を行く人影との距離が、少しずつ開いていく。


 階段を下りきると、回廊が二つに分かれていた。


 右には蝋燭の明かりが見える。


 左は暗闇に沈んでいる。


「どっち……?」


『静かになさい』


 息を止め、耳を澄ませた。


 右の回廊から、かすかな金属音が聞こえる。


 容器の蓋が、どこかへ触れたような音だった。


 私は右へ走った。


 角を曲がると、人影がすぐ目の前にいた。


 向こうも、ここまで追ってくるとは思っていなかったらしい。頭巾の奥から、短く息をのむ音がした。


「待ちなさい!」


 私が腕を伸ばすと、人影は容器を胸元へ抱え、走り出した。


 右。


 左。


 さらに細い通路へ。


 人影は神殿の中を熟知している。分かれ道でも一度も迷わない。


 私は壁へ肩をぶつけながら、必死にその背中を追った。


「速すぎる……!」


『文句を言う前に、足を動かしなさい!』


「動かしてるよ!」


 声が回廊へ響いてしまい、慌てて口を閉じる。


 前方に、半開きの扉が見えた。


 あそこを抜けられたら、見失ってしまう。


 私はドレスの裾を持ち上げ、残った力で足を速めた。


 指先が、人影の外套へ届く。


「捕まえた!」


 灰色の布を強くつかむ。


 人影が激しく身体をひねった。


 布の裂ける音が響く。


 私の手には、ちぎれた外套の一部だけが残った。


 それでも、相手の足は止まった。


 人影がゆっくり振り返る。


 深くかぶった頭巾の内側は暗く、顔までは見えない。


 けれど、その目だけは見えた。


 恐れているのではない。


 私へ、はっきりとした憎しみを向けていた。


「あなたは、誰なの?」


 答えはない。


 私が一歩近づくと、人影は片手をこちらへ向けた。


 何かが、蝋燭の光を反射する。


『美咲、避けなさい!』


 次の瞬間、空気が弾けるような小さな音がした。


「っ……!」


 反射的に顔を背ける。


 けれど、間に合わなかった。


 冷たい何かが頬へかかり、鼻と口から入り込んでくる。


 目にはほとんど見えなかった。


 水なのか、粉なのか、それとも別の何かなのかも分からない。


「何を……したの?」


 人影は答えず、回廊の奥へ走り出した。


「待って!」


 後を追おうとする。


 数歩進んだところで、喉の奥に違和感を覚えた。


「げほっ……」


 一度咳き込む。


 走りながら埃でも吸い込んだのだと思った。


 けれど、咳は止まらなかった。


「げほっ、げほっ……!」


 息を吸うたび、喉の奥が焼けるように痛む。


 心臓が大きく跳ねた。


 胸の内側を何度も殴られているように、鼓動が急激に速くなる。


『美咲……』


 カサンドラの声も、いつもの強さを失っていた。


『息が……苦しいですわ……』


「カサンドラも……?」


『同じ身体にいるのです。当然でしょう……』


 それ以上、彼女は言葉を続けられなかった。


 私たちが感じる苦痛は、どちらか一人だけのものではない。


 喉の痛みも、胸を締めつける苦しさも、二人へ同時に襲いかかっていた。


 視界が揺れる。


 人影の背中が二重に見えた。


 壁へ手をつき、それでも追いかけようとする。


「待って……」


 人影は一度だけ振り返った。


 私たちが苦しんでいることを確かめると、壁際から垂れていた縄を強く引いた。


 けたたましい鐘の音が、神殿中へ鳴り響く。


 一度。


 二度。


 三度。


 夜の静寂が打ち破られ、遠くでいくつもの扉が開いた。


「何事だ!」


「警鐘だ!」


「地下牢を確認しろ!」


 複数の足音が近づいてくる。


 人影は、そのまま暗い回廊の奥へ消えた。


「逃げ……られた……」


『追いなさい……』


「無理だよ……身体が……」


『諦めては……なりません……』


 カサンドラの声は震えていた。


 彼女も苦しいはずなのに、それでも人影を追えと言う。


 私は灰色の布切れを握りしめ、もう一歩だけ前へ進もうとした。


 膝から力が抜けた。


 石床へ手をつく。


『美咲!』


「動けない……」


 息を吸おうとしても、十分な空気が入ってこない。


 胸元を押さえ、その場へうずくまる。


 背後の扉が勢いよく開いた。


「誰だ!」


 二人の男性神官が回廊へ飛び込んでくる。


 一人が、床にうずくまる私を見つけた。


 借りた外套の頭巾は外れ、金色の髪が肩へ広がっている。


「カサンドラ・ヴァレンティア……?」


「地下に拘束されていた令嬢だ!」


 二人がこちらへ駆け寄る。


「待って……違う……」


「なぜ、ここにいる!」


「今、誰かが……向こうへ……」


 回廊の先を指さそうとした。


 しかし、腕を上げる力さえ残っていなかった。


 一人の神官が私の手首をつかむ。


 逃げられないようにするためか、強い力で引き上げられた。


「痛い……離して……」


「抵抗するな!」


 恐怖と苦痛が一気に膨れ上がる。


 身体の奥から、強い力がせり上がってきた。


 指先の感覚が遠のく。


「離しなさい!」


 私の口から、カサンドラの声が響いた。


 身体の主導権が彼女へ移った。


 けれど、身体そのものが回復したわけではない。


 カサンドラは神官の腕を振りほどこうとしたが、足元がふらつき、そのまま倒れそうになる。


『カサンドラ、大丈夫!?』


「大丈夫なわけがないでしょう……!」


 カサンドラが声に出して答えてしまった。


 二人の神官が顔を見合わせる。


「今、誰と話した?」


「声も、先ほどとは違う……」


「違いますわ。わたくしは――」


 激しい咳が言葉を遮った。


 身体が大きく震え、再び膝が崩れる。


 二人の神官が、左右からカサンドラの腕を押さえた。


「やはり、悪魔が表へ出たのでは……」


「大司教様をお呼びしろ!」


「違います! あの者に何かを浴びせられたのです!」


「その者はどこにいる?」


 カサンドラが回廊の奥を見る。


 そこには、もう誰もいなかった。


 残っているのは、私たちの足跡だけだ。


「逃げましたわ……灰色の外套を着た者が……」


「そのような者は見ていない」


「嘘ではありません!」


 カサンドラが抵抗しようとする。


 けれど、身体に力が入らない。


 それでも暴れているように見えたのか、神官たちはさらに強く両腕を押さえた。


 騒ぎを聞きつけた神官や修道女たちが、次々と回廊へ集まってくる。


 その中に、儀式を手伝った五人の姿もあった。


 テレサ。


 ベアトリス。


 クララ。


 マリアンヌ。


 腕に包帯を巻いたアニエス。


 全員が、似たような灰色の仕事着を身につけている。


 誰かの外套が破れていないか確かめたかった。


 けれど、滲んだ視界では、服の細部まで見えない。


『布を……隠して……』


 今度は私が、カサンドラの頭の中へ呼びかけた。


 彼女は答えず、握ったままだった布切れを、そっと袖口へ押し込んだ。


「道を空けなさい」


 静かな声が、騒ぎを断ち切った。


 人々が左右へ退く。


 その向こうから、白い法衣をまとったエリアスが歩いてきた。


 いつもの穏やかな表情は消えている。


「これは、どういうことです?」


「大司教様。カサンドラ嬢が地下牢から逃げ出しておりました」


「発見した直後、突然口調と声が変わり、見えない誰かと話し始めました」


 エリアスの金色の瞳が、神官たちに押さえられたカサンドラを見つめる。


「カサンドラ嬢。今夜、何をしたのですか?」


「わたくしでは……ありません……」


 カサンドラは苦しそうに息をしながら、誰もいない回廊の奥へ目を向けた。


「あの先に……わたくしたちを陥れた者が……」


 エリアスも回廊を見る。


 しかし、そこには闇しか残っていない。


 無実を証明するために逃げ出したはずだった。


 それなのに私たちは、牢を破り、見張りを倒し、夜の神殿を逃げ回った悪魔憑きの令嬢として捕らえられていた。

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