壺の底に残ったもの
私は金色の糸を踏まないよう、慎重に礼拝室へ足を踏み入れた。
誰もいない室内に、靴音が小さく響く。
中央には、儀式のときに座らされた椅子が残っている。その周囲には、砕けた七つの聖壺が散乱していた。
「どこから調べる?」
『まずは聖壺です。割れた順番を覚えていますか?』
「最初は右側の壺だったと思う。その次が、祭壇に近い壺で……」
『ずいぶん曖昧ですわね』
「七つもあったんだよ。しかも、こっちは死にそうだったんだから」
『わたくしも同じ身体で苦しんでおりました』
言い返そうとして、口を閉じた。
カサンドラの声は、頭の中にいる私へ直接聞こえる。しかし、私の考えは彼女に伝わらない。返事をするには、実際に声を出す必要がある。
今は、誰かに聞かれないよう囁くしかなかった。
私は壺の破片を踏まないよう、床へ膝をついた。
白い陶器の破片には、金色の縁取りが残っている。胴の部分は細かく砕けているが、底の台座は大きな塊のままだ。
一つ目の壺を見る。
次に、二つ目。
三つ目。
どの壺も、底の中央から外側へ向かって亀裂が伸びていた。
「変じゃない?」
『何がです?』
「七つとも、似たような割れ方をしてる。誰かが外から叩いたなら、叩かれた場所がもっと壊れてるはずでしょ?」
『確かに、大きな衝撃を受けた跡はありませんわね』
四つ目の壺の前へ移動する。
底の部分は、台座のように分厚く作られていた。割れ目から内側をのぞくと、小さな空洞がある。
「壺の底って、空っぽだったんだ」
『台座まですべて陶器で満たせば、重くなります。運びやすくするため、内部を空洞にすることは珍しくありません』
「詳しいね」
『公爵家の娘として、工芸品や建築についても学んでおります』
「王太子妃って、壺の作りまで覚えないといけないの?」
『国の祭事を管理する立場になるのです。あなたが何も知らなさすぎるのですわ』
また説教が始まりそうだったので、次の壺へ移った。
五つ目と六つ目にも、目立ったものは残っていない。
最後の壺の底をのぞいたとき、割れ目の奥に白いものが見えた。
「……何だろう、これ」
聖水が乾いた跡にも、砕けた陶器の粉にも見える。
顔を近づけて、ようやく見つけられるほど小さい。爪の先ほどの白い塊が、空洞の隅へこびりついていた。
ほかの六つには残っていない。
『もう少し近くで見せなさい』
私は壺の底へ顔を寄せた。
白い塊の表面はざらついている。周囲には陶器の細かな欠片が食い込み、そこから亀裂が外側へ伸びていた。
「聖水が乾いたものかな」
『分かりません』
「壺の材料は?」
『陶器とは色が違います。しかし、白いというだけで正体を決めることはできませんわ』
近くに落ちていた細長い陶器片を拾った。
『何をするつもりです?』
「少し確かめるだけ」
『削ってはいけません。証拠を壊したうえ、あなたが細工したと疑われます』
「じゃあ、どうするの?」
『周囲に落ちている粉だけを確かめなさい』
白い塊のすぐ下に、わずかな粉が落ちていた。私は陶器片の先で、その粉を軽く押した。
乾いた陶器の粉とは違い、少し湿っている。
「柔らかい……のかな」
『石灰かもしれませんし、固まった漆喰かもしれません。聖水に含まれていた不純物という可能性もあります』
「つまり?」
『見ただけでは分からないということです』
カサンドラにも分からない。
私には、なおさら判断できなかった。
白い塊と、壺が割れたことに関係があるのか。それとも、壺を作ったときから残っていたものなのか。
「どうしよう。持って帰る?」
『いけません。あなたが持ち出せば、後から入れたものだと言われます』
「じゃあ、エリアスを連れてくる?」
『大司教を呼んでいる間に、見張りを倒して逃げ出したことも説明するおつもりですの?』
「それは……」
牢から逃げ、封じられた現場へ入り込んだ。
潔白を証明するどころか、疑いを深める行動ばかりしている。
「でも、このままじゃ何も分からないよ」
『位置だけ覚えておきなさい。誰かを連れてきたとき、同じ状態で残っていれば調べられます』
私は白い塊のある場所を頭に刻んだ。
七つのうち、祭壇から二番目に近い壺。底の空洞、その右側の割れ目。
そのとき、祭具保管室の向こうから音が聞こえた。
誰かの足音だ。
足音は扉の前で止まった。
鍵穴へ、鍵が差し込まれる。
『隠れなさい!』
私は立ち上がり、祭壇の裏へ駆け込んだ。外套の裾を引き寄せ、石台の陰に身体を伏せる。
祭具保管室の扉が開いた。
しばらく、誰も入ってこない。
入口に立ったまま、礼拝室の様子をうかがっているようだった。
やがて、一つの人影が室内へ入ってきた。
灰色の作業用外套をまとい、頭巾を深くかぶっている。顔は見えない。
片手には箒と布袋。
もう一方には、光を細く絞った覆い付きランタンを持っていた。
現場の片づけに来た修道女だろうか。
人物は扉を閉め、ランタンの覆いを少しだけ開いた。細い光が、砕けた聖壺を照らす。
大きな破片を箒で集め、布袋へ入れていく。
『片づけが始まってしまいましたわ』
今飛び出して、止めるべきだろうか。
けれど、本当に片づけを命じられた修道女なら、私が牢から逃げたことを知られてしまう。
私は動けなかった。
人物の動きが変わった。
床に散らばった細かな破片には目もくれず、壺の底だけを拾い上げる。ランタンの光を当て、空洞の中を一つずつ確かめていた。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
何も見つからない壺は、すぐに床へ戻していく。
掃除ではない。
何かを探している。
人物は六つ目の壺を置き、最後の壺へ手を伸ばした。
白い塊が残っている壺だった。
空洞を照らした瞬間、その手が止まる。
外套の内側から、小さな金属製のへらと蓋つきの容器を取り出した。
へらの先を割れ目へ入れ、爪の先ほどの白い塊を丁寧に削り取る。落とさないよう、すべて容器の中へ収めた。
蓋を閉め、外套の内側へ隠す。
白い塊は、完全になくなっていた。
「持っていかれた……」
かすかな声が漏れた。
人物が勢いよく顔を上げる。
ランタンの光が、祭壇のほうへ向けられた。
私は両手で口を押さえ、息を止める。
しばらくして、光が離れた。
人物は壺の底を布で拭き、白い粉まで残らないように消していく。それから道具を布袋へ入れ、礼拝室を出ていった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
私は祭壇の陰から飛び出した。
最後の壺の底を確かめる。
空洞には、もう何も残っていなかった。
『追いますわよ』
「え?」
『あの者は、正体の分からない白い塊をわざわざ持ち去りました。あれが何であれ、知られては困るものだったのです』
正体は分からない。
それでも、価値のないものを、これほど慎重に消すはずがない。
白い塊は、壺が割れた理由につながっている。
それを証明するものは、灰色の人物に奪われた。
私は外套の裾を持ち上げ、祭具保管室へ走り出した。




